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TS聖女、現代に帰還しアイドルになる  作者: ブリザード
第一章 TS聖女、現代に帰還する

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第2話 聖女アリサ、身体検査される

目を覚ましたとき、私は自分がどこにいるのかすぐにはわからなかった。

見上げた天井には、どこか見覚えのある小さな染みがある。

カーテンの隙間からは白っぽい朝の光が差しこんでいて、遠くでスズメが鳴いていた。


意識が戻ると同時に体が勝手に動いて、私は枕元に立てかけてあるはずの聖剣を探している。

アイテムボックスでは一拍遅れると、異世界での三年間はどこで眠るときでも、手の届くところに置いておくのが当たり前だったからだ。

けれど伸ばした指先に触れたのは、聖剣ではなく、さらさらとした誰かの髪だった。


「……んぅ、おにぃちゃん……」


顔を横に向けると、すぐそこに陽菜の寝顔があった。

陽菜は私のパジャマの袖をしっかりと握りしめたまま、すうすうと寝息を立てている。

ゆうべ、お父さんに抱えられて自分の部屋へ運ばれていったはずなのに、いつの間にか私のベッドにもぐりこんでいたらしい。


陽菜を起こさないようにそっと体を起こして、私は部屋の中を見回した。

本棚に並んだゲームのパッケージも、壁のフックに掛かった中学のかばんも、三年前に最後に見たときのままだった。

机の上の卓上カレンダーだけが、三年前の日付を開いたまま、そこで時間を止めている。


部屋のどこにも、ほこりはひとつも積もっていなかった。

きっとお母さんが、この三年間、毎日掃除をしてくれていたのだろう。

それなのに、あのカレンダーだけは、一度もめくられなかったのだ。


布団から出した自分の手に視線を落とす。

向こうの世界にいたあいだは、私はこの部屋の夢を数えきれないほど見て、そのたびに石造りの冷たい天井の下で目を覚ました。

けれど今目の前にあるのは、白くて細い女の子の手と、三年前と同じこの部屋の天井だった。


階段の下から、とん、とん、と包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。

それと一緒に、お味噌汁の匂いが、ドアの隙間からふわりと流れこんできた。

それだけで帰ってきたんだなぁ、と改めて実感する。


袖をつかむ陽菜の指をそっとほどこうとすると、陽菜のまぶたがぱちりと開いた。


「……お兄ちゃん、どこ行くの」

「下だよ。もう朝ごはんだから」

「陽菜も行く……」


陽菜は寝ぼけ眼のまま、私の袖をつかみ直してベッドから這い出してきた。

どうやら今朝も、この袖を離してくれるつもりはないらしい。


台所では、エプロン姿のお母さんが、フライパンで卵焼きを巻いていた。

ダイニングのお父さんは新聞を広げていたけれど、着ているのは会社用のスーツではなく、毛玉の浮いた茶色のセーターだった。


「おはよう、優。よく眠れた?」

「うん……おはよう母さん。父さん、会社は?」

「休んだ。有給なら、山ほど残ってるからな」


お父さんはそれだけ言って、また新聞に目を戻した。

けれど、その新聞がさっきから一枚もめくられていないことに、私はちゃんと気づいていた。


テーブルに並んでいたのは、焼き鮭と卵焼きと、湯気の立つお味噌汁だった。

三年ぶりにこの家で両手を合わせて、お味噌汁をひと口すすり、焼き鮭をほぐして、ご飯をかきこむ。

気がついたときには、お茶碗はもう空っぽになっていた。


