経験による力量差
自分の遅筆さをぶんなぐりたい
しばらく逃げ続けた俺は広めの空洞に出ていた。
これ以上先に進もうにも、目の前には小さな泉とその周囲に群生している見たことの無い草があるだけで道は無い。
処刑者に追われてさえなければ、のんびりとしたいような場所だ。
そうこうしているうちに例の蟹が追いついてきた。損傷し体液が流れ出ていた足と鋏からはすでに出血は見られず、あれだけの損傷にも関わらず傷が塞がってきているようだ。
再生こそしないようだが、厄介なことには変わりない。この様子では痛覚があるかどうかも怪しい。
「逃げ回って消耗を待つのも無理だろうなぁ」
こちらは矢が二本だけ。追加しているような暇は無い。
必然、やるべきことは一撃必殺、それだけだ。わかりやすくていい
幸いこちらの一射は充分それができる威力がある
「っと…なんだ?」
通路を追走していた蟹は突然入り口で停止していた。ただ、警戒は解いておらずこちらを伺っているのは変わらずだ。
今撃ってもたぶん当たらないだろう。
まだこの体のサイズに慣れきっていない俺では構えから放つまでの隙は奴にとっては大きすぎる。
それに加え、即席の弓矢では精度の問題もある。今の体格と合っていないのだ。前の肉体、つまり俺の死ぬ前の体を基準にしてしまったためだ。さっきも弦が金属製なのを良いことに【星錬】で引いたし
痛恨のミスだ。最初の一発も本当なら胴体を狙っていたが、偏差射撃の段階でズレてしまい仕留めそこなった。
…こんなことはこれだけだ。そう願いたいのものだ。
本当なら【植物淵】でなにか爆発するものでも創って不意を撃てればいいんだがそれはできない。
さて最初に力に気付いたときに説明書だけ渡されたと言ったが、この力は正確には使用方法の概要がわかるのだが、うまく使えなかった。感覚が掴めず、使用には尋常でない時間と集中が必要だったうえ、未だに一度も成功していない。
自転車の補助輪を思い出して欲しい。あれは一度感覚を掴めば外しても問題なく自転車は乗り回せる。だが無ければ本当に時間がかかるか、乗れずに怪我をするのが関の山だと思う。
この【力】を使いこなすにはあと少しだけなにかが足りないのだ。直感的なものだが恐らくこの予測は正しいと思う。
まぁ要するに今、俺が生き延びるにはこの弓矢で仕留めるしかないと言うわけである。
しかしあの蟹はなんで接近してこない?これまでの様子から飛び道具を持っていないだろうし、それなら接近して攻め続けるのが常套のはずだ。
こちらが構えないことを察したのか蟹は体をゆっくりと半身にする。残っている鋏はこちらから隠された体勢だ。
なにをするつもりだ?
突如として轟音が辺りを飲み込んだ。思わず耳を塞ぎたくなるような大きさだ。
俺は弓を持ちつつ片手で耳を塞いでいた。片側だけでも少しはマシだろうし。
土煙が蟹を包み込むのが見えた。あまり想像したくないが……
ガチンガチンと剣同士が打ち合わされるような音が聞こえてくる。
土煙が薄れるとシャフトが軋むような音とともに刺々しい巨躯がこちらに鋏を向けて突撃してきた。
咄嗟に横に飛び退ってかわす。だが、蟹はその巨体に見合わず小回りが利くようだ。すぐさま地面を削るように方向転換すると血塗れの処刑鋏を俺に伸ばしてくる。
【星錬】でコートの上半身部分の重量を増やし、無理やり上体を倒してかわす。同時に眼前の空間を鋏が両断していく。
コートの背部に余っていた袖部分を肩から背中にまわし、そのまま固定用のアンカーとして地面に突き立てる。無理な動きに圧迫感を感じたが、この体の恩恵で微かにしか感じないそれは無視する。左右で長さに差があるそれは俺の体を半身に傾ける。
俺はホルスターから暗蒼の矢を引き抜き即座に構える。
しかしそれが完全に引き絞られる前に標的はいなくなっていた。こちらが構えたのを見た瞬間に奴は後ろへ下がったようだ。
俺もこの体勢のままでは不味いのでアンカーをしなるように変形させ自分を後方へ投げて距離を置く。着地にはアンカーをバネのクッションに変えて衝撃を殺す。
再び互いに睨みあう膠着状態に戻る。
蟹の斜め後ろでは岩が崩落し、俺と奴が通ってきた入り口が塞がれていた。やはりさっきの轟音はこちらの逃げ道を絶つために奴が天井の一部を崩した音か。
奴は別に心中するつもりでなければあそこは完全に崩落させたわけではないだろう。時間をかければ土砂を撤去できるだろうが、この状態ではそんなことはできない。
「なるほど袋のねずみとでもいうべきかな。これは」
蟹は俺の呟きに反応したわけではないだろうが、ガチン!ガチン!と耳障りな異音を発している。
蟹はこちらを恐怖させようとするかのようにその体躯を上下させ始めた。
そしてその巨躯を固定するかのように残っていた鋏と、八本から五本まで数を減らした脚を地面に突き刺していた
同時に蟹の口を覆っていた甲殻が扉のように開いていき、その凶悪な大顎が露出した。
「ちょっと、ヤバイかな…?」
俺がそう言った理由は奴の口腔からは明らかに危険な雰囲気を発している泡が見て取れたからだ。
身の危険を感じた俺は奴が何かする前に仕留めきるために暗蒼の矢をつがえる。
このままダラダラ続けてジリ貧になるのと危険を冒して短期決戦で終わらせるのとどちらがマシかなんて考えるまでもない。
