第二章三十四話 「ルリナリン・メード」
<視点 ルリナリン>
・問一 あなたは何を生きがいに生きていますか?
解答一 えーと、仕事でお客さんと楽しい会話することと、たまに遊びに来てくれるフィファラとイチャイチャすること!
・問二 あなたは自分の何を誇らしいと思っていますか?
解答二 まず社交力? みたいな、誰にでも楽しく話しかけれること、それと後は……フィファラみたいな素敵な友達を持ってること!
・問三 あなたの人生の中の最高の思い出はなんですか?
解答三 うーん、人生の最高の思い出、か……フィファラと初めて出会ったとき、かな! あれは感動ものだよ!
・問四 あなたは人生で最難関の場面に出会ったとき、どう対処しますか?
解答四 えーと、えーと、えーと……まず自分で精一杯考える! それで浮かばなかったら、お店の人とか後お客さんとかに相談する! で、それでも浮かばなかったら……カッコ悪いけど、フィファラに相談するかな。
・問五 なぜ
あなたの話の中には、家族が出てこないのですか?
解答五 ……………。
・問六 なぜ、あなたは十二歳という若すぎる年齢で働いているのですか?
解答六 ……………。
・問七 朝から晩まで働いていて、学校はどうしているのですか?
解答七 ……………。
・問八 あなたは家族を愛していますか?
解答八 ……………。
・問九 あなたは家族に何をされまし
なんで家族のことばっか聞いてくるの? あたしはさ、生きがいとか思い出とかは別に自分の自由だと思うし、それに家族が関わらないで、友達と遊びに行ったのが最高の思い出、とかもあるでしょ多分。それに、なんかなかなか超えられない壁にぶち当たってもさ、あたしは自分で超えていけるって思うし、お店の人とかお客さんとかフィファラとか、身近な人に頼るのがいいんじゃないの? それになんか問題解決して、お父さんとお母さんに、あなたの娘はこんなに立派になりましたよって、お兄ちゃんとお姉ちゃんには、あなたの妹はこんなに立派になりましたよって言いたいでしょ? だから、難しい問題を自分で解決するのは普通だと思う。だからだから、あたしが家族のこと話さないのも、特になんの事情もない。
・問十 ……。
解答十 …………。
……では、最後の問いです あなたにとって、フィファラ・シェンテリオンとはなんですか?
……命の恩人、かな。
―――ルリナリン・メードは、家族と別れた少女である。
十二歳でカフェ店員として働いていたり、平日でも平然と朝や昼など学校のある時間帯も働いていたり、話すことが基本的には店と客とフィファラだったり。
それらからして、そう思いつくのは容易い話だ。
そして、上の問いと解答――これは、ルリナリンの幾度も繰り返してきた、自問自答である。
△▼△▼△▼△▼△
――ルリナリン・メードは、そもそも生まれた家庭が特殊だった。
父親のグレイテイル・メードは輸入・輸出系の会社の社長を務めていて、母親のソルテイル・メードはそんな父の秘書として活躍していた。
そして、ルリナリンが生まれたときには既に兄と姉がいた。
二歳違いの兄であるファト・メードは、生まれながら特殊な性質を持っていて、一日に何か一つは物を壊さないと気が済まない人であった。
一歳違いの姉であるファム・メードは、そんな特殊な性質を持つ兄が兄な故、父と母からの愛情を独り占めしてきて、自分が頂点だと思い続けている自己中心的な人であった。
務めている職業が多忙故に子供の世話をなかなか見れず、たった一人に愛情を注ぐので精一杯。そして自分たちが優秀だから、子供も優秀でないと愛情を注げない両親。
どんな物でも壊して壊して壊しまくり、ルリナリンが生まれた時点で、既に両親には見放されていた兄。
実際に頭も良く運動神経も良いため、ルリナリンが生まれる前も生まれた後も両親からの愛情を独り占めしてきて、自分が頂点で他は下だと思い続けてきた姉。
そして、姉よりも頭も運動神経も悪いし、兄のような何か目立った特徴もないし、両親のように稼ぎがいい職業に務められるかもわからないしな、ルリナリンの立ち位置。
――そんなのは、言わなくともわかるはずだ。
△▼△▼△▼△▼△
――ルリナリンが四歳の頃。
ビリィッと物が破れる音は、ルリナリンの中の兄への信頼が破れた音にも聞こえた。
「……ぁ、ぅ?」
「フゥむ、なるほどなるほドォ」
突如として目の前の物――ルリナリンが三歳の誕生日に両親から貰った、赤い上着を羽織った熊のぬいぐるみが壊された光景。
それに、ルリナリンは、まともな言葉を発することすら、できなかった。
「はいはいなるほドォ、ここはこうでこれがこうと……アァ、奥が深ェナァ」
「ぅ、ぁ……」
