St.バレンタインの甘い罠
「本命チョコか、義理チョコか」
律也はそう言って、ひょいと真顔でこちらを見た。
「それが問題だ」
「なんのこっちゃ」
厨房担当の俺は、手の甲で黒縁の眼鏡を押し上げ、眉を顰めた。
俺が立っている厨房と、律也のいるフロアの間には、両者を分かつカウンターが設けられている。そこに載っている、光沢のある包装紙に包まれたチョコレートが、話題の中心になっていた。
「だってさ、兄貴」
律也はびしり、と人差し指を突き立てる。
「義理チョコだったら食べても罪悪感ないけど、本命はそうもいかないじゃないか」
「いや、食うなよ」
ちょうどその時、店のドアが開いた。2月の冷たい風が吹き込む。律也が戸口を振り返り、「あ」と口を開けた。
「茶髪のサルが現れた」
「なんだよ、人をスライムみたいに」
茶髪のサル、もとい、茶髪のツンツン頭の男が言う。というか茶髪のサルって、ただの猿じゃねえか。
彼の名は猿渡、通称サル。小学校からの腐れ縁だ。
「よう、志田賢人、略してシダケン。と、その弟」
サルは片手を挙げ、俺と律也の方へやってきた。普段は女性客で賑わうこのカフェ『ハルモニア』に、20代後半の男が革ジャンにジーンズ姿という出で立ちでいるのは、何か違和感がある。
「よう、何しに来た」
「相変わらず、つれねえな」サルは、口の端を吊り上げて笑った。
不意に電話の音が、昼のピークを過ぎて客も疎らになった店内に鳴り響く。接客担当である律也が、適当な返事をしながら電話に向かった。
「バレンタインチョコというヤツか」
サルが、カウンターの上の代物を覗き込む。ふむ、と俺は言った。
「紛うかたなきバレンタインチョコですな」
今日は2月14日。午前中は『ハルモニア』にも、チョコを持った女性客が多く来店していた。
「お前が貰ったのか」
「いや、忘れ物らしい。律也が持ってきた」
ふうん、とサルが言う。「ところで、弟のあの格好は何だ」
2つ年下の律也と俺は、血の繋がった兄弟ではない。親同士が再婚した時の連れ子だ。それを知っている友人は、大抵彼のことを『弟』と呼ぶ。それはさておき。
俺は、律也をちらりと見て、またサルに視線を戻す。
「コスプレ?」
「や、だから何で」
今日の律也は、長い金髪にネコミミをつけて、フリルたっぷりのメイド服を着ていた。
「バレンタインだから、どうせチョコを提供するなら女装の方が面白い、ということになってな」
「よく似合ってるじゃないか」
「そうなんだよなあ」
律也は細身で端正な顔立ちなので、これがなかなかよく似合う。女性客は言わずもがな、数少ない男性客も目を奪われていたし、兄の俺でも少しどきりとする。悔しいがそれは認める。いや、悔しくないぞ。
ちょうどそこへ、電話を終えた当のネコミミメイドが戻ってきた。
「そのチョコの持ち主からだったよ。取りに来るって」
ほほう、とサルがニヤリとする。
「かわいいか、かわいくないか。それが問題だ」
「どうでもいいわ」
俺が吐き捨てるように言うと、サルは口を尖らせる。
「つれないなあ。お前だって昔はクラスの女子に現を抜かして、バレンタインにはあらぬ妄想に溢れてただろ」
「そりゃあお前、」
全くなかった。とは言いきれない。だって男のコだもん。
「わざわざ取りに来るってことは、やっぱり本命なのかな」
律也はどうしてもそこが気になるらしく、首を傾げる。
「高いチョコだから、勿体ないと思ったんじゃねえの。これ、ゴディバだろ」
「まさか、兄貴じゃあるまいし」
おい、俺を何だと思ってるんだ。
「ゴディバか」サルが最もらしく頷いて言った。
「持ち主は美人に違いない」
何だ、その偏見。
「でもさ、このチョコ、一度開けたんじゃないかな」
律也が、眉をひそめて言う。
「なんですと」
「ほら、リボンのシワが変な風についてる」
確かに、リボンの結び目の近くに、妙にシワがついている箇所がある。もともとはそこで結んであったのだろう。
そうか、と律也がハッとする。「これは陰謀だ」
またか、と俺は溜息をついた。この弟は、どういう訳か何でも陰謀にしたがる癖がある。
「チョコと見せかけて、中に爆弾が入ってるんだ。兄貴を殺す為に」
しかも標的は俺か。
「阿呆。だったら取りに来るなんて、電話して来ないだろ」
「それが罠なんだよ」
律也は、あくまでも大まじめに言った。
「取りに行くって言っておけば、捨てられないし、食べられることもない」
「言われなくても、普通は食わない」
しかし、一理ある。…いやいや。
「普通に考えて、手作りチョコをゴディバの包装紙で包んだだけだろ」
「普通すぎるよ兄貴!夢がないよ!」
律也が憤然として言う。いや、爆弾よりは手作りの方が、夢あるだろ。
「そんなだからモテないんだよ」
「煩い」余計なお世話だ。
「大体、バレンタインというイベント自体、製菓会社の陰謀だろう」
「つれないよ兄貴、チョコをあげる女の子の気持ちも考えてあげて」
「爆弾を寄越すような女の子の気持ちを?」
無茶言うなよ。
