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第六章 その微笑を挽歌という名の慟哭に乗せて

 

一.



 筆が、ばきりと音を立てて真っ二つに折れた。

 保憲やすのり無残むざんな姿になったそれを忌々《いまいま》しげに見つめ、後ろに投げ捨てた。

 筆は綺麗きれいな弧を描いて、床に着地した。

 周りには同様に折れた筆が何本も転がっている。

 その一つを、白い手が拾い上げた。

「保憲殿、気を確かに。此処ここは奥方の屋敷なのですぞ」

 白い狩衣かりぎぬに身を包んだ男が、何時になく厳しい口調で保憲をいさめた。

 男は勇ましい風貌ふうぼうではあるが、消えそうな程にはかなげな雰囲気ふんいきかもしだしている。

 白い肌。赤い唇。ていねい丁寧な物腰ものごし

 なんとなく、朱雀帝すざくてい連想れんそうさせた。

椿樹つばきしきの癖に、大層な口をき利くな」

 保憲は低く言い返した。

「は、申し訳ありませぬ」

 椿樹は片膝かたひざき、頭を下げた。

 だが、その目はきつく保憲をにらんでいる。

「しかし、新妻にいづまの家なのですから、もう少しほがらかにしないと――」

「貴方、一体誰と話してらっしゃるの?」

 椿樹の言葉をさえぎるように、高い女の声が、障子しょうじ越しに聞こえた。

「椿樹」

 保憲が名を呼ぶと、椿樹は頷き、すう……と溶けるようにして消えた。

 やがて、障子が静かに開き、一人の女が姿を現した。

 豊かな黒い髪。ふんわりと丸みのある顔。かわいらしい笑窪えくぼ

 見た目は悪くないが、まだ咲かぬ花のつぼみのような幼さがある。

 保憲は、そんな彼女の姿を見るなり、眉をひそめた。

 ――何かがおかしい。

 そう、心の中で呟いた。

 姿貌すがたかたちは妻そのものだ。

 だが、何処どこか違うのだ。化けの皮を被っているだけだという感じがするのだ。

 何より、本能が告げていた。

 この女は、危険だと。

「貴方、どうしたの? 怖い顔をして。何か良くないことでもあった?」

 妻が、保憲を心配そうに覗き込んだ。

いな――」

 なんでもない。

 そう言いかけた言葉を飲み込んだ。

 妻が、にんまりと笑みを浮かべたのだ。

 左右に大きく上がった唇には、ぷつぷつと小さな赤い切れ込みが出来た。

 そこから、わずかに血が伝う。背筋が凍るような、恐ろしい形相ぎょうそうであった。

「それとも、私の正体に気づいたか」

 妻の口から出たのは、しわがれた男の声であった。

「我が妻を何処へやった」

「ふふん。心配せずとも、手荒な真似はしておらぬ。ただ、人目のつかぬ所で眠ってもらっているだけだ」

「場所を教えろ」

「それはできないな。お前さんはこれから誰にも目撃されるわけにはいかんのだ」

「……そうか」

 保憲は、刀を抜いた。

「ならば貴様を捕らえ、居場所を聞き出すまでだ」

 やいばあわ翡翠ひすい色の光に包まれた。

「ふん。お前さんが、か?」

 妻の目が、じろりと保憲を睨む。


 ……どくん。


 同時に、心臓が跳ねた。

 目の前が暗闇に包まれる。

 瞬間。

 身体が、粉々に散った。

 首がごとりと音を立てて床に落ちる。

 血が、雨のごとく降り注いだ。



「はあっ、はあっ、はあ……っ!」

 意識を取り戻した保憲は、うずくまるようにして倒れこんだ。

 ――今のは、殺気か? 

