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第三章 堕ちた罪華は叫びと化して


一.



 昼時であった。

 宮仕えしている者達は仕事を終え、それぞれ娯楽ごらくいそしんでいる頃である。無論むろん陰陽寮おんみょうりょうで働く者も例外ではない。

 その証拠に、陰陽寮には今、人がほとんどいなかった。

 そんな中を、一人の法師ほうしが歩いていた。

 漆黒の大きく鋭い瞳。常に笑みを貼り付けている形の良い唇。凛々《りり》しい顔つき。法師であるからそれなりに歳を取ってはいるのだろうが、見た目だけでいえば三十代前後に見える。中々上品な容姿の男であった。

 だがそれを打ち消すかのように、顔の左半分が大きな火傷の跡で覆われている。

 ふと、男はある部屋の前で立ち止まった。中ほどまで御簾みすが上げてあるその部屋からは、なんとも言えない良い香りがただよっている。それは貴族達の薫物たきものとは全く違うものであった。

「ふむ」

 男は低くうな唸ると、御簾をくぐり、部屋へと入った。

 部屋の中は香りが充満していた。無論、男が外で嗅いだそれよりも強い。だが、不快ではなかった。

 男は芳醇ほうじゅんな香りを楽しみつつ、辺りを見回した。

 と、男の目が動きを止めた。

 視線の先には、一人の女がいた。若き陰陽得業生おんみょうとくぎょうしょう安倍晴明あべのせいめいである。彼女は山積みにされた書物を読みあさっては、なにやら紙に書き留めていた。

 男はけはいを消しつつ、晴明の傍へ近づいていった。そして、彼の手が肩に触れようとした瞬間――。

「私に何か御用ですか」

 晴明が話しかけてきた。だが、顔は書物に向けたままだ。

「!」

 男は一瞬目を見開いたが、す直ぐにふわりとやわらかい笑みを浮かべた。

「突然失礼した。暇を持て余して内裏だいりを歩いていると、この部屋から素晴らしく良い香りがしたので思わず覗いてしまったのだ。ところでこの香りは薫物かな」

「これは私が生まれつきもっている香りなのです。その為、何処どこに忍んでいてもすぐに見つかってしまう。皆は良い香りだと言ってはくれますが、当事者としては本当に困ったものです」

 そこで晴明はようやく男に顔を向けた。

 晴明は、男の予想以上に美しかった。

 涼しげな目元。白い肌。桃色の頬。色気のある顔立ち。

 ――噂には聞いていたが、まさかこれほどまでとは。

 思わず男は、ごくりと、生唾なまつばを飲んだ。

「なるほど。だがとても魅力的だ。それに大した美貌びぼうの持ち主だ。品もある。あの朱雀帝すざくていや、賀茂保憲かものまでもがとりこになるのも無理はない」

「……言いたい事が良く分かりませぬが」

 晴明はまゆひそめた。

 男は心底楽しげにくつくつと喉を鳴らした。

「そのままの意味さ。現に、賀茂保憲はお前に並々《なみなみ》ならぬ好意を寄せている」

「はは、ご冗談を。保憲はただの兄弟弟子ですぞ?」

 晴明は困った様に微笑む。まるで取り合う気がないのだ。

「確かに私には、幼い頃から常に男色だんしょくの噂などが付きまとっております。しかし、そのようなことをした覚えは全くありませぬ」

「ほう、まるでお前さんが男のような言い方だな」

「……、そう言ったつもりですが」

 晴明の顔から笑みが消えた。

「ふふん、何処どこの口が言っておるのやら」

 男はにんまりと笑みを浮かべ、晴明のふところに手を差し込んだ。

「っ! なにをする!」

 晴明は男を突き飛ばそうとした。だが、その意思に反して、彼女の身体は一寸も動かない。

「知らないとでも、思っているのか」

 男は晴明の耳元に唇を寄せ、低くささやいた。

「お前さんが女だということを」

「!」

 晴明は大きく息を呑んだ。

 しかし男はそれに構わず言葉を続けた。

「男ならお前さんのような女を放っておくはずがあるまい。きっと賀茂保憲の奴もそうだ」

「そんな筈はない」

「今までの奴の行動を思い返してみろ」

「貴様が保憲の何を知っているというのだ」

「保憲はお前さんを女として見ているに違いないぞ。今後、奴とは行動を共にしないほうが身の為よ。きっと奴はお前さんを愛しく思い、抱きたいと思っているだろうよ――」

「違う!」

 晴明が叫ぶ。

 すると、二人の間にあお閃光せんこうがほとばし迸った。

「うっ」

 男は低くうめくと、晴明から手を離した。その手は酷く焼けただれていた。

 しかし彼は少しも動じず、焼けた手を見て「ほう」と呟いた。

「はあ、はあ」

 一方、晴明は肩で息をしながら、男を見据みすえていた。彼女の右手は、蒼い光に包まれている。

「保憲は、そんな奴では断じてない! 保憲をその辺の低俗な男と一緒にするな!」

「ふむ。どうやら自分の事に関しては鈍いのだな、お前さんは。賀茂保憲もかわいそうに」

「何だと……」

「お前さんは、女としての自覚がなさ過ぎる。ま、そこがまた魅力的なのだが。精々喰われぬよう、気をつけることだ」

 そう言いつつ、男は御簾を潜って部屋を出た。



二.



