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其の十



 蛇は、脱皮が上手くいかなくて死んでしまう場合もあるらしい。

 脱皮が始まった翌日、自分が仕事に行っている間に大五郎に何かあったらと心配した柚葉は、昼間は彼をナーガに預けた。

 それでもやはり落ち着かず、五時半の就業時間きっかりに職場を飛び出した柚葉だったが、思うことがあって途中のスーパーへと立ち寄った。

 そして、お惣菜売り場で目的のものを見つけて買うと、競輪選手顔負けの漕ぎっぷりで帰路を急ぐ。

 この日も帰宅の挨拶もそこそこに自室に駆け込むと、クローゼットの奥の扉を叩いた。


「おかあさまっ!」

「大五郎、ただいまっ!」


 大五郎の初めての脱皮は、無事終了していた。

 扉を開いた瞬間飛びついてきた子蛇を、柚葉はひしと抱き締める。

 少し前の彼女なら、あり得ない行動である。やはり、母強し。

 一皮剥けた大五郎は、少し身体が大きくなったような感じはするが、まだ手足が生えるような大きな変化は見られなかった。

 新米母・柚葉はそれでも感無量とばかりに頷くと、腕に下げていたスーパーのレジ袋の中から赤茶色の塊を取り出した。


「ユズよ、それは何だ?」


 大五郎を肌身離さず守っていたらしいナーガが、興味深そうに柚葉の手の中を覗き込んだ。


「お赤飯。スーパーのおにぎりで申し訳ないけど、大五郎の初脱皮をお祝いしようと思って」

「オセキハン……?」

「もち米と白米っていう穀物に、小豆って赤い豆を入れて炊いたものだよ。日本ではおめでたい時に食べるの」

「なるほど」


 ナーガが赤飯に興味を示したので、柚葉は彼にも赤飯おにぎりを進呈した。

 昨夜豆茶で柚葉をもてなした彼ならば、赤飯も口に合わないことはないと思ったが、その予想は当っていた様子。

 ところが、赤いご飯をぱくつく“夫”に対し、肝心の“子”はいまいち炭水化物では物足りないらしく、「ぎょにく、ぎょにく」と魚肉ソーセージを要求した。


 その後も、大五郎は一週間から二週間に一度程度の割合で脱皮を繰り返した。

 その間、柚葉が留守にする際には彼はナーガに預けられ、そうやって期間限定夫婦の交流も日常的になってゆく。

 ただし、結婚契約の際にナーガから説明があったとおり、夫婦生活を必要としない二人の間に色っぽい雰囲気は皆無だったが、共に大五郎を育てる同志としての結束は高まっていった。

 やがて、婚姻の証としてナーガから赤い石の付いた指輪が贈られる。

 その彼の瞳の色にそっくりな宝石は、なんと本人の血を固めて作られたものらしく、肌身離さず持っておくように言われた柚葉は、銀のチェーンに通して首から下げることにした。

 馬鹿正直に指にはめると、周囲の者が恋人でもできたのかとうるさいに違いないからだ。

 特に、柚葉の恋愛事情に敏感なのは、弟哲太である。

 彼は、今までの柚葉の恋人に対しても、「あんな頼りないやつはやめろ」だとか「門限厳守」だとか、父親以上に口煩く干渉してきた。

 自分はそれなりに恋人を取っ替え引っ替えして遊んでいるのにと思いつつ、柚葉がそんなシスコン気味の弟を可愛く思っているのも事実。

 偽装結婚なんかで彼にまた騒がれないように、指輪は服の胸元へと隠された。

 それからしばらくは、大五郎ともナーガとも安定した関係が続いた。

 雲行きが怪しくなってきたのは、彼らとの出会いから三月ほど経った頃である。


  

「……ねえ、哲太。何か悩み事?」


 哲太の様子がおかしいと柚葉が気づいたのは、脱皮を繰り返してきた大五郎に、ようやく小さな小さな手足の兆候が表れ始めた頃だった。

 一緒に食卓につく時は、幼い頃から柚葉の向かいが指定席である哲太から、妙な視線を感じるようになった。

 何か問いた気な、それでいて苦悩を滲ませる視線。

 柚葉は、年頃の弟は何か恋愛の悩みを抱えていて、女の自分に相談したいことでもあるのではないのかと思った。

 微妙な女心が分からない、とか。

 意中の女性にどんなプレゼントを渡したら喜んでもらえるのか、とか。

 その日の朝食の席。

 先に食事を済ませて出勤する父親を、いまだラブラブな母親が玄関で見送っている隙に、柚葉は哲太の顔を覗き込んでそっと問いかけた。


「おねーちゃん、相談にのろうか?」


 よしよし、可愛い弟君のために一はだ脱いでやろうと、張り切ってそう申し出た柚葉に、しかし哲太は「俺は別に……」と言いながらも苦しげに顔を顰め、さらには逆に真剣な目をして問い返してきた。