 全身からきだした汗が、狩衣かりぎぬらした。

 ――何ということだ。視線を合わせただけで、死を連想してしまうとは。

「貴様、何者だ」

 強い眼差まなざしで、見上げる。

 視線の先に妻はいない。代わりに、一人の男がいた。

 法師ほうしだろうか。坊主頭に黒衣こくいといった格好をしている。瞳は猫のように大きく、口元は常に笑みを絶やすことがない。端麗たんれいな顔立ちをしている男であった。

 だが、顔の左半分が火傷の跡で覆われている。それが男の不気味さを、一層際立きわだたせていた。

「まあまあ、少し落ち着きなされ。私はお前さんと戦うつもりで此処に来た訳じゃあない」

 男は保憲の前にかがみこんだ。

 その手には人の形をした紙が握られていた。

 ……式神であった。

 恐らく、先程妻に化けた者の正体だろう。

 ――此奴こやつ陰陽道おんみょうどうの心得があるのか。

 保憲は、眉根を僅かに寄せた。

 数いる陰陽寮に勤める者の中でも、保憲を屈服くっぷくさせることができる者はそうはいない。

 ――この男、只者ただものではなさそうだ。

 保憲は深くため息を吐き、男を見据みすえた。

「では、何用だ」

 男は苦笑いを浮かべた。

「まあ、そうかすな。まずは自己紹介をせねばならん」

 男はごほんと咳払いをすると、保憲を見つめた。

 口元には、あるかなしかの笑み。

 保憲は背中に言い知れぬ悪寒を感じた。

「私の名は芦屋道満あしやどうまん。お前さんと同じ、じゅを操る者だ」

 ――何……!

 保憲は小さく息をんだ。

 芦屋道満のことなら、幾度いくどか聞いたことがある。

 だが、実際会うのは初めてであった。

「貴様が、あの……」

「そうだ。会うのは初めてだったな」

 道満は保憲のあごつかみ、引き寄せた。

「くく。こうしていると忠行ただゆきの若かりし頃を見ているようだ。血は争えぬということか」

 顎からほおへと、指先が移動する。

 抵抗したかったが、殺気にてられたのか身体が動かせない。

「ちっ」

 小さく舌打ちをし、道満をめる。

 道満の目が、すうっと細められた。

「……否、それ以上に」

 吐息が掛かる程に、道満の顔が近づいてゆく。

たまらなく、そそられるな」

「!」

 耳元で響く低い声に、全身が戦慄せんりつした。

「ぐっ!」

 歯をぎりりと噛み締め、瞠目どうもくする。

 道満の手が、頬から唇へと移動した。

 ゆるゆると愛撫あいぶするかのようにぜられ、悪寒が身体をけた。

「お前さんのようなやからは、壊したくなるから困るよ。……何もわからなくなるくらいに」

 声に、つややかな色がにじむ。空いた手で髪紐かみひもかれ、黄金の糸がはらりと背中に広がった。

「……っ!」

 思わず、目をつむる。

 直後、耳障みみざわりな笑い声が辺りに響いた。

「冗談だ、保憲。確かにお前さんは私好みだが、青二才あおにさいに手を出す程不自由はしておらぬよ」

 ようやく身体が解放され、保憲は安堵あんどの息をいた。

「だがもう少し大人になったら、相手をしてやっても良いぞ」

「――断る」

 青ざめて即答した保憲に、道満は苦笑した。

随分ずいぶんとつれないな。男同士というのがいかんのか? この御時世ごじせい、かようなことは当たり前であろう。あの万葉集まんようしゅうにも男同士の色事いろごとの和歌が載っておるのだぞ」

