別れ
昼間は露店で賑わう街は、闇の中で静寂に包まれていた。
まだ、思う様に動いてくれない二本の足を引き摺るように、アスランはゆっくりと街を通り抜けてゆく。
ルアナと昼間に来た時は、いつもの雑踏がこんなに広いとは思わなかった。
今、彼の前に真っ直ぐ続いていく道は、果てがないかのように先が見えない。
大きく息を吐きながら、アスランはとにかく歩き続けた。
朝が来る前に、どうしてもルアナに会わなければならない。
会って別れを告げるのだ。
それも、できる限り残酷な方法で。
そうしなければ、ルアナは彼を殺した後もずっと待つだろう。
いつか戻って来るという一縷の期待を捨て切れないまま・・・。
希望はすっぱり断ち切るより残される方が、どれだけ辛くて残酷な事なのか、アスランは分かっていた。
同じ過ちを繰り返す訳にはいかない。
父親を失ったルアナは、愛する者を待つ辛さを充分に味わっている。
今頃、燻製小屋に帰ってきたルアナは、アスランの姿が見当たらない事に悲しんでいるだろう。
このまま殺されてしまったら、彼女は永遠に自分を探し続ける。
それだけは避けなければ・・・。
その思いだけが、瀕死の彼の体を突き動かす原動力になっていた。
体が揺れる度に、背中に刺さった矢が傷口を抉り、生暖かい血が滴る。
不快に感じながらも、そのお陰で、まだ自分が生きているという実感を持つ事ができた。
真っ暗な道の先を見つめて、アスランはひたすら歩みを進めた。
距離にしたら、決して遠くはない道のりだった。
いつもの狼の姿なら、一飛びだっただろう。
やがて、疲れと痛みで気が遠くなりかけた頃、風にそよぐ大きな広葉樹の枝ぶりが見えてきた。
その傍らにポツンと並んだ小さな小屋。
ほんの少しだけ開かれた入り口の戸からは、柔らかい光が洩れている。
ようやく目的地が見えて、アスランはホっとして大きな溜息をついた。
だが、ここで安堵している訳にはいかない。
仕事はこれからだ・・・。
アスランは気を引き締めて、小屋に向かって歩みを速めた。
◇◇◇
ギイイ・・・
懐かしい小屋の戸を、アスランは渾身の力で押した。
いつものように耳障りな響きを立てて、戸はゆっくり開いていく。
薄暗い小屋には、小さな蝋燭の火が灯り、アスランが小屋に足を踏み入れると影がユラリと動く。
その小屋の隅で、ガバっと起き上がった人影があった。
金色の髪を背中まで垂らし、いつもの麻の服を着た懐かしい姿。
ルアナは、入ってきたアスランを睨みつけ、スックと立ち上がった。
「アスラン!お前、どこ行ってたんだよ!?」
アスランは、ルアナがそこにいた事が嬉しくて、思わず表情を緩ませた。
だが、彼が感慨にふける前に、彼女の凛とした怒声が飛んでくる。
強気な水色の瞳は赤く腫れ上がり、乾いた頬にはいく筋にも涙の痕が残っている。
俺がいなくて泣いていたのか・・・。
その顔を見れば一目瞭然だったが、そうとは気付いていないルアナは、わざと目を吊り上げてできるだけ怒った顔をする。
それは迷子になった子供が親を見つけた時のようで、アスランはこの小さなルアナを抱き締めたい衝動に駆られた。
彼女に向けて伸ばした手をぐっと握り締めると、アスランは距離を取るように一歩下がって、小屋の外に出た。
自分から離れていくアスランを見て、ルアナは怪訝そうに首を傾げて立ち竦む。
その意味が分からないのだろう。
アスランは無表情のまま、彼女を見据えて言った。
「ルアナ、俺は森に帰る事にした。あんたとはもうお別れだ。元気でな」
できるだけ冷たい表情で・・・。
そう思ったが、彼の緑色の瞳は潤んで揺らめいた。
言っている事が分からないルアナは、キョトンとしてしばらく硬直していた。
