終章
一.
「はあ……」
帝は、衾に包まりながら、大きくため息を吐いた。
「……何でてめえが此処にいんだよ、直丁」
小僧と呼ばれた少年は顔を引きつらせ、「じ、直丁って言うな! 俺には寿朗っていう立派な名前があんだよ!」と叫んだ。
微妙に丈があっていない衣冠の袖からは、痛々しく巻かれた包帯が覗いている。
帝は唇に笑みを浮かべ、寿朗を見上げた。
「はっ、直丁であることには変わりねえじゃねえか」
「うはーっ! 折角けがの見舞いに来てやったのに、その言い草はねえだろ!」
「あーあ、そう喚くなよ。喧しい。大体、てめえも陰陽寮に勤めているなら、今の時期は忙しい筈だろう。こんなことしている暇があるのかよ」
帝は再度ため息を吐き、ぎろりと寿朗を睨んだ。
大祓から数日。
年が明けて、睦月となった。
内裏では毎日盛大な宴が催されている。
無論、祓えもいつもより頻繁に行われた。
この時期になると、今年の運はどうだとか、星の位置がどうだとか、陰陽師に占わせる貴族も少なくはなかった。故に、宮中の陰陽師はあちらこちらへと京を飛びまわっていた。
「しかたねえだろう。保憲様から命令されたんだし」
「保憲が?」
寿朗の口から出た意外な人物の名に、帝は目を丸くした。
「帝には恩があるからとか何とか……、だから礼を言っておいてくれってさ。まさかあの保憲様が礼を言うなんてな。あんた、保憲様に何かしたのか?」
「……さあな」
帝は寿朗から背中を向け、双眸を閉じた。
大祓が行われたあの日。
白昼夢を、見ていた。
恋敵である保憲を励まし晴明の所へ送り届けるという、ありえない行動を自分はしていた。
ずっと、夢だと思っていたのに。
「……夢じゃ、なかったんだな」
「は? 何か言ったか」
「いや、何でもねえよ」
寿朗の訝しげな視線を背中に感じ、居心地が悪くなった帝はもぞもぞと寝返りを打った。
「――ところでよ、晴明のことはもう良いのかよ。恋仲だったんだろ、あんた達」
寿朗の問いに、帝は目を二、三度瞬かせ、ふっと笑みを浮かべた。
「ああ、もう良いんだ。晴明が幸せならそれでな」
振り向き、寿朗を見る。
「でも、俺は未だ晴明を諦めるつもりはねえ。保憲に言っておけ。てめえが晴明を泣かせるようなことがあったら、其の時は俺が晴明を奪い返す。今度は、俺が晴明をてめえなんかより愛しぬいてやる、とな」
「は、は」
寿朗は乾いた笑いを浮かべ、「それを保憲様に言ったら俺が呪の餌食にされちまいそうだぜ」と呟いた。
「はっ! そりゃ是非とも一言一句漏らさずに、言ってほしいもんだ」
「うはー……、あんた本当に良い性格してんな」
「そりゃどうも」
帝はくつくつと笑みを漏らし、言った。
しばらくして。
寿朗が出て行った方角を見つめながら、帝はほう、と浅く息を吐いた。
「――ま、保憲の野郎はもう晴明を泣かすようなヘマはしないだろうがな」
烏帽子を脱ぎ、結われた髷を解く。
豊かな銀髪が背中に広がった。
……こうして髪を下ろし、自分を偽り、十六夜を名乗っていたあの頃。
仮面を被った姿のまま、隣で笑う晴明を見ていた。
己と同じ闇の中を生きているのにも関わらず、凛としていて美しく、清らかな晴明。
そんな彼女に羨望の念を抱き、嫉妬した。
だから。
自分が汚してやろうと、自分の腕の中で咲き乱れて壊れてゆく様を見てやろうと、興味本位で近づいた。
でも、その思いはやがて恋心へと変わった。
――本当は、保憲に渡したくなんかない。だけど晴明には……、あいつには……。
帝はふっと嘲笑を漏らした。
「……自分の想いから逃げているのは、俺の方なのかもしれねえな」
「――何のことです? 主上」
背後から聞こえた女の声に、ぞくりと肌が粟立った。
全身に悪寒が奔り、戦慄する。
後ろに居るのは、母・藤原穏子であった。
「は、母…上……」
震える声で、名前を呼ぶ。
