第五章 赦されぬ久遠と永別を捧げようか、愛しいお前に
一.
夜。
綺麗に磨かれた簾子縁を、晴明は歩いていた。
白い直衣が木枯らしで靡く。下襲から後ろに引かれた裾が、長く床を這っていた。
此処は大内裏である。
普通、直衣での参内は一部の貴族にしか許されない。
だが、帝から許可を得ている晴明は特別であった。
月は師走。
年末の準備に追われ、宮中は何時にも増して騒がしい。
それは、陰陽寮も例外ではない。
宮中の陰陽師たちは、大祓の準備に余念がなかった。
大祓とは、一年間の罪や穢れを祓う行事である。
何かにつけて陰陽道の力に頼る貴族達にとっては、無くてはならないものであった。
「ふあ……」
晴明は大きな欠伸を漏らした。
彼女はここ最近、陰陽寮に磔状態であった。
その為、寝る時間を少ししか取れていなかったのだ。
貴族達は、平素から陰陽道に縋り付いて生活をしている。陰陽師の助けも求めている者は、五万といるのだ。陰陽寮の陰陽師だけでは足りぬくらいに。
それ故、少しくらいむちゃをせねば貴族達の安泰は守られぬのだ。しかし、安泰とはいってもその大半は不安に満ちた貴族の貧弱な精神なのだが。
――俺もがんばらねば。
晴明はきりりと顔を引き締めた。
その時、緑の衣冠に身を包んだ二人の若い男とすれ違った。
彼らは、陰陽師であった。
晴明は足を止め、軽く会釈をした。
だが、陰陽師らは会釈を返さず、じろじろと晴明を見つめた。
「……何か?」
晴明は居た堪れなくなって訊ねた。
奇妙な生まれ育ちや妖しい噂の為、好奇の視線に晒されるのには慣れている。
しかし、こう無遠慮に見つめられるとさすがに気分が悪い。
「いや、そなたがあまりにも美しいからな。思わず見惚れてしもうたのだ」
「さすが、帝がご寵愛さなっているだけある」
彼らはにこやかにそう返した。
「どういう意味です。私が帝と何か関係があるとでも?」
晴明は問うた。
その口元には笑みが浮かんでいる。
だが、目は笑っていない。
「おや、ご存知ないか? 今、宮中でも噂になっておるよ。陰陽寮の安倍晴明と、朱雀帝が恋仲だと」
一人の陰陽師が答える。その視線は晴明を試すかのように射抜いていた。
「私と帝は只の友人です」
晴明が平然と答える。
顔は笑っているが、その口調には有無を言わさぬ強さがあった。
「ほう、ではお前は噂を否定するのか」
「では、貴様の着ている直衣は何なのだ。参内の時は正装である束帯か衣冠と決まっておるだろう。まさかそんなことも知らずに宮仕えしておるのではあるまい」
それでも、陰陽師達は退かない。
高が十八の若造に熨されたらたまらぬとでも思ったのだろうか。
――しつこい奴らだ。
晴明は浅くため息を吐き、再び歩き始めた。
これ以上彼らの相手をしているのは無駄だと判断したのだ。
「どこへ行く」
「まだ話は終わってはおらぬ」
背後から聞こえた声に、晴明は足を止めた。
じろりと、流し目で二人の陰陽師を睨む。晴明は苛ついていた。
――只でさえ、忙しい時期なのだ。これ以上無駄な時間を過ごす訳にはいかないというのに。
「これ以上何を言いますか。大体帝と私が恋仲など、そのような事がある筈がないでしょう。そのような嘘か誠か分かりきった戯言を話し合う暇があれば、年末の準備をなさったらどうです」
「何」
「よくもそんな大層な口を」
さすがに陰陽師達も顔色を変えた。
だが、晴明は涼しい顔で止めの言葉を放った。
「では、私は貴方達と違って忙しいのでこれにて失礼します。どうかまた下らぬ噂に惑わされぬ様、お気をつけて」
「き、貴様!」
「おのれ! 半妖の分際で!」
陰陽師達の怒りは頂点に達した。
彼らは、背を向けた晴明の襟首を掴み、そのまま壁に押し付けた。
その反動で、冠が乱れる。
漆黒の艶やかな髪が、空に舞った。
「ほう、こうして見たら本当に女子の様だな」
晴明の襟首を掴んでいた陰陽師が、その手を頭へと持ち変え、ゆさゆさと乱暴に揺り動かした。
壁で額の部分が擦れ、僅かな痛みが奔る。
「う……」
唇から、呻き声が漏れた。
「では我等で確かめてみぬか? この小僧は数多の男を手篭めにしていると聞く。もしかすると本当に女子かも知れぬ」
「ふん、それもそうだ。どちらにせよ、奴にとって良い戒めになるであろうよ」
下劣な男達の会話を聞き、晴明は目を見開いた。
「貴様ら、何をする気だ」
「決まっておるだろう」
「生意気な部下への、ちょっとした仕置きだ」
平然とした様子で陰陽師達は言った。
壁に額を押し付けられている晴明からは、彼らの顔は見えない。
恐らく、下卑た笑いを浮かべているのだろう。
――この下衆どもめ!