「……そういう問題ではない」

 じろりと、鋭いまなこで見上げる。

 道満は「冗談だ」と再度苦笑をらした。

「――それで、話というのは」

 髪紐を結び直しつつ、保憲がたずねる。

 道満の笑みが、深いものへと変わった。

「うむ。実は風の噂で聞いたのだが、お前さんの兄弟弟子・安倍晴明あべのせいめいみかどねんごろになっているとか」

 道満は更に続けた。

「私は偶然、式神で二人の逢瀬おうせを見てしまったのだ。実に楽しそうであったよ」

 そこで一旦言葉を切り、手を保憲の額に当てた。

「ふふ……。お前さん、随分と身勝手な感情を晴明に抱いているようだな」

「何が言いたい」

「想い人の幸せすらも、願えぬというのか」

「……貴様に何が分かる」

 保憲は道満の手を振り払おうとした。

 が、動けない。

 見ると、道満の腕のあたりからあわい光が放たれていた。

 ――呪を掛けたのか。

 保憲は道満を睨めつけた。

 道満はにやりと笑い、口を開いた。

「ああ、わかるとも。お前さんは晴明を帝に渡したくないと思っている。晴明と離れるために婚約したのにも関わらず、だ」

「……違う」

「何が違うというのだ。その証拠にお前さんは晴明のことでこんなにも苦しんでいるではないか」

 道満の目が、床に散らばる筆の残骸ざんがいに向けられた。

「そんな身勝手なお前さんと帝、どちらの方が晴明を幸せにできるだろうな?」

「やめろ……っ」

 保憲は力なく呟いた。その顔は苦悶くもんに満ちている。

「確かに、帝と晴明は身分の違いがあるし、帝には女御にょうごがおる。その恋の障害は大きいだろうよ」

 道満が静かに言う。

「――だが、果たして人の恋に身分差なぞ関係あるだろうか。……答えは否。その証拠にほら、見てみるが良い」

 刹那せつな、道満の手がより強く光り始めた。

 脳内に、あふれるように次々とある光景が浮かぶ。

 初めに見えたのは、花弁が散ってしまった桜の木。

 それを、御簾みす越しに晴明が見上げていた。何やら言っているようだが保憲には聞こえない。

 つう、と視線を横にわせると、銀色の髪を持つ男が目に入った。

 帝であった。

 彼らは幾度か言葉を交わした後、固く抱き合った。

 どうやら、晴明は泣いているらしく、小刻みに震えていた。

 帝は、そんな彼女を愛おしげに抱きしめている。

 やがて、そのまま――。

「やめろ!」

 耳に響いた叫び。

 意外にも、自分の口から出たものであった。

 同時に、道満の手から光が消え、動かなかった体に自由が戻った。

 保憲は素早く立ち上がり、道満から逃れようとでもするようにじりじりと後退あとずさった。

 胸元に手を当てると、心臓が波打っているのが分かった。

 帝に対する嫉妬しっとと、類希たぐいまれなる強い殺意が、心臓を暴れさせているのである。

 保憲は呆然ぼうぜんとした。

 まさか自分がこんなにも醜い感情を抱くとは。

 道満は更に追い打ちを掛けるかの如く、言う。

「見たろう、今の光景を。晴明は帝にかれているのだ――お前ではない」

 突如とつじょ、胸を締め付けられるような痛みが保憲を襲った。

「う……あ、あぁ……っ!」

 保憲は、あまりの苦しさに床に倒れ、胸をきむしり、のたうち回った。

 恐らく、道満の呪詛じゅそであろう。

 心ではそう分かっていても、身体が痛みでついていかない。

 かすれゆく景色の中で、保憲は手を虚空こくうへと伸ばした。

 瞳には、遠くへ駆けてゆく晴明の姿が映っていた。

「せい……め……い」

 唇が、言葉を紡ぐ。

 その声は幻の晴明にすら、届くことはなかった。



二.



