『代わりはいくらでもいる』と婚約破棄された地味令嬢ですが、実は公爵家の全てを支えていたのは私でした。今更『戻ってきてくれ』と言われても、もう遅いですよ?
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この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
第一章 春陽の残酷——婚約破棄の刻
「お前との婚約は破棄だ。俺はセリーナを選ぶ」
春の陽光が惜しみなく降り注ぐヴェルディア公爵邸の大広間。
その美しい光景の中で、レオナルド・ヴェルディア侯爵子息の声だけが、氷のように冷たく響いた。
私——フィオナ・クレスウェルは、その言葉を聞きながら、不思議なほど凪いだ心でいた。
(ああ、やっぱり)
彼の傍らには、大粒の涙を浮かべて彼の腕にすがりつくセリーナ・ミラベル男爵令嬢の姿がある。プラチナブロンドの巻き毛が陽光を受けてきらめき、空色の瞳は涙で濡れてなお美しい。いや、涙を浮かべているからこそ美しいのだろう。
「レオナルド様、私のせいで……私のせいでフィオナ様が……」
セリーナの震える声が、大広間に集まった貴族たちの同情を誘う。
その視線が、私へと向けられた。好奇、嘲笑、そして——ほんの僅かな憐憫。
(三年間、尽くしてきた結果がこれか)
私は内心で静かにため息をついた。
レオナルドの学業成績が急に向上したのは、私が毎晩彼のために要約資料を作成していたから。社交界での評判が保たれていたのは、私が彼の失言を先回りしてフォローしていたから。領地の収益が三年で倍増したのは、私が密かに改革案を提出していたから。
すべて影で。すべて当然のように。
そして何一つ——感謝されることなく。
「フィオナ、何か言うことはないのか」
レオナルドが眉を顰める。きっと彼は、私が取り乱すと思っていたのだろう。泣いて縋って、どうか考え直してくださいと懇願すると。
けれど私は、表面上の穏やかな微笑みを崩さなかった。
縁なし眼鏡の奥の琥珀色の瞳を伏せ、淡々と口を開く。
「承知いたしました、レオナルド様」
周囲がざわめいた。
「三年間のご縁でございましたが、私には過ぎたお話でした。どうぞセリーナ様とお幸せに」
「な……」
レオナルドの翠色の瞳が見開かれる。想定外だったのだろう。当然だ。私は三年間、従順で控えめな婚約者を演じ続けてきたのだから。
「待て、フィオナ。お前、それだけか?」
「他に何か?」
私は小首を傾げた。
「俺たちは幼馴染だぞ。十年以上の付き合いだ。それなのに、こんなにあっさりと……」
「レオナルド様」
私は静かに、しかしはっきりと遮った。
「私は貴方様のご意向に従っているだけでございます。それとも、縋りついて泣き叫ぶことをお望みでしたか?」
沈黙が落ちる。
レオナルドの顔に、一瞬だけ狼狽が走ったのを、私は見逃さなかった。
(ああ、そういうこと)
彼は私に泣いてほしかったのだ。自分がどれほど惜しい女を捨てたのか、周囲に見せつけたかった。そして最後に「それでも俺はセリーナを選ぶ」と宣言し、悲劇のヒーローを気取りたかった。
——残念ながら、その茶番に付き合う義理は、もうない。
「フィオナ嬢」
その時、低く落ち着いた声が私の名を呼んだ。
振り向くと、大広間の柱の陰から一人の男性が歩み出てくるところだった。
漆黒の髪に、深い紫紺の瞳。彫刻のように整った容貌は、しかしどこか近寄りがたい冷たさを湛えている。
クリストファー・ヴェルディア公爵子息。
社交界で「氷の公子」と呼ばれる、レオナルドの兄君だ。
「兄上?」
レオナルドが警戒するように目を細める。普段は人との関わりを最小限にし、こうした社交の場に姿を現すことさえ稀な兄が、なぜ今——
「少し、話があります」
クリストファー様は私だけを見て、静かに告げた。
「よろしいですか、フィオナ嬢」
(レオナルド様の兄君が、私に?)
