第一章 月読の夜想歌
いよいよラストスパートです。晴明と保憲の恋の行方は如何に。
一.
夜。
一人の法師が山道を歩いていた。
身に着けている黒衣は大分傷んでいる。所々が破れ、衣服というよりは襤褸切れのようだ。
服だけ見れば悲惨だが、法師は若々しい風貌をしていた。
漆黒の大きな瞳。すらりと通った鼻。形の良い唇にはうっすらと笑みが浮かんでいる。顔の左側にはその端整な顔に抗うかの如く、大きな火傷の跡があった。
ふと、法師は足を止めた。禍々《まがまが》しいけはいが辺りを包み込んでいる。微かに、声が聞こえた。
「……此処か」
男は笑みを更に深くし、歩みを進めた。
「あな、悔しやのう」
「憎らしやのう」
「醍醐の頃も酷かったが、朱雀となった今は更に酷い」
「お陰でわしらは飢えに飢えてかような浅ましい姿に成り果ててしまった」
「憎らしいのう、朱雀」
「おう……」
「おう……」
山奥を行くと、声が段々と大きく聞こえてきた。
やがて、法師は立ち止まった。彼の視線の先には、数多の異形が犇きあっている。
色とりどりの鬼。
薄汚れた日用品に人の手足がはえたもの。
首から下がないもの。
普通の者ならば、悲鳴を上げて腰を抜かすところだが、法師は平静であった。
片手に持っていた杖を振り上げ、二・三度地面を叩いた。法師の霊気が、波紋のように辺りに漂う。
妖共が一斉に法師に目を向けた。
「人間じゃ、人間じゃぞ」
「良く見ろ、法師じゃ」
「我等を祓う気か」
皆、口々にものを言い、ざわめき始めた。中には「喰ろうてしまえ」という者までいた。
妖共が殺気を帯びた目で法師を睨む。だが、法師は相変わらず口元に笑みを湛えたまま、眉一つ動かさない。
「待て。此奴、何処かで見たことあるぞ」
一匹の妖が声を上げた。
「確か……、芦屋道満という法師じゃ」
「何」
「芦屋道満だと」
「わしはあの者に世話になったことがあるぞ」
「わしもじゃ」
再度、妖達はざわめき始めた。
「ならばちょうど良い」
「主のような者に、力を借りようと思うとった所じゃ」
妖達の目から、殺気が消えた。そして、膝を突き、頭を垂れた。
「……何の真似だ」
法師は眉を顰めて呟いた。
「主に是非ともやって欲しいことがある」
一匹の赤鬼が立ち上がり、法師に歩み寄った。
「何だ?」
「みかど帝を、殺害して欲しいのだ」
「……ほう」
法師は片眉を上げ、すっと目を細めた。
「それだけで良いのか?」
「何?」
赤鬼は目を丸くした。
「今、京の治安が悪い原因は帝だけではないぞ」
法師は続けた。
「政治を牛耳る全ての者……否、内裏にいる全ての者がのほほんと暮らしておる所為だ」
漆黒の瞳の奥に、怒りの焔が灯った。
「帝だけでなく京自体を抹殺し、新しい政府を作り、政治を行う。……それが最善の方法だと私は思うが」
「成程……。主の言う通りだ」
赤鬼は深く頷いた。
「では、我等はどうすれば良い? 主には恩がある。何か手伝えることがあれば、何でもいたそう」
法師はゆるりと瞬き、喉を鳴らした。
「否、私に任せておけ。時が来るまではな」
二.