「せい……め……い」

 伸ばされた手が、床に落ちる。

 同時に、すう……と保憲の瞼が閉じられた。

「つい遂に、落ちたか」

 道満はぽつりと呟き、笑みを浮かべた。

「人の心を壊すことなぞ、容易たやすいものよ」

 手を伸ばし、保憲の襟元を広げる。

 胸元に深く刻まれた呪印が目に入った。それは、彼岸花ひがんばな形状けいじょうをしていた。

「保憲よ。お前さんはどんな風に咲き乱れてくれるのだろうなあ……」

 呪印をなぞる様に、胸元に触れる。

「う……」

 瞬間、低い呻き声が聞こえた。

 見ると、保憲の全身から何やら細い管のようなものが浮き出ている。身体の中を何かが這いずり回っているらしく、皮膚がぼこぼこと音を立てていた。

「う、ぐう……っ」

 保憲は額から汗をしとどに流し、苦痛に顔をゆがませている。余程苦しいのだろう、目尻にうっすらと涙が浮かんでいた。

「……もう始まったか」

 道満は目を細め、くつくつと喉を鳴らした。

「こ奴の抱えている心の闇がこれ程までに深いとは。今まで大層辛かったろうに」

 濡れて額に張り付いた前髪を、指先で掻き上げる。すると、保憲の表情がいくらか和らいだ。

「ふふん」

 道満は更に笑みを深いものへと変え、保憲の耳元に唇を寄せた。

「本当の苦しみはこれからだぞ、保憲。恋慕れんぼする相手と結ばれない苦しみに足掻あがくお前さんの甘美かんびなる悲鳴を、たっぷりと私に聞かせてくれ……」

「――残念ながら、それは出来ませぬな」

 背後から聞こえた低い声。

 おぞましい、と感じる程に殺意を含んだそれは、冷気で張り詰めた空気の中に、波紋はもんごとく広がった。

「……椿樹か」

 名を呼んだ瞬間、首元に短刀が突きつけられた。

「お久し振りです。道満殿」

 そう呟く椿樹の声音は、先程と変わらず穏やかでない。にも関わらず、道満は顔色一つ変えずに言った。

「こうして顔を合わせるのは二十年ぶりだったか? ゆっくりと昔話でもしたいところだが、それは無理そうだな」

「そうですな。なれど貴方がおとなしく保憲殿を返してくだされば、是非ぜひ今宵こよいの月をさかなに酒でも飲み交わしましょう」

 道満は、皮肉混じりの笑みを浮かべて指で酒を飲む仕草をする椿樹を、じろりと横目で一瞥いちべつした。

「もし、返さぬと言ったら?」

「力ずくで奪い返しますよ」

「それは残念だ。かようなことをされたら私がお前さんを殺さねばならなくなるではないか」

 道満の言葉と共に、部屋中の空気が大きく揺れる。

 ……殺気であった。

「なっ……!」

 あまりに巨大で重々しいそれに圧倒されたのか、椿樹の目が驚愕で見開かれる。

 咄嗟に後退って刀を抜き、身体中を震わせながら攻撃に備える姿は非常に滑稽こっけいなものに見えた。

 抜刀ばっとうし、切っ先を椿樹に向ける。

「安心しろ。苦しまぬよう、直ぐに終わらせてやる」

「……否!」

 青い瞳が鋭い光を放ち、此方こちらを睨み付けた。

生憎あいにく、私は一旦やると決めたことは途中で投げ出さぬ主義なのです」

「何」

「これでも結構頑固者なのでね。其処で眠っている何処かの誰かさんに似てな!」

 飛び掛ってきた椿樹の刀が大きく振り上げられた。 

 赤い飛沫しぶきが、保憲の頬に飛び散る。

 頬を流れるそれは、血の涙のようであった。

 


三.