瞬間、伸びてきた両腕が身体を包んだ。
ふうわりと、薫物が鼻腔を擽った。
「けがは、大分よくなったみたいですわね」
襟の隙間から侵入した指先が、肌を滑り、傷跡をなぞる。
ぱさりと、片肌が脱げ、包帯の巻かれた傷口が露になった。
「っ、やめろ!」
腕を掴み、突き飛ばす。
「きゃあっ!」
「はっ、はっ、はあっ……」
悲鳴を上げて床に尻餅をついた母親を、帝は荒く息を吐きながら睨めつけた。
「俺は……っ、俺は母上の玩具じゃねえ! 罪の償いなら、他の方法でやる! だから……、もう俺と契るのはやめてくれ!」
「――莫迦な子ね、貴方も」
呆然と帝を見上げていた穏子の唇に、柔らかな笑みが浮かぶ。だがその瞳は憤怒の色に染まっている。
「他の方法とか、そういう問題ではないのよ。貴方がどれ程に強い絶望を味わうのか、それが大切なの」
衣擦れの音が、響く。
穏子の五つ衣が、はらりはらりと床に落ちた。
「……それにしても、何故急にそんなことを言い出したのかしら。何か、良からぬことでもあったの?」
顎を掴まれ、耳元に唇が近づけられる。
紡がれた言葉に、帝は瞠目した。
「もしや、あの晴明とかいう半妖の所為ではあるまいな」
「ち、違う!」
悲鳴のような叫びが、唇を割った。
「あいつは関係ない!」
心臓が、どくどくと高鳴る。
――この禁忌に、晴明を巻き込む訳にはいかねえ……!
漸く、笑顔を手に入れたのだ。
それを掻き消してしまうようなことは、何としても避けたかった。
「……そう。なら、良いのよ」
穏子は低い声で呟き、帝を畳の上に押し倒した。
二つの影が、重なる。
――晴明、俺は……。
右手を、伸ばす。
それは穏子の手によって絡め取られ、音を立てて落ちた。
二.
「はっ、はぁっ!」
空に、雲の帳が落ちている。
「ふっ、はっ、く……っ、ずあぁっ!」
その下で、男の声が響き渡っていた。
ざりっ、と砂の上を足が滑る。
「くっ……」
保憲は落ちた刀を拾い上げ、ゆるりと一つ瞬いた。
――私は、より強く在らねばならぬ。
すう、と静かに瞳を閉じる。
意識を、両腕に集中させた。
刀を、強く握り締める。
風が吹き、汗が伝う肌を撫ぜた。
――晴明を、大切な者達を、もう二度と傷付けぬ為に。
瞳を、大きく見開く。
「はああぁああぁっ!」
地を蹴り、走り出す。
刀身に翡翠色の炎が宿り、天に向かって燃え上がった。
「ふっ!」
刃を振り下ろし、ぴたりと動きを止める。
同時に、後ろで数多の竹が倒れた。
「おうおう、新年早々武術の修行に励むとは。感心感心」
背後から声が聞こえ、視線を動かす。
黒い狩衣に身を包んだ忠行が、にんまりと笑みを浮かべて立っていた。
「……父上。もうけがの具合はよろしいのですか」
「ああ。お陰様でな。すっかり元気じゃ」
忠行は眉根を下げて微笑んだ。
「じゃが、御主もあれ程酷いけがを負ったのだ。あまり無理をすると身体に障るぞ。どうじゃ、今から少し休憩せぬか」
「……お断り致します。この程度で休憩しておるようでは、これから強くなれませぬ故」
保憲の言葉に、忠行は再度眉を下げ、苦笑を漏らした。
「まあ、そう言うな。御主と晴明に客人が来ておるぞ」
「……客人?」
眉を顰める保憲を見つめ、忠行は大きく頷いた。
「ああ。御主の――、北の方じゃ」
「……お久し振りですわね、保憲殿」
「ああ」
半刻後。
保憲は賀茂家の客間に居た。
向かい側で、細君である姫君が畳の上に座っている。
「安倍晴明殿。貴方に会うのは、これが初めてだったかしら?」
彼女の視線が、保憲の隣にいる晴明に向けられた。
「はっ」
晴明は鋭い返事をし、深く頭を下げた。
床につけている両手が、微かに震えている。
「顔を、上げてください」
「はっ」
晴明は、床からゆっくりと視線を前方へと移した。
