表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/29

其の十一



「――哲太!」


 この日も柚葉は六時前には自宅に帰り着いた。

 以前は自転車で片道十五分だった通勤時間が、毎日の爆走で鍛えられて十分にまで短縮した。

 少し太ももの筋肉が発達してきたように思うが、それはあまりありがたくない。

 車庫には哲太の愛車があり、彼が帰宅していると知った柚葉は玄関から二階へと直行した。

 ちょうど部屋から出てきた哲太を見つけ、胸ぐらを掴む勢いで突進する。

 彼は目を血走らせて迫ってきた姉に一瞬怯んだ様子だったが、息を切らせた柚葉を見て急に心配するような顔になった。


「ユズ、お前走ったりして平気なのか?」

「あ?」

「それに、もう自転車乗るのも危ないんじゃないのか?」

「は?」


 急に何を言い出すのかと怪訝な顔をした柚葉だったが、哲太が目を泳がせつつ「だって、お前……腹に……」と言うのを聞いたとたん、帰るなり彼に突進した理由を思い出した。


「お腹には、何にも入ってないってーのっ! あんた! ミサちゃんに変な相談したでしょっ!」

「変な相談とは何だよ! 俺は、お前の様子が変だからずっと気になってっ……!」


 柚葉が弟の胸ぐらを両手で掴み、背の高い彼を見上げて怒鳴り付けると、相手も負けじと高い位置から怒鳴り返してきた。

 その騒ぎを聞きつけて、一階のキッチンから「ユズー、帰ってるのー?」と、少しだけ不機嫌な母の声。

 ただいまの挨拶もまだだった柚葉は、慌てて「ごめーん! ただいま、おかあさーん!」と叫んで返した。

 とにかく、誤解であるにしろ、妊娠云々という話を母の耳には入れたくない。

 場所を変えることにした柚葉は、憮然とした顔のままの哲太の腕を掴むと、自室で話すべく彼を引っ張った。

 しかし、扉を開きかけたところで、はたと気づく。


 今、部屋の中には大五郎がいるではないか……


 脱皮の兆候のない今日は、彼は大人しく柚葉の部屋で留守番をしているはずだ。

 毎日よい子で母の帰りを待っている大五郎は、柚葉が帰宅するとルビーのような赤い瞳をキラキラ輝かせ、決まって飛びついてくる。

 哲太を部屋に招き入れたら、彼の存在が知られてしまうではないか。


 柚葉は慌てて、開きかけた扉を閉じた。

 そして、「て、哲太の部屋で話そう!」と弟に向き直る。

 しかし、明らかに怪しかった柚葉の行動を、哲太は見逃してはくれなかった。


「……部屋の中に、何かあるのか?」


 不審もあらわな低い声。

 哲太は鋭く両目を細めて、柚葉の部屋の扉を睨みつけた。


「な、なんでもない! なんでもないよっ!」

「なんでもないなら、部屋に入れろ」

「あ、え、えっと、散らかってるから! ほら、朝急いでたから、パジャマ脱ぎっぱなしでっ!」

「そんなもん、今更気にしねぇよ」


 柚葉は慌てて扉の前に立ちふさがるが、無駄にでかく成長した弟に力で敵うはずもない。

 悲しいかな、最近は口でも敵った試しがないのだが……。


「だめだめ! 哲太のスケベぇ!」

「うるさい、ばかっ!」


 哲太は喚く姉に怒鳴り返すと、邪魔な彼女を片腕一本で拘束した。


「——だめだってばっ!」


 すっかり長く逞しくなった弟の腕に捕まって、扉の取手を奪われてしまった柚葉は叫ぶ。

 と同時に、心の中でもあわわわっと喚いた。


(――知らないから! ほんとに、知らないからねっ!)


