第1話:すでに限界
朝のホームルームで、俺はすでに限界だった。
《今だよ! 今! ここで席を立ってクラス全員に謝ろう!》
《やめて。机を蹴り倒して教室を出なさい。廊下で泣くの、絵になるよ》
左右から同時に聞こえる声に、俺は静かに机に額を打ち付けた。
「……うるせぇ……」
誰も見ていない。
誰も聞いていない。
聞いているのは、俺だけ。
右肩の上には白い服を着た悪魔がいて、にこやかに親指を立てている。
左肩の上には黒い服の天使がいて、優しい笑顔で破滅を勧めてくる。
《安心して。社会的責任はゼロだよ》
《そうそう。未成年って最高》
(黙れ!!)
叫びは喉の奥で潰れて、代わりに変な声が出た。前の席の女子がちらっと振り返り、すぐに興味を失った顔で前を向く。
なんでこうなったんだっけ。
――いつからだ。
そう考え始めた時点で、もう負けだった。
《そうそう。最初は小さな違和感だったよね》
《うんうん。まだ“気のせい”で済ませられる程度だったんだよね》
白い悪魔が、教師みたいな顔で頷く。
黒の天使は、優しく俺の記憶をめくり始めた。
入学式の日。
体育館での長い校長の話。眠気と戦いながら、ふと――
「……なんか、今……笑われた?」
背後から、くすっと声がした気がした。
振り返っても、知らない顔ばかり。
誰も俺を見ていない。
《気のせいだよ》
《うん、気のせい気のせい》
そのときは、そう思った。
次は教室。
自己紹介の順番を待っている時、心臓がうるさいほど鳴って――
《噛むよ》
《絶対噛むね》
……誰だよ。
心の声?
いや、こんなにハッキリ聞こえるわけがない。
俺は立ち上がって、案の定噛んだ。
教室が、少しだけ笑った。
《ほらね》
《成功体験だよ》
成功体験じゃねぇよばかやろう。
それからだ。
疑いようのなく聞こえるようになったのは。
《今のは最悪》
《でも、次はもっと面白くできるよ》
姿が見えたのは、もっと後。
帰り際、夕焼けの中で立ち止まった俺の視界に、突然――
《初めまして!》
《ずっと前からいたけどね》
白と黒。
人の形をした“何か”が、当たり前みたいにそこに浮かんでいた。
俺は固まった。
「……誰」
《天使》
《悪魔》
「逆じゃねぇの!?」
叫んだはずだった。
でも通行人は誰一人、振り返らなくて。
《安心して》
《君にしか見えないから》
「安心できるか!!」
その瞬間、二人は顔を見合わせて同時に言った。
《まあまあ》
《まあまあ》
その日から、俺の日常は“悪魔の囁き×2”で埋め尽くされた。
全部、“どっちに転んでも地獄”という地雷付きで。
昼休み、持ってきた弁当を食べたあと、俺は用もないのに廊下を歩いていた。
教室にいると天使と悪魔が囁いてきて落ち着かないし、周囲の視線が痛いからだ。
《教室にいた方が面白そうなのに》
《人が多い方が楽しいのに》
「他人事だと思っておちょくりやがって…」
階段の踊り場で、担任と鉢合わせる。
「ああ、君」
《来た》
《試験官だ》
(いや先生だって)
「最近、学校生活どう?」
模範解答を探す時間すら与えられない質問。
「……普通ですね」
《嘘》
《でも悪くない》
担任は当たり障りのない笑みを浮かべ言った。
「困ったことがあったら、相談しなさい」
《今だ》
《本音を言おう》
「いや絶対無理だろ」
口に出してから血の気が引く。
「え?」
「独り言です!!」
担任は引き攣った顔で「そうか」と言い、俺は半ば逃げるようにしてその場を立ち去った。
《今の最高》
《大人の反応も良いね》
「人の人生、ゲーム感覚で弄ぶのやめろ!?」
悪魔は肩をすくめた。
天使は首を傾げた。
《ゲームじゃないよ》
《実験》
「なお悪いわ!!」
叫びは廊下に虚しく響いて、誰にも拾われなかった。
その日の放課後。
俺は部活勧誘のビラを避けながら、昇降口で靴を履いていた。
《ここでどれか入ろう》
《入って三日で辞めたら最高に面白い》
「俺の人生をおもちゃにするな!!」
声に出してから、はっとする。
周囲が静かだった。
数人の生徒が、微妙な距離感で俺を見ている。
《あーあ》
《やっちゃった》
俺は靴を履いたまま立ち上がり、全力で言った。
「何でもありません!!」
勢いはあった。
数秒の沈黙の後、誰かが「……思春期か?」と呟く。
周囲は俺を“思春期真っ只中の男子”として片付けた。
帰り道。
夕焼けの中で、俺は疲弊し切っていた。
「疲れた…」
二人は目の前に並んで浮かんでいる。
「お前ら、いつまでいるんだよ」
天使は即答した。
《さあ?》
悪魔も微笑んだ。
《いつまでだろうね?》
「最ッ悪の答えだな……」
俺はため息をついて、家への道を歩き出した。
ーー明日もきっと、責任ゼロ。思想ゼロ。使命ゼロ。
完全無責任な天使と悪魔が、俺の平穏をぶち壊していく。
天使と悪魔は善悪の象徴ではありません。
ただ無責任で、暇で、面白がっているだけです。
気軽に読んでいただけたら嬉しいです。