「お母さん、陽菜も今日、学校休む!」

「だめです」

「なんで! お兄ちゃんが帰ってきたんだよ!? お父さんだって休んでるのに!」

「お父さんは大人だし有給だからいいの。陽菜はそんなのないんだから、ちゃんと学校に行きなさい」


陽菜はぷうっと頬をふくらませて、お父さんのほうをちらりと見た。

お父さんは新聞の向こうに顔を隠して、すっかり知らんぷりを決めこんでいる。

私は黙って空のお茶碗を差し出して、目尻をくしゃりと下げたお母さんから、二杯目の大盛りを受け取った。

向こうで改めて得た教訓の一つにもある、君子危うきに近寄らず。


食後のお茶を飲んでいると、お母さんが、私の格好を上から下までしみじみと眺めた。

中一のころとはいえ、男物の私のパジャマは今の体には大きくて、袖口からは指の先がちょこんとのぞいているだけだ。


「それにしても優は着る服をどうにかしないとねえ。まさか、あの白い服で出歩くわけにもいかないでしょう?」

「あれは法衣……まあ、目立つのは確かだけど」


カーテンレールに吊るされた法衣は、朝の光を浴びて、銀糸の刺繍をきらきらと光らせていた。

あれを着て近所を歩いたら、三分もしないうちに町内中の噂になるだろう。


とりあえずお母さんに押し入れの奥から、中一のころの私の服を引っぱり出してもらった。

けれどトレーナーは肩の線がずり落ちて、袖が手の甲まですっぽりとかぶさってしまう。

ジーンズにいたってはウエストがぶかぶかなのに、なぜかお尻でつっかえて、上まで上がってくれなかった。


「……なんでだよ」


鏡の前で途方に暮れていると、陽菜がぱっと顔を輝かせて私の腕を引っぱった。


「お兄ちゃん、陽菜の服、貸してあげる!」


陽菜の部屋のクローゼットは、淡いピンクと水色とクリーム色で埋めつくされていた。

陽菜はその中から次々に服を引っぱり出しては、私の体に当てて首をかしげていく。


「これもかわいい……でも、こっちのほうが似合うかも」

「陽菜、ズボンは? 戻ってきたんだしズボンがいいんだけど」

「あるけど、だめ」

「なんで」

「今のお兄ちゃんには、絶対こっちのほうが似合うもん」


陽菜が自信満々に差し出してきたのは、紺色のプリーツスカートだった。

助けを求めて振り返ると、いつの間にか部屋の入り口に立っていたお母さんが、にこにことうなずいている。


「あら、いいじゃない。陽菜、センスあるわね」

「母さんまで……」


二対一では、どう考えても分が悪い。

それによく考えてみれば、向こうの世界の法衣だって、裾の長いスカートのようなものだった。

あれを着て三年間も魔王軍と戦ってきたのだから、今さらスカートの一枚くらいで騒ぐのは、聖女としてどうかと思う。


結局、私は陽菜が選んだクリーム色のセーターと紺色のスカートに、黒いタイツを合わせることになった。

ゆったりめに作られたセーターなのに着て胸がきついなぁと思ったのは、陽菜の名誉のために声にはしない。

さらに陽菜は私の長い銀髪を後ろでひとつにまとめて、自分のヘアゴムで留めてくれる。

昔は髪を結んでとせがまれても一度もやってあげなかったのに、まさか陽菜に結んでもらう日が来るとは思わなかった。


陽菜の部屋の姿見に、二人並んで映ってみる。

三年前は私の胸のあたりまでしかなかった陽菜の頭が、今では私とほとんど同じ高さにあった。


「……お兄ちゃん、かわいい」

「それ、褒めてる?」

「すっごく褒めてる」


リビングに下りていくと、新聞を読んでいたお父さんが、私を見たまま固まった。

それからゆっくりと新聞を持ち上げて、その向こうに顔を隠してしまう。


