覚醒の片鱗
半身を泉に浸し、弓で体を支えた少年に処刑者がその鋏を掲げる。開かれたその血塗れのギロチンは命を摘み取るためだけもの。
その死の象徴があるにも関わらず、少年は金の瞳を虚ろにして俯いている。
処刑者が再び歩を進め始める。
ポツリと少年の口が呟く、その言葉には戸惑いがあった。
「俺は、僕は一体なんだ?」
その問いに答えてくれるものはいなかった。
静かに瞼を閉じた少年は、
「それを探してみるのも悪くない…のかな?」
ギロチンが首の位置まで来る。
「それじゃあ、生き残らないとね」
少年は顔をあげる。さっきまでの虚ろな眼差しは何処へやら、その金の瞳は輝きを取り戻し、処刑者を見据えた。
その眼差しに射すくめられるようにほんの一瞬だけ、処刑者は硬直する。
それは明らかに恐怖を覚えた者が見せる姿だった。
そのことにどこか苛立つかのように、蟹は口腔から何かを引き裂くような音、声らしきものを発する。
と同時、即座にギロチンは細い首を狙い閉じられた。
しかし、そのギロチンが新たな血を啜ることは無かった。
首と鋏の間には灰色の薄い金属板のようなものがあり、それが少年の首を守るように二枚出現し、硬質な音と共に迫っていた死を阻んでいた。
元を辿ってみれば、下へ向かうほど蔓のようなしなりを見せていて、少年の足元から地面を割って飛び出していた。
処刑者がどれだけ力を込めても鋏はそれ以上閉じず、それどころか徐々に押し返され始めたのだ。
ただの板に近かった形をそれは急激に膨張を開始する。
平たかった部分は風船に空気を入れるように厚みが増し、処刑者の鋏をさらに押し返していく。
その尋常ではない様子に、焦ったかのように処刑者は後方に飛び退く。残った鋏を破壊されるのを警戒したのかもしれない。さらに再び極彩色の泡を吐き散らした。
グネグネと灰色のそれが揺れている姿は海底に揺れる海草にも見え、不気味でありながらどこか滑稽さが感じられた。
処刑者が離れた後も膨張していたが、それも彼の身長の三倍ほどの大きさにまでなると止まり、同時に蠢きも止めていた。
ピタリ、と動きを止めたそれは、今度は末端の部分から五本の枝を左右それぞれから伸ばし、形作られた腕手を天に向かうように動かしていた。
しかし変化はそれで終わらなかった。
灰色のそれが形成した腕手を覆うように紅蓮の金属塊が地面から末端に向かってどんどんと付着していき、奇妙な二つのオブジェを作り出してしまった。
「これがこの【力】の本当の在り方みたいだね」
さきほどまで膝をつきながらも敵を見据えていた少年が立ち上がり、口を開いていた。
その姿は堂々としたもので、たとえ幼い外見をしていようとも強者の風格を放ち、君臨していた。
パキィィィィン!!!
君臨者の到来を祝うかのように紅い花弁が舞い散る。それは薔薇よりも尚紅く、血よりもさらに美しい燐光を辺りに散らす。
しかしその深紅の花吹雪の中でさえ、彼の瞳と髪は煌々と輝きを放つ。
「さて、さっさと討たれてもらうよ」
その言葉と共に花吹雪は跡形もなく消え去り、彼の姿が完全に現れる。
彼の左右の地面からは二つの異形の腕手が生えていた。
深紅のそれは、鎧というにはあまりに鋭角的なフォルムをしており、また肘や手首などの人体にある関節は無く板金を重ね合わせて腕手全体を蛇腹状に覆うことで、柔軟でしなやかな動きができるような構造としていた。しかしそれも鋭角のフォルムしているせいでしなやかさなどよりも攻撃的な印象を与えていた。
もはや鎧の腕ではなく、甲殻に覆われた鉤爪と言ったほうがしっくりとくる。かといって生物的な要素はなく、全てが深紅の金属に覆われ隠されていた。
▽
突如の深紅の腕手が蟹へとその鉤爪をのばした。熱せられたガラスのように伸びるそれは、両者の間を漂っていた極彩色の泡を薙ぎ払いつつ瞬く間に距離を詰め、襲い掛かった。
蟹もただその場に留まらず、鋏で迎え撃つ。だが、挟み込むように襲い掛かってくる腕手を相手に片腕では分が悪かった。
一方の腕は鋏を指と指の間に捻じ込んで受け止めたが、もう一方の腕が蟹の後方に回り込み棘が隆起していた甲殻を大きく削った。
だがそれだけでは終わらず、鋏に押さえられていた腕が鋏の根元付近に鉤爪をつきたてたのだ。爪は甲殻を突き破り、蟹の体液を噴出させる。蟹もこれから逃れようと必死に暴れるが、暴れれば暴れるほど爪が深く食い込んで体液が噴出する量と勢いが強くなる。
そしてついに
――――――バキャリ
深紅の腕手が蟹の大鋏を根元から引き千切った音が響いた
蟹は口器を開けて叫ぶように後ろに倒れこむ。
『ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!???』
しかし、蟹の絶叫がそれ以上響くことは無かった。
「バイバイ」
澄んだ声が一言だけ発せられた。
▽
蟹は大きく身震いした後、体から力が流れ出るように動きが鈍くなったかと思うと目から生気が失われていき、完全にその生命活動を停止した。
処刑者の命を刈り取ったのは“三本目”の深紅の腕手だった。正確にはもとの腕手から枝分かれして分裂したものだ。それは背後から蟹の削られた甲殻を貫通し、風穴を開けていた。
もし処刑者が初めての感覚に従い撤退していれば、ここで刈られることなく殺戮を繰り返せただろう。
なぜならその感覚、『恐怖』とは生命が生き残るために体得したものだ。恐怖から目を背け、それの存在を無視した段階で、処刑者は自らが死を振り下ろしてきた場所へと登っていたのだから。
尤も、仮にその恐怖を受け入れてもそのことが処刑者を苛んだかもしれないが。
▽
深紅の腕手たちは役目は終えたと言わんばかりに、縮小し手のひらにスッポリ収まるサイズの深紅の塊になると、彼の足元に落ちた。
彼はそれを拾い上げ、手で弄ぶ
「矢、余っちゃったな」
コートの裾のホルスターにある白金の矢を見る。切り札は新たに得た札によって出番がなかった。
「一応とっとこう」
コートを少し変形させ、先の深紅の塊を即席のポケットに収めた。
泉のふちに腰掛けつつ、端正な顔をどこか空虚な表情にして彼は口を開いた
「僕、か…」
溜息を一つだけつき、彼は頭を振った。
「考えたところで今は何もわからないんだ、気ままに行くさ」
瞳に穏やかな光を宿しながら呟いた言葉は虚空に消えていった。
死を越え、新たな世界へと現れた彼にとって、自分が自分であるという認識は唯一の記憶の縁なのかもしれない。
さて、どうしようか