第十一章 椿の花弁は二度散る
一.
「つば……き……」
震える声で、名を呼ぶ。
同時に激情が身体の奥底から込み上げた。
「よお、坊主。自分が今しとること、分かっとんのか……」
群青の炎が歪の身体を包み込む。
袖が舞い、髪が波打った。
「椿樹を……、こんなことに利用すんなや!」
足を蹴り、道満に飛び掛った。
「ああああああぁっ!」
視界に、きらりと光るものが映る。
刹那。
視界が、赤く染まった。
「ぐっ!」
目の前に迫ってきた切っ先をどうにか受け流し、足を滑らせて後退した。
がぱあっ、と額の傷口が開き、血が噴きだした。
「椿樹。仲間に刀向けるなんて、自分らしくないで」
笑み、前方を見遣る。
「安心せい。こんなくだらん術、わてが破ったるから」
片手で印を結び、刃に当てる。
つう、と指先を移動させると、刀身に群青の炎が灯った。
「おい、生臭坊主。今まで自分に見せた武術がわての全てやと思うなよ」
「ほう」
「こう見えても、やっすんの式になる前はちょっとしたモンやったんや。自分も法師なら知らへんことはないやろ?」
「……ああ」
道満の口元に、笑みが浮かんだ。
「確か……月の出ない夜に女を襲って喰らう、桂男という妖であったな」
「ご名答」
額に掌を翳す。すると、蒼い炎がより一層輝きを帯び、天に向かって燃え上がった。
同時に、身体のあちこちで変化が起こり始めた。
首につく程度だった群青色の髪が、膝辺りまで伸びた。
漆黒であった瞳は蒼い光を点して、爛々《らんらん》と輝いている。
「――ぐっ」
突然、背中に鋭い痛みを感じ、歪は顔を僅かに顰めた。
ひらり、と。
白い羽毛が視界の端で舞うのが見えた。
純白の翼。
月の住人の証である。
「おお」
道満は片眉を上げ、感嘆の息を漏らした。
「これが本来のお前さんの姿か。成程……、中々に壮観だ。だが、それで本当に私に勝つつもりか?」
「どういう――」
……どういう意味だ。
歪はその問いを唾液と共に飲み込んだ。
目の前に、振り下ろされた刃が迫っていた。
「だあぁっ!」
叫び声を上げつつ、受け止める。
交差した刀の先で、蒼い瞳が此方を無表情に見つめていた。
「……私と闘う前に、其奴を倒さねばならぬのだ」
楽しげな声で、道満が言う。
「見た目は椿樹そのものだが、中身は私の敵を排除することしか頭にない……只の殺人狂だ。いくらお前さんでも、仲間を斬ることは出来まい」
「そんなもん……、やってみんとわからへんやろ!」
柄を持つ手に力を込め、刀を押し返す。
椿樹の身体が宙に浮き、ふわりと地面に降り立った。
「くっ……!」
刀を持つ手が、震える。
――あかん……。
斬らねばならぬ相手。
そう分かってはいる。
……だが。
身体が。
心が。
目の前の男を斬ることを拒絶しているのだ。
――いくら複製や言っても、姿形が椿樹なんや。斬れる訳がないやろ。
「どうした、余所見している暇はないぞ」
道満の声が聞こえると共に、頭上に影が差す。
赤い糸が頬を擽った。
「なっ!」
刀が弾き飛ばされ、地面に転がった。
思わず、視線を落とした。
次の瞬間。
「ぐあっ!」
突然身体中を襲った、鋭い痛み。
鮮血が腹から噴出し、狩衣を濡らした。
「ごほっ」
口から血を吐きながら仰向けに倒れた歪の上に、椿樹が馬乗りになる。
右手が伸び、歪の喉に触れた。
「あぐ……っ、ああぁあ、あ……っ!」
喉をぎりぎりと骨が軋む程に締め付けられ、歪は大きく悲鳴を上げた。
息苦しさで視界が霞む。
「つば、き」
手を伸ばし、喉を絞めている腕を掴む。
「!」
椿樹が大きく息を呑む音が聞こえた。
