第2話:限界更新
授業は主にこいつらと戦う時間だ。
特に古文。教師の解説が淡々と抑揚のない波みたいに教室を流れていく。
《来るよ》
《来るね》
(来ねぇって)
心の中で即答した、その瞬間だった。
「――じゃあ」
教卓の前で、教師が顔を上げる。
「後ろの席の君。そこ、読んでみようか」
………え???
教室の空気が、一斉に俺の方へ傾く。
視線はないが、明らかに「自分じゃなくてよかった」という安堵感。
《ほら》
《指名イベント発生》
(イベントじゃねぇ)
俺は渋々立ち上がり、教科書を見る。
そこには、見慣れた文字列が並んでいた。
――候ふ
――いみじう
――けり
読みは分かる。
意味も大丈夫。
《さあ、思い切って》
《現代語訳でいこう》
(勝手に訳すな)
教師はにこやかに頷いた。
「まずは原文を読んで」
《あ、詰んだ》
《詰んだね》
(黙れって)
俺は腹を括って、口を開いた。
「候ふーー」
声が、思ったより大きく響く。教室が静かなせいで、なおさらだ。
《そこは丁寧に》
《感情を込めて》
「いらん」
「え?」
「独り言です」
また、くすっと笑いが起きる。
俺は続きを追った。
「いみじうーーけり。」
思考を邪魔されすぎてもはや自分でも何を読んでいるのか分からない。
ただ、音だけが教室に落ちていく。
《いいよいいよ》
《味がある》
(評価すんな)
教師は一拍置いてから言った。
「じゃあ、意味は?」
逃げ道、消滅。
《言っちゃおう》
《適当にまとめよう》
「選択肢が地獄しかないんだが」
「?」
「独り言ですッ」
教室が笑う。
もういい。どうにでもなれ。
俺は一度、息を吸って言った。
「……要するに、“めちゃくちゃ辛かったけど、まあそういうもんだよね”…みたいな感じです」
沈黙。
一秒。
二秒。
《お?》
《おお??》
教師が、少しだけ目を細めた。
「面白いね。大雑把だけど、間違ってはいない」
…助かった。
俺は席に座る。
膝が、ほんの少し震えていた。
《惜しい》
《もう一段、崩せたのに》
(何を惜しんでんだよ)
授業は何事もなかったように続く。
周囲も、すぐに興味を失った。
俺だけが、教科書の文字を見つめながら思う。
(なんで古文で命削られてんだよ)
《次は音読多めのとこがいいね》
《和歌、行ってみよう》
(行ってみよう、じゃねーんだわ)
黒板の文字が、やけに遠く見えた。
英語の授業は、だいたい平和だ。
単語を書いて、文法をなぞって、最後に教科書を読むだけ。
――今日は、そう思っていた。
《来るよ》
《確実に来るね》
(来ねぇって言ってんだろ)
教師が教卓に肘をつき、教室を見渡す。
「じゃあ、この段落。……そこの君、読んでみようか」
やめろ。
空気が、一斉に俺に集まる。
視線、集中。逃げ場なし。
《発音大事だよ》
《とっても大事》
(今それ言うな)
俺は立ち上がり、教科書を見る。
英文は短い。短いが――油断すると死ぬタイプだ。
《ここだよここ》
《thのとこ》
(黙れっての)
俺は読み始めた。
「The boy was…」
教室が一瞬、静まる。
《あ》
《やっちゃった》
(違う、違うから)
俺は咳払いをして続ける。
「The boy was surprised by the sudden change.」
発音は、たぶん合ってる。
たぶん。
《惜しい》
《Rが甘い》
(お前らの採点基準どうなってんの?)
教師は頷いた。
「いいね。じゃあ意味は?」
来た。
《直訳で》
《意訳で》
(せめて方向性揃えろ)
俺は一瞬、天井を見る。
「……えーと…その少年は、突然の変化に――」
《慌てた》
《動揺した》
「……驚いた」
教師は少し考えてから言った。
「うん、問題ない」
生還。
俺が席に座ろうとした、その瞬間。
「じゃあもう一文」
まさかの地獄追加。
《来た》
《二段構え》
(やめろって!!)