夜の屋敷を、一人の少年が駆けている。
銀色の長い髪は乱れ、血のように赤い双眸からは涙がしとどに溢れている。衣服は破かれ、白い肌が覗いていた。
「っ、はあ……、はあ……っ」
少年は嗚咽を漏らしながらも、走り続けた。角を曲がり、向かいにある御簾を潜り抜ける。
其処は、寝屋であった。
恰幅の良い中年の男が、文机に向かっていた。
「……忠平……っ」
忠平と呼ばれた男は、文机から顔を上げ、少年を見つめた。
「どうしたのです、かような夜更けに」
「忠平、助けて……っ、母上が、母上が……!」
少年は忠平に縋り付き、しゃっくり上げた。歯の根が合わず、がちがちと音が鳴る。
「おや、またですか」
忠平が深くため息をつ吐く音が、聞こえた。
「宮にも、困ったものですなあ」
そう零す忠平の口調は、いつもの穏やかなそれとは大分かけ離れていた。
身体の隅から隅までを撫で回すような、ねっとりとした声音。微かに恐怖を感じ、忠平を見上げる。
「忠……平?」
震える声で名を呼んだ刹那、忠平の両手が胸元に伸びてきた。襟が左右に広げられ、上半身が露になる。
少年は呆然と忠平を見つめた。
「忠平、一体何を――」
「主上に触れたいと思うのは、宮だけではないのですよ」
「……え」
忠平の手が、襟元から髪に移動する。髷をと解かれ、銀の糸が背中にふわりと落ちた。
「きれい綺麗ですなあ、本当に」
大きな手の平が衣服の隙間をなぞり、肌を撫ぜた。
「――食べてしまいたいくらいに」
「……っ!」
ひゅっ、と息を吸い込む。悪寒が身体中を駆け巡り、頭の中で激しく警鐘が鳴る。
――逃げなきゃ。
少年は忠平の手を振り切り、踵を返して御簾を上げた。
「――見つけた」
頭上から、声が聞こえた。恐怖で身体が強張り、頭が真っ白になる。
「急に逃げ出すなんて酷いですわ、寛明」
甘ったるい声で名を呼ばれ、激しい嫌悪と吐き気が込み上げる。
黙っていると、不意に顎をつか掴まれ、引き上げられた。にんまりと笑みを浮かべる母親の顔が、目に映った。
「大丈夫、怖いことは何もありませんわ。貴方は只、じっとしているだけで良いのよ」
この上なく優しい口調だが、その裏には並々ならぬ憎しみが潜んでいることを少年は知っていた。慌てて抵抗するが、顎を掴む力はより一層強くなるばかりで、微塵も動かない。
母が、少年の耳元に口を寄せた。
「それが、貴方の贖罪なのよ。寛明」
「うわああっ!」
部屋中に叫び声が響く。自分が発したそれに驚いて、青年は目を開いた。
素早く起き上がり、首を横に二・三度振る。そして、口内に堪った白濁を床に吐き出した。
――また、あの夢か。
四年前のあの日から、毎夜うなされ続けてきた、あの悪夢。それは青年の心に大きな苛立ちを生んだ。
「くそっ!」
青年は拳を床に叩きつけようと大きく振りかぶった。だが、手に微かな縛めを感じ、思いとど留まる。見ると、両手首が赤い布で縛られていた。
「く……」
布に噛み付き、歯で引き千切る。両手が自由になると同時に、布の破片が床に舞い落ちた。
まるで、血のようであった。
青年は、気だるさの残る身体を叱責しつつ、ゆるゆると立ち上がった。傍らに脱ぎ捨てられた衣服を取ろうと腰を屈めた途端、下腹部に鈍い痛みが奔り、青年は動きを止めた。
「ちっ……、乱暴に扱いやがって。誰の身体だと思ってやがる」
青年は僅かに顔を顰め、拾い上げた衣服を身に包んだ。そして、妻戸に立て掛けてあった刀を腰に差し、部屋を出た。
上げられた御簾から入ってきた冷たい秋風が肌を刺す。見上げると、楕円形の月が夜空にぽっかりと浮かんでいた。
十六夜月である。
「へえ……」
青年の紅を注したかのような赤さを持つ唇に、初めて仄かな笑みが浮かんだ。
……葉月。
京にもひっそりと秋が訪れようとしている。
三.