戸惑いながらも、私は小さく頷いた。
この場に留まる理由はない。それに——
(あの方の目は、嘲りでも憐れみでもなかった)
導かれるまま、私は大広間を後にした。背後でレオナルドが何か叫んでいたが、もう振り返ることはなかった。
春の風が、私の質素な三つ編みを揺らす。
庭園の薔薇たちが、まるで新しい季節の始まりを告げるように、蕾を膨らませていた。
◇◆◇
第二章 薔薇園の邂逅——見ていた人
ヴェルディア公爵邸の庭園は、王国随一と称されるだけの美しさを誇っていた。
春の薔薇が咲き誇る小径を、私はクリストファー様の半歩後ろを歩いた。彼は何も言わない。私も何も訊かない。ただ、砂利を踏む音だけが、二人の間を満たしていた。
やがて辿り着いたのは、庭園の奥まった場所にある白亜のガゼボだった。薄紅の蔓薔薇が絡まり、春の陽光を柔らかく遮っている。
「どうぞ」
クリストファー様が、ベンチに座るよう促した。私が腰を下ろすと、彼は向かい側には座らず、薔薇の茂みに視線を向けたまま立ち続けた。
沈黙。
(何の話だろう)
私は密かに相手を観察した。長身で引き締まった体躯、彫りの深い端正な横顔。社交界の令嬢たちが「氷の公子」と呼んで憧れと畏怖を込めて見つめる、あのクリストファー・ヴェルディア。
噂では、人嫌いで社交辞令すら面倒がる変わり者。けれど今、私の前に立つ彼からは、冷たさよりもむしろ——
「愚かな弟だ」
不意に、クリストファー様が口を開いた。
「……は」
「三年間、弟の成績が急に上がった理由も」
紫紺の瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。
「社交界での評判が保たれた理由も、領地の収益が改善した理由も」
「——」
「すべて貴女だということ。私は知っています」
呼吸が、止まった。
(誰も、気づいていないと思っていた)
レオナルドは気づかなかった。父も気づかなかった。社交界の誰一人として、「控えめで地味な伯爵令嬢」が裏ですべてを回していたことに気づかなかった。
それなのに——
「なぜ……」
声が、掠れた。
「なぜ、ご存知なのですか」
クリストファー様は、ほんの僅かに目を細めた。それが彼なりの微笑みなのだと、後に私は知ることになる。
「私は五年前から貴女を見ていました」
「五年……」
「学院時代」
クリストファー様が一歩、近づいた。
「誰よりも早く図書館に来て、誰よりも遅くまで残っていた貴女を」
春風が、薔薇の花弁を揺らす。
「困っている者がいれば身分に関係なく手を差し伸べていた貴女を。古代神聖語の文献を原書で読みこなし、教授たちが舌を巻いていたことを」
「それは……」
「三カ国語の翻訳能力。王国財務官の資格。薬学と農学の専門知識」
クリストファー様の声は淡々としていた。けれど、その一言一言が、私の心を深く貫いていく。
「すべて在学中に取得されていたことを、私は知っています。そして——それらを『女は控えめであるべき』という理由で隠し続けてきたことも」
目頭が、熱くなった。
(見てくれている人が、いた)
十年以上、私は影に徹してきた。母が病に倒れた八歳の時から、伯爵家の家計を一人で管理してきた。十二歳で提案した農業改革案は、父の名前で公表された。学院首席の成績も「娘を目立たせるな」という父の命令で隠された。
誰も見ていない。誰も評価しない。それが当然だと思っていた。
「フィオナ嬢」
クリストファー様が、私の前に膝をついた。
突然の行動に目を見開く私を、紫紺の瞳が静かに見上げる。
「我が公爵家の筆頭補佐官の座が、空いています」
「筆頭……補佐官?」
「貴女の能力を、正当に評価できる場所で発揮していただけませんか」
春の陽光が、ガゼボの中に差し込んだ。
クリストファー様の黒髪が光を受けて艶めき、その端正な顔立ちを照らし出す。
「なぜ、私なのですか」
私は訊いた。声は震えていた。
「もっと適任な方がいらっしゃるでしょう。私は——今し方婚約を破棄された、ただの伯爵令嬢です。社交界では『地味で目立たない』と評される、取るに足らない存在です」