「女の子も大変かもしれないけどさあ」
サルが口を挟む。「貰う方も大変だぜ?食べ過ぎると太るし」
それは自慢か。
「あ、じゃあ、男子を太らせようとする女の子の陰謀なのかあ」
律也がなるほど、と一人で納得している。いや、違うだろ。
サルは、溜息混じりに言った。
「一番困るのは、義理チョコだけどな。捨てるわけにもいかないし、お返し考えるのもメンドイし」
「サル兄も夢がないなあ」
律也が、呆れて苦笑する。
「普通バレンタインってさ、意中の子が誰に本命あげるのか、とか、誰が1番多くもらえるか、とか、そういうのを気にするべきじゃないの」
「お前は夢を見すぎだ、弟」
一理ある。「そういえば、今日は彼女を連れてないのか」
俺はふと、疑問になって聞いた。サルは、地味だが整った顔つきのおかげか、異様なほど女性にモテる。どういう訳か、会う度に彼女が違う。
サルは、眉を下げて奇妙な笑みを浮かべた。
「今日は誘われてないんだ。珍しいだろ」
「飽きられたな」
「もしかして、駅前のファミレスの女の子をナンパしたのがばれたのかな」
「ヒトデナシ」
「そんなこと言うなよ。涙が出ちゃう。男のコだもん」
サルは膨れっ面を作り、両手を添える。気色悪い。爆弾で狙われてるのは、この男じゃなかろうか。
「…へーえ、そう」
戸口の方から、女の子の声がした。見ると、小柄な女子が、怒気を孕んだ表情で仁王立ちしている。会話に夢中で、彼女が来たことに気付かなかった。
あ、とサルが文字通り飛び上がる。
「あ、お前」
「ナンパしたんだ?ふーん、知らなかったなあ」
言いながら彼女は、つかつかとカウンターに直進してくると、ペこりと頭を下げた。
「電話した者です。忘れ物、取りに来ました」
「え、あ、うん」
律也が、彼女の怒気に気圧されつつも、チョコを渡す。
彼女は礼を言って、間髪入れず、そのチョコをサルに投げつけた。
「この、ヒトデナシッ!」そうして、来た時と同じように、つかつかと店を出て行った。
サルは、数秒ぽかんとしていたが、ハッと我に返り、彼女に続いて店を飛び出す。それを見送って、俺と律也は顔を見合わせた。
『災難だったのねえ、猿渡くん』
電話の向こうで、母がころころと笑い声をあげる。閉店後、厨房の片付けが一通り終わる頃、母親から国際電話がかかってきたのだ。
俺と律也の両親は、俺が店を継いでから、遅めの新婚旅行と称して、世界一周の旅に出ている。母親は、どういう訳か国を移動する度に電話をかけてくる。今はクロアチアにいるらしい。
「あれは、自業自得だよ」
『でも、いいわあ、そういうの。若いわねえ』
そういう母も、50過ぎで世界一周しようとする辺り、まだまだ若いと思う。
『楽しそうなバレンタインで、よかったじゃない』
「まあな。母さんだって、父さんにあげたんだろ?」
『そうなの!聞いてよ賢ちゃん、クロアチアではね…』
母親は、俺が小学生の時に今の父親と再婚した。当時、それなりに母の苦労を知っていた俺としては、新しい父親という存在は不愉快ではあった。聞きしに勝る、エディプスコンプレックスというやつか。
でも、両親の熱愛ぶりを見ているうち、なんだかそれはどうでもよくなった。母さんが幸せなら、それでいい。
母親の惚気話を聞いていると、店のドアが開いた。
「ちーす」
戸口に、春日井つかさが立っている。名前も仕草も男らしいが、俺と同い年の女子だ。
俺は母親との電話を切り上げ、彼女をカウンター席に呼ぶ。ネコミミメイド姿のままで店内清掃中の律也が駆け寄ってきた。
「待ってたよ、つかさちゃん!」
「お、弟くん、お疲れ」
つかさは律也をまじまじと見て、満足げに親指をビッと突き立てる。
「めっちゃ似合ってるー!さすが私っナイスプロデュース!」
今回、律也を女装させようと言い出し、服装や小道具を用意したのはつかさだった。地元雑誌の記者をやっている彼女が、どういう経緯でネコミミやメイド服を調達したのかは謎だ。
最後の客にコスプレ姿を披露した律也が着替える為に奥に引っ込むと、つかさはグラスの水を飲み、ぷはーと息を吐く。
「オッサンか、お前は」
「いやあ、弟くんのコスプレ見たら、疲れが吹っ飛んだわ」
俺は、厨房で作業しながら、彼女にサルの一件を話して聞かせた。
「アイツも懲りないねえ」つかさは、クツクツと笑う。
まったくだ、と俺も相槌を打つ。
「バレンタインてのも大変だな。女も男も、チョコごときに振り回される」
「それがいいんじゃない」
そうかね、と言って俺は、彼女の前にフォンダンショコラを置いた。チョコレート色の小さな丸いケーキに、雪のようにかけた粉砂糖、ラズベリーソースと生クリームを添えてある。
つかさは首を傾げた。「これは?」
「今月のスペシャルメニューだ。今日、律也に服とか貸してくれた礼に」
「ダイエット中なのに。…でも、おいしそう」
ううむ、と彼女は頭を抱える。やがて、難しそうな表情で言った。
「食べるべきか食べざるべきか、それが問題よね」
「お前もソレかい」