見開かれた蒼い瞳が、微かに揺れている。
「なあ……、わてが……やっすんの、式神になった時のこと……、覚えとる、か……」
開いた唇からひゅうひゅうと掠れた音が漏れ、一筋の紅が口端を伝う。
だが、歪は言葉を続けた。
「どんな……ことが……あっても、仲間を……大切な人を……絶対に……傷付けたら、あかんって……自分が、教えてくれた……んや……」
「――何時まで喋っているつもりですか」
椿樹が冷やかな声で言い放った。
「貴方の過去に何があったのか知りませんが、私には全く関係の無いことです。大人しく死んでください」
椿樹の指先が、首に深く食い込む。
「ぐうっ!」
あまりの息苦しさに、思わず息を詰めた。
だがけして視線を椿樹から逸らさなかった。
激しい情念が、身体の奥底から競りあがる。
「自分こそ、何時までこんなこと……やっとるつも……りや……っ!」
「何」
「自分も、椿樹なんや……ろ……。複製やろうが……何やろうが……、椿樹なんやろ!」
『……歪』
目の前の男が最期に見せてくれた笑顔が、脳裏を過ぎる。
隣に居ることが当たり前だった人が、目の前で消えてしまった。
其の存在が自分にとってどれ程大切なものなのか、嫌でも気付かされた。
「――だったら、こんな……こともう……止めてくれや……。見ているこっちが……、辛いんや……」
ぎりっ、と唇を噛み締める。
「自分が……紛い物やって……わかっとるけど……、頭では、そう……理解しとるんやけど……心が」
歪は口角をにぃっとつり上げ、自分の胸を片手で押さえた。
本当は、大好きだった。
だからこそ人を傷付ける姿を見るのは嫌だった。
それは椿樹が禁忌としていたことだったから。
……たとえ、目の前にいる男が偽者だったとしても。
「――此処が、自分は椿樹やって……叫んでんねん」
ふっ、と目を伏せる。
「でも……どうしても、自分が……わてを、斬るっていうなら……、仕方あらへんよ、な」
「ぐっ!」
椿樹の顔が、苦痛に歪んだ。
腹部を、歪の手が貫いていたのだ。
「堪忍な……、椿樹。一度……だけ教えに、背かせてもらうで……!」
力が弱まった手を首から引き剥がし、言う。
その表情は悲しみに満ち溢れていた。
「自分を倒さんと、仲間を守れへんねや。そしてそれ以上に――」
椿樹の身体から、手を引き抜く。
ぐちゃりと、水音が鳴ると共に、大量の血が地面を濡らした。
「自分が仲間に手を上げるのを見るのが、嫌なんや」
椿樹の身体が、歪の上にのしかかる様にして倒れた。
荒い息遣いと身体の震えが衣越しに伝わる。
それは、椿樹の最期が近いことを如実に示していた。
「何故……でしょう……。貴方とは、初めて会った気が……しない、のです」
地面に手を付き、椿樹はゆっくりと起き上がった。
歪を見つめる蒼い瞳は、何時に無く優しい。
「貴方を……斬る時、己の意志に反して……腕が、震えた。貴方の首を……絞め……た時、胸が苦し……くて、仕方がなかった」
つうっ、と。
涙が一筋、頬を零れ落ちた。
「流れそうになる、涙を堪えるのに必死だった……っ!」
「……椿樹」
腕を引き寄せ、抱きしめる。
腕の中に納まっている男の肌は、とても冷たかった。
「すみま……せんでした……私は、仲間であった筈の貴方を……、かような目に――」
「――謝らんでも大丈夫や。それに、謝らなあかんのはわての方や……」
歪はゆっくりと瞳を閉じ、小さく微笑んだ。
『泣かないで、ください』
赤い月下で見た笑みが、頭に浮かんだ。
「堪忍。泣くなって言われたけど、無理みたいや……」
声が、震える。
目から熱いものが流れるのを、感じた。
二.