「取るに足らない?」
クリストファー様が、僅かに眉を顰めた。それは初めて見せた、感情らしい感情だった。
「貴女はクレスウェル伯爵家の財政を十年以上支えてきた。弟の成績も、評判も、領地も、すべて貴女なしには成り立たなかった。それを『取るに足らない』と?」
「……」
「私は虚飾を嫌います。社交辞令も、お世辞も、見せかけの謙遜も」
クリストファー様が立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「だからこそ、貴女に来ていただきたい。私の——いえ、公爵家の力となってください」
その手を見つめた。
長い指、武人の鍛錬で硬くなった掌。けれど、差し出されたその手は、驚くほど穏やかだった。
(これが、私の転機なのだろうか)
三年間——いや、十年以上。私はずっと「控えめであること」を強いられてきた。能力を隠し、功績を譲り、誰かの影として生きてきた。
けれど今、目の前にいるこの人は——私自身を見ている。
「……一つだけ、お訊きしてもよろしいですか」
「何なりと」
「なぜ、五年もの間、何も仰らなかったのですか」
クリストファー様の表情が、一瞬だけ揺らいだ。
「貴女は弟の婚約者だった」
その声は、初めて聞く微かな苦さを含んでいた。
「他家の婚約者に手を出すことは、私の矜持が許さなかった。——それだけです」
それだけ、と言いながら、彼の紫紺の瞳は何かを堪えるように揺れていた。
(この方は——)
私は、その手を取った。
「僭越ながら、お受けいたします」
クリストファー様の目が、僅かに見開かれる。
「本当に?」
「はい。ただし——」
私は立ち上がり、彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「一週間だけお時間をください。伯爵家での引き継ぎがございます。それと——」
「それと?」
「私は、控えめな令嬢を演じることはもう致しません」
春風が吹き抜け、薔薇の香りが二人を包んだ。
クリストファー様の唇が、初めて微かに弧を描いた。
「それで構いません。——いえ」
その声は、静かだが確かな熱を帯びていた。
「むしろ、そうあってほしい」
◇◆◇
一週間後、私はクレスウェル伯爵家を出た。
荷物は、驚くほど少なかった。質素なドレスが数着、学院時代の書物、そして母から譲り受けた翡翠の髪飾りが一つ。
「お嬢様、お供いたします」
馬車の前で待っていたのは、ベアトリス——幼い頃から私に仕えてきた侍女だった。
「ベアトリス、貴女は伯爵家に残った方が……」
「お嬢様」
栗色の髪をきっちりと結い上げた彼女が、緑の瞳で真っ直ぐに私を見た。
「私は十六年前、お嬢様に救われました。身寄りをなくした孤児に、教育の機会をくださったのはお嬢様です」
「……」
「どこへ行かれようと、私はお嬢様にお仕えいたします。——どうか、お側に置いてくださいませ」
ベアトリスの声が、僅かに震えていた。
私は微笑んだ。本当の、心からの笑みを。
「ありがとう、ベアトリス。これからも、よろしくお願いします」
馬車が動き出す。
遠ざかる伯爵家の屋敷を、私は振り返らなかった。
(さようなら、影として生きた十年間)
春の風が窓から吹き込み、私の蜂蜜色の髪を揺らした。
新しい場所で、私は——私として生きる。
◇◆◇
第三章 崩壊の予兆——取り残された者たち
——レオナルド視点
「なぜだ……なぜこうなる!」
執務室の机を拳で叩き、俺は吠えた。
フィオナが去ってから、まだ二週間しか経っていない。それなのに——
「レオナルド様、今月の社交界でのお噂ですが……」
側仕えの者が、怯えた様子で書類を差し出す。俺はそれを引ったくり、目を通した。
『ヴェルディア侯爵子息、アシュフォード伯爵夫人への失言で顰蹙を買う』
『商談の場で基本的な計算を誤り、相手方を困惑させる』
『舞踏会での振る舞いが粗野と評判に』
「馬鹿な……こんなはずは……!」
俺は頭を抱えた。
なぜだ。なぜ急にこうなった。以前はこんなことなかったはずだ。
——いや、本当にそうか?
