其の十一
「――哲太!」
この日も柚葉は六時前には自宅に帰り着いた。
以前は自転車で片道十五分だった通勤時間が、毎日の爆走で鍛えられて十分にまで短縮した。
少し太ももの筋肉が発達してきたように思うが、それはあまりありがたくない。
車庫には哲太の愛車があり、彼が帰宅していると知った柚葉は玄関から二階へと直行した。
ちょうど部屋から出てきた哲太を見つけ、胸ぐらを掴む勢いで突進する。
彼は目を血走らせて迫ってきた姉に一瞬怯んだ様子だったが、息を切らせた柚葉を見て急に心配するような顔になった。
「ユズ、お前走ったりして平気なのか?」
「あ?」
「それに、もう自転車乗るのも危ないんじゃないのか?」
「は?」
急に何を言い出すのかと怪訝な顔をした柚葉だったが、哲太が目を泳がせつつ「だって、お前……腹に……」と言うのを聞いたとたん、帰るなり彼に突進した理由を思い出した。
「お腹には、何にも入ってないってーのっ! あんた! ミサちゃんに変な相談したでしょっ!」
「変な相談とは何だよ! 俺は、お前の様子が変だからずっと気になってっ……!」
柚葉が弟の胸ぐらを両手で掴み、背の高い彼を見上げて怒鳴り付けると、相手も負けじと高い位置から怒鳴り返してきた。
その騒ぎを聞きつけて、一階のキッチンから「ユズー、帰ってるのー?」と、少しだけ不機嫌な母の声。
ただいまの挨拶もまだだった柚葉は、慌てて「ごめーん! ただいま、おかあさーん!」と叫んで返した。
とにかく、誤解であるにしろ、妊娠云々という話を母の耳には入れたくない。
場所を変えることにした柚葉は、憮然とした顔のままの哲太の腕を掴むと、自室で話すべく彼を引っ張った。
しかし、扉を開きかけたところで、はたと気づく。
今、部屋の中には大五郎がいるではないか……
脱皮の兆候のない今日は、彼は大人しく柚葉の部屋で留守番をしているはずだ。
毎日よい子で母の帰りを待っている大五郎は、柚葉が帰宅するとルビーのような赤い瞳をキラキラ輝かせ、決まって飛びついてくる。
哲太を部屋に招き入れたら、彼の存在が知られてしまうではないか。
柚葉は慌てて、開きかけた扉を閉じた。
そして、「て、哲太の部屋で話そう!」と弟に向き直る。
しかし、明らかに怪しかった柚葉の行動を、哲太は見逃してはくれなかった。
「……部屋の中に、何かあるのか?」
不審もあらわな低い声。
哲太は鋭く両目を細めて、柚葉の部屋の扉を睨みつけた。
「な、なんでもない! なんでもないよっ!」
「なんでもないなら、部屋に入れろ」
「あ、え、えっと、散らかってるから! ほら、朝急いでたから、パジャマ脱ぎっぱなしでっ!」
「そんなもん、今更気にしねぇよ」
柚葉は慌てて扉の前に立ちふさがるが、無駄にでかく成長した弟に力で敵うはずもない。
悲しいかな、最近は口でも敵った試しがないのだが……。
「だめだめ! 哲太のスケベぇ!」
「うるさい、ばかっ!」
哲太は喚く姉に怒鳴り返すと、邪魔な彼女を片腕一本で拘束した。
「——だめだってばっ!」
すっかり長く逞しくなった弟の腕に捕まって、扉の取手を奪われてしまった柚葉は叫ぶ。
と同時に、心の中でもあわわわっと喚いた。
(――知らないから! ほんとに、知らないからねっ!)