「……似合ってる」


新聞の向こうから聞こえてきた声は、ほんの少しだけ震えていた。


「ほら陽菜、もう八時よ! 遅刻するわよ!」


ランドセルを背負って玄関に出た陽菜は、靴を履いたあともなかなかドアを開けようとしなかった。

ドアノブに手をかけたまま、陽菜は肩越しにちらりと私を振り返る。


「……お兄ちゃん。陽菜が帰ってきたら、ちゃんといるよね?」


さっきまで服を選んでいたときとはまるで違う、小さな声だった。

三年前のあの日の朝も、陽菜はいつもどおりに、この玄関で私を見送ったはずなのだ。


「いるよ。どこにも行かない」

「……約束だよ」

「うん、約束」


陽菜はようやくうなずくと、勢いよくドアを開けた。

それから門のほうを見て、あっ、と小さな声を上げる。

門の前に、スーツ姿の大人が二人、並んで立っていた。


「あ、真壁のおじさんだ! おはようございます!」

「おはよう、陽菜ちゃん。これから学校かい」

「うん! いってきます!」


陽菜は二人にぺこりと頭を下げると、何度もこちらを振り返りながら通学路を駆けていった。

私はその背中を見送ってから、門の前の二人に目を移す。


ひとりは、白髪まじりの髪を短く刈りこんだ、五十歳くらいの男の人だった。

着古したコートの下のスーツは、肘のあたりがうっすらとてかっている。

もうひとりは二十代半ばくらいの女の人で、少し大きすぎるスーツの肩に、銀色の重そうなケースを提げていた。


平日の朝早くから、スーツ姿の大人が二人、連れ立って家にやってくる。

どう好意的に考えても、のんびり世間話をしに来た人たちには見えなかった。

私は無意識のうちに、お父さんとお母さんを背中で隠せる位置まで、半歩だけ前に出ていた。


男の人の目が、私の顔の上でぴたりと止まった。


「……白絃優くん、ですね」


私が黙ったままでいると、男の人は小さく咳払いをした。


「失礼。クラスの子たちの証言をもとにした似顔絵は、何度も見ていたんですが……実物は、ずいぶん印象が違うもので」

「あら、真壁さん! おはようございます」


私の後ろから顔を出したお母さんの声は、まるで近所の人にでも会ったかのように明るかった。

続いて出てきたお父さんも、男の人に向かって深々と頭を下げる。


「真壁さん、わざわざすみません……優、この人はな、お前がいなくなってから、ずっとお前を捜してくれていた刑事さんだ」


立ち話もなんだからと、お母さんが二人をリビングに招き入れた。

ソファの向かいに腰を下ろした男の人が、内ポケットから名刺を取り出して、私の前に差し出す。

いかめしい明朝体で印刷されていたのは、『異世界召喚対策研究所』という名前と、『真壁』という名字だった。


「……ずいぶん、そのまんまな名前ですね」

「ですよね!? 私も最初に聞いたとき、絶対に冗談だと思いました!」


勢いよく身を乗り出してきたのは、若い女の人のほうだった。

膝の上のケースが、がちゃりと重たい音を立てる。


「日比野」

「あっ、すみません! 研究員の日比野です、よろしくお願いします!」


真壁さんにひと言たしなめられて、日比野さんは膝に額がつきそうなくらい深く頭を下げた。

真壁さんは小さくため息をついてから、改めて私に向き直る。


「真壁です。今は警察から、この研究所に出向しています」

「颯太くんたちの夢の話を、最初に真面目に聞いてくださったのも真壁さんなのよ。ほかの刑事さんたちは、子どもの作り話だって、相手にもしてくれなかったのに」

「三十人の子どもが、毎晩同じ夢を見ていると言うんです。作り話にしては、証言が揃いすぎていました」