「――と、いう訳なのだ」

「ほう」

 保憲は晴明の話に軽く相槌あいづちを打ちながら、さかずきの酒を一気に飲み干した。

 二人は部屋に敷かれた畳の上で酒を飲んでいた。

 場所は、晴明の寝屋ねやである。

 半分程上げられた御簾からは、微かな月の光がこぼれていた。

「あの坊主は一体何者だったのだろう」

 晴明は、ほう……、と大きくため息をついた。

芦屋道満あしやどうまん殿ではないか?」

 すかさず、保憲が言った。

「あの芦屋道満殿か?」

 晴明が目を見開いてたずねた。

「ああ」

 保憲は頷きつつ、瓶子へいしを手に取った。傾け、空になった杯に並々と酒を注ぐ。

 芦屋道満――播磨はりまの国出身の法師である。陰陽の道に優れ、京でも知らない人がいない程、有名な男であった。

「しかし、いくら道満殿でも保憲を侮辱ぶじょくしたことは許せぬ。保憲が俺にれただのれただの、戯言ざれごとをぬかしおって」

「貴様はそれを嘘だと言うのか」

「当たり前だ。ありえぬ」

「……そうか」

 保憲は俯くと、杯を口に運んだ。

「だが、もし本当だったらどうする」

「何?」

「もし私が貴様に惚れていたならどうすると、言っておるのだ」

「貴様、何だか変だぞ。酒に飲まれたか」

「違う」

「!」

 刹那せつな、晴明は板敷きの床に強く頭をぶつけた。

 保憲に、押し倒されたのだ。

 その衝撃で倒れた杯から零れた酒が、床をらした。

「……確かに道満殿の言う通りだな。貴様は女としての自覚がなさ過ぎる」

「は、貴様まで何を言っておるのだ」

 晴明はおかしそうに笑った。だが保憲は笑わず、冷めた目で晴明を見下ろした。

「幾ら男らしい振る舞いをしたからといって、皆が皆、貴様を男として見るとは限らぬ。中には、貴様を女として見る奴もいる」

「保憲?」

 晴明からも、笑みが消えた。

 今日の保憲はなんだかおかしい。

 酒に酔ったのか、具合が悪いのか。もしかするとあやかしかれたのか。

 晴明は本気で心配になってきていた。

「おい、もう休んだらどうだ。今日の貴様は本当に変だぞ」

「ほう。まだ言うか」

 保憲は片眉をわずかに上げた。

「では、これでもそう言い張れるのか」

 保憲は晴明の頬に手を添え、顔を近づけた。

 

挿絵(By みてみん)