繰り返すようだが、柚葉の部屋の中には一日留守番していた大五郎がいる。
毎日彼は母が帰宅して扉を開いた瞬間、決まって飛びついてくる。
大五郎は、白い蛇の姿をしている。
前回の脱皮でようやく小さな手足の兆候が現れたが、今のところはまだ九割蛇である。
そして、哲太がこの世で最も苦手な生き物が、蛇であった。
「――哲太! だめっ……」
カチャリ……
ついに取手が回された。
きいっと蝶番が音を立てて、扉が開く。
季節は初夏。
随分長くなった陽の光が窓から差し込み、夕方の六時を回ってもまだ、柚葉の部屋の中は電気を点けずとも明るかった。
開いた扉の正面の、窓辺に置かれたベッドの上に、ひょこりと細長いものが立っている。
それが何なのかを哲太の脳が解析する前に、その何かがベッドの上から消えた。
直後
「おかあさまっ、おかえりっ!!」
哲太には覚えのない幼子の声が聞こえたと思ったら、何かが彼の首にしゅるりと巻き付いた。
つるりと滑らかで、ひんやりと冷たい感触。
すっと哲太の顔の前に突き出されたのは、彼の握り拳ほどの大きさの白い塊。
真っ白いそれの上に、赤い丸が二つ。
一体これは何だろう……
ぽかんとした哲太の顔を覗き込み、その白い塊の下の方がぱかりと開き、赤い部分が現れた。
「あ、まちがえちゃった」
赤い部分は、口だった。
白い塊の中程まで裂けた大きな口が、先ほど哲太が耳にしたのと同じ幼子の声を発する。
「おかあさま、おかえりー」
「た、ただいま……」
ぴきりと硬直した哲太を残し、首に巻き付いていた何かがしゅるりと解かれ、代わりに隣に立った柚葉の方へと飛び移った。
「……」
ぎぎぎ……と、錆び付いた機械のようなぎこちない動きで、哲太の首が隣へと向けられる。
そこにいるのは、二つ年上の血の繋がらない姉。
仕事帰りの彼女は、自転車通勤しやすいようにと下はジーパン、上はTシャツにカーディガンと実にシンプルな格好で、これといって特筆すべき点はなかった。
ただ一つ、首に白い蛇を巻き付けている点を除いては……
「へ」
目を見開いた哲太の口から震える声がもれた。
柚葉は首に巻き付いていた大五郎を素早く解き、慌ててその腹の部分を弟の前にさらけ出す。
「ヘ、へ……」
「ちがうちがう、よく見て。しっかり見て。ここ、ここ、ほら足ついてるでしょ? ちっちゃいけど、手もついてるでしょ?」
前の方と後ろの方にそれぞれ二本ずつ生えた、まだヒレと見紛うような小さな小さな手足。
「ヘ、へ、へ、……」
「ト、トカゲよ、トカゲ! 可愛い可愛い、トカゲさんだよー。哲太君、こんにちはって!」
柚葉はそれを必死にアピールする。
しかし残念ながら、大五郎はやはりどう見ても蛇。
百歩譲っても、やっぱり蛇。
「ヘビぃーーーーっ!!!」
柚葉の健闘虚しく、哀れ哲太は姉が掲げているものの正体に気づいてしまった。
腹の底から絞り出すような悲鳴を上げて、彼の上体が背後に仰け反る。
「てったくん、こんにちは」
「しかも、喋ったーーーーっ!!?」
柚葉の腹ポケットに入って、頻繁に佐倉家を移動していた大五郎は、哲太にも一方的に面識がある。
従順な子蛇は母に促されるまま可愛らしく挨拶をしたというのに、相手はさらに仰け反った。
(……そのまま仰向けに倒れて気絶コース)
そんな姉の冷めた感想に気づいたのかいなか、彼の上体は途中で何とか持ち直し、ぐんっと勢いをつけて戻ってきた。
見事な腹筋である。
哲太は今にも失神しそうな血の気が引いた顔をしながらも、気丈に柚葉と彼女の腕に巻き付いた白いものを睨みつけ、叫んだ。
「捨てて来いっ!」




