願い
目の前に横たわる漆黒の狼は、そこまで話し終えると大きく息を吐いて目を閉じた。
背中に刺さった矢の毒が、体全体に効いているようだ。
エドウィンは、アスランと名乗った狼の頭をそっと撫でた。
短いチクチクした毛の感触は、昔、彼が飼っていた犬と同じだった。
その感触が心地良いのか、アスランは猫のようにグルグルと喉を鳴らす。
そして、閉じられた目を半分だけ開いて、エドウィンを見つめた。
「・・・面白いだろう?後は、見ての通りだ。明日、俺はこの国の掟に従って、ルアナの手で処刑される。それが終われば、彼女は浮浪民の街から抜け出し、『人』として、この国の人間の街に行くんだ。ルアナはこれを最後にもう、殺さなくても生きていけるようになる。めでたいだろ?」
喉でグルグルと笑いながら、アスランは自嘲的に言った。
その緑色の瞳には、確かに何の悔いの色も見られない。
あるとすれば・・・?
エドウィンは重い口を開いた。
「貴重な貴方の話、聞かせて頂き感謝する。では約束通り、あなたを一時だけ自由にしよう。自ら処刑される事を望んだ貴方だから、逃げるつもりはないだろうが、念のために聞かせてくれないか?自由になって何をするつもりだ?」
「・・・最後の仕上げがまだ残ってるんだよ。ルアナに会わなければならないんだ」
「別れを告げる為か?」
「・・・笑いたきゃ、笑え」
照れ臭いのか、不貞腐れたようにアスランは口を閉じた。
この狼は、本当に彼女を愛しているんだ。
彼女の幸せの為に、明日、彼女の手で処刑される。
それは彼の一途な願いだった。
でも、彼女はそれを望んでいるのだろうか・・・?
彼女が望むのは、彼が彼女の為に死ぬ事ではなく、彼女と共に生きる事ではないのか・・・?
自問自答しながらも、エドウィンには答えを出す事はできなかった。
返事の代わりに、持ち物の中からナイフを取り出すと、黙ったまま、狼を縛り上げている縄を切り始めた。
見掛けより頑丈にできている縄を小さなナイフで切る事は思いの外難航したが、しばらく悪戦苦闘した末、何とか狼は自由に立ち上がることができた。
生まれたての子山羊のようにヨロヨロとおぼつかない足取りだった。
全身に回っている矢の毒が、体の自由を奪ってしまったのだろう。
牛ほどの大きさの体を支える太い四本の足は、懸命に立ち上がろうと大地をしっかり踏み締めた。
不規則に大きく吐き出される息に、生臭い血の匂いが混じる。
やがて、ユラリと緑色の瞳を揺らめかせると、アスランは首を振ってエドウィンの方に向き直った。
立ち上がると想像以上の大きさの漆黒の狼の姿に、エドウィンは少したじろいで後ずさる。
「エドウィン、だったな。感謝するよ。これで最後の仕事ができる。すぐに戻ってくるから、あんたはここで待っててくれ」
甘える猫のようにグルグルと喉を鳴らして、アスランは大きな頭をエドウィンに摺り寄せた。
獣の匂いがフワリとエドウィンの鼻を掠める。
「どうして処刑される為にここに帰って来る必要がある。このまま逃げる訳にはいかないのか?」
「いかないね。俺がここで処刑されないと、ルアナの手柄にならないだろう?」
アスランは頭をエドウィンの肩に乗せるようにして体を寄せると、ガクンと跪いた。
フサフサしていた毛がみるみる内に消えてゆき、大きな体が水に溶ける砂糖菓子のように小さくなっていく。
エドウィンが唖然としている間に、アスランはみるみる内に人間の姿に変貌していった。
素っ裸で地面に蹲る男の背中には、真っ白い矢が痛々しく突き刺さったままだ。
だが、この矢がルアナの功績の証となるなら、今、外してやる訳にはいかない。
エドウィンは、せめてもと思い、その背中に自分の持っていたマントをそっとかけてやる。
「ああ、ありがとう。これで何とか人間らしい姿で街に戻れるよ・・・」
そう言って顔を上げたアスランの姿に、彼は少し驚いた。
自分の事を『木偶の坊』だと表現していたアスランの姿を、エドウィンは美しいと思ったのだ。
漆黒の黒い髪、締まったしなやかな肢体、整ったその顔には通った鼻筋に厚めの形のいい唇。
何より印象的なのは、エメラルドのように煌く緑色の大きな瞳だった。
穢れのないその瞳は、今、真っ直ぐにエドウィンを見つめている。
「ありがとう、俺、行くよ。必ず戻って来るから、ここで待っててくれ。何なら明日までいて、化け狼の公開処刑を見物していくといい。ルアナの弓は一見の価値はある」
「できれば、そうならない事を祈りたいが・・・了解した。貴方がここに戻って来るまで、私は待っている」
誠実そうなエドウィンが力強く頷くのを見て、アスランは安心したように微笑んだ。
よろめきながら立ち上がろうとする彼の腕を、エドウィンはしっかりと支えてやる。
二本の足で立ち上がったアスランは、決意の漲る顔で唇を噛み締めると、マントを翻し、街に向かってゆっくりと歩き出した。