ふと、記憶が蘇る。社交界のパーティーで、俺が何か言おうとするたびに、フィオナがそっと耳打ちしてきたこと。「レオナルド様、その件は後ほど」「レオナルド様、アシュフォード伯爵夫人はご子息の話題がお好みです」
当時は鬱陶しいと思っていた。俺の会話に口を挟むなと。
けれど——
「レオナルド様!」
扉が勢いよく開き、セリーナが飛び込んできた。プラチナブロンドの髪を乱し、空色の瞳には涙が浮かんでいる。
「セリーナ? どうした」
「ひどいんです! 社交界の皆様が、私のことを陰で笑っているんです! 『男爵令嬢風情が』って……『フィオナ様の代わりなど務まらない』って……!」
「……」
俺は眉を顰めた。
正直なところ、最近セリーナに対して感じ始めていた苛立ちが、また頭をもたげてきた。
「セリーナ、お前がフィオナの代わりをしてくれるんだろう?」
「え……」
「領地からの収益報告書がある。これを要約してくれ」
俺は机の上に積み上げられた書類の山を指さした。
以前は毎月、分かりやすくまとめられた報告書が届いていた。今月からそれがなくなり、代わりに数字の羅列だけが送られてくるようになった。
「で、でも……私、難しいことは分からないの……」
「なに?」
「こういうの、苦手で……。フィオナ様にやっていただければ——」
「フィオナはもういない!」
俺は思わず怒鳴った。セリーナがびくりと肩を震わせる。
「俺がお前を選んだんだ。だからお前がやるんだ。分かるか?」
「……で、でも……」
セリーナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
以前なら、その涙を見れば何もかも許せたのに——今は、ただ苛立ちが募るばかりだった。
「泣くな。泣いても何も解決しない」
「レオナルド様、ひどい……!」
セリーナが部屋を飛び出していく。その後ろ姿を見送りながら、俺は深く息を吐いた。
(なぜだ……なぜこうなった……)
脳裏に、フィオナの顔が浮かんだ。
あの婚約破棄の日、彼女は一度も取り乱さなかった。「承知いたしました」と穏やかに微笑み、「お幸せに」と言って去っていった。
あの時は、冷たい女だと思った。三年も付き合っていたのに、情がないのかと。
けれど今——
「代わりはいくらでもいる」
あの日、俺が吐いた言葉が、耳の奥で木霊する。
代わり。代わりなど、いなかった。
フィオナの代わりは——どこにもいなかったのだ。
◇◆◇
「レオナルド様、クレスウェル伯爵家より書状が届いております」
側仕えの報告に、俺は顔を上げた。
「何だと?」
震える手で封を切り、中の書面を読む。
『……つきましては、過去三年間にわたりフィオナが提供してまいりました学業補助、社交界対策資料、領地経営助言の対価として、以下の金額をお支払いいただきたく……』
「は……?」
目を疑った。
提示された金額は——年間にして、俺の小遣いの十倍以上。
「馬鹿な……こんな金額……それに、対価だと? あれは婚約者として当然の——」
言葉が、途中で止まった。
婚約者として、当然。俺はずっとそう思っていた。
けれど本当にそうだったのか? 毎晩遅くまで資料を作成し、俺のために社交界の情報を集め、領地経営の助言までしてくれていた——あれが「当然」だったのか?