私が向こうへ連れていかれてから二年後に、国はひそかにこの研究所を立ち上げたのだという。

同じような召喚が、いつまた起きるとも限らないからだ。

日本の政府が、異世界召喚の対策機関を作った――そう口で言うのは簡単だけれど、すぐに信じられる話ではなかった。


「本日は、優くんにお願いがあって参りました。研究所で、いくつか検査を受けていただきたいのです」


研究所で、検査。

その二つの言葉を並べられて、のんきな想像ができるほうがどうかしている。


向こうの世界でも、聖女の力を欲しがる人たちは、たいてい丁寧な言葉と立派な肩書きを携えてやってきた。

その笑顔の裏で何が計算されていたのかを、私は三年間、嫌というほど見てきたのだ。


お父さんとお母さんが、この人を信じているのはわかる。

だからこそ、もし二人がだまされているのなら、それに気づけるのは私しかいなかった。


「失礼ですが……初対面なので私はまだ、あなた方を信用できません」

「優!」


お母さんが慌てて私の名前を呼んで、お父さんも困ったように眉を下げた。

けれど真壁さんは表情ひとつ変えずに、まっすぐに私を見返している。


「父さんたちが真壁さんを信じてるのは、わかってるよ。でも俺は、自分の目で確かめたいんだ」


私は二人にそう告げてから、真壁さんに向き直った。


「ですから、少しだけ確かめさせていただけませんか……魔法で」

「ま、魔法……!?」


声を裏返らせたのは、日比野さんだった。

真壁さんはしばらく黙っていたけれど、やがて静かにうなずいた。


「……どうぞ。こちらには、隠すことは何もありません」


ゆうべ校庭で結界を組みかけたとき、指先には確かな手応えがあった。

世界を渡ってこられた以上、この世界でも私の魔法は使える。

それでも、こっちの世界で本当に魔法を使うのは、これが初めてだった。


私は右の手のひらを上に向けて、短い詠唱を口の中で転がした。

手のひらの上に、ピンポン玉くらいの白い光がぽっと灯る。

光から伸びた二本の細い糸が、真壁さんと日比野さんの胸もとへ、するすると吸いこまれていった。


「魔法『嘘検知』です。すいませんが、これからする質問に答えてください。本当のことでしたらこの光は白いままです。でも、嘘をつけば、赤く濁ります」

「ほ、本物……! 真壁さん、見てくださいよ。光源が、光源がどこにもないです……!」

「日比野……見ればわかるよ」


ケースを抱きしめて震える日比野さんの隣で、お母さんだけが、きれいねえ、と花火でも眺めるように目を細めていた。


「まず一度だけ、わざと嘘をついてみていただけますか? どんな嘘でも構いません」


真壁さんは顎をなでて少し考えてから、低い声で言った。


「……私は、甘いものが苦手です」


その瞬間、白かった光が、じわりと赤黒く濁った。


「真壁さん、毎日三時になると、どら焼き食べてるじゃないですか!」

「うちに来てくださるときも、いつも駅前の栗まんじゅうを買ってきてくださるものねえ」


お母さんにまで追い打ちをかけられて、真壁さんは気まずそうに咳払いをした。

光はすぐに、元の白さを取り戻していく。


「では、本題です。あなた方は、本当に日本の政府の機関の方ですか?」

「はい」

「私や私の家族に、危害を加えるつもりはありますか?」

「ありません」


光は、白いままだった。

私はひとつ息をついて、いちばん聞きたかったことを口にした。


「……私を解剖したり、この力を無理やり使わせたりするつもりはありますか?」

「ありません。もし上の誰かがそんなことを言い出したら、そのときは私が止めます」