 触れるだけの口付け。

 一瞬、晴明は何が起きたのか分からなかった

 ただ、唇の柔らかさと温もりだけが、彼女を支配していた。

 晴明は訳がわからぬまま、いつもよりも間近にある保憲の瞳を見つめていた。その切れ長の瞳はうっすらと開かれていた。

 ふと、何やら生暖かいものが、ぬるりと口内にすべり込む。

「やめろ」

 それを“舌”と認識した刹那、晴明は保憲を両手で押し退けた。

「保憲。貴様いい加減にせぬと――」

「どうするのだ? まさか殴ろうとでも?」

 保憲がさえぎる。

「そうだ」

「ほう」

 低く唸った保憲の指が、晴明の手首をとらえた。

 てのひらで包み込み、床に縫い付ける。

 それは恐ろしいほど強い力であった。

「っ……!」

 手首の激痛に、晴明は息を呑み、そして僅かに眉をひそめる。

 だが、保憲は力を緩めようとはしない。

「や、保憲」

 思わず、声を上げた。

「やめて欲しいのか」

「ああ」

 保憲の言葉に、晴明は素直に頷いた。

「ならば、抵抗すれば良い」

「何だと」

「私を殴るつもりなのだろう?」

「貴様」

 晴明は怒りに顔を引きつらせ、保憲の手を振り払おうとした。

 しかし、その手は一寸も動かなかった。

「ほら、抵抗出来ぬ」

 呟く保憲の声には、濃いあざけりの色が浮かんでいた。

「わかっただろう。貴様は腐っても女なのだ」

「違う!」

 晴明は悲鳴のような叫び声を上げた。

 その瞳は悔しさと怒りでうるんでいる。

「俺は……、俺は女ではない!」

「ならば、他の男に押し倒されても抵抗できるのか」

「できる。術さえ使えばな!」

「では何故、八年前のあの日、術を使わなかったのだ。貴様と私が出会った日だ。あの日の幼い貴様でも追い払うことくらいは出来たはずだ」

 晴明は口を閉じ、保憲から目をらした。

「……術で人を傷付けるのがそんなに嫌か」

「!」

 呟かれた言葉が聞こえ、保憲に視線を戻す。

「父上に聞いた。貴様が過去に子供を術で殺しかけた、とな。だから此処ここに来たのであろう? これ以上人を傷付けぬ為に」

 晴明は無言で保憲をめた。

 保憲の言ったことは、図星だった。

「ならば、何故なぜそのように無防備な姿をさらすのだ」

 保憲が言う。その瞳は、氷の如く冷たかった。

「無防備ではない」

「否、無防備だ。一人の男と寝屋で語らうとは。どう見ても誘っているようにしか見えぬ。貴様は美しく魅力的だ。男も女も皆、貴様にかれている。中にはくだらぬ噂を真に受けて恐れている者もいるが。中には強引に手に入れようとする者もいるだろう。だから、私が女にしてやる。例え軽蔑けいべつされても構わぬ。えたいの知れぬ者の手に渡るよりかはましだ」

そこで、保憲は言葉を切った。晴明の手首を掴む力が強くなる。

「痛っ!」

 晴明は、反射的に悲鳴を上げた。

 だが、保憲の手の力は強くなるばかりであった。

「保憲! 貴様、本当にどうしたのだ!」

「どうもせぬ」

 そう呟く保憲の瞳には、狂気の色が浮かんでいる。

「前からこうしたいと思っていた」

「やす…の……り?」

 晴明の身体が、がたがたと小刻みに震えた。

 同時に、彼女はある感情を保憲に感じていた。

 それは、純粋な恐怖であった。

 今まで、保憲にはけして抱くことのない感情だった。

 ――何故なぜだ、何故こんなことに……。

 晴明は混乱し、蜜色の瞳から一筋の涙を零した。



「――すまぬ」

 混濁こんだくする意識の中で、か細い声が聞こえた。

 それは、今まで聞いたことのない、激しい感情をびた彼の声であった。

 ……絶えることの出来ぬ、悲痛。

 思わず、目を開く。

 灯火ともしびに照らされた保憲の顔は、今にも泣き出しそうに見えた。

「すまぬ」

 再度さいど、薄い唇が謝罪の言葉をつむぐ。

 瞬間、恐怖が急速に退いてゆくのがわかった。代わりにあふれ出したのは、切なさに似たようなもの。

 手を伸ばし、抱きしめる。

 目の前にいる男の悲しげな顔を、これ以上見たくなかったのだ。

 はっ、と耳元で息を呑む音が聞こえた。羞恥心しゅうちしんで顔を熱くしながらも、晴明は口を開いた。

「……灯りを消せ」

 数秒の沈黙の後、「ああ」と保憲は頷いた。

 やがて寝屋中に広がった闇の中で、微かな衣擦きぬずれの音が聞こえた。あらわになった保憲の身体は、予想以上にたくましかった。思わずまじまじと見つめていると、いつもより格段に熱を帯びた保憲の指先が、頬に触れた。

 二人の唇が、重なる。

 肌の温もりを全身に感じながら、晴明はゆっくりと双眸そうぼうを閉じた。



三.



「ん……」

 まぶたを開くと、反転した天井が保憲の視界に入ってきた。

 ぼんやりとそれを眺めていると、腕の中で何かが動くのを感じ、視線を下ろした。

 床に、しっこく漆黒の髪が広がっている。

 本来なら起きて早々目に映る筈のない人物が、目の前で寝息を立てていた。

「晴明」

 名を、呟く。

 瞬間、昨晩自分がしたことが脳裏をぎり、声にならぬう呻きが唇から漏れた。

 そろそろと起こさないように注意しながら晴明を抱き上げる。すると、乱れた衣服の間から紅が零れ、き出しになった彼女の白い足を伝い落ちた。

 ……汚された、証。

 苦しい程の罪悪感が押し寄せた。

 抵抗するのであれば、無理やりにでも抱くつもりだった。

 そうすれば晴明は保憲に絶望し、距離を置くだろう。だがもしかすると、“男”に近づくことが出来なくなるやもしれぬ。

 それでも良かった。他の男に奪われるくらいなら、ずっとましだと思えた。

 だが、晴明は予想外の反応を見せた。

 感情を抑えきれず謝罪の言葉を漏らす保憲を抱きしめ、受け入れたのだ。

「――まだ泣いて抵抗された方が良かった」

 ひとりでに唇を割った言葉に、自己嫌悪する。

 ――私に此奴こやつを悪く言う資格なぞ、ない。

 しとねに晴明を下ろし、襟先えりさきを左右に広げる。

 ……身体中に咲き乱れる、複数の紅い華。

 白い肌の上で存在を主張するそれは、所有印のようであった。

 ――私が、汚してしまったのだ。

「……すまぬ」

 昨晩何度も呟いた謝罪の言葉を口にし、ぎゅっとこぶしを握り締めた。

 きつく閉じた唇から苦悶くもんの声が零れる。

 やがてそれは、悲痛な慟哭どうこくへと変わった。

 









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