俺は再び立ち上がる。
「……He smiled, but his eyes were not laughing.」
《いい文》
《不穏》
(黙って聞け)
「意味は?」
詰みかけたが、もう大丈夫。
「笑ってはいるけど、心からじゃない」
教師は満足そうに頷いた。
「よろしい」
《無難》
《もう少しひねれた》
(うるせぇよ。誰のおかげで精神削られてると思ってんだ)
授業はそのまま進み、俺は静かに席に戻った。
《次は長文がいいね》
《スピーチとか》
(次がある前提で話すんじゃねぇよ)
チャイムが鳴る。
俺は机に突っ伏して、心の底から思った。
(授業って、こんな命懸けだったっけ……?)
その日の最後の授業は、保健体育だった。
といっても体育館ではなく教室でやる座学の方。
(……頼む、今日は静かに終わってくれ)
淡い期待を抱いた時点で、負けだった。
《油断してるね》
《一番おいしいところだね》
(何がだよ)
教師がプリントを配り始める。
「じゃあ、今日は前回やった内容の確認ね。小テストやります」
教室に、分かりやすい落胆の空気が流れた。
(前回……?)
頑張って思い出そうとするが、ひたすら思考を邪魔された記憶しかない。え、ほんとに何やったっけ。
「テーマは、思春期における心身の変化と、適切な対処」
嫌な予感しかしないんだが。
《来たね》
《楽しみだね》
(楽しみって言うな)
「難しくないから。ちゃんと授業聞いてたら大丈夫」
その“ちゃんと”が一番信用ならないし、こいつらのせいでまともに覚えてない俺はおそらくすでに負け組である。
プリントが机に置かれ、俺は問題文を読んだ。
⸻
【問3】
思春期において、強い感情の揺れを感じたとき、最も望ましい対応はどれか。
次の中から一つ選びなさい。
A:感情を抑え、周囲に迷惑をかけないよう努める
B:信頼できる相手に気持ちを打ち明ける
C:自分の感情を正直に表現する
D:一人で抱え込まず、適切な方法で発散する
……。
《A》
《C》
(やめろ)
《社会的に正しい》
《人間として正しい》
(方向性が真逆なんだよ!!)
俺は鉛筆を止めたまま、問題を見つめる。
(全部正解じゃねぇか……っ)
《“迷惑をかけない”は大事》
《“正直”は美徳》
(今その議論必要?)
汗が、じわっと手のひらに滲む。
《Bもいいよ》
《Dも捨てがたい》
(選択肢を増やすんじゃない!!)
教室は静かだ。
皆、カリカリと鉛筆を走らせている。
俺だけが、たった一問で、完全に足を止めていた。
(普通に答えたいだけなのに……)
《普通ってなに?》
《哲学?》
(ああもう……)
俺は歯を食いしばり、鉛筆を動かした。
――D。
「適切な方法で発散する」。
逃げでも暴走でもない。
一番、無難なやつ。
《無難》
《つまらない》
(ほっとけ!!)
次の問題。
【問5】
ストレスへの対処として、最も適切でないものはどれか。
……“最も適切でない”。
否定形。
罠の匂いしかしない。
《引っかけきた》
《大好きなやつ》
(お前らの好みなんか聞いてねぇんだよ》
選択肢を読むたびに、頭が重くなる。
(これ……本当に小テストか?)
《心のテスト》
《今のあなたにぴったり》
(やめろ!!)
チャイムが鳴る。
「はい、回収」
助かったような、助かってないような感覚でプリントを差し出す。
教師は何事もなかったように言った。
「自分の心と向き合うのは大事だからね」
《確かにね》
《皮肉だね》
(今の俺を見て言えるかそれ)
帰り支度をしながら、俺は机に突っ伏した。
(……授業終わったのに、まだ削られるなんて聞いてない…)
《一日は続く》
《心は逃げ場がない》
(最悪の締めだな……)
夕方のチャイムがやけに遠く聞こえ、俺は一人小さく呟いた。
「…………疲れた」




