役目
その日、俺は初めてルアナが人を殺すところを見た。
軍人が告げた通り、ルアナは正午になる少し前に、手入れの行き届いた弓矢を背中に背負って、小屋から出た。
ピリピリと殺気立っている彼女にとても話しかけられる雰囲気ではなかったので、俺は視界に入らないように気をつけながら、つかず離れず、彼女の後を追っていく。
小屋から、街とは反対側に歩いていくと、見渡す限りのなだらかな丘陵が広がる。
少し盛り上がった丘の頂上には、巨大な木がそびえ立っていた。
広葉樹らしく大きく枝を広げたその木の根元は、昼寝をするにはもってこいの場所だ。
だが、今日、そこにいたのは、大きな木の幹に両腕を広げた十字の形で縛り上げられた一人の男だった。
遠目で見ても分かるくらい、まだ若い男だった。
ルアナと同じ金色の髪を肩までボサボサに伸ばした、あの市場にもよくいた典型的な浮浪民の若者だ。
暴行を受けたのか、顔は赤く腫れ上がり、剥き出しにされた上半身には、赤黒い痣が一面に散らばっている。
僅かに腰に纏わりついた麻布だけが、彼の持ち物だった。
がっくりと項垂れたまま、男は絶望的な視線を自分を見守る人の群れに向ける。
男が縛り上げられている大木の周りには、沢山の人だかりで、それこそ祭りのような騒ぎだった。
ここに集っている野次馬どもは、どうやら本物のこの国の人間らしい。
大半が黒や茶色の髪を持っている。
そして、ルアナ達浮浪民より体格も良く、全体的に大柄だった。
金色の髪の人間の姿はその人の群れには、見当たらない。
同胞が処刑される所は見るに偲びないんだろう。
浮浪民の処刑を同じ民族であるルアナに委託し、それを物見遊山に見に来る本国の人間。
人間の世界の仕組みはよく分からない俺も、何か理不尽なものを感じた。
ざわめく人だかりの前をルアナは無表情で通り過ぎると、処刑される可哀想な男の目の前に立った。
男はルアナと同じ水色の目を薄っすら開けて、彼女の顔を見つめる。
カサカサに乾いた唇は血糊が固まり、口を開くのも困難な様子だ。
縛り上げられた両手首から血が滲み、何かを掴もうとするかのように手が宙を握る。
この人間はもう長くない。
俺には動物の勘ですぐに分かった。
ルアナが手を下さなくても、もう命の火は消えかかっている。
放っておいても死にゆく人間を、敢えて処刑する理由・・・。
それは、見せしめの為だ。
森で今までの俺がしてきた事を、目の前に突きつけられ責められているような嫌な感覚に襲われ、俺は軽く眩暈を感じた。
人だかりの中に紛れて、俺は少し離れた所から二人のやり取りを食い入るように見つめた。
今際の際のこの男に、ルアナが何をしようとしているのか。
俺だけでなく、この木を囲む人間ども全てが息を殺して見守っている。
先に口を開いたのは男のほうだった。
カサついた口を必死で開いて、目を剥いてルアナの方に首を向けようとしている。
ルアナは無表情のまま、矢を持っていない左手で、男の頬をそっと撫でた。
「・・・助けてくれ。腹が減ってただけだ・・・盗むしか食える方法がなかった・・・」
「分かっている。心配するな。お前を絶対に苦しませない」
縋るようにルアナに首を寄せてくる男に、彼女は笑みを見せて力強く頷いた。
ルアナの自信に溢れた表情に、男は安心したのか、表情を和らげ目を閉じる。
自分の運命の全てを彼女に託したかのような、信頼しきった表情だった。
ルアナはスクっと立ち上がり、男に背を向けると、そのまま真っ直ぐに歩き出した。
彼女の歩く道を開けるように、集まっていた人間達の波がザザっと一斉に退いていく。
ルアナは、男がやっと彼女の姿を認められるかどうかという所まで歩いゆき、そこで立ち止まると再び男の方に向き直った。
かなりの距離だ。
あの位置から、姿が見えるかどうかの男に矢を射るのは、無謀に思われた。
ルアナはその位置に真っ直ぐに立つと、背中から真っ白な矢を一本スラリと抜き取る。
そして、自分の背丈くらいの弓を宙に弧を描くように引き、男の心臓にピタリと狙いをつけた。
吊りあがった水色の瞳がギラギラと燃え上がる。
痩せた小さな体全体に緊張感が漲り、鋼のように微動だにしない。
俺は自分が処刑される男になったように、その場で硬直して動けなくなった。
狙ったものは絶対に外さない。
そう言っていた彼女の言葉が俺の脳裏に浮かぶ。
緊張と自信の混じり合ったその顔は、ただ美しかった。
ざわめいていた人の群れは水を打った様に静まり返り、ルアナの挙動の全てを凝視している。
その静けさを破るように、ビュッという風を切る音が響き渡った。
人間の目には見えない速さで放たれた矢は、次の瞬間、男の心臓を貫いていた。
見ていた人間だけでなく、その男さえも、何が起こったのか分からなかっただろう。
矢が命中した瞬間、男は一瞬だけ目を剥いたが、そのままガクリと項垂れて動かなくなった。
ようやくルアナが処刑を終了させたことに気が付いた人間どもは、感極まって賛美の声を上げた。
それは、見事に役を終えた彼女に対する賞賛ではあったが、ルアナは厳しい表情のまま、弓を下ろして叫んだ。
「罪人はここに屠った。願わくば、この国に再び平和が訪れん事を・・・!」
その声に、一際大きな歓声が上がって、野次馬どもは狂喜乱舞して踊り始めた。
正義が勝ったことが嬉しいのか。
悪が滅びた事に安堵したのか。
一人の男を悪の象徴に仕立て上げて、他の人間に汚れ役を押し付けて、自分達は綺麗な世界で臭いものに蓋をしながら生きている。
俺はこの国、いや、人間の世界の縮図を見せ付けられているようで吐き気がした。
興奮で波打つ人の群れから何とか脱出すると、弓を背中に背負ったルアナが迷子になった子供みたいな顔でウロウロしているのが見えた。
俺を探しているのは明白だった。
俺は彼女の小さな体を後ろからヒョイと抱えると、そのまま走り出した。
この場の雰囲気に呑まれてしまいそうで、早くここから立ち去りたかった。
ここにいたらルアナも汚れてしまう。
俺は彼女の軽い体を小脇に抱えてとにかく走った。
「・・・なあ、アスラン」
俺に抱えられて下を向いたままの姿勢で、ルアナがポツンと言った。
「何だ?」
「やっぱり私は地獄に行くだろうな」
ルアナを抱える俺の腕に、熱いものがポタポタ零れ落ちる。
抱き締めたくなる衝動を抑えながら、俺は怒鳴った。
「心配するな。あんたが行くなら、俺も必ず行くから!」
生きる為に殺してきたルアナ。
彼女にある決意ができたのは、多分、その頃だった。