其の一
今月もまた、憂鬱な一週間がやって来る。
佐倉柚葉はそう思いながら、湯船の中で顔を顰めた。
「あ、いたたた……」
お腹が痛い。
もっと詳しく言うと、下っ腹が痛い。
しかも、やけに張っている。
何てことはない。
女子には月に一度やってくる、あのブルーデイの前触れだ。
普段はそれほど生理痛が重い方ではないのだが、たまにひどい月がある。
しかも、始まる直前の予告痛みたいなのもあって、今夜の彼女の腹痛はまさにそれだ。
風呂に入る前まではなんともなかったのに、湯船に浸かったとたん、突然来た。
「うー、いたた……今日が金曜日で、よかったぁ……」
短大を卒業後、地元企業で一般事務として働いている柚葉は、土日はきっちり休みだ。
今夜は、痛み止めを飲んで早く寝てしまおう。
明日も痛むようなら、一日寝てすごそう。
柚葉は風呂から上がると、居間で寛ぐ家族への挨拶もそこそこに、二階の自室に引きこもった。
布団に包まり身体を丸め、ずくんずくんと痛む部分を両手で円を描くように撫でる。
うら若き乙女としては、やたらと張ってぽっこりとした下腹が許せなかった。
「あー、やだやだ。ほんと、いやだ……」
子供を産むのも痛くて大変なのに、毎月こんな憂鬱な思いをしなくちゃいけないなんて、女は損だ。
そうぶちぶちと性差の不公平に文句を垂れながら、だんだんと効き始めた痛み止め薬におまけされた睡魔に身を任せる。
その翌朝──
「あれ……痛く、ない……」
予想に反し、目覚めは爽快だった。
腹痛が完全に収まっている。
苦しいほどだった張りも解消していて、昨夜の憂鬱が嘘のようだった。
「よかった……これなら、今日は外出できそう!」
そろそろ夏用のファンデーションを買いに、隣の市にある大型ショッピングセンターに行きたかったのだ。
残念ながらここ二年は彼氏なしなので、大学生の弟君に車を出してくれるよう頼んでいた。
ところが、機嫌良くベッドを飛び出そうとしたところで、何かに足を取られて転びかける。
「うわっ……なんてこと!」
とっさにベッド脇の机につかまり転ぶのは免れたが、柚葉は自分の格好を見下ろしてぎょっとした。
足に絡んでいたのは、膝までずり下がったパジャマのズボンだったのだ。
あろうことか、ショーツまで一緒に下がってしまっている。
つまり柚葉は、下半身を剥き出した状態で眠っていたことになる。
我ながら、なんたる寝相の悪さだと呆れた。家族が起こしにきたりしなくてよかったと思いつつ、慌てて下着とパジャマのズボンを引き上げる。
そして、ふとベッドに視線をやった柚葉は……
「はえ……?」
思いもよらぬものを見つけて固まった。
上掛けが剥がれたベッドの中央に、ぽつんと佇む白い物。
「たっ……卵っ……!?」
それは、白くてツヤツヤの、どこからどう見ても卵であった。
しかも、普段よく見るニワトリの卵ではなく、ダチョウの卵サイズの大物だ。
柚葉自身はそんなものをベッドに入れた覚えがないし、家族の悪戯とも考えにくい。
さらには、ぽかんと口を開けて見つめる柚葉の前で、卵は突然ぷるぷると震え始めた。
やがて、シーツとの接地面を軸にくるくると回り始める。
普通に考えれば、それは孵化しようとしているのだと分かる。
「えっ、生まれちゃうの? 今? ここで!?」
得体の知れない卵ながらも、やはり命の誕生の瞬間というのは興味深いものだ。
柚葉は思わず床に正座をして、固唾をのんでそれを見守った。
──ぴしりっ
ついに、卵の上部にヒビが入る。
それを皮切りに、つるんと滑らかだった表面に次々と亀裂が走った。
この頃にはもう、卵を怪しむ気持ちも薄れ、むしろ可愛らしいヒナが顔を出す瞬間を想像して、柚葉はわくわくと胸を踊らせていた。
しかし──彼女の期待は手酷く裏切られる。
ぱりん、と割れて開いた上部の穴から、ひょこっと顔を出したのは……
「ぎゃっ……!? へ、ヘ……」
ぎょろりと大きい赤い目に、表皮は白く輝く角鱗──つまり、それは……
「ヘビぃーっ!!」