真壁さんは私の目をまっすぐに見たまま、そう答えた。

私が手を下ろすまで、光はほんのわずかも濁らなかった。


結果は、白だった。


「……本当に出来たんですね。そんな機関が」


日本の政府が、異世界からの召喚に備える研究所を作っていた。

三年前の私が聞いたら、きっと漫画の読みすぎだと笑い飛ばしていただろう。

でも私ひとりがいなくなったことは、知らないところでこの国を少しだけ動かしていたらしい。


真壁さんはしばらく、光の消えた私の手のひらを見つめていた。

やがてハンカチを取り出して、額に浮かんだ汗をぬぐう。


「報告書では読んでいましたが……実物を見ると、さすがにこたえますね」

「あのっ!! 今の、もう一回お願いできますか!? 測定器も持ってきてるんです!」

「日比野。だから、それは研究所でやれ」


ケースの留め金に手をかけたまま、日比野さんがしゅんと肩を落とした。

私はその様子に少しだけ毒気を抜かれながら、気になっていたことを尋ねた。


「どうして、私が帰ってきたことを?」

「クラスの子たちには、夢の話を定期的に聞かせてもらっていました。七日後の夜に帰る、という夢のことも」


真壁さんは、少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。


「ゆうべは校門の外に停めた車の中から見ていました。すぐにお話しするべきだったんでしょうが……三年ぶりの夜くらいは、ご家族だけで過ごしていただきたかったので」


お父さんが膝の上で拳を握りしめて、黙って真壁さんに頭を下げた。

一方の私は、ゆうべ校門の外に車が停まっていたことにすら、まったく気づいていなかった。

異世界での三年間は、どんな気配も見逃さないように生きてきたつもりだったので、聖女としてやり遂げた自信が少しだけ揺らぐ。

いや、それだけこちらの感情も帰還できたことで揺らいでいたのだろう、そういう事にしておく。


真壁さんは姿勢を正すと、今日の用件を改めて説明してくれた。

向こうの世界のウイルスなど病気を持ち帰っていないか、身体を調べること。

それから、私が白絃優本人だと、誰にも文句を言わせない形で証明すること。


「優くんは、書類の上では今も行方不明のままなんです。それと……あなたに何ができて、何ができないのかを、私たちは知っておく必要があるんです。あなたを守るためにも」


その言葉が本当かどうかを確かめるのに、もう魔法は必要なかった。


「わかりました。行きます」

「よし、俺も行こう」


すかさず腰を浮かせたお父さんの袖を、お母さんがやんわりと引っぱった。


「優の身体検査もあるんでしょう? 女の子なんですから付き添いは私が行きます。お父さんはお留守番ですよ」

「……そうか」


ソファに沈みこんだお父さんの背中は、しゅんと心なしか、ひと回り小さくなったように見えた。

時計の針は、まだ九時を回ったばかりだ。

陽菜が学校から帰ってくるまでには、きっと戻ってこられるだろう。




研究所は、家から車で一時間ほど走った先の、緑の多い郊外にあった。

門の脇の看板には聞いたこともない財団の名前が書かれていて、見た目もどこにでもありそうな、白くて四角い建物だった。


最初に通されたのは、病院の診察室のような部屋だった。

渡された薄青色の検査着に着替えると、白衣の看護師さんが手際よく身長や体重を測っていく。

身長計の目盛りは、今朝、鏡の前で並んだ陽菜とほとんど変わらない数字を指していた。

でも体重については陽菜の名誉のためにも口にはしない、しないったらしないのだ。