「ユズこそ、何か相談にしなきゃならないこと、あるんじゃないのか?」

「え? 私だって別に……」

「……」


 すっかり大五郎とナーガの存在に馴染んだ柚葉にとって、その頃すでに彼らは悩みの種ではなくなってしまっていた。

 それゆえ、哲太に心配されるようなことの心当たりがまったくなかった柚葉は、彼の問いにきょとんとする。

 それが何故か気に入らなかったらしい哲太は、憮然とした顔をして席を立っていってしまった。


 おかしなことはその後も続く。

 哲太の態度を不思議に思いながら、この日は脱皮の兆候がない大五郎を自室に残して出勤した柚葉は、会社に着いて顔を合わせるなり、同僚であり親友でもある美沙に腹をなでなでされた。


「ミ、ミサちゃん、何なの、どうしたの?」

「ううん~、別に普通のお腹よね。ぽっこりもしてないわね」

「って、そこはお腹じゃないから! 胸だからっ!」

「うん、こっちもぺったんこー」

「ミサちゃん、ひどいっ……!!」


 会社の小さな女子更衣室。

 制服のシャツのボタンを留めようとしたいた柚葉の身体を、煙草をくわえた美沙がわしわしと撫で回す。

 禁断の香りはないが、ヤニ臭い。

 柚葉に涙目で睨まれた美沙は、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けて火を消すと、ペットボトルのお茶を一口飲んで「あのね」と口を開いた。


「昨日、会社帰りに哲太君にあってね。ユズちゃんのことで聞きたいことがあるって言って、ケーキセット驕ってもらっちゃった」

「ええ~、何それ! 哲太、何聞いてきたの?」


 美沙は柚葉と同じ高校の同級生で、二つ下で同じ学校に入学した哲太も彼女といくらか面識がある。

 しかし、二人が昨日会っていたとは初耳だった柚葉は目を丸くした。

 それよか、学生の哲太に驕らせるなんて社会人としてどうなの? っと呆れる彼女に、美沙は笑って返した。


「最近の会社でのユズちゃんの様子。何か、前と変わったところがないかって」

「はあ? なんで、哲太がそんなこと……」

「哲太君、ユズちゃんが妊娠してるんじゃないかって、疑ってるみたいよ?」

「――え、えええええっ……!!?」


 思ってもみない言葉に、柚葉は唖然とした。

 一体全体、どこからそんなとんでもない誤解が……? と、両目をぐるぐる回して混乱する彼女に、美沙は「ユズちゃん、落ち着いて」とお茶のペットボトルを差し出した。


「なんかね、ユズちゃんが三ヶ月ほど前から急に食べ物を買い込むようになって、それを自室でこっそり消費しているのに全然太った様子がないって」

「うへ?」

「でも時々、お腹だけやたらとぽっこりして見える時があるとか、部屋着にゆったりしたワンピースやチュニックが増えたとか……あと、休日に外出することが減って、誘ってもあんまり外でゆっくりしたがらないって」

「うは……」

「確かに、ユズちゃん最近付き合い悪いよね。彼氏でもできたのかと思ってた」

「で、ででで、できてないっ!」

「ふうん?」


 美沙の話を聞いて、“柚葉が妊娠”などという哲太の誤解が生まれた原因について思い至った。

 大五郎の毎日の食事は基本ナーガが用意してくれるが、相変わらず魚肉ソーセージが好きな子蛇のおやつ用に、柚葉はそれを買い込んでいる。

 そういえば、最初に買い込んだ分がなくなってからも数度、哲太をタクシー代わりと荷物運びにかり出したのだった。

 腹がぽっこり見えたのは、おそらく柚葉が大五郎をこっそり服の中に隠して家の中を移動していた時だろう。

 お風呂には毎日一緒に入るので、浴室に向かう時に哲太に目撃されていたのだろうか。

 柚葉本人はあまり意識していなかったが、確かに大五郎を隠しやすいようにワンピースやチュニックを着る機会が増えたかもしれない。

 休日は、大五郎と遊んでやりたいので、少し出無精になっているのも認める。

 

「それでユズちゃん、結局誰の子供孕んじゃったの?」

「は、孕んでないっ!」

「そうよねえ、ぺったんこだものねえ。胸も」

「胸のことはほっといてっ!」


 とにかく柚葉は、美沙には弟が変なことを言ってごめんと謝って、帰ったら帰ったで哲太の変な誤解を解かなければと決意した。




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