第七章 いざや歌え、終焉の回旋曲を
一.
「はあ……」
帝は深くため息を吐いた。
牛車の中にいても、外から朗々《ろうろう》と祝詞を読む声が聞こえてくる。
――耳障りだ。
ただでさえ眩暈がするというのに、気分が悪い。
せめて外に出て、新鮮な空気を吸いたい。
帝は、そろりと御簾を上げ、地面に降り立とうとした。
刹那、背後から伸ばされた手が、帝の腕を捕らえた。
振り向くと、緑色の束帯に身を包んだ少女と目が合った。
……安倍晴明である。
晴明は薄い唇に微かな笑みを浮かべ、帝を見つめていた。
「駄目ですぞ、帝。貴方は此処にいなければ」
「へいへい。分かりましたよ、お姫様」
帝は再度ため息を吐き、御簾を下げた。
師走の晦日。
帝は応天門の近くに停めてある牛車の中にいた。
年に二度ある大祓が行われる日である。
大内裏の貴族達は勿論、京に住まう人々は皆、朱雀門に集合する。
そして、祝詞を詠み、撫物を行うのだ。撫物とは、紙の人形を手で撫で、川へ流したり燃やしたりして自分の罪や穢れを被せることである。
本来なら、帝も大祓に参加しなければならぬのだが、賀茂忠行に固く止められた。
『帝からは、今、大変良くない兆しが見えております。このままでは命の危険がありまする。御命が惜しければどうか、この忠行の申すとおりに』
これでは脅迫である。帝は即座に断りたかったが、無理だった。
相手は仮にも陰陽頭と呼ばれる男。その申し出を無碍にはできなかった。
それに、先日から酷い眩暈が帝を苦しめていた。
何かの予兆かもしれない。
故に、泣く泣く忠行の言うことを聞くことにしたのだ。
「でもよ、それなら物忌みでもして清涼殿に籠もっていれば良いじゃねえか。なんで牛車の中でじっと固まってなくちゃいけねえんだよ」
顰め面で不満を口にすると、晴明がくすくすと笑みを零した。
「ふふ、案じなさるな。この牛車は結界で守られております」
「そういう問題じゃねえだろ。まあ、てめえがいるからまだましだけどな」
帝が、晴明ににじり寄る。腰に手を添えてゆるりと撫で上げると、晴明は顔を赤く染めて両手を突き出した。
「駄目です! かような所で――」
「じゃあ、何処だったら良いんだ?」
晴明の両手首を片手で掴み、弱い力で握り締める。同時に、晴明の肩がびくりと跳ねた。
「てめえは、俺と恋仲なんだろ? それなのに何で一回も触れさせてもらえねえんだよ」
「それ、は」
晴明は困惑した表情で俯いた。
ふつり、と。
激しい苛立ちが帝の胸に込み上げる。
「そうか。てめえはまだ、保憲を忘れちゃあいねえんだな」
「!」
晴明の瞳が、僅かに見開かれた。
瞬間、燻っていた疑心が確信へと変わる。
小さく息を呑む音。
掌越しに伝わる身体の震え。
赤みが増した頬。
それらは如実に示していた。
晴明の心が、未だに保憲に支配されているのだということを。
「やはり、そうか」
帝は低く呟き、晴明を押し倒した。
「一体何を……んぅっ!」
声を上げる唇に、深く口づける。
「ん……っ!」
晴明が拘束されている両手を無我夢中で動かし、抵抗する。