俺は、いつもそれを当たり前のように受け取っていた。
一度も「ありがとう」と言わなかった。一度もフィオナの努力を認めなかった。
そして——別の女を選んだ。
「……くそ」
俺は書状をくしゃくしゃに握りつぶし、床に叩きつけた。
「くそ……くそっ……!」
なぜだ。なぜあの時、俺は——
不意に、窓の外に目をやった。
遠くに見えるのは、ヴェルディア公爵家の本邸。
今、あそこにフィオナがいる。
兄の——クリストファーの下で、筆頭補佐官として働いている。
「兄上……」
拳を握りしめた。
歯噛みしながら、俺は自分でも分からない感情に苛まれていた。
◇◆◇
——フィオナ視点
「フィオナ補佐官、素晴らしい改革案です」
ヴェルディア公爵家の執務室で、ルーカス公爵が感嘆の声を上げた。
「北部領地の農業改革案……収益を三割向上させる見込み、とありますな。この灌漑計画と輪作システムの組み合わせ、いったいどこで学ばれた?」
「恐れ入ります、公爵様。農学の基礎は学院時代に、実践的な知識はクレスウェル伯爵領での経験から得ました」
私は姿勢を正し、淡々と説明した。けれど内心では——
(十二歳の頃に考えた案が、ようやく日の目を見る)
感慨深かった。あの時、父は私の名前を消して自分の功績として発表した。今、同じ内容をこうして正式に提案できることが、こんなにも嬉しいとは。
「息子の目に狂いはなかったな」
ルーカス公爵が満足げに頷く。そして傍らに立つクリストファー様に視線を向けた。
「クリストファー、良い人材を見つけた」
「はい。——フィオナ補佐官の能力は、私が保証いたします」
クリストファー様の声は相変わらず淡々としていた。けれど、その紫紺の瞳が私を見る時だけ、僅かに温かみを帯びている——ような気がした。
「さて」
ルーカス公爵が立ち上がった。
「来月には東方諸国との貿易交渉がある。フィオナ補佐官、通訳として同席してもらえるか?」
「東方語の交渉でしたら、お任せください」
「頼もしいな。——では、詳細はクリストファーから聞いてくれ」
公爵が退室し、執務室には私とクリストファー様だけが残された。
「……お疲れ様です」
「クリストファー様こそ」
私は微笑んだ。
ここに来て二週間。毎日が忙しいが、充実している。私の仕事は私の名前で評価され、功績は私に帰される。当たり前のことが、こんなにも新鮮だった。
「フィオナ嬢」
「はい?」
「——いえ」
クリストファー様が、何かを言いかけて口を閉ざした。その仕草が珍しくて、私は小首を傾げた。
「どうされましたか?」
「……今夜、夕食を共にしていただけますか」
その言葉に、私は目を瞬いた。
「夕食、ですか?」
「仕事の話をしたいので」
「承知いたしました」
クリストファー様は頷くと、足早に執務室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は気づいた。
——彼の耳が、僅かに赤くなっていたことに。
(仕事の話……本当にそれだけかしら)
私は小さく笑みを漏らした。
春の陽光が、執務室の窓から差し込んでいた。
新しい季節の始まり。新しい人生の始まり。
そして——もしかしたら、新しい想いの始まりも。
◇◆◇
第四章 氷解の兆し——二人だけの夕餉
公爵家の私室で取る夕食は、想像していたものとは随分違っていた。
「……この紅茶は?」
私は目の前に置かれたカップを見て、思わず声を上げた。
淡い琥珀色の液体から立ち上る香りは、懐かしくて切ない——学院時代に一度だけ飲んだ、東方の高級茶葉。
「貴女が好きだと聞いたので、取り寄せました」
クリストファー様は、さも当然のように言った。
「聞いた……? 誰から——」
「学院の図書司書から」
「図書司書……?」
私は困惑した。確かに学院時代、図書館に通い詰めていた私を、老司書は可愛がってくれていた。ある日、珍しい茶葉を分けてもらい、その味に感動したことを覚えている。
けれど、それを覚えている人がいるとは。
「五年前のことです」
クリストファー様が、静かに言葉を続けた。