今なら奴も足を止めているのに加えて、むき出しの口腔を射れば致命傷を与えられるだろう。
キィィィィ……
金属が軋む独特の音が耳に響く。視線は眼前の敵を――――――
瞬間、うなじの辺りの髪が逆立ったかのような錯覚を襲われた。
狙いを付けるために向けた視線に奴の表情が見えた気がした。罠に足を踏み入れようとする獲物を見るような表情だ。
俺がつがえられた矢を放つことなく横っ飛びにかわしたのと、蟹が口腔から赤と紫の縞模様という毒々しい色彩の泡を吐いたのはほとんど同時だった。
こちらから蟹の巨躯を隠すほどの量の泡が吐き出されていて、俺の視界に入ってくるのは眼の痛くなる極彩色の壁だけだ。
しかも厄介なことにその泡は重力に引かれることなく滞空していて、透過性も最悪なそれで俺は視界を完全に奪われてしまっていた。
その極彩色の泡はお互いが接触して割れたり一つになったりせず、ビリヤードを遅くしたかのような速度で跳ね返って少しずつだが確実にその範囲は拡散している。
耳を澄ますとキシ…キシ…と蟹の脚が耳障りな音とともに動いているのがわかるが、洞窟特有の反響音と目の前の泡に阻まれ正確な場所は特定できない。
状況はかなり悪いが、もしもあのときに焦っていれば極彩色の泡に包囲されていただろう。下手をすればこの得体の知れないものが直撃していた。これが毒かなにかを含んでいたのならゲームオーバーだったはずだ。
後悔するのは後だ。今すべきなのは現状の打開と敵の撃破だ。
「さて、どうしたものかね…。泡が滞空し続けてるのを見る限りガスかなにか含んでるのかね?」
だとしたら、ますます面倒くさい。毒ガスの充満する密閉空間なんて悪夢でしかない。この体が普通の人間とは比べるべくもないのは知っているが、こんな場面でわざわざ限界を超えるつもりはない。
そんな思索にふけ続ける暇を与えてくれるほど相手は悠長に待ってはくれない。
「っと、危ないなぁもう!」
右後方から蟹が鋏を伸ばして薙ぎ払ってきた。俺はそれを風切り音を頼りに前に向かって数歩踏み出してかわす。
そのまま片足を支点にして向きを反転させ、即座に反撃の態勢を取る。
しかし、狙いを付ける前に蟹は再び泡の防壁へと身を隠していた。
▽
蟹が泡の影から奇襲をし、俺がかわし続ける。そんな攻防が幾度となく繰り返された。
俺は泡の危険性を恐れて迂闊に矢を射れず、蟹も矢を恐れて深く踏み込めずに俺にかわされていた。
そのせいで俺には油断が生まれていた。
ガツッ!
今までで一番大きな音が聞こえる。俺は全力で音源から離れるようにその場から飛び退きながら、暗蒼の矢をその方向に向かって放った。
群青の閃光と化したそれが撃ち貫いたのは、あの刺々しい甲殻の巨躯ではなかった。
それはただの“岩”だった。矢に砕かれた今は土くれと言ったほうが正しいかもしれない。
岩を消し飛ばすだけでは止まりきらなかった矢が洞窟の壁を爆砕する轟音と眼前に紅い鋏が迫っていたのが視界に入ったのはほぼ同時だった。
直後、胴体が上下に引き千切られるかのような衝撃と共に視界が極彩色に染まった。
流れていく視界のなかで蟹が逆さまになっているのが見え、その姿から奴は岩を囮にして天井から強襲してきたのだと理解した。岩は口にでも咥えたのだろう。
受身をとることもできないほどの勢いで壁に叩きつけられた衝撃で息が止まる。
そのままベシャ、とこの空洞に着いたときに見た泉に落下した。
能力のなかで最も発動のラグの少ない【呪晶】で体の前面を覆ったのが幸いした。背中から壁に叩きつけられた以外のダメージは少ない。
しかし、それだけでも致命的な傷こそないものの強烈な一撃を受けたことで体にうまく力が入らない。意地で手放さなかった弓を支えにするのが精一杯だ。
泡はただ風船のヘリウムと似たようなものだったようだ。このあとにガスの追い討ちを受けずに済みそうだ。
蟹は逆さまの状態でまだもがいている。しかし俺が継戦可能になるまで回復できるほどの時間はかからないだろう。
【呪晶】を使うということも浮かんだが、この未知の物質に頼るのは危険が高すぎる。もしも奴のような存在にとって毒ではなく薬のようなものであったら俺が逃がした者達も危ない。あれだけ大見得をきったのだからその可能性を生むわけにはいかない。
必死に頭を張り巡らせるが、この死に体では何もできない。矢を構えるのすら無理だ。
そんな状況を打開するために思考を繰り返す。しかし時間は無限ではなく有限だ。
そうこうしているうちにひっくり返っていた蟹が起き上がった。
そこそこの距離があるが、それもあの巨躯の前ではすぐに詰められる。
蟹は歩を速めることなくゆっくりと近づいてくる。それは自己の勝利を確信しているからの余裕だろうか。
そこで俺の目に泉を囲うように群生する緑が映る。先ほどまで蟹への策を考えていて、膝をついた自分の眼の高さにあるにも関わらず気付かなかった。
多肉植物のような厚みとツヤのあるそれは見たことのないそれは、俺が殴り飛ばされたときの衝撃波で少し葉が散っていた。
俺はその緑へと手を伸ばしていた。動かない手を無理矢理に動かし、必死にすら思えるような動作で手を伸ばす。
あれほど死を意識させた蟹すら視界に入らない。
数センチ、数ミリ。じっれたいほどの速度だったそれはついに緑に触れる。
――――――ガチン、歯車が完全に噛み合った音が脳裏に響き渡る