「まあ。噂通り、お美しい方。わたくしの屋敷でも、常に女房達が貴方のことを噂していました。わたくしも以前から是非お会いしたいと思っていましたのよ」
姫君は晴明の顔を見ると、頬を紅潮させて微笑んだ。
「それは光栄でございますな」
晴明もまた、ふうわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「それに、保憲殿からも貴方のことは何度もお聞きしていました故」
「保憲が?」
「ええ」
姫君は頷いた。
「寧ろ、保憲殿の口から出てくるのは晴明様のことばかりでしたわ」
「姫、余計なことを言うでない」
保憲が慌てて制止すると、姫君はくすくすと楽しげに笑った。
「全部本当のことではありませぬか。何を照れる必要がありましょうや」
「別に、照れてなぞおらぬ」
「ふふ、本当であるということは、否定しないのね」
「姫! 人をからかうのもいい加減に――!」
「――保憲、それは誠か?」
声を荒げた保憲の手に、晴明のそれが重なった。
突然のことに驚き、閉口する。
保憲を見上げる晴明の表情は、不安に満ち溢れていた。
「それは、誠なのか?」
震える声が、再び問う。
――嗚呼。
保憲の唇が、ゆっくりと曲線を描いた。
――此奴は私がまた姫の男に戻るのではないかと、思っておるのか。
故に、保憲が自分を好いていたということを暗示する出来事に、必死に縋りついているのだろう。
保憲は晴明の手を掴み、やんわりと握り締めた。
「……無論だ」
はっ、と瞳を大きく見開く晴明に、微笑みかける。
「案ずるな、晴明。私はもう何処へもいかぬ。以前、言ったであろう。ずっと、貴様の傍にいると」
手を握る力を、強めた。
「貴様と繋いだこの手は、もう二度と離さぬ」
「……保憲」
蜜色の瞳から、涙が零れる。
乱暴にそれを指先で拭い、晴明を抱き寄せた。
「――そういう訳だ、姫。私はもう此奴しか愛することが出来ぬ。悪いが、貴様との夫婦の縁を、今此処で断ち切らせてもらいたい」
「……ええ、構いませんわ」
姫君は小さく頷き、目を伏せた。
「わたくしもそのつもりで、今日此処を訪れたのですから」
「何」
驚く保憲に構わず、姫君は言葉を続けた。
「初めてお会いした時、貴方はおっしゃっていましたわね。私はある禁忌を犯してしまったのだと。もう元に戻れぬのだと分かっていても、なお求め続けている己が浅ましくて仕方がないのだとも。詳しいことは口にしませんでしたが、悲しそうな顔で話し続ける貴方の心の拠り所になりたいと、わたくしは思いました。しかし、毎晩保憲殿とお会いするうちに、哀れみがいつしか恋慕へと変わったのです」
姫君は、すう、と目を伏せた。
「それでも保憲殿は、わたくしを女として見てはくれませんでした。貴方の目は、わたくしを通して晴明殿を見ておられました」
姫君は、唇を噛み締めた。
「正直、悲しかったですわ。少なくともあまり心地良いものではありませんでした。それでも、貴方を恨むことはできませんでした」
「――何故です」
晴明が何時に無く怒気を含んだ声で問うた。
「正妻である貴女が一番愛されるのが道理でしょう。それなのに――」
「あら、貴方がそんなことをおっしゃるのですか。おかしなこと」
姫君は心底おかしそうに笑った。
「でも、嬉しいですわ。自分を差し置いて、そこまでわたくしに親身になってくださっているもの。やはり、保憲殿がおっしゃっていた通りの人なのですね」
顔を上げ、晴明を見つめる。その瞳は、優しかった。
「だからわたくしは、保憲殿を憎むことができなかったのです。晴明殿のことを語る保憲殿があまりにも優しげな表情をするものですから。きっと晴明殿が保憲殿を幸せに出来るのだと、信じておりました。勿論、それは今でも変わりませぬ」
目を細めて笑う姫君の目尻から一筋、涙が伝った。
「保憲殿と、幸せになってくださいね。晴明殿」
三.