その行動がとても腹正しく思えて、益々《ますます》口づけを深いものへと変えた。
口内を貪るように舌先で掻き乱し、水音を鳴らす。
晴明の身体の力が抜け、暴れていた両手が力なく床に崩れ落ちた。
「っ、はあ……っ」
漸く唇を離すと、晴明は頬を紅潮させつつも帝を睨み付けた。
だが、激しい接吻によって潤んだ瞳には何の迫力も感じられない。
寧ろ、扇情的ですらあった。
――気に入らねえ。
帝は小さく舌打ちをし、空いている手を襟元の中に差し入れた。
晴明の瞳が、驚愕で大きく見開かれる。
「帝!? やめ――」
「――やめろ? よく言うぜ。保憲には簡単に股を開く癖に」
「なっ!」
晴明の頬が更に赤く染まる。
帝はすう……と目を細め、くつくつと喉を鳴らした。
「さてはてめえ、保憲に抱かれたな」
耳元に口を近づけ、低く囁く。
「……許せねえ」
何時に無く怒気を含んだ声に、晴明の顔が恐怖で歪んだ。
自分の下でがたがたと震える晴明を見下ろし、帝は唇を噛んだ。
――俺が見たかった表情は、こんなものじゃあなかったのに。
込み上げたのは胸が痛くなる程の罪悪感。
だが、それ以上に。
多大な独占欲が、帝の感情を支配していた。
「なあ、保憲はてめえの何処に触れたんだ?」
「い、言えませぬ」
「答えろよ!」
突然の怒鳴り声に驚いたのか、晴明の身体がびくりと竦む。
「くそっ!」
帝はぎりぎりと歯噛みし、首筋に唇を押し当てた。
「やめろ!」
悲痛な叫び声が、耳元で響く。それに驚き、顔を上げた瞬間。
晴明の頬を何かが伝うのが見え、思わず拘束を解いた。
……晴明が、泣いていた。
「せい、めい」
名を呼ぶ声が震える。
涙を流させてしまった。その事実が、帝の胸に大きな痛みを与えた。
「――申し訳ありませぬ」
「な、に」
突然の謝罪に、思考が停止する。
晴明は泣き顔を隠すように視線を逸らし、話を続けた。
「保憲でないと駄目なのです。手を繋ぐのも、口づけも、契りも、保憲とでないと俺は……っ!」
声を詰まらせて泣く晴明を見ているうちに、暴れ狂っていた怒りの炎が急速に静まるのを感じた。
代わりに、ある疑心が沸き起こる。
帝はそれを躊躇することなく言葉にした。
「俺と、別れてえか?」
「え」
驚く晴明を、強く抱きしめる。
背中に回した手が、小さく震えていた。
「俺は、別れたくねえ。てめえをこの手から離したくねえ!」
「帝」
「でも、てめえがいるべき場所は俺の傍じゃねえから。てめえの笑顔は保憲の傍でしか生まれねえから。だから……、仕方ねえよな」
帝は小さく微笑み、晴明を見つめた。
「別れようぜ、俺達」
「っ!」
晴明の瞳が、再び涙で潤みだす。
「ああ、もう泣くなよ!」
帝は苦笑しつつ、晴明の頬をゆるりと撫ぜた。
「……余計に放したくなくなるだろ」
「申し訳ありませぬ……っ」
「謝るなよ」
帝は晴明から身体を離し、背を向けた。
「……謝らなきゃいけねえのは俺の方だ」
御簾を上げ、空を仰ぐ。
降り注ぐ日光が、やけに眩しく感じた。
「保憲の代わりになれなくて、ごめんな」
静かに、瞼を閉じる。
晴明が小さくすすり泣く声と吹き荒れる木枯らしの音だけが、耳に響いていた。
二.