「では、採血しますね。ちくっとしますよ」


腕に押し当てられた針の先が、私の肌の上でぴたりと止まった。

看護師さんが首をかしげて、もう一度、少しだけ力をこめる。

次の瞬間、細い針が、まるで石にでも押しつけたかのように、くにゃりと曲がった。


「……え?」

「は、針が曲がった……!?」


部屋の隅で見ていた日比野さんが、ものすごい勢いでメモを取り始める。

曲がった針を見つめてしばらくして、私はようやく原因に思い当たった。


『守りの加護』


刃物でも毒でも、私の体を傷つけようとするものを弾いてしまう、常に身を守るための加護だ。

眠ってる時こそ危険なので、向こうでは眠っているあいだも切らさないようにしていた。

だからかけっぱなしにしていることを、自分でもすっかり忘れていたのだ。


「すみません。今、『守りの加護』を切りました」


新しい針は、今度こそすんなりと腕に吸いこまれていった。

ちくり、と走った痛みに、私は思わず顔をしかめる。

魔王軍の強力な刃を何度も受けてきたはずなのに、注射の針は、三年前の学校の健康診断の採血と同じくらい痛かった。


「優は昔から、注射だけはだめだったものねえ」

「……母さん、それは言わなくていいから」


血液のほかに綿棒で頬や鼻の内側もこすり取られた、ウイルスなどの感染調査のためだ。

あと、三年前の捜査のときに保管された私の歯ブラシや髪の毛のDNAと、これを照らし合わせるのだという。


体育館のような測定室に移ると、真壁さんも合流して、体力測定が始まった。

最初の種目は、握力だった。


「では、全力でどうぞ!」

「……全力ですか、たぶん不味いことになるかと」

「大丈夫ですよ。はい、思いっきり!」


全力で、と言われても困る。

向こうの世界でも私が心底全力を出したことは、魔王直属の四天王や魔王、大魔王や邪神と対峙した数えるほどの回数しかないのだ。

私は少し迷ってから、少しだけ本気で、握力計のグリップを握りこんだ。


ばき。


乾いた音とともに、握力計の持ち手が、私の手の中で真っ二つに折れた。

針はぐるりと一周回って、目盛りのない場所でぴたりと止まっている。


「日比野。握力計の予備は?」

「……ないです」


うん。

これ以上、お世話になる研究所の備品をむやみやたらと壊すわけにはいかない。

私は日比野さんから普通の中学生の女の子の平均値を聞き出して、反復横跳びも、立ち幅跳びも、ボール投げも、その数字に合わせて体を動かした。

結果は、どの種目も平均値とまったく同じだった。


「全部、平均値ぴったりなんですけど……」

「……加減ができるってことのほうが、よっぽど怖いな」


真壁さんのつぶやきに、日比野さんがこくこくと何度もうなずいた。




お昼に研究所の食堂で私がカツカレーの大盛りを二皿たいらげると、真壁さんは黙って遠くを見つめていた。

午後からは、魔法と言う事象の測定だった。


壁一面に計器が並んだ部屋で、私は言われるままに聖女らしく結界を張ってみせた。

真壁さんがこぶしで叩くと、何もない空中から、こん、こん、と分厚いガラスのような音が返ってくる。


日比野さんが投げたゴムボールは、見えない壁に当たって跳ね返り、日比野さん自身のおでこに命中した。

それでも日比野さんは、おでこをさすりながら、満面の笑みで計器の数字を書き写し続けている。


「あの、治癒の魔法も見せていただいてよろしいですか? 実はさっき、書類で指を切っちゃって」


差し出された人さし指には小さな絆創膏が巻かれていたので、私が指先をかざして短く詠唱すると、絆創膏の下の傷はあとかたもなく消えた。

