第4話:平常運転
一限目が始まった。
教師はいつも通りの調子で黒板に向かい、淡々とチョークを走らせる。
説明も特別なことは言っていない。
板書を写す。ただそれだけの時間だ。
(今日は……当てられなければそれでいい)
目標は低く、切実なもの。
黒板を見る。ノートを見る。シャーペンを動かす。
《今の字、読み取れた?》
《ちょっと怪しいね》
(普通だろ……)
黒板にはこう書いてある。
――「主体的な行動」
《“主観的”》
《いや、“集団的”》
(待て)
俺は一度ノートに書いた文字を見下ろす。
――主観的な行動
(違う)
消す。
書き直す。
――集団的な行動
《それも違う》
《“主体的”だね》
(最初からそう見えてた!!)
また消す。
消しゴムの先端が少しだけ減った。
教師の板書は止まらない。黒板は先へ進む。
――「判断基準」
《“断定基準”》
《“判断水準”》
(やめて……)
一瞬迷って、俺は一番無難そうな字を書く。
――判断基準
《自信ある?》
《線、薄くない?》
(……)
なぜか不安になり、なぞる。
少し濃くなった。
《今度は主張が強い》
《ノートがうるさい》
(ノートがうるさいってなんだよ)
教師が一言説明を足す。
「これは、個人の考え方に基づいて――」
《“個人”》
《“孤立”》
(いや聞こえ方ぁ…)
俺はまた手を止める。
黒板を見る。もう次の行に移っている。
(追いつけ……)
焦って書く。
《字、歪んだね》
《今の雑だった》
(急かすな!!)
消す。
書く。
消す。
もうさっきまで何を書いていたのか、自分でも分からなくなってくる。
(ただ写してるだけなのに……)
指が地味に重い。
教師が振り返ってひとこと。
「ここ、大事だからね」
《指名来る?》
《来ない?》
(どっちだよ)
視線が教室を一周する。心臓が、一拍だけ跳ね上がる。
教師はそのまま黒板に向き直し、板書を続けた。
(……はぁ)
呼ばれなかったことに安堵する。
《今の怪しかったね》
《呼ばれる寸前だった》
(呼ばれてないっての)
教師がまた振り返る。安心する暇はない。
「じゃあ、これ分かる人?」
《姿勢正す?》
《動かないで》
(正解がない…)
俺は微動だにしない。視線も上げない。
(頼む、スルーしてくれ……!)
教師は別の生徒を指した。
「じゃあ、君」
生徒が答える。
正解。
(助かった……)
《今の答え、聞いた?》
《ノートに書き足した方がいいよ》
(今さら!?)
慌てて書き足すが行間が足りない!
矢印を書いたがずれた!!
《汚いね》
《読めないよ》
(もういいだろ!!!)
チャイムが鳴って、解放された。
………はずだった。
《休み時間だね》
《一番無防備だ》
(怖い怖い怖い)
心なしか声色が楽しそうなのがムカつく。
周囲では、立ち上がる音、机を引く音、笑い声が聞こえ始めて、それだけで空気が動いた。
《立つ?》
《座る?》
(どっちでもいいだろ)
俺は座ったまま、ノートを閉じた。
《今の動き、消極的だ》
《でも自然だね》
(自然ってなに)
スマホを見るか迷う。
結局見ないことにした。のだが。
《見ない理由、考え始めた》
《無駄なのにね》
(わかってるっての!!)
何もしないのに、時間だけが過ぎていく。
(しんどい……)
俺は机に突っ伏した。
そのとき。
「ねえねえ」
背後から、クラスメイトの声。
「ノートちゃんと取れた?」
ドキンと、心臓が跳ねる。
《来た》
《無自覚攻撃》
「(やめろって……)え、あー……たぶん」
俺は曖昧に答えながら、反射的にノートを押さえた。
「さっきの“判断基準”のとこさ、先生、板書速かったじゃん?」
《見せる?》
《見せない?》
(選択肢を増やすな)
「……うん、まあ。そうだね…?」
ノートを少しだけずらす。
覗き込まれる。
《距離近くない?》
《普通じゃない?》
(どっちだよ)
「きれいな字だね」
「俺、途中で追いつけなくなってさ」
思考を邪魔されたせいで言葉が被ってしまった。聞き間違いでなければ、相手はこう言ったはず。
「きれいな字だね」と。
……きれい?
きれいって言った?俺の字を??
《褒められたね》
《信用する?》
(どういうことだよ)
喉が、微妙に詰まる。
「あ、いや……消したりしてるから」
《言い訳が苦しいな》
《防御反応だね》
(黙れよもう)
「そっか。ありがと、助かった」
あっさり言って、戻っていく。
残された俺と、開いたままのノート。
《今の、好印象だったよ》
《でも内心どう思ったかな》
(そこで考えさせるなよ……)
さっきまで普通に見えていた文字が、急に雑に見えてくる。
(……見せて、正解だったんだよな)
俺はノートを閉じて、再び机に突っ伏した。
(しんどい……まだ午前中だぞ……)
限界は、据え置かれたままである。