「貴女がその茶を飲んで、とても幸せそうに微笑んでいた。——あの表情が、忘れられなかった」
「……」
言葉が出なかった。
五年前。私はまだ十五歳で、学院の首席として忙しい日々を送っていた。誰よりも早く図書館に来て、誰よりも遅くまで残る——それが当時の私だった。
その頃から、この方は——
「不躾な告白になってしまいましたね」
クリストファー様が、珍しく視線を逸らした。
「お気になさらず。今日は仕事の話をしに来たのです」
「クリストファー様」
私は、カップを手に取った。
温かい。茶葉の香りが、心を穏やかに包む。
「ありがとうございます」
「……何がですか」
「この紅茶を覚えていてくださったこと。わざわざ取り寄せてくださったこと」
私は微笑んだ。今度こそ、本当の笑顔で。
「そして——私を見ていてくださったこと」
クリストファー様の目が、僅かに見開かれた。
「レオナルド様の婚約者だった三年間、私は『当たり前』として扱われることに慣れていました。努力しても感謝されない。功績を上げても評価されない。それが普通だと」
「……」
「でも、ここは違う」
私は目の前の食事を見た。私の好みに合わせて用意された献立。先ほどの紅茶。そして——
「クリストファー様は、私の仕事を必ず『フィオナ補佐官の案です』と公の場で明言してくださる。それがどれほど嬉しいか、ご存知ですか」
沈黙が流れた。
クリストファー様は黙ったまま、じっと私を見つめていた。その紫紺の瞳に、様々な感情が渦巻いているのが分かる。
「……フィオナ嬢」
「はい」
「私は、貴女に執着しています」
唐突な言葉に、私は瞬きをした。
「執着……?」
「五年前から、ずっと。貴女のことばかり考えていた。貴女が弟の隣にいるのを見るたびに、胸が軋んだ」
クリストファー様の声は、相変わらず淡々としていた。けれど、その言葉には抑えきれない熱が宿っていた。
「弟から貴女を奪うことは、私の矜持が許さなかった。だから五年間、何も言わずにいた。——しかし」
彼が、テーブル越しに手を伸ばした。
私の手に、そっと触れる。
「今、貴女は自由だ。だから私は——」
「クリストファー様」
私は静かに遮った。彼の手を、そっと握り返しながら。
「私も、貴方様に感謝しております。婚約破棄の日、あの場から連れ出してくださったこと。私の能力を正当に評価してくださったこと。……私を、見ていてくださったこと」
「……」
「ですから、少しだけ時間をください」
クリストファー様が、僅かに眉を顰めた。
「まだ、私はここに来て二週間です。この場所で自分の足で立つことに、やっと慣れ始めたところです」
「……」
「貴方様のお気持ちは、とても嬉しい。でも今の私は——まだ、誰かに寄りかかる準備ができていないのです」
私は、クリストファー様の手をそっと放した。
「私は十年以上、誰かの『影』として生きてきました。今やっと、自分の名前で生きることを学んでいる。だからまずは——私自身が、私を認められるようになりたいのです」
沈黙。
長い沈黙の後——クリストファー様は、静かに頷いた。
「……分かりました」
「申し訳ありません」
「謝らないでください」
クリストファー様の声は、穏やかだった。
「私は五年待った。あと一年でも二年でも——貴女が自分自身を認められるようになるまで、待てます」
「クリストファー様……」
「ただ、一つだけ」
彼が、真っ直ぐに私を見た。
「私の傍にいてください。補佐官として、でも構わない。——貴女が幸せになる姿を、一番近くで見ていたいのです」
春の夜風が、窓から吹き込んだ。
私は微笑んだ。今まで浮かべてきたどんな微笑みよりも、自然な笑顔で。
「はい。——喜んで」
◇◆◇
その夜から、少しずつ——本当に少しずつ、私とクリストファー様の距離は縮まっていった。
朝、執務室に出勤すると、私の机の上には必ず温かいお茶が用意されていた。
遅くまで仕事をしていると、クリストファー様が自ら夜食を持ってきてくださった。
交渉の場では、通訳として私を信頼し、私の判断を尊重してくださった。
「今日も遅くまでお疲れ様です」
「クリストファー様こそ」