「ふう」

 忠行は、書物を読む手を止めた。

 辺りを見渡すと、部屋が暗い。

 どうやら、夜になってしまったようだ。

 ――歳を取ると、仕事も楽じゃないのう。

 若い頃は稀代きだいの陰陽師として有名だった彼も、老いには勝てぬ。

 忠行は深くため息をつき身体を伸ばした。

 しばらくぼんやりと虚空を見つめていたが、やがて横に視線を這わし、すうっと目を細めた。

「――今宵も行かなかったのか、ひずみ

「当たり前や」

 壁にもたれかかった歪がため息混じりに言った。

「やっすんも、やっすんの嫁はんも、皆嫌いや」

 何時になくねたような口調に、忠行は苦笑した。

「じゃが、御主おぬしは保憲の式じゃろう。式神しきがみたる者、常にあるじの傍に身を置いておかねば」

「……せやけど、わてはやっすんが気に喰わんねや。姫さんを泣かせおって。わては絶対にやっすんを許さへん!」

「ふん、困った式じゃ。……では保憲の式を辞めて、わしの式になるか」

「……え?」

 歪が驚いた顔で忠行を見た。

「道満の襲撃に備えて、じゃ。保憲にもしものことがあった時、御主等が使い物にならなくなって戦力が減ったら困るからのう」

「ええで」

 あっさりと頷いた歪に、忠行は目を丸くした。

 半分冗談で言ったことだったのだ。忠誠心の強い式神が、そうも簡単に主人を変えるとは到底とうてい思えなかった。

「ただし、二重契約や。幾らやっすんには椿樹がおるからゆ言うても、式が椿樹一人じゃあさすがに心配やからな」

「ああ」

 忠行は頷いた。

 ……二重契約。

 文字通り、二人の主に一人の式神が契約を結ぶということだ。無論、式神にかなりの負担が掛かる。

 だが、歪は仮にも陰陽助である保憲の式神だ。式神の力は主の力に比例する。ゆえに――。

 ――此奴なら大丈夫であろう。

 そう、思えた。

「ほな、いくで」

 歪の真剣な顔が、段々と近づいてくる。忠行はゆっくりと目を閉じた。

 微かな痛みが、首筋にはしる。

 刹那、瞼の裏であおい光が弾けた。

「……契約完了やな」

 歪の声が、耳朶じだを打つ。

 瞼を開くと、やわらかな笑みを浮かべた歪の顔が近くに合った。

 片手でか掻き上げられた彼の額には、二つの文字が刻まれている。

“保”と“忠”。

 主人の頭文字であった。

 血のごと如く赤い保憲の名に寄り添うようにして光る忠行の名。

 ……契約の刻印しるしであった。

「これでわても、晴れておっちゃんの式や」

 歪は片膝を突き、こうべれた。

「どうぞ、よろしゅうな」

せ、堅苦かたくるしい」

 忠行は血が滴る首筋を押さえつつ、再度苦笑した。

 その、直後。


ごとり。


 背後から、にぶい音が聞こえた。

「つ、椿樹!」

 同時に、歪の悲鳴が上がる。

 即座そくざに振り返った忠行の目に映ったのは、血塗まみれで床に倒れた椿樹の姿だった。

「大丈夫か!」

 忠行は急いで駆け寄り、椿樹の身体を抱き起こした。

 ぬるりとした感触が手を覆う。大量の血が、椿樹の身体から流れていた。

「おぬし御主、この傷はどうしたのだ」

「芦屋……道満にやられ……ました」

「何」

 忠行は大きく息を呑んだ。

 椿樹は息も絶え絶えに言葉を続けた。

「保憲殿が……芦屋道満に……連れ去られたのです。私は……この命をかけて、止め……ようとしたのですが……、できま……せんでした」

 忠行の手を取り、両手で包むように握りし締めた。式神だからか、傷の所為せいなのか、忠行には椿樹のてのひらがとても冷たく思えた。

「忠行殿……、どうか……保憲殿を……助けて……ください。あの者は……、芦屋道満は……、保憲殿を利用して……平安京へいあんきょうを、乗っ取ろうとしております」

「……そうか」

 脳裏に、道満の顔が浮かぶ。

 ――儂が駄目なら保憲を、という訳か。

 忠行は椿樹の手を強く握り締めた。

 椿樹も、弱々しいが握り返した。

「忠行殿……、何卒なにとぞ……何卒保憲様を……」

 忠行は微笑み、言った。

「ああ。御主の望み通り、保憲は必ず助け出す。大事な息子を見捨てる訳なかろう」

 椿樹は僅かに目を見開き、そして微笑んだ。

「ありがとう……ござい……、ます」 

 椿樹の手が忠行から離れ、歪の方へと移動する。

「……歪」

 椿樹が名を呼ぶと、歪の肩がびくりと跳ねた。

「何や」

 歪の手が、伸ばされた椿樹のそれを固く握り締める。その手は、震えていた。

「保憲殿……の……こと、頼み、ましたよ。貴方は……、莫迦ばかで……すから、な。何を、仕出しでかすか、分かった……ものじゃ、ない」

「――さっきから何やねん。まるで自分が死ぬみたいな言い方やんか」

 椿樹の言葉をさえぎって、歪が言った。口元には、微かに笑みが浮かんでいる。

「……歪」

 小さく呟く椿樹の顔が、悲しみで歪んだ。

「わてらは、やっすんの式やねんぞ。あの“天才”とうたわれる賀茂かもの保憲の式神やねんぞ! その自分が、こんな傷で死ぬ訳ないやろ! あんまり阿呆あほうぬかしとると、いてこますぞ!」