可愛い可愛いひな鳥ではなく、白いヘビだったのだ。
しかも、卵から孵ったばかりとはいえ、そもそも卵自体が大きかったのだから、当然出てきたものも大きい。
明らかに、一般的なヘビの成体よりも大きかった。
「む、むむ、むりー!!」
柚葉は声にならない悲鳴を上げて仰け反り、その拍子に後ろにひっくり返って床で背中を打った。痛い。
ヘビは、苦手だった。
いやそもそも、「ヘビ、大好き!」と言う女子の方が少数派だろうが、柚葉はヘビだけでなく、うなぎも穴子もどじょうも、とにかくにょろにょろしたものが大の苦手なのだ。
「いたたた……ひえっ!?」
しばし床の上で痛みに悶えていた柚葉だが、卵の殻から抜け出したヘビの子がしゅるしゅると寄ってくる気配を察知すると、床を這って逃げ出そうとする。
ところが……
「まぁま」
無様に床に這いつくばる柚葉の背に降ってきたのは、とんでもなく愛らしい幼子の声だった。
少し舌足らずで、言葉を覚えたてのような頼りなさのある、甘く無垢な音色。
それにどきりと胸を高鳴らせた柚葉は、おそるおそる背後を振り返った。
「ひいっ……」
ベッドの縁から、白蛇の子供が柚葉を見下ろしていた。
鱗だらけの頭を擡げ、爬虫類らしい大きな目が真っ直ぐに見つめている。
それに引きつった悲鳴を上げて、思わず意識が遠のきそうになったところで、再びいとけない声が降った。
「まぁま、まぁま」
「……」
にわかには信じがたいことだ。
しかし、可愛らしい声は間違いなくヘビの子から聞こえてくる。
直視するのは拷問に等しいが、子ヘビの口がぱかぱかと開閉して声を発しているのだ。
レアな喋る子ヘビは、柚葉に向かって訴えかけるように口を動かし続ける。
「まぁま、まぁま、まんま」
「……ま、まぁま、まんま?」
「まぁま! まんま、まんま!」
「ま、まんまって……ご飯のことかな? まぁまっていうのは……ママ?」
「ままっ! まんま!」
柚葉はどうやら子ヘビ語を正しく解読したらしい。
子ヘビが嬉しそうに叫んでベッドの上でぴょんぴょん飛び跳ねた。
その姿は、ヘビが平気な人からすれば可愛いのかもしれないが、苦手な者にとっては恐怖以外の何ものでもない。
「じ、じっとしよう? こわいからっ!!」
「まぁま……?」
怯えた柚葉は床に落ちていたクッションを引っ掴むと、顔の前に掲げた。
すると子ヘビは跳ねるのをやめたかと思ったら、今度は悲しそうに項垂れる。
爬虫類に表情も何もあったものじゃないのだが、しゅんとしたように見える子ヘビに、さしもの柚葉も罪悪感を覚え始める。
さらには、子ヘビ大きな赤い目が、ほろりほろりと大粒の涙をこぼし始めたのを目の当たりにして慌てた。
これではまるで、こちらが苛めたようではないか。
ひどくばつが悪い気分になった柚葉は、子ヘビと距離を取りながらもどうしたものかと首を捻った。
「まんままんま言うってことは……つまり、お腹が減ってるのかな……?」
「まま、まま、まんま」
「ちょっと……ママって、まさか私のこと!? えええ、こ、困る……!」
「まま」
鳥のヒナなどは、孵化して最初に見たものを親だと思うらしいが、どうやら子ヘビも生まれて最初の出会った柚葉を親だと刷り込まれてしまったらしい。
慕わしそうに自分を見つめる赤い目に、柚葉はたじたじとなる。
「ヘ、ヘビの子って、何食べるのかな? ……まさか、ネズミとか?」
一般的なヘビよりも大きそうな白い子ヘビは、その気になったらネズミどころか猫くらいなら飲み込みそうだ。
その光景を思い浮かべて、柚葉は顔を青くした。
ところが当の子ヘビは、んーん、と首を横に振る。
その仕草と声だけ聞いていれば本当に可愛らしいのに、にょろにょろしていて柚葉的には非常に残念だ。
「まんま、みりゅく!」
「ん? ……ミルク?」
「みるく、まんま」
子ヘビの幼児語は、柚葉の言葉を聞いてすぐに訂正される。
もしかしたら、この子ヘビはものすごく知能が高いのではなかろうか。
柚葉はどうにかこうにか立ち上がると、掴んでいたクッションをそっとベッドの上に置く。