「ふむ……」
忠行は低く唸りつつ、周囲に視線を這わせた。
朱雀門を背景に、集まった貴族達が皆、声を揃えて祝詞を読み上げている。
……空気が、重い。
儀式の時には、緊張で多少空気は重くなるものだ。
しかし、この場の空気はそんなものではない。
首元に、刃を突きつけられた感覚。
妖と対峙する時に感じる気と、良く似ていた。
「うは~、何なんだよこの空気は」
右隣にいた寿朗が、小さく呟いた。顔が恐怖で青白くなっている。
「さすがじゃな、寿朗。直丁の身でかような遠くから妖のけはいを感じることが出来るとは。大したものぞ」
「妖!? ま、まさか妖が此方に向かっているのですか?」
驚く寿朗に、忠行は「左様」と頷いた。
「なんで、妖が此処へ?」
「さあて……、何故じゃろうなあ」
何も知らぬ、と言わんばかりに、忠行は寿朗から視線を逸らした。
「……保憲様もここ数日、陰陽寮にも賀茂家にも北の方の家にも姿を見せていないんだ。保憲様の失踪とこの妖達……、俺にはなんらかの関係がある気がしてならねえ」
的を射た寿朗の言葉に忠行は浅くため息を吐き、苦笑した。
「やれやれ。勘が鋭い弟子を持つと苦労するのう。周囲の者には秘密にしておこうと思っていたのじゃが」
忠行はゆるりと瞳を瞬かせ、寿朗を見つめた。
「これは全て、保憲が原因なのじゃ」
「保憲様が?」
寿朗の目が、驚愕の色に染まった。
「まあ、正確には芦屋道満に利用されたのじゃがな」
「芦屋道満殿が?」
「うむ」
忠行は大きく頷いた。
「保憲は道満に誘拐されおった。恐らくは呪を掛けられ、自らの野望の為に使われるのじゃろう」
「野望……?」
「平安京を滅ぼし、新しい国家を作ることじゃ」
「なっ! なんでそんな――」
おおおん…。
おおおん…。
寿朗の声に被さるようにして、獣の咆哮が耳を劈いた。
「な、何だ?」
寿朗が目の前にある朱雀門を見る。
釣られて、忠行も前方を見遣った。
瞬間。
数多の異形達が、朱雀門から飛び出してきた。
「あ、ああ……っ!」
「退がっておれ」
声にならない悲鳴を上げる寿朗を後ろに退がらせ、懐を探る。
取り出した札は、翡翠色の炎に包まれてめろめろと燃えていた。
「焔!」
頭上に翳し、短く呪を唱える。
轟々《ごうごう》と炎が空を駆け、大内裏を取り囲んだ。
行く道を阻まれた妖達は、ぎゃんぎゃんと悲鳴を上げながら後退した。
「すげえ……」
背後で、寿朗が感嘆の息を吐いた。
忠行はその様子を横目で見遣りつつ、首を横に振った。
「否、まだ安心は出来ぬぞ。相手はあの道満じゃからな」
「しっかし、忠行様も意外とやりますね」
「意外とはどういう意味じゃ、意外とは!」
意外という言葉に多少の怒りを覚え、眉根を寄せて言い返した。
その、直後。
「――氷華」
低い声が、耳朶を打った。
蓮の形をした氷の華が燃えている箇所に余すことなく咲き誇り、炎がみるみるうちに消えた。
「あなや!」
「うわあああぁっ!」
朱雀門を隔てるものがなくなり、妖達が奇声を上げて逃げ惑う貴族達に襲い掛かる。
その光景は、まさに地獄絵図だった。
「くそっ!」
寿朗が小さく舌打ちをしつつ、刀を抜いて走り出した。
「寿朗!」
必死に名を呼んだが、寿朗には聞こえていないらしい。
振り返りもせずに、妖達に向かって駆けて行く。
「あの、莫迦者が!」
忠行は持っていた札を寿朗に向け、呪を唱えようと大きく息を吸い込んだ。
ふわり。
漆黒の衣が視界を過ぎる。
寿朗の隣に、男が立っていた。
「道満!」
名を、叫ぶ。
すう……と鋭い瞳が細められ、残忍な笑みが浮かぶ。
漆黒の炎が指先に灯り、風を切った。
「ぐぁっ!」
寿朗の悲鳴と共に、緑色の束帯が宙を躍った。
「さあ、終焉の始まりだ。死の舞をする準備は出来たか、忠行よ」
どどう、と地面に倒れた寿朗を尻目に、道満はくつくつと肩を揺らして哂った。
此処まで読んでくださった皆様、ありがとうございます。
今回はな、なんと書き下ろしです!←
今まで書き留めておいたデータをコピーしていただけでしたので楽でしたが、今回はかなり大変でした。その為、更新に時間が掛かってしまいました。申し訳ありません。
……あと読者の方に朗報です!
なんと本作品のキャラクターデザインを手がけてくれた友人が番外編のイラストを書いてくださるそうです!
近日、作者のサイトで公開予定です。興味のある方は是非!
それでは、また次回も読んでいただけると幸いです。