「この書類、明日までに必要ですか?」
「いえ、来週で構いません。休息も仕事のうちです」
「フィオナ嬢、今度の休日、薔薇園を見に行きませんか」
「……はい、喜んで」
不器用で、言葉足らずで、けれど誠実な人。
私の功績を決して自分のものにせず、私の意見を常に尊重してくれる人。
——凍っていた心が、少しずつ溶けていくのを感じた。
◇◆◇
第五章 舞踏会の夜——王宮に咲く花
——婚約破棄から一年後・王宮舞踏会
「フィオナ嬢、とてもお美しい」
クリストファー様の言葉に、私は頬が熱くなるのを感じた。
「お世辞はおやめください」
「事実を述べているだけです」
鏡に映る自分を見る。
一年前とは、何もかもが違っていた。
蜂蜜色の髪は、ベアトリスの手によって優雅な夜会巻きに結い上げられている。縁なし眼鏡はそのままだが、琥珀色の瞳は以前より自信に満ちた輝きを放っていた。
纏うのは、月光を思わせる銀青色のドレス。公爵夫人マリアンヌ様が「実の娘に」と贈ってくださった一品だ。控えめでありながら気品があり、私の瞳の色を引き立てる——そう言って選んでくださった。
「公爵家の知恵袋」
今、社交界で私はそう呼ばれていた。
北部領地の農業改革は大成功を収め、収益は当初の予想を超えて四割増。東方諸国との貿易交渉では、通訳を介さない直接交渉で王国に有利な条件を引き出した。その功績は——すべて私の名前で記録されている。
「フィオナ」
声に振り向くと、マリアンヌ様が微笑んでいた。
「よく似合っているわ。今夜は貴女が一番美しいでしょうね」
「公爵夫人様、そのようなお言葉——」
「本当のことよ」
マリアンヌ様が、私の頬にそっと手を当てた。
「一年前、初めて貴女がこの家に来た時のことを覚えている? あの頃の貴女は、まるで自分の存在を消そうとしているみたいだった」
「……」
「今は違う。ちゃんと、自分の足で立っている。——私たちの娘として、誇らしいわ」
目頭が熱くなった。
一年間、この方は私を実の娘のように可愛がってくださった。私の話を聞き、悩みに寄り添い、時には厳しく、けれど常に温かく——
母が与えてくれなかったものを、すべて与えてくださった。
「ありがとうございます、お義母様」
自然と、その呼び方が口をついて出た。
マリアンヌ様の目が、驚きと喜びで潤む。
「まあ……」
「あ、いえ、今のは——」
「いいのよ」
マリアンヌ様が、私を抱きしめた。
「そう呼んでくれて、嬉しい。——さあ、行きましょう。我が家の息子が、首を長くして待っているわ」
◇◆◇
王宮の大広間は、煌びやかな光に満ちていた。
シャンデリアの灯りが無数に反射し、貴族たちの宝石を輝かせる。楽団の優雅な音楽が流れ、色とりどりのドレスが花園のように咲き誇る。
「フィオナ嬢」
クリストファー様が手を差し伸べた。
「一曲、いかがですか」
「喜んで」
私はその手を取り、舞踏の輪に加わった。
ワルツが始まる。クリストファー様のリードは完璧だった。無駄のない動き、けれど決して窮屈ではない。私が踊りやすいよう、常に配慮してくださっている。
「今夜の貴女は、一段と美しい」
「また、お世辞を」
「事実です。——私以外の男たちの視線が気に入りませんが」
「……クリストファー様」
思わず笑みがこぼれた。
「嫉妬、ですか?」
「……否定はしません」
クリストファー様の耳が、僅かに赤くなった。一年間近くで見てきて、これが彼なりの照れの表現だと分かるようになった。
「フィオナ嬢」
「はい」
「今夜、話したいことがあります」
「何でしょう」
「それは——」
「フィオナ!」
不意に、聞き覚えのある声が二人の会話を遮った。
私は足を止め、声の方を見た。
人混みを掻き分けて近づいてくるのは——レオナルド・ヴェルディア。
一年前の彼とは、様子が全く違っていた。
整っていたはずの黒髪は乱れ、翠色の瞳には焦燥の色が浮かんでいる。仕立ての良い礼服は着崩れ、どこか落ちぶれた印象を与える。
「フィオナ、戻ってきてくれ」
彼は私の前で膝をついた。
周囲がざわめく。貴族たちの視線が一斉に集まる。
「お前が必要なんだ。婚約をやり直そう。俺はお前なしではダメなんだ」