はがした絆創膏の跡を見つめたまま、日比野さんは、しばらく声も出せずにいた。


DNA鑑定の結果が出たのは、日が少し傾き始めたころだった。

小さな会議室に戻ってきた日比野さんは、さっきまでとは別人のように、真剣な顔をしていた。


「結論から言います。アリサさんは、白絃優くん本人です」


日比野さんがテーブルに広げた書類には、グラフや記号がびっしりと並んでいた。

私には何が何だかさっぱりわからないけれど、日比野さんの説明をまとめると、こういうことらしい。


三年前の捜査で保管されていた白絃優のDNAと、今の私のDNAは、調べた部分のほとんど全部が一致していた。

違っていたのは、性染色体だけ。

男の子ならお父さんから受け継ぐはずのY染色体が、今の私では、お父さんのX染色体に置き換わっていたのだ。


四十六本ある染色体のうち、変わっていたのは、たった一本。

それ以外は、どこからどう見ても、白絃優のままだった。


「ただ、ひとつだけ説明のつかないことがあって……髪や瞳の色を決める遺伝子も、優くんのままなんです。遺伝子の上では、アリサさんの髪も瞳も、黒いはずなんですよ」


私は思わず、肩にかかった銀色の髪をひと房つまみ上げた。

蛍光灯の光を受けた髪は、いつもどおり、白っぽく透けて光っている。


「……私にも、わかりません」


隣に座っていたお母さんが、そっと手を伸ばして、私の頬に触れた。


「見た目はこんなに変わっちゃったのに、ほとんど優のままなのね」


お母さんの指先は、少しだけ冷たかった。

私はその手に自分の手を重ねて、黙ってうなずいた。


真壁さんは、受け取った書類に、長いあいだ目を落としていた。

やがて書類を閉じると、椅子から立ち上がって、私とお母さんに向き直る。


「でも、これで白絃優くんが帰ってきたと胸を張って報告できます」


真壁さんは、そのまま深々と頭を下げた。

白髪まじりの短い髪の真ん中に、つむじが見える。


「三年前、あなたを見つけることも連れ戻すこともしてあげられなかった……申し訳ありませんでした」

「見つかるはずがないですよ。別の世界にいたんですから」


私がそう答えても、真壁さんはなかなか顔を上げようとしなかった。

三年間、この人は見つかるはずのない私を、どんな思いで捜し続けていたのだろう。


「……それでも、ずっと私を捜してくださって、ありがとうございました」


ようやく顔を上げた真壁さんの目は、少しだけ赤くなっていた。


「おかえりなさい、優くん」

「はい……ただいま、帰りました」


テーブルの端で、日比野さんが盛大に鼻をすする音が聞こえた。


そうしてお茶を淹れ直してもらって、ひと息ついたあと。

日比野さんが、分厚いファイルをテーブルの上に広げた。


「最後に、能力についての聞き取りをさせてください。これが、クラスの子たちの夢の証言をまとめた記録です」


みんなが見ていた夢は、ところどころ途切れたり、ぼやけたりしていたらしい。

三十人分の証言をつなぎ合わせて、研究所が出していた結論は、こうだった。


「治癒、結界、浄化。いわゆる、聖女の力ですね。研究所ではアリサさんは支援型の能力者だと考えていたんです」

「あの……たぶん、それだけじゃないです」


私がおずおずと手を挙げると、二人の視線がいっせいにこちらへ集まった。


「聖女っていうのは、向こうの人たちがつけてくれた呼び名みたいなもので……剣も使えますし、攻撃の魔法も、ひととおりは。あとは転移とか、空を飛んだりとか、今朝の『嘘検知』みたいな、ちょっと便利な魔法もいろいろと」