視界が、紅く染まった。
つうっ、と、液体が頬をから伝い落ちる。
地面に複数の小さな円を描いたそれは、鮮血だった。
「……え?」
視線を上げた先の光景に、歪は目を見開いた。
先程まで椿樹を抱きしめていた彼の手は血に濡れている。
周囲には、数多の赤黒い塊が飛び散っていた。
それを椿樹の肉片だと理解した刹那、胃腸から大量の何かが込み上げた。
「……ぐっ、おえ……っ!」
激しくえづき、片手をつく。
身体中ががたがたと震え、冷や汗が零れた。
「はあ、はあ……っ」
「ふん、本当に使い物にならんな」
背後から聞こえた、声。
道満が、此方を見下ろしていた。
黒い襤褸布から伸びた右手の上で、漆黒の炎がめらめらと燃えている。
「道満……、これは自分がやったんか? 椿樹を、どないしたんや!」
「ふん。只、使えない道具を消しただけだが?」
「何、やて」
眉を顰め、拳を握り締める。
それは震えていた。
押さえようのない怒りで、震えていた。
「何をそんなに憤る必要がある? 陰陽師や法師にとって式神は道具でしかないだろう。……それに、この椿樹は私が創り出したものだ。どう扱おうが、お前さんに口出しされる謂れはない」
そこで、道満は言葉を切った。
「あああああぁっ!」
歪が雄叫びを上げて道満に向かって手を翳したのだ。
歪の手から放たれた幾つもの青い光が空中に舞い上がり、道満に直撃した。
霊気で袖がはためき。髪が靡く。
「……椿の花弁は二度と散った」
ぽつりと呟き、足を踏み出す。
先程の攻撃で、辺りは砂塵に包まれていた。
「一回目も二回目も、自分の所為で散ってしもうたんや……っ!」
砂塵の向こう側にいるであろう、道満を睨み付けた。
瞬間。
「華は何時か散るものだ。それを早く散らせて何が悪い」
声が、響く。
同時に肩に重みを感じ、視線を後ろに向けた。
そして、驚愕で瞳を大きく見開いた。
視線の先にいたのは、歪の攻撃を喰らった筈の道満だった。
「な……」
何故。
そう、続ける筈だった。
だが出来なかった。
突然伸びてきた手が首の下を潜り抜け、強い力で締め上げたのだ。
「っ!」
慌ててその手を振り払おうとしたが、歪の身体は一寸も動かなかった。
道満の指先から、黒い光が放たれていた。
――呪を掛けたんか……!
唯一動かせる目で睨み付け、抵抗の意志を示す。
そんな歪を見つめ、道満はくすくすと笑みを零した。
「何だ、その瞳は」
空いた方の手が、歪の頬に触れた。
その時。
ばきぃっ、と拳が頬を打つ音が響いた。
「ごほっ!」
なす術もなく顔を殴られ、視界が大きく揺れた。
「ぐ……っ」
羽交い絞めにされている状態で倒れる事も出来ずに、呻く。
飛び散った紅が、地面に花弁を落とした。
「お前さん等のそういう所が嫌いなのだよ、歪。此方がどれだけ追い詰めようとも、どれ程絶望を味合わせようとも、希望を捨てようとせず、立ち向おうとする。主の名を呼んでな。式神は式神らしく我々に服従しておけば良いものを。それが、お前さん等の信頼というものなのか?」
前髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
直後、首を強く締め付けられた。
「あ、ぐぅ……っ!」
小さく悲鳴を上げる歪に構わず、道満は話を続けた。
「信頼なぞ、儚きものだ。此方がどれ程に想いを寄せようとも、相手も同じ気持ちだとは限らぬ。どうせ直ぐに裏切られるものなのだよ。お前さん達もそうさ。保憲に幾ら信頼を寄せたとしても、どうせ何時かは裏切られるに決まっている。嘗て私が忠行に裏切られたようにな」
「ぐ、ぅ……っ!」
「……ふん」
呻きながら首を横に振る歪に、道満は小さく笑みを浮かべた。
「お前さんが主に裏切られる前に、私が殺してやろうと思っていたが、やめだ」
首を締め付ける力が緩み、歪の身体を支えていたものがなくなった。
ふわりと身体が浮き、地面にたたきつけられる。
「げほっ、げほっ!」
歪は首元に手を当て、大きく咳き込んだ。
いつの間にか呪が解け、身体が動くようになっていた。
頭上に、影が差す。
顔を上げると、口元に笑みを浮かべている道満が見えた。
「ジキタリスの宴は、まだ終わっておらぬぞ。歪」
道満の身体を漆黒の炎が包む。
禍々しい霊力を感じ、背中につうっと冷や汗が伝った。
「私は保憲を攫った時、あ奴の身体に種を宿した。ま、お前さんにも宿してはみたが、失敗に終わったがな」
「……ある、種?」
道満は「そうだ」と小さく頷き、炎に包まれた片手を頭上に翳した。
「人の心に潜む闇を養分とする種だ。それはやがて身体中に根を張り、鮮やかな曼珠紗華に似た紅い華を咲かすのだ」
「咲いたら、どうなるんや」
「……咲いた後、その者は鬼となり、最も親しき人間を食い殺すのだ。そして、その力によっては平安京を滅ぼすほどの力を発散してしまう」
「じゃあ、自分がやっすんを攫ったのは……!」
驚く歪を嘲笑うかのように、道満はにやりと口角を上げた。
「そう。保憲の霊力で、平安京を滅ぼす為だ!」