同じ頃。
安倍晴明は右京にいた。
当時、平安京は朱雀大路を中心に左右に分かれていた。羅城門から見て左側――左京に数多の公家邸宅が並ぶ一方、右側――右京には複数の後院が建てられているのみであった。
影と光。
水と焔。
陰と陽。
一見、華やかな京にも闇は確かに存在していた。
その闇の中を、晴明は歩いていた。地面には死骸や糞尿で埋め尽くされており、胸が悪くなるような腐敗臭が漂っている。
ふと、複数の視線を感じ、晴明は顔を上げた。
二・三人の男が道先に立っていた。
農民であろうか。穴の開いた粗末な水干を着ている。じろじろとするど鋭い目つきで晴明を見ている。
「俺に何か用か」
訊ねると、農民達は顔を見合わせ、にんまりと笑った。
「ほう、中々の上玉だ」
「噂以上だな」
農民達は歩み寄り、無遠慮に晴明の肩を掴んだ。顔を背けたくなるような臭いが、鼻腔を刺激する。
「何用かと訊いておるだろう」
晴明は蜜色の瞳をすっと細め、手を振り払った。
「あんたに一晩、俺達の相手をして欲しいんだ」
「――断る。他を当たれ」
即答し、再び歩き始めた晴明の行き先を、農民達が塞ぐ。
「まあ、待てよ。あんたの噂は耳にしているんだ、安倍晴明さん」
「噂?」
「ああ。男女構わず身体を売っているらしいじゃねえか」
「……貴様等もか」
晴明は短く嘆息した。
京に来てからというものの、晴明に関する数多の噂が京中に流れていた。その殆どが、身に覚えのないことばかりなのだが。中には噂を本気にして迫ってくる者もいた。
「悪いがその噂は嘘だ。俺は身体を売った覚えなぞ、全くない。諦めて其処を退いてくれ」
「……はっ、そんなこと端から分かっているよ」
農民の一人が、言った。
「お前みたいな立派な貴族様が、そんな男娼みたいな真似する訳ねえもんな」
腕を引き寄せられ、地面に押し倒された。
「な、何をする!」
叫んだ刹那、口を手で塞がれた。抵抗しようにも、手足を押さえられている為、身体が思うように動かせない。
「安心しな。大人しくしていりゃあ、痛くしねえ」
男達の目が、ぎらぎらと闇の中で光っている。複数の手が襟元を弄り、肌の上を滑った。
「う……っ」
激しい嫌悪を感じ、低く呻く。小さく震える身体に力を込め、きゅっと目を瞑った。
「――そろそろやめたら如何ですか。彼女が嫌がっているでしょう」
聞き慣れぬ声が、耳に届く。
そろりと目を開き、視線を横に向けた。
長身の青年が、此方へ歩み寄ってくるのが見えた。
稀有な銀色の髪に赤い瞳。唇は紅を引いたように赤い。庶民の女が着るような麻の小袖を身に纏っている。
青年はくすくすと笑みを漏らしているが、目は笑っていない。ぎらりと妖しい光を放ち、晴明達を見つめている。
「何だ、あんたは」
農民の問いに、青年は空を見上げ、ふわりと微笑んだ。
「そうですね……。十六夜の精、とでも言っておきましょうか」
「けっ、ふざけやがって」
「殺っちまおうぜ」
殺気立つ農民達に、男は困ったように笑った。
「仕方ありませんね」
腰元に下げた鞘から刀を抜き、構える。赤い瞳に鋭い光が灯った。
「後悔しても、知りませんよ」
青年の柔らかだが殺意を帯びた声音が、闇を切り裂いた。
「大丈夫ですか」
突然差し伸べられた左手に、晴明は一瞬目を見開いた。そして、目の前の青年が勝利したのだと気づく。
左右に視線を這わすと、先程の農民達が地面に蹲るようにして倒れていた。皆、気を失っている。
「……はい」
晴明は周囲の状況に息を呑みながらも、おずおずと青年の手を取った。
「丸腰の女性に乱暴をしようとするなんて、随分と乱暴な男達ですね」
青年はそう零しつつ、右手に持った刀を鞘に納めた。
「否、俺は――」
女ではない、と言おうとした時だった。
男の胸元から、傷が覗いているのが見えた。そこから出血し、小袖が赤く染まっている。
「これは」
小袖の襟を左右に広げる。目に飛び込んできたのは、体中にできた数多の傷跡であった。
首筋に、複数の鬱血。中には、治療が充分に施されていないものもあった。
「先程の喧嘩で負ったものではありまぬな」
晴明の言葉に、青年の肩がびくりと跳ねた。顔を赤く染め、視線を逸らす。何か訳有なのだろうと察した晴明は、これ以上追及はせず、袖口を元に戻した。
「近くに、俺が住んでいる屋敷があります。其処で治療を致しましょう」
青年が息を呑む音が聞こえた。晴明を見上げるその目には、微かな恐怖の色に染まっていた。
四.