晴明はぎりぎりと歯噛みした。
刹那、右手に蒼い光が灯る。
晴明は口を開き、小さく呪を唱え始めた。
しかし――。
「やめよ」
「ぐっ!」
鳩尾に強い痛みが奔る。
思わず、呪を唱える口が止まった。
その隙に男達が晴明の身体の向きを反転させ、頭を掴んでいた手を離す。
同時に、頭上に両手を固定された。両足が力なく宙に浮かぶ。
「ふん。陰陽師である我らに呪で歯向かうとは、良い度胸をしておる」
「うぁっ……!」
手首を強い腕力で締め付けられた。
手に持っていた檜扇が、かたんと音を立てて床に落ちる。
「はあ、はあ、はあ……」
痛みに息を荒くしながらも、晴明は強いまなざしで男達を睨めつけた。
「なんだ、その目は」
「生意気な小僧だ。これは、少し格の差という奴を教えてやらねばならんな」
にたぁ、と陰陽師達が笑った。
その、瞬間。
刀で切り裂かれたかのように、晴明の衣服が破れた。
「――!」
何をする、そう言おうとした。
だが、出来なかった。
口が動かないのだ。
それどころか、身体中が動かない。
――呪を掛けられたか。
抵抗しようにも、呪すらも唱えられそうにない。
諦めるしか道は無い様に思えた。
ある情景が、頭に浮かぶ。
八年前の、桜が咲いていたあの頃。幼い体とは不釣合いな程、鋭い瞳を持った少年と出会った。
『貴様なぞ、賀茂には必要ない』
そう言いつつも、彼は晴明を助けてくれた。
だが、その少年も今はいない。
僅かに、寂しさを感じた。
――何を、考えているのだ俺は。
晴明は、そっと目を伏せた。
拒絶したのは自分だ。助けてくれるわけがない。
「ほう。このような時に考え事とは、余裕だな」
つう、と何かが首筋をなぞる。
指であった。
ぞくぞくと、身体中に悪寒が奔る。
――これ以上、奴らの好きにさせる訳にはいかぬ。
晴明はどうにか身体を動かそうと、腕に力を入れた。
だが、やはり動かない。
次第に、気が募る。
苛立ちで心臓がどくどくと暴れた。
「では、始めようか」
「そうだな」
陰陽師達の掛け合いを合図に手首が解放され、身体が床に崩れ落ちた。
――保憲。
名を、呟く。
晴明はゆっくりと瞼を閉じた。
最早、目の筋肉すらもまともに動かせない。
意識を手放す直前、声が聞こえた。
「晴明!」
心の奥底で求めていた、あの声が。
二.