そうして、自分の一挙手一投足を目で追ってくる子ヘビに向かって言った。
「と、とりあえず、ここで待っててね。ミルク、持ってくるから」
「まま、みるく」
「ママはやめて、ママは……。とにかく、すぐに戻ってくるから。うろうろしないでね」
「ん」
自分の言葉に素直にこっくりと頷いた子蛇を、少しだけ可愛いと思ってしまったことに驚きながら、柚葉は自室を出て階段を降りた。
階段を降りた廊下の先が佐倉家のキッチンである。
途中の居間では早起きの両親がすでに朝食を終えて寛いでいて、母は柚葉を見つけると「生理痛は治まったの?」と問うてきた。
柚葉は昨夜わざわざ家族に腹痛を告げることはしなかったのに、母は全てお見通しだったようだ。
男親もいる場で生理痛の話はしたくなかったが、寡黙な父は朝刊で顔を隠して聞かなかったふりをしてくれているようだ。
柚葉がもう平気だと答えると、キッチンに朝食を用意しているから、食パンだけは自分で焼くようにと母の声が返ってきた。
ダイニングテーブルの上にサラダとハムエッグが載った皿が置かれているのを確認し、言われた通りに食パンを一枚トースターに放り込む。
そして、焼ける間に食器棚からカップを出して、子蛇に与えるためにミルクを注いだ。
そんな柚葉の背に、廊下と反対側の扉から声がかかった。
「おい、ユズ。さっきすごい音したけど、お前何やってたんだ?」
声の主は柚葉の二つ下の弟、哲太だった。
居間へ続く扉の方から現れたところを見ると、彼も両親と一緒にいたのか。
先ほど柚葉が孵化した蛇に驚いて、背中から床に倒れ込んだ時の音が階下に響いたのだろう。
ぶっきらぼうな物言いながらも、心配そうな様子で近寄ってきた弟に、柚葉は思わず子蛇のことを相談しようかと思った。
しかし、すんでのところで思いとどまる。
何故なら、この弟君は実は柚葉以上ににょろにょろしたものが苦手なのだ。
小さな頃は、道に紐が落ちていただけで泣いて柚葉の背中に隠れたものだ。
あの頃は、かわゆかった……
そんな思い出に浸りながら、なかなか立派なイケメンに成長した弟を見上げ、柚葉は子蛇のことは自分の胸の中に留めておくことに決めた。
家の中に蛇が現れたなんて知ったら、怯えた弟が出て行ってしまうかもしれないからだ。
外出の足として利用価値が高い彼に出て行かれると、いろいろと不便も多い。
柚葉が、さっきのは自分が寝惚けてベッドから落ちた音だと嘘をついて誤魔化すと、哲太は呆れたように「まぬけ」と口にしながらも、頭を打たなかったかと言ってこぶを探るように姉の後頭部を撫でた。
次いで、彼はカップに満たされたミルクに気づくと、レンジに向かって顎をしゃくって言った。
「牛乳飲むなら温めろよ。腹を冷やしたら、また痛くなるだろーが」
「ああ、そうだね。あっためた方がいいよね。哲太は賢いねえ」
「……って、適当につまみ回すなよっ! 牛乳はすぐ噴きこぼれるんだぞっ!」
「ああー、はいはい」
柚葉の可愛い弟は、いつの間にか面倒見がよくて心配性な年下の兄のようになっていた。
結局、レンジでミルクを無事温め終えるのを見張られて、部屋で食べたいと言うと朝食一式を盆の上に載せてくれた。
さらに、部屋まで持っていってやると言うのだけはさすがに断ったが、階段の下で心配そうに見守られて姉の権威はがた落ちだ。
柚葉が少し情けない気分になりながら自分の部屋に戻ると、白い子蛇は彼女の言い付け通り大人しくベッドの上に鎮座して待っていた。
その従順でいて、思慕に溢れた眼差しに、いささか絆され始めている自身を、柚葉は認めずにはいられなくなっていた。
「はい、ミルクだよ」
柚葉は哲太に怪しまれないように盆の上に紛れさせてきた小皿に、温めたミルクをカップから移し入れて子蛇に差し出した。
きらりと嬉しそうに赤い目を輝かせ、口先をちゃぷりとミルクの中に突っ込むと、こくこく喉を鳴らしてそれを飲む。
ミルクは哲太監修の元レンジでチンしたので、人肌くらいのちょうどいい温かさだ。