 歪の声が、悲鳴に近い金切り声に変わる。つう、と彼の瞳から一筋、涙が伝い落ちた。

「心配せんでも自分は死なへん! 一緒にあの生臭坊主なまぐさぼうずからやっすんを連れ戻すんや! せやから、そないな遺言ゆいごんみたいなこと言うなや……、そないな悲しいこと言うなや……阿呆……っ」

 そこで歪は言葉を切り、椿樹の身体に突っ伏した。押し殺した泣き声が、部屋中に響く。

「――歪」

 椿樹の柔らかな声が、耳に届く。

 俯き、涙をこらえていた忠行は、はっと視線を元に戻した。

 椿樹の震える手が、歪の頭をぜている。

 歪は弾けるように顔を上げ、椿樹を見た。

「つば、き……?」

「泣かないで、ください」

「……え?」

 椿樹の口元に、笑みが浮かぶ。

「貴方は、元気だけが……取り柄です……からな。その貴方が……泣いて、しまったら、私はどうす……れば、良いのです? 笑って、ください。最期くらい、大好きな……貴方の笑顔を、見せてください」

 呆然としていた歪の顔に、笑顔が戻ってゆく。

 忠行が今まで見てきた中で、最も美しく、最も悲しい笑顔であった。

「阿呆……、自分の為ならなんぼでも笑ったるわ」

 歪の細められた目尻から、涙がこぼれ落ちる。

 同時に、歪の手から椿樹のそれがするりとすべり落ちた。

「椿樹!」

 歪が名を叫び、手を伸ばす。だがその指先はむなしく空を切り、何も掴むことが出来なかった。

 椿樹の姿は跡形もなく消え、代わりに一枚の椿の花弁が落ちていた。

「……椿樹」

 歪はそれを拾い上げ、目をせた。

「何やねん、あいつは。普段は大好きやなんて口が裂けても言わへんかったくせに。こないな時だけ……、反則やろ」

 明るかった声が、段々と震えてゆく。

「わてかて……、椿樹のことが好きやったわ! 気恥ずかしくてよう言わへんかったけど、ずっと……ずっとずっと好きやったんや! わてにも言わせてくれても良かったやんか……! 一方的に言っといてさようならやなんて、そんなの卑怯や……っ!」

「――歪」 

 肩を震わせてむせび泣く歪の肩に、静かに手を置く。

「泣いておる場合ではないぞ」

「おっちゃん……」

 歪の漆黒しっこくの目が、忠行を見上げた。

「椿樹は、保憲の為に戦って死んだのじゃ。式神としての役目をまっとうした、素晴らしい最期であった。その意志を、無駄にしてはいかぬぞ」

 御簾を上げ、空を見上げる。紅い満月が、煌々《こうこう》と光を放っていた。

みなで共に、戦おうぞ」

 忠行の双眸そうぼうに、翡翠ひすい色の光がともる。

 ぎりりと奥歯を噛み、こぶしを握り締めた。



四.

 