「・・・どうして? 急に何言い出すんだよ?」
搾り出すような声でルアナはやっとそれだけ言った。
それを見つめながら、アスランは尚も表情を崩さない。
本心を知られてはならない。
頑なにそう言い聞かせて、アスランは続ける。
「あんたはいつか、この国の人間になって浮浪民の街を出るんだろう?俺はこの国の人間になるのは嫌だし、一緒に行く事はできない。俺にはやっぱり、森の暮らしの方が性に合ってる。この生活もそろそろ潮時だったんだよ」
「どうして急にそんな事言うんだ!?私が狼狩りに参加したのは、お前と一緒に生きてく為だったんだ!お前が行かないのなら、私だって行かない!」
アスランは激昂するルアナの顔を見つめた。
その返事は想定していたが、せっかく掴んだチャンスを自分の為に捨てさせる訳にはいかない。
アスランは薄笑いを浮かべて軽蔑したように言い放った。
「あんたは何か勘違いしてるみたいだけど、俺はあんたと生きていくつもりはないんだ。俺はずっと一人で生きてきたし、このしがらみの多い人間の街で、あんたと一緒にいるのは限界なんだよ。俺はまた森で自由に生きていきたいんだ。だから、俺に何も期待しないでくれ」
「だったら、私を好きだって言ったのも嘘だったのか・・・?」
佇んだルアナの目から、涙が一筋ツーっと流れ落ちた。
それを見ないように視線を泳がせながら、アスランは笑った。
「好きだったさ。でも、あんたが期待してるような事じゃない。あんたには悪いが、まあ、楽しませてもらったよ。俺の事は忘れて、あんたもあっちの国でせいぜい楽しくやっていくんだな」
ルアナはガクッと膝をついて床に座り込んだ。
体から力が抜けてしまったように、ダラリと両肩を落として項垂れる。
もう限界だった。
それ以上打ちのめされたルアナを見ないように、アスランはクルリと背中を向けた。
エドウィンの貸してくれたマントのお陰で、背中に刺さったままの矢が見えないのは幸いだった。
「じゃ、元気でな。俺はもうここには戻らない」
捨て台詞を吐くアスランの頬にも、溢れた涙が幾つも筋をつけてゆく。
それを見られないように、アスランは足早に小屋を離れた。
「バッカヤロウ!私の前に二度とその汚い顔見せるな・・・!」
去っていくアスランの耳に、ルアナの罵声が聞こえてくる。
消えていく言葉尻には泣き声が混じっていたが、彼は気がつかない振りをしたままどんどん歩いていった。
立ち止まれば、戻っていって彼女を抱き締めてやりたい衝動を抑えられなくなる。
彼にはそれが分かっていた。
◇◇◇
エドウィンの前にアスランが戻ってきたのは、東の空が青紫色に変わって鳥の鳴き声が聞こえてきた頃だった。
満身創痍でよろめきながら戻ってきたアスランは、エドウィンの前に来ると安心したように地に倒れこんだ。
既に血の気の無くなった青い顔に弱弱しい笑みを浮かべて、アスランは声を絞り出す。
「待っててくれて感謝するよ、エド。これで俺の仕事は終了した。悪いけど、さっきみたいに縛り上げてくれないか?処刑までまだ時間はあるから、俺は少し眠るよ・・・」
大きな緑色の瞳が閉じられると、彼は力尽きたように体を伸ばした。
その瞬間に、彼の体はムクリと大きく変化する。
エドウィンの目の前には、さっきと同じように、漆黒の狼が瀕死の状態で横たわっていた。
「・・・バカだな。このまま逃げればいいものを」
「いいんだよ。俺は先に地獄に行って、アイツが来るのを待っててやるって約束したんだから・・・」
アスランは心底満足した顔で、グルグルと喉を鳴らした。
エドウィンがさっき切った縄で再びアスランを縛り上げた頃、大きな太陽が地平線の向こうに現れた。