日比野さんのペンが、目にも止まらない速さで動き出した。

その隣で、口に運ばれる途中だった真壁さんの湯のみが、ぴたりと止まる。


「ち、ちなみに、剣の腕前は……」

「向こうでは、純粋な剣で負けたことは、たぶん一度もなかったと思います」

「それって、聖女っていうより……勇者と賢者をひとりで全部やってたようなものじゃないですか!」


真壁さんは、まるで割れものでも扱うかのように、ゆっくりと湯のみをテーブルに置いた。


「……これは、できないことのほうが少なそうだな。逆に聞かせてもらいます。何か、できないことはありますか」


私は腕を組んで、真剣に考えこんだ。

自分にできないことを、ひとつずつ頭の中に思い浮かべてみる。


「……勉強、ですかね」

「勉強……」

「数学とか、英語とか。ああいうのは、流石に魔法でも能力でもどうにもならないので」


日比野さんがぷっと吹き出して、真壁さんは、そうか、とだけ短く答えた。

けれど次に口を開いた真壁さんの声は、さっきよりも少しだけ低かった。


「ちなみに治癒は、どこまで?」

「怪我や病気ならだいたいは。腕や脚がなくなっても、生やすことはできます」


日比野さんのペンが、そこでぴたりと止まった。

会議室の空気が、目に見えて重たくなる。


「……亡くなった人は」


私は、すぐには答えられなかった。

それがどれだけ重い問いなのかは、三年間で身にしみて知っている。

湯のみの中で揺れるお茶を見つめながら、私は言葉を選んだ。


「老衰で亡くなった人は無理です。体や魂そのものが、もう役目を終えているので」


真壁さんの肩から、ふっと力が抜けた。


「そうか。さすがに、死んだ人間を生き返らせるまでは――」

「でもそれ以外……事故とか病気とか殺害された人なら蘇生出来ます、やってました」


私の言葉に会議室が、しんと静まり返った。

真壁さんはしばらく固まったまま動かなかったけれど、やがて両肘をテーブルにつくと、ゆっくりと頭を抱えこんだ。


「これは……上にどう報告すりゃいいんだ」

「し、死者蘇生……実在するんですね……」


日比野さんは、青ざめているのか興奮しているのかよくわからない顔で、ペンを握りしめていた。

私は慌てて、顔の前で両手を振る。


「あの、でも、よほどのことがない限りは使うつもりはありません。命のことは、軽々しく扱っていいものじゃないので」

「あらまあ……すごいじゃない。じゃあ帰ったら、お父さんの腰も治してあげなさいな」


分かってるのかわからないお母さんののんびりとした一言に、真壁さんの頭がさらに深く沈んでいった。




研究所を出るころには、空はすっかり夕暮れの色に染まっていた。

大量のデータを抱えた日比野さんは、目の下にくまを作りながらも、満面の笑みで手を振って見送ってくれた。

後で聞いた話では、その日の真壁さんの報告書は、受理されるまでに七回も訂正する羽目になったらしい。


帰りの車がちょうど赤信号で止まったとき、運転席の真壁さんが口を開いた。

バックミラー越しに、真壁さんの目がこちらを見る。


「今日わかったことは、研究所の中でもごく一部の人間だけしか知らない扱いにします。あなたの力は外に知れたら、あなたを欲しがる人間がこの国の中にも外にも、いくらでも出てくるでしょうから」

「……はい、そうでしょうね」


向こうの世界でもそうだった。

聖女の力を巡って、どれだけの思惑がぶつかり合ったのかを、私は身をもって知っている。


「だから優くんは平穏に暮らしてください。学校に行って、友達と遊んで、ご家族とご飯を食べて……それを守るのが、私たちの仕事ですから」


普通に暮らす。

向こうの世界にいた三年間、何度も夢に見て、そのたびに手を伸ばしては届かなかったもの。


向こうで私を守ってくれた人たちが守っていたのは、いつだって聖女アリサだった。

ただの白絃優の毎日を守ると言われたのは、たぶん、これが初めてだった。


「……ありがとうございます、真壁さん」

「そうと決まれば、まずは腰を落ち着けるためにも服ね。今度の日曜日に陽菜も連れてみんなで買いに行きましょう」

「ズボンも、買っていいかな?」

「考えておくわ。考えるだけだけど」


お母さんがにっこりと笑って、運転席の真壁さんが小さく咳払いをした。


家の前で車が止まったときには、通りの街灯がもう灯っていた。

門の前に、小さな人影がひとつ、ぽつんと立っている。


コートを着こんだ陽菜が、門柱にしがみつくようにして、こちらを見ていた。

車のドアを開けたとたん陽菜は駆け寄ってきて、勢いよく私の胸に飛びこんでくる。


「お兄ちゃん、家にいるって言ったのに……!」

「ごめん。遅くなった」


陽菜の肩越しに玄関を見ると、お父さんが困ったように頭をかいていた。


「学校から帰ってきてから、ずっとここで待つって聞かなくてな」


私の胸に顔をうずめたまま、陽菜がぐすっと鼻を鳴らした。

その小さな背中に腕を回すと、陽菜は今朝と同じように、自分が貸したセーターの袖をぎゅっとつかんだ。


「……おかえり、お兄ちゃん」

「ただいま、陽菜」


あの日、車の中で真壁さんと交わした約束を私は守って平穏に暮らしている、たぶん……メイビー。

アイドル活動は平穏な日々なのかと問われると、少し自信はなくなるけれども。

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