柚葉は少し離れたパソコンデスクの上に盆を置き、自分ももそもそと朝食を摂り始めた。
子蛇はすぐに皿のミルクを飲み干して、その都度柚葉がカップから足してやる。
そうしている内に、赤い瞳が皿の上の朝食と柚葉の口を交互に眺めているのに気づいた。
「……食べる?」
凝視されながらは食べ辛く、すっかり食欲を無くした柚葉は試しに自分の食べ物を勧めてみた。
それに、子蛇は興味深そうにしながらこっくりと頷く。
やはり、仕草は可愛らしい。
まずは、レタスとキュウリのサラダ。これはあまりお気に召さなかったようだ。
次いで、トーストした食パン。炭水化物は嫌いではないようだが、いささか物足りなさそうにしている。
最後に、ハムエッグ。これは、一口目から食い付きが違った。
「おいち!」
「まあ、やっぱり肉食だよね……」
全部食べていいよと言うと、喜んだ子蛇はぱかりと大口を開けて、齧りかけのハムエッグを一気に丸呑みしてしまった。
その実に蛇らしい食事風景には、いくらか気を許しかけていた柚葉を座っている椅子ごとドアの前まで下がらせる迫力があった。
「ごちそうちゃま、おかあちゃま」
「……ん? ママからおかあさまになったの? っていうか、喋り方が上達してる?」
「おかあちゃま」
人間の母親になる前に、蛇の母親になってしまった。
柚葉は、腹らしき部分をぷっくり膨らませて満足げな子蛇を眺めて、重い重いため息をついた。
「一体君をどうしたもんかねえ……」
ただの蛇なら、警察を呼んで拾得物として持っていってもらえばいい。
しかも、人語を操る不思議な蛇なのだから、動物園や爬虫類の研究施設でも引き取ってもらえるかもしれない。
だが、子蛇の一心に自分を慕う瞳を見てしまうと、どうしてもはばかられる。
小さな檻に詰められて見せ物にされ、最悪研究のために解剖なんてことも……
さすがにそれでは柚葉も夢見が悪い。
(べ、別に、愛着が湧いたわけじゃないんだからっ)
そう一人言い訳しながら、柚葉はとりあえず子蛇を自室で面倒見ることに決めた。
「飼うからには、やっぱり名前をつけなきゃね。名前……蛇の名前……」
何にも思い浮かばないと唸る柚葉を他所に、お腹がいっぱいになったらしい子蛇はうとうととし始めた。
白く長い身体を丸め――つまり、蛇らしくとぐろを巻き、ぐるぐるの頂点にこてんと頭を載せた状態で、大きな赤い目をきゅっと閉じた。
お腹がいっぱいになったら寝る。
生まれたばかりの赤子ならば、当然だろう。
まあるい顔の先にちょんちょんと開いた二つの鼻の穴が、スープーと気持ち良さそうな寝息を立て始めた。
柚葉はそんな子蛇の様子に、まだ少し強張っていた身体の力をようやく抜くと、そっとベッドに近づいた。
そして、音を立てないように注意して、まだそのままになっていた卵の抜け殻を片付けると、上掛けをそうっと子蛇の上に掛けてやった。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ可愛いかもしれない。
自分の前で安心したように眠る子蛇に、柚葉はある面影を重ねて目を潤ませた。
「……大五郎」
それは去年、享年十八歳という大往生を遂げた愛犬の名前だった。
サモエドがかかった雑種犬。
白いふかふかの毛が自慢の大五郎は、柚葉にとってはもう一人の弟のような存在だった。
大五郎という名前は、当時二歳だった彼女が絵本か何かから拾ってつけたものらしいが、今でも最高にかっこいい名前だと思っている。
鱗に覆われた子蛇の姿は、癒し系もふもふだった愛犬とは似ても似つかぬが、柚葉が好きで好きでたまらないと真っ直ぐに伝えてくる視線はそっくりだった。
そういうわけで、突然ベッドで孵化した白い蛇を飼うことに決めた柚葉は、夕刻やっと起き出したそれに名を与えた。
「大五郎」
「はい、おかあさま」
柚葉が冷蔵庫からこっそりくすねた、焼豚ブロックをぺろりと平らげた二代目大五郎は、また少しだけ言葉が滑らかになった。