「何があったのだ」
保憲は、小さく呟いた。
彼を囲むようにして、陰陽師が二人、倒れている。
両者共、顔が大きく腫れあがっていた。
一方、腕に抱えている晴明の直衣は、無残にも切り裂かれている。
「晴明に何をしたのだ、此奴らは!」
保憲は、拳を壁に叩きつけた。
ぱらぱらと、木屑が床に落ちる。
強く握り締めた拳か《きくず》ら一筋、血が伝った。
――つい、先程のことである。
保憲は偶然にも此処を通りかかった。
目に飛び込んできたのは、男達に襲われている晴明の姿。
『晴明!』
思わず、叫んでいた。同時に激しい怒りが保憲を包んだ。
『ひぃ!』
『保憲様……!』
男達は保憲に気づくと、冷や汗を滝のように流して言い訳を始めた。保憲はそんな彼らを問答無用と言わんばかりに蛸殴りにしたのだった。
――私が付いていればこのような事にはならずに済んだのに。
もう一度、拳を叩きつける。
抉れた壁に、拳が深くめり込んだ。木片が皮膚に刺さり、鈍く痛んだ。
「随分と、お怒りの様だな」
背後から聞こえた、声。
振り返ると、赤い瞳と目が合った。
「……帝」
保憲はすぐさま床に跪いた。
「良い、顔を上げろ」
「はっ」
保憲は鋭く返事をし、面を上げた。
帝は、冠に白い御引直衣という格好をしていた。
御引直衣――帝が着る特別な直衣である。
いつもは下ろされている銀の髪は結われ、冠の中に収まっている。
広がった直衣の間から覗いている紅の袴が、赤い瞳に良く似合っていた。
……以前から聞きたいことがあった。
単なる噂で、保憲にとっては信じたくないことなのだが。
だが、直接本人から否定して欲しかった。
安心、したかった。
保憲は緊張で乾いた唇を舐め、息を吸った。
「帝、少しお聞きしたいのですが」
「何だ?」
保憲は僅かに躊躇いつつ、口を開いた。
「……晴明と恋仲だという噂は、誠でありますか」
ちらりと、帝の瞳が保憲を捕らえる。
女のように赤い唇が、笑みを浮かべた。
「ああ。本当だ」
どくん。
心臓が痛いほどに跳ねる。
「本当だよ。俺は安倍晴明と恋仲になった」
追い討ちを掛けるように、帝がもう一度告げた。
「そう、ですか」
腕の中の晴明を、ぎゅっと抱きしめる。
できることなら、聞きたくない答えだった。
「どうした、声が震えているぞ?」
帝の言葉に、保憲は顔を上げた。
毅然とした表情を作って。
負ける訳にはいかない。そう、思った。
「いえ、つい驚いてしまったのです。帝、晴明をよろしくお願いします」
「ああ」
帝は柔らかな笑みを浮かべた。
「お前も、奥方と仲良くしろよ」
「……はい」
保憲は深く頭を下げた。
「では、俺は清涼殿に戻る。晴明を治療しねえと」
帝は軽々と晴明を抱き上げながら、言った。
数歩進み、立ち止まる。
「賀茂保憲」
突然呼ばれた名に、肩が跳ねた。
「何か?」
動揺を悟られぬよう、平静を保ち、答えた。
「その陰陽師共はてめえが治療しておけ。人に見つかったら面倒だ」
「はっ」
保憲は、再び頭を下げた。
「それと」
帝は何かを思い出したように、付け足した。
「晴明は、かわいい奴だな」
「……は?」
帝の発言に、保憲は目を丸くした。
かわいいという言葉が、まさか帝の口から出るとは。
「てめえみたいな悪い虫が付かないようにしねえとな」
帝はにんまりと笑い、保憲に向き直った。
「そうですね」
保憲は頷いた。
顔は床を向いたままだ。
今は、帝の顔をまともに見られそうになかった。
「――じゃ、俺はこれで」
帝は片手を上げ、再び簾子の上を歩き始めた。
遠ざかる衣擦れの音を聞きながら、拳を握り締める。
最後に見た、晴明の泣き顔を思い出す。例えようの無い悲しみが、胸を締め付けた。
――あの時私は、想い人が流した涙を拭うことができなかった。遠ざかってゆく背中に追いつき、抱きしめることさえもできなかった。
俯いていた顔を上げ、前方を見つめる。
もう晴明を抱えて歩く帝の姿は何処にもなかった。
ついこの間まで傍にあった存在は、最早手の届かない程遠くへ行ってしまっていた。
――これで、良かったのだ。あ奴を泣かせることしか出来ない私の傍にいるより、帝のご寵愛を受けたほうがずっと幸せだろう。なれど――。
保憲は目を瞑り、拳に力を込めた。
――本当は手放したくなぞなかった。もしも久遠が赦されるのならば、その刻を共に歩んでいきたかった。いつまでも、私の隣で微笑む姿を見つめていたかった。
「……晴明……」
瞳を開き、呟いた。
――だから、最後に言わせてくれ。貴様に触れた温もりがこの掌から消えぬうちに。
息を吸い込み、言葉を紡ぐ。その声音は、自分でも驚くほどに穏やかなものであった。
「……愛している……」
三.