 繰り返すようだが、柚葉の部屋の中には一日留守番していた大五郎がいる。

 毎日彼は母が帰宅して扉を開いた瞬間、決まって飛びついてくる。

 大五郎は、白い蛇の姿をしている。

 前回の脱皮でようやく小さな手足の兆候が現れたが、今のところはまだ九割蛇である。


 そして、哲太がこの世で最も苦手な生き物が、蛇であった。


「――哲太! だめっ……」


 カチャリ……


 ついに取手が回された。

 きいっと蝶番が音を立てて、扉が開く。

 季節は初夏。

 随分長くなった陽の光が窓から差し込み、夕方の六時を回ってもまだ、柚葉の部屋の中は電気を点けずとも明るかった。

 開いた扉の正面の、窓辺に置かれたベッドの上に、ひょこりと細長いものが立っている。

 それが何なのかを哲太の脳が解析する前に、その何かがベッドの上から消えた。

 

 直後



「おかあさまっ、おかえりっ!!」



 哲太には覚えのない幼子の声が聞こえたと思ったら、何かが彼の首にしゅるりと巻き付いた。

 つるりと滑らかで、ひんやりと冷たい感触。

 すっと哲太の顔の前に突き出されたのは、彼の握り拳ほどの大きさの白い塊。

 真っ白いそれの上に、赤い丸が二つ。


 一体これは何だろう……


 ぽかんとした哲太の顔を覗き込み、その白い塊の下の方がぱかりと開き、赤い部分が現れた。

 

「あ、まちがえちゃった」


 赤い部分は、口だった。

 白い塊の中程まで裂けた大きな口が、先ほど哲太が耳にしたのと同じ幼子の声を発する。


「おかあさま、おかえりー」

「た、ただいま……」


 ぴきりと硬直した哲太を残し、首に巻き付いていた何かがしゅるりと解かれ、代わりに隣に立った柚葉の方へと飛び移った。


「……」


 ぎぎぎ……と、錆び付いた機械のようなぎこちない動きで、哲太の首が隣へと向けられる。

 そこにいるのは、二つ年上の血の繋がらない姉。

 仕事帰りの彼女は、自転車通勤しやすいようにと下はジーパン、上はTシャツにカーディガンと実にシンプルな格好で、これといって特筆すべき点はなかった。


 ただ一つ、首に白い蛇を巻き付けている点を除いては……





「へ」


 目を見開いた哲太の口から震える声がもれた。

 柚葉は首に巻き付いていた大五郎を素早く解き、慌ててその腹の部分を弟の前にさらけ出す。


「ヘ、へ……」

「ちがうちがう、よく見て。しっかり見て。ここ、ここ、ほら足ついてるでしょ? ちっちゃいけど、手もついてるでしょ?」


 前の方と後ろの方にそれぞれ二本ずつ生えた、まだヒレと見紛うような小さな小さな手足。


「ヘ、へ、へ、……」

「ト、トカゲよ、トカゲ! 可愛い可愛い、トカゲさんだよー。哲太君、こんにちはって!」


 柚葉はそれを必死にアピールする。

 しかし残念ながら、大五郎はやはりどう見ても蛇。

 百歩譲っても、やっぱり蛇。


 

「ヘビぃーーーーっ!!!」



 柚葉の健闘虚しく、哀れ哲太は姉が掲げているものの正体に気づいてしまった。

 腹の底から絞り出すような悲鳴を上げて、彼の上体が背後に仰け反る。


「てったくん、こんにちは」

「しかも、喋ったーーーーっ!!?」


 柚葉の腹ポケットに入って、頻繁に佐倉家を移動していた大五郎は、哲太にも一方的に面識がある。

 従順な子蛇は母に促されるまま可愛らしく挨拶をしたというのに、相手はさらに仰け反った。


(……そのまま仰向けに倒れて気絶コース)


 そんな姉の冷めた感想に気づいたのかいなか、彼の上体は途中で何とか持ち直し、ぐんっと勢いをつけて戻ってきた。

 見事な腹筋である。

 哲太は今にも失神しそうな血の気が引いた顔をしながらも、気丈に柚葉と彼女の腕に巻き付いた白いものを睨みつけ、叫んだ。



「捨てて来いっ!」





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