「……」
私は静かに彼を見下ろした。
一年前なら——いや、三年前の私なら、この言葉に揺らいでいたかもしれない。「必要」と言われれば喜び、また影として彼を支え続けていたかもしれない。
けれど今は違う。
「レオナルド様」
私は穏やかに、しかしきっぱりと口を開いた。
「その申し出、お断りいたします」
「なっ——」
「私はもう、貴方様の道具ではありません」
会場が静まり返った。
「三年間、私は影として貴方様を支えてまいりました。学業を、社交を、領地経営を。一度も感謝されることなく、一度も評価されることなく」
「それは——」
「『代わりはいくらでもいる』。貴方様はあの日、そう仰いました」
私は微笑んだ。もう、何の感情も湧かない穏やかな笑みを。
「今、その言葉の意味をご理解されたのでしょう。——遅すぎましたね」
「フィオナ……!」
レオナルドが手を伸ばそうとした時——
「弟よ」
冷たい声が、その動きを止めた。
クリストファー様が私の隣に立っていた。その紫紺の瞳は、氷のように冷たく弟を見下ろしている。
「遅すぎたな」
「兄上……」
「フィオナは——」
クリストファー様が、私の手を取った。
「私の婚約者だ」
会場がどよめいた。
レオナルドの顔が、絶望に歪んでいく。
「嘘だ……嘘だと言ってくれ、フィオナ……!」
「嘘ではありません」
私はクリストファー様を見上げた。彼も私を見ている。その瞳には、一年分の想いが溢れていた。
「レオナルド様。私はこの一年間で、本当に大切なものが何か学びました」
「大切な……」
「正当に評価してくださる方。私自身を見てくださる方。——そして、私を『道具』ではなく『人』として扱ってくださる方」
私は、クリストファー様の手を握り返した。
「その方が、ここにいらっしゃいます」
◇◆◇
レオナルドは、項垂れて去っていった。
彼の後ろ姿を見送る人々の囁きが、広間に響く。
「可哀想に……あの男爵令嬢を選んだ結果がこれか」
「フィオナ嬢が公爵家でどれほど活躍されているか、知らなかったのかしら」
「自業自得よ。あれほどの逸材を手放すなんて」
私は振り返らなかった。
過去は過去。もう、何の未練もない。
「フィオナ嬢」
クリストファー様の声に、私は顔を上げた。
「先ほどは、勝手に婚約を宣言して申し訳ありません。——本来なら、きちんと貴女に伝えてから——」
「クリストファー様」
私は彼の言葉を遮った。
「私も、お話があります」
「……何でしょう」
私は深呼吸をした。
一年間、ずっと考えていたこと。そして今夜、やっと言葉にできること。
「この一年、私は貴方様の傍で多くのことを学びました」
「……」
「自分の足で立つこと。自分の名前で生きること。そして——誰かを信じることも」
春の夜風が、窓から吹き込んだ。
私の髪を揺らし、銀青色のドレスの裾を翻す。
「今の私は、もう影ではありません。一年前とは違う——自分自身を認められる私です」
「フィオナ嬢……」
「ですから」
私は、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「改めて、お願いしたいのです。——婚約者として、私を傍に置いていただけますか」
クリストファー様の紫紺の瞳が、大きく見開かれた。
そして——初めて見る、満面の笑みが浮かんだ。
氷の公子と呼ばれた人の、融けるような笑顔。
「……私の方こそ、お願いいたします」
彼の声は、僅かに震えていた。
「五年間——いや、これからの一生を。私の傍にいてください」
私は微笑んだ。心からの、本当の笑顔で。
「はい。——喜んで」
◇◆◇
春の風が、王宮の大広間を吹き抜けていく。
私はクリストファー様——いえ、クリストファーの腕を取り、彼の隣を歩いた。
もう、誰の影でもない。
もう、誰かの道具でもない。
私は——フィオナ・クレスウェルは、私として生きている。
(ようやく、私は私として生きられる)
会場の外では、春の花々が咲き誇っていた。
新しい季節の始まり。新しい人生の始まり。
そして——新しい幸せの始まり。
【完】