「――本当に良かったのか、保憲。姫君と夫婦の縁を切っても」
賀茂家の門前。
姫君が乗った牛車を見送りながら、晴明はぽつりと呟いた。
「かように良い人柄の女なぞ、今時何処を探してもおらぬぞ」
「……戯れ言を」
ぐい、と腕を引っ張られた。
保憲に、抱きしめられていた。
「私は最早、貴様しか愛することが出来ぬ。これから先も、誰よりも近くで貴様の笑顔を護ってゆきたいのだ。もしや、貴様はそれが厭なのか?」
「否、そんなことはない!」
晴明は慌てて首を大きく横に振った。
「俺も、貴様の傍にいたい……。俺は、貴様を――」
……今まで、ずっと言えずにいた言葉。
込み上げる涙の奥に、しまっていた言葉。
漸く、言える。
「――愛している」
保憲は一瞬だけ目を見開き、そして微笑んだ。
「私も、貴様を愛している」
頬に、手が添えられた。
「……え?」
驚く晴明に構わず、保憲の顔が近づいてきた。
「おい、外で何をいちゃついてんねん自分等は」
両手が伸び、男が二人の間に割り込む。
……歪であった。
伸びていた髪は元通りの長さに戻っていた。
見るに耐えなかった傷も、すっかり癒えて跡形もない。
「歪……、貴様……生きていたのか」
晴明は呆然と呟いた。
大祓のあの日。
鬼と化した保憲に首を折られた後、忽然と姿を消したのだ。
故に、保憲も晴明も、歪は死んだものとばかり思っていたのだが。
「甘いで、姫さん。わては天才と謳われる賀茂保憲の式なんやで。そう簡単に死んでたまるかっちゅー話や」
「――歪!」
歪の声を遮るようにして、叫ぶ。
衝動のままに、抱きついた。
「良かった……。本当に、良かった……」
「姫さん」
歪の両腕が、背中に回された。
刹那。
「歪、いい加減に離れろ」
地を這うような声が聞こえると共に、腕を引かれる。
これ以上ない程に不機嫌な顔をした保憲が、歪を睨み付けていた。
「何や、やっすん。嫉妬か?」
歪がにまにまと笑みを浮かべ、肩を小突いた。
「……阿呆」
保憲は一言そう呟くと、踵を返して賀茂家の門に向かって歩き始めた。
「おろろ? あのやっすんが、わてを怒らへんかった……」
遠ざかる保憲の背中を見つめながら、歪が小さく首をかしげた。
すかさず、晴明が言う。
「きっと、保憲も貴様が生きていて安堵しておるのだろう。奴が、一番貴様の死を嘆いていたからな」
「……さよか」
歪は、ほう……、と静かに息を吐いた。
静寂が、広がる。
「――それにしても、道満殿は何故、平安京を滅ぼそうとしたのであろうな。忠行殿に裏切られたのだと言っていたが、あれは一体……」
晴明は顎に指を添え、目を伏せた。
『有難う……忠行殿』
道満の最期が、瞳の裏に蘇る。
視線を交じり合わす二人の間に、並々ならぬ絆を感じた。
それは友情とも思慕とも違う。
深い、深い、他人には知りえぬものであった。
「……え。もしかして、姫さん知らへんかったんか? 道満とおっちゃんの関係」
「関係?」
歪は「そうや」と頷き、空を仰いだ。
数多の雪が、天から舞い落ちている。
「道満とおっちゃんは、元々賀茂家の先代に仕えていた兄弟弟子やったんや。随分と歳の差があったんやけど、仲はめちゃめちゃ良かったみたいや。せやけど、おっちゃんが三十歳になった年に、ある事件がおきた」
「事件?」
晴明が聞き返す。
歪は視線を晴明に戻し、苦しげに眉根を寄せた。
「……道満が娶る予定やった女と、おっちゃんが契ったんや。そして女は腹におっちゃんの子を宿してしもうた」