 同じ頃。

 晴明は簾子縁すのこえんに座り、夜空に浮かぶ月を眺めていた。

 その血の如く赤い月は、異質で、何処か不気味であった。

「何を見ている?」

 ふと、耳元で響く低い声。

 思わず、肩がびくりと跳ねた。

「――っ!」

 声にならぬ悲鳴を上げた晴明を、元凶である朱雀帝はくすくすと笑った。

「そんなに驚かなくても良いじゃねえか。まるで人をあやかしみたいに」

 晴明は振り向き、帝をじと目で見つめた。

「誰でも驚くに決まっています。背後から突然、至近しきん距離で声を掛けられたのですから」

「ふん、それもそうだな」

 帝は微笑み、晴明を抱きしめた。

「あ~、落ち着く」

 すりすりと晴明にほうずりをする姿は、まるで猫のようだ。

「み、帝」

 晴明は慌てて胸板を押し、離れようとする。

 が、それに比例して、帝の晴明を抱きしめる力もまた、強くなってゆくのであった。

 ――いたしかた方ない。

 晴明は抵抗をあきら諦め、胸から手を離した。

 帝は、大人びて見えて子供っぽいところがある。

 幼き時から帝となった所為で、母親とあまり一緒でなかったのだろうか。時折、異常に甘えてくるのだ。

 晴明はふわりと笑みをこぼし、頭を優しく撫ぜた。

「帝」

「ん~?」

 帝は、心此処にあらずといったように、間延まのびした返事をした。

 晴明は苦笑しつつ、続ける。

「今宵は、内裏だいりに居なくても良いのですか。地方での反乱が相次いで大変だと、お聞きしていますが」

「……どうせ俺がいなくても、忠平ただひらが何とかしてくれるだろ」

 晴明の頭に、柔和にゅうわな顔つきをした男の顔が浮かんだ。

 藤原ふじわらの忠平。

 摂政せっしょう関白かんぱくとして働いている、影の権力者である。

 彼は、晴明の名づけ親であった。

 幼い帝の病気を治した御礼にと、「晴明」の名を与えたのだ。

「帝の言う言葉ではありませんな。今頃忠平殿も、苦労しておいででしょうに」

 晴明は呆れてため息を吐いた。

「ふ、まあな」

 帝は自嘲的な微笑みを浮かべた。

「どうせ、俺は必要とされていねえよ」

いな、そのようなことは――」

「そうだろ」

 帝は、晴明から身体を離し、隣に腰かけた。

「俺は生まれた頃からこんな妖異よういのような姿で、人に恐れられていた。父上や、兄弟にすらもだ。人前に出すのは恥ずかしいと、ずっと御簾と几帳きちょうで覆われた薄暗い部屋に隔離かくりされていた」

 晴明は、帝のいた部屋の光景を思い出した。

 身分故、数える程しか訪れたことがない。

 そのいずれも、部屋に日の光が差してはいなかった。

即位そくいしてからも、度重なる天災や異常現象は全て俺の所為だと、皆が陰でささやいていた。もちろん、今もな」

「しかし、母宮はあんなにも帝のことを大切に思われていたではないですか」

 八年前、帝が病をわずらったとき、母・藤原穏子おんしは随分やつれていた。必ず治せと、保憲に泣きついたりもしていた。

「俺も初めはそう思っていたよ。母上だけは俺を愛してくれている、とな」

「初めは?」

「ああ」

 帝は重々しく頷く。

「あれは、俺が十二歳になった時だった。母上は……俺と、無理やりちぎりを結んだ」

「……え」

 晴明は大きく息を呑んだ。

「その時、何と母上は言ったと思う?」

「何と、言ったのです」

「お前がいなければ……私は幸せに暮らせたのに、世間から後ろ指を刺されずにすんだのに、と。だからこれはいましめだと、そう言っていた。母上も、精神的に追いつめられていたのだろうな」

 晴明は何も言えなくなり、俯いてしまった。

 晴明も、幼い頃から狐の子だと、み嫌われていた。

 だが、どのような仕打ちを受けても耐え切れた。

 優しき父が、頼れる師が、仲間が、大切な想い人が、いたからだ。

 帝の場合は違う。

 母親にすらも愛してもらえなかった。

 ずっと、一人で生きて来たのだ。

「でも、今はてめえがいる」

「……え」

 帝の言葉に、晴明は顔を上げた。

 瞬間、帝に抱きしめられた。

 彼の身体は、小刻みに震えていた。

「てめえと出会ってから、俺は救われた。寂しいという感情を、忘れられた」

「帝……」

「だから、不安だ。目を離したすき隙に、どこかに行ってしまいそうで」

 帝は身体を離し、晴明を見つめた。

「お願いだ。俺を置いて、何処にも行くな」

「……はい」

 晴明は、頷いた。

 目の前で震える自分より大きな身体。

 その男を、愛しく感じた。それは、母性であった。

 保憲に抱く感情とは違うもの。何時に無く女性的なそれに、晴明は僅かに戸惑った。だが……。

 ――この方を、このまま放っておけぬ。

 そう、思った。




 此処まで読んでくださった皆様、本当に有難うございます。

 歪と椿樹のシーン……、書いててとても悲しくなりました。気に入っていたキャラクターでしたので……。

 



物語もようやく終盤を迎えつつあります。 


とうとう動き出した道満。平安京と保憲の運命やいかに。

 

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