数刻後。
青年はある屋敷の簾子縁に座っていた。目の前には、大きな桜の木がある。緑に色づいた葉が、さわさわと夜風に揺れていた。
――あの女、結局何もしなかったな。
そっと胸元に巻かれた包帯に触れる。先程出会った女が治療の際に巻いたのだ。
――てっきり、されると思っていたが。
今まで、青年に近づいてきた者達には、男女問わず皆ある一つの目的があった。今回もその目的を果たすために屋敷に招かれたのだと、青年は思っていたのだ。
「――十六夜の君」
声が聞こえ、後ろに視線を向ける。
豊かな黒髪に蜜色の瞳。
目を見張る程に美しい女が其処に立っていた。両手に、酒の入った瓶子と二人分の杯を乗せた折敷を抱えている。
「家の者は皆寝ている故、大したも持てな成しは出来ませぬが」
酒に目を移した青年に、女は眉をハの字に下げて苦笑いを浮かべた。
「いや、充分ですよ」
青年は瞬時に笑顔を貼り付け、杯を手に取った。
女が、杯に並々と酒を注ぐ。一気に飲み干すと、体中に心地よい温もりが広がった。
「貴女も、どうですか?」
青年が瓶子を持って微笑むと、女は「では一杯だけ頂きましょう」と隣に腰を下ろし、杯を差し出した。
「――貴女は、私が怖くないのですか」
杯を酒で満たしながら、ふと口を開く。
「え?」
突然の問いに、女はきょとんとした顔で青年を見つめた。
「かような外見をしている私を見て、なんとも思わないのですか」
あまりにも珍しすぎる銀髪と紅の双眸。幼い頃から、好奇と差別の目の中で生きてきた。恐らく目の前にいる女も、同じような目で自分を見ている。故に、訊ねたのだ。後で拒絶されるくらいなら、今から直接聞いた方がましに思えた。
「怖いだなどと、思う筈ありませぬ」
予想外の言葉に、青年は耳を疑った。女はふんわりと微笑み、青年の髪を優しく撫ぜた。
「貴方は、こんなにも綺麗ではありませぬか。それに、貴方は俺を助けてくれた。そんな方を、怖いと思う必要がどこ何処にありましょうや」
――変わった女だ。
青年の赤い唇に、微かに笑みが浮かんだ。
今までに出会ったどの女とも違う。
華やかに着飾ってもおらぬし、かといって全く品がないという訳でもない。寧ろ、他の女よりも一段と綺麗だ。
ふつりと、女に対する興味が湧き上がった。
「貴女の名を、教えていただけますか」
青年が訊ねると、女はふっと笑みを浮かべた。
「では、貴方の本名を教えてください」
「――」
青年は閉口した。
青年は、やんごとなき身分の者であった。本来は一人で夜に出歩くべきではない。初対面の女に自分の正体を簡単に晒すのはさすがに憚られた。
「……それは、申せません」
「では、俺も名乗れませぬな。では、仮に弥生とでも御呼びください」
「弥生?」
青年が問う。
弥生とは、陽暦でいう三月の名称である。初秋であるこの時期には、あまりに不適切な呼び名であった。
「はい。俺の本名は春に関するものですので」
そう答えた女の顔に、意地悪い笑みが浮かんでいる。
「試しているのですか、私を」
青年の問いに、女は更に笑みを深くする。とても楽しそうだ。
「さあ、どうでしょう。俺の本名を当てて頂いても結構ですよ?」
「意地悪いお人だ」
そう言いつつ青年は瞳を移ろわせた。
「……、やはり本名を当てることはやめておきましょう」
「何故です?」
やけに諦めが早いと、女は少し残念そうな表情をした。
「お互いの素性を知らないほうが、面白味があるでしょう」
青年は微かな笑みを浮かべた。
「ふふん、それもそうだ」
女も、くつくつと楽しげに笑う。
「……」
ふと、青年は空を見上げた。夜が明け、空が白み始めている。
「いけません。もう朝になってしまう」
彼は立ち上がった。
「良かったらまた来てくださいね、十六夜の君」
女が声をかけた。
青年は一瞬だけ目を見開き、直ぐに顔を綻ばせた。
「では、また来ます。弥生の君」
そして彼は闇に吸い込まれるように立ち去っていった。