「と、いうことは」
「その女は、やっすんの母ちゃんや」
「……」
何も言えなくなり、晴明は俯いた。
重い沈黙が、訪れた。
気まずい空気に耐え切れなかったのか、歪はごほんと咳払いをした。
「……女を寝取られてしまった道満は怒り、おっちゃんとの仲は険悪になった。そして同じ頃、もう一つの事件が起こった」
「何が起きたのだ?」
「おっちゃんが道満を差し置いて陰陽頭になったんや。同時に、道満は大内裏から追放された」
「何故、そのようなことに」
「道満は、当時二十三歳やった。せやけど、すでにおっちゃん以上の実力の持ち主やった。陰陽頭になるのも時間も問題かとまで言われていた程にな。一方で、藤原氏にも同じ歳の男がいた」
「……まさか」
晴明は息を呑んだ。
「そのまさかや」
歪は眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。
「藤原氏の陰謀で、道満は謂れのない罪を被せられ、大内裏から追放されたんや。一族の繁栄の為にも、才のある道満を野放しには出来なかったんやろうな」
「……だから道満殿は、忠行殿を憎み、平安京を滅ぼそうとしておられたのか」
少し間を置き、晴明は言った。
道満の無念さを思うと、たまらなかった。
「やろうな」
歪も同じ気持ちなのか、声に覇気がない。
「ところで、その話は何処で聞いてきたのだ」
俺でも知らなかったぞと、晴明は付け加えた。
「それは」
歪は言いよどみ、視線を移ろわせた。
「……ちょうど、姫さんが来る前の年の春に、やっすんの母ちゃんが亡くなったんや」
「え」
「今際の際にやっすんに全てを離して、あの人は亡くなった。わても近くで聞いていたから、よう覚えとる」
「そうであったのか……」
晴明は息を吐き、ゆっくりと双眸を閉じた。
賀茂家に拾われて八年。
晴明は一度も、保憲の母親に会ったことがなかった。
何処にいるのかと訊きたくても、怖くて訊けなかった。その問いの答えは、大きな不幸しかないのだと、分かっていたから。
「……ま、そんな暗い顔をすんなや。もう過去のことやし、今更くよくよ悩んだってどうしようもあらへんやろ」
歪はにかっと歯を見せて微笑んだ。
「わては姫さんの落ち込んだ風な顔も好きやけど、笑った顔の方がもっと好きやで?」
「歪……」
「せやから、笑っていてや。姫さん」
「……ああ」
晴明は頷き、小さく笑みを浮かべた。
――もう、俺はあの時とは違う。
誰にも必要とされなかった、半妖と蔑まれ続けた、あの頃。
果てしなく続く闇から抜け出せる方法なぞ、無いように思えた。
だがその闇を一人の男が斬り裂いてくれた。
居場所を与えてくれた。
命を賭して護ってくれた。
だがら、自分は此処にいる。
此処で、笑っていられる。
「……父上」
空を見上げ、再び微笑む。
『そのようなありとあらゆる人間にとって忌むべき存在の俺に、これ以上生きる価値など何処にある?』
幼い頃の記憶が、脳裏を過ぎった。
「俺は……、生きます。生きて、誰かを護り抜けるような人間になります。……必ず」
「――ん? 何か言うたか、姫さん」
歪が、首を傾げて此方を見る。
「否、何でもない。それよりも、早く屋敷の中へ戻ろうぞ。寒くて敵わぬ」
「……え、せやけど」
「早く、早く!」
何か言いたげな顔をしている歪の背中を押しつつ、晴明は門を潜った。
雪が、しんしんと降っている。
睦月。
京で桜が咲き誇るのは、まだ先である。
完