「う……」
晴明は瞼を開いた。
天井が、目に映る。いつも見るそれよりもやや高い。
知らない、場所だった。
――何所だ、此処は。
ゆっくりと起き上がり、辺りを見渡した。
はらりと、身体に掛けてあった衾が畳に落ちる。
それに一瞬気を取られ、視線を下に向けた。
「起きたのか」
「っ!」
突然声を掛けられ、晴明の身体が跳ねた。
視線を上げると、一人の青年がいた。
朱雀帝である。
「――いざよい十六夜の君」
名を、呟く。
……十六夜。
晴明の帝に対する呼び名であった。
「おいおい、もうその呼び方はよさねえか。俺らはもう、素性を隠す必要はねえんだからさ」
「そうですね」
晴明は頷き、もう一度周囲に視線を這わせた。
どうやら、女房や家来はいない様だ。
「ああ、人払いをしたからな。心配しなくても、俺達以外誰もいねえよ」
帝は晴明の心情を読んだのか、そう告げた。
「良かった」
ほっと、息を吐く。
晴明は、まだ学生の身だ。
本来なら帝の部屋どころか、清涼殿に出入りすることすら許されぬ。
「ありがとうございました。俺を助けてくれて」
晴明は、すっと目を伏せた。
意識が途切れる直前、声を聞いた。
保憲の声であった。
――なんと愚かな。ついには幻聴まで聞こえるようになるとは。
晴明は、唇を噛み締めた。
――恋慕なぞ、するものでは無いな。
じんじんと痛む右手首を握る。
そこは僅かに赤くは腫れ、熱を持っていた。
「……礼を言うなら、相手が違うんじゃねえか?」
「何?」
ばっと、顔を上げる。
帝はゆるりと瞬き、微笑んだ。
「礼なら、てめえのいけすかねえ兄弟子にでも言ってやれ」
「・・・…保憲が、俺を助けたのですか」
「ああ」
「そうですか……」
晴明は俯き、口元を袖で覆う。
込み上げる笑みを押さえきれぬのだ。
「そんなに、嬉しいか」
押し殺したような、低い声が聞こえた。
「どうかなさりましたか?」
不思議に思い、声を掛けた。その時。
視界が、反転した。
はらはらと、銀色の糸が顔に掛かる。帝の顔が、目の前にあった。
「い、十六夜の君」
「十六夜じゃねえっつってんだろ!」
帝の拳が、顔の真横に打ち込まれる。
びくりと、身体が竦んだ。
「てめえの男の名は寛明だ。……保憲じゃあない」
脳内に、二人の男女の姿が浮かぶ。
保憲と、五衣を着込んだ美しい姫君。
熱いものが、頬を伝った。
「てめえは、賀茂保憲のことになると、途端に泣き虫になるな」
帝の白い手が、濡れた頬を拭う。
「あんな男、早く忘れれば良いのに」
苦々しく呟く帝。
帝は、儚げな外見をしているけれども、人一倍芯の強い人であった。自らの感情を微笑みで覆い隠し、他人にけして弱みを見せない。そんな男だった。
だが、今の彼は違う。
その表情は悲しみに満ち、今にも泣き出しそうであった。
「……貴方が、忘れさせてくださるのでしょう?」
「え?」
驚く帝の頬に手を添える。
口元に、微かな笑みを浮かべて。
「前におっしゃっていたではありませぬか。忘れさせてやると」
「あ、ああ。確かにそう言った」
帝は晴明の手から逃れるように、顔を背けた。
心なしか、顔が赤い。
「だからてめえは、俺の傍にいろ」
霞んでゆく霧のような、か細い声。
普段の帝からは、想像もできぬ姿だ。
「……はい」
晴明は小さく笑い、頷いた。