6.遠い邂逅
広場の人いきれの熱狂はその只中に居ると凄まじく、”英雄”という存在に民衆が抱く期待や希望の大きさを表しているかのようだった。
歓声に沸く群衆の合間に埋もれながら、アカシャはまだどこか呆然としていた。
人垣に阻まれて、大して背の高くないアカシャの視界は、隙間からちらりと人影を覗うのが精一杯で、なかなか実感が沸かない。人波の流れに逆らわず身を任せるように少しずつ移動して、時々背のびをしてみる。
そうして漸く視界が開けたとき、アカシャはまた息をする事を忘れてしまった。
周囲の喧騒が静まり遠のいたように錯覚する。
大衆新聞の、混ぜ物の多いざらざらした雑紙に刷られた少し掠れた画だけが、10年の間アカシャの知り得る彼の姿の全てだった。
それが、今や裸眼で捉えられる位置に居る。
まるで現状に対する皮肉のように、その距離は随分と遠い。
それでも、この都市に臨んだ根源たるものが、はっきりとその目に映った瞬間に違いは無かった。
漸く呼吸を思い出して、陸に打ち上げられた魚のように、はくはくと口を動かす。目はずっと開いていたせいで乾ききって、瞬きをするとまぶたが引っかかる。
──う、動いてる!! 歩いてる!!!
最初に頭に浮かんだ言葉は、緊張と動揺に呑まれていたせいか、やけに拙かった。
──……動いているところを見るのは初めてだもの……。
己の拙さに内心言い訳をして、それから挑むように目を見開いて、改めてその姿を見据える。
銀の髪に、血を固めたような昏い赤の瞳、それらが彩る恐ろしく整った顔立ちとすらりとした長身は、どこか鋭利な印象を抱かせ、剥き身の刃を思わせる。
魔物を打ち滅ぼす稀代の英雄でありながら、容姿は魔性とすらあだ名される彼の人物は、実際に目の当たりにすると背筋が凍える程美しかった。
手が震えてしまうのを抑えて、視線は尚も彼を追う。
けれどもその眼差しの先に居る、ユリウス・アーデングラッハがアカシャの視線に気づく事は無い。そして恐らくは、目が合う事も決して無いだろう。
彼の眼下にあるのは個を識別出来ないほどの人の群れであって、アカシャはその有象無象の中の一人だ。
何よりも、ユリウスはアカシャの顔も名前も知らないはずなのだから。
──それなら、気づかれないのなら、好機。いっそこの目に焼き付けてしまいたい。
普段であれば相手が誰であれ、こうも長い時間、無遠慮に見つめ続けるなど礼儀にも品性にも欠けると、そろそろ己を戒めるところだが、今回ばかりはいつもと真逆の事を考えてしまう。
しかも今は群衆の一部と化し、彼らの向ける視線の中に混ざってしまえる。
──今、この時だけは……。
胸の内で許しを請うても誰にも届きはしないのだが、そうせずにはいられなかった。
ユリウスの他にも数人の男女が件のテラスには居て、時折耳に入る周囲の喧騒から察するに彼らも英雄なのだろうが、如何せん今は他に意識がまるで向かず、頭も視界も素通りしてしまう。
しばらくしてユリウスは隣に並び立つ同年代の青年に顔を向け、なにごとか言葉を交わし始めた。声など当然全く聞こえる距離ではないのだが、相手は気安い間柄なのか表情は随分と和らいで見える。その変化を目にしてまたぞろ心臓が跳ねる。
──そっ、そ、そういう表情もするの……。
容姿のせいもあって真顔で居る時は凍てつくような人物像を思い描いてしまうが、僅かな表情ひとつでその印象をがらりと変える。
その差異を目の当たりにして、頬に熱が昇り、頭がくらくらする。周囲の熱気のせいではないだろう。
それから彼は、先ほどとは逆側に顔を向けると、その口元に微かな笑みを湛えた。
周りに居る女性たちが幾人もうっとりと溜息をつく音に、釣られそうになって慌てて口を真横に結んだ。
──……あなたは、そういう風に、笑うのね。
瞬きをする事も忘れて、初めて目にする笑みに釘付けになってしまう。
けれども、ユリウスが笑みを向けたその相手を視界に収めてしまった事で、どこか夢見心地にも似た気分は瞬く間に消え失せた。
体温が急速に下がっていくように錯覚する。狼狽えたように視界は揺らぐ。
華奢で儚げな、それでいて煌めくような美しい少女がその傍らに寄り添うように立ち、受けた笑みを何倍にもして返すかの如く、花の咲くような笑顔を浮かべていた。
──……あの女性、なのかな……。
心臓が、先ほどまでとは違った意味の鼓動を立て始める。肺がひび割れたみたいな痛みを覚えて、息が上手く出来ない。
──…………だめだ。この感情は、良くない……。
無理やり息を吸い込んで、それから勢いよく踵を返した。
「…すみません! ごめんなさいっ」
人の群れは密集していて、何度もぶつかり、相手の顔もろくに見れずに謝罪してを繰り返しその中から這い出る。
それから一目散に、その場から駆け出した。
この身が、この行動が、情けなくて、酷く惨めで。
それでもこれ以上今は何も考えたくなくて、ひたすらに走った。