その熊のぬいぐるみや赤い上着がビリィッと破かれ、モコッと中の綿が飛び出す。
そしてその綿すらもブチィッと破かれ、目や鼻などの、布以外の素材で作られている部分はパキッと粉々にされる。
父と母から貰った大事なものが、一年間大事にしてきたものが、呆気なく壊れるその光景。それを見ると同時に、ルリナリンの心もその光景と比例して、壊れていく。
「ぁ……」
「いヤァ、物を壊スッツゥのはいいことだナァ。中身も確認できるし、それを上手く分析すリャあ、再現ダッて可能だぜ。んマァ、別にやリャあしないんだけどネェ」
「ぁ、ぅ……」
「ドォ思うかい、ルリナリン、君は。物を壊すとは素晴らしい、そう思うだロォ?」
未だ、目の前の光景の処理が追いついていないルリナリンに、兄は捲し立てるように話し続ける。
熊の目の粉を持ち観察しながら。赤い上着の破れた残骸を広げ摘みながら。熊の中の綿を掴み揉みながら。
些か狂気が混じったとしか言えない内容で、言葉遣いで、ルリナリンに話し続ける。
そんな光景を目にしても、ルリナリンはやはり――ただただ呆然とした声を出すことしか、できない。
「この目の粉はなんの素材でできてるんだろうナァ? 赤い上着の方はどんな染料を使ッて、どんな布で作り上げたのかナァ? この綿は一体、どこで入手したのかナァ?」
「――――」
「夢が広がルゥ、広がルゥナァ。その素材一つ一つがわかることで、その素材一つ一つの由来、入手、作成、ッツゥのが新たに疑問として出てくんだ。物とは素晴らしい、壊すこととは素晴らしイィ。ナァ、ルリナリン、そうだロォ?」
「――――」
全く持って何一つが理解できない内容に、ルリナリンは声を出すことすらできなくなった。
別に壊さなくとも、その完成されたものの一部一部をしっかりと見れば、一部一部をしっかりと触れば、どんな素材を使っているのかなんて一目瞭然だ。
目の粉なんて、目が布以外のものでできていることを見て知れば、これは壊したら粉になるな、というのは簡単に発想がつく。
赤い上着なんて、見ただけで赤いとわかるし布だとわかる。
中の綿なんて、壊さなくとも熊のお腹ら辺を少し揉み続けていれば、感触からして綿があるのだな、と簡単に理解ができる。
だと言うのに、なぜ――壊す必要が、あるのだ。
「な、んで……」
「アァ?」
「壊、さなくて、も、わか、る、のに……」
「おいオィ、それは前提の問題だロォ? いいカァ、君と俺ジャ前提が違ェ。君はこの熊のぬいぐるみと一年ぐらいの付き合いだロォ? でも俺は今まで興味なカッたんだかラァ、今日で初めて知ッたと同然だ。そリャあ君の場合、長い間見続けてるんだから、素材なんて簡単にわかるだろうサァ」
「だ、ったら……!」
「でもヨォ、その言葉を逆ニッて置き換えてみるゼェ? つまりそれは、長い間見続けてネェと素材はわからなイッてコッだロォ? 俺は素材が知りテェんだヨォ。タッた一つの物に、一つの物の素材を知るために、そんな何年も時間をかけられるカッて話なんだヨォ。……でナァ、壊すと素材を知れるだロォ? 時間をかけるなら、サッさと壊して素材を知ッた方ガァ、効率的ッてやつなんジャネェのかヨォ」
「っ……」
――ルリナリンは、絶句した。目からは少量の涙を溢し、反論したいが言葉が見つからず、俯く。
なぜ、それほどまでに絶句したのか、俯いたのかというと――ルリナリンは、兄の言っていることがおそらくは建前だと、そう予想がついたからだ。
兄は、物の素材が知りたいわけじゃない。
物の素材が知りたいなら、ただそれだけなら、先程ルリナリンが言った通り、見て触っての観察をし続ければいいだけの話だ。
時間がかかるだとか、壊す方が効率的だとか、そんなことを兄は言っているが――そもそも素材を知りたい人は、物自体も大切に思っているはずだ。
「――――」
素材を知りたいのは、その物についてもっと詳しく知りたいから、という理由の人が大半だろう。
再現するために、もっと詳しく知るために、素材を知って調べて観察して――そこに、物を傷つけたいと思う気持ちは、微塵も欠片もない。
なのに、兄は壊してでも物の素材を知りたいと言っていた。
それは――物の素材を知りたいという建前があって、ただただ物を壊したいという本音があるだけ、ではないのだろうか。
「……ぅ」
――ルリナリンとその兄であるファトは、幼い頃から既に関わりが薄くなっていた。
△▼△▼△▼△▼△
――ルリナリンが七歳の頃。
小学校の入学式から三ヶ月ほど経ち、学校でも友達が少しずつできてきて、馴染めてきた頃。
その日は、とある小試験があった。数学のちょっとした計算問題五問で、五点満点の、本当におまけ程度の小試験。
だが、その小試験の一番最後の五問目の問題――それが、小学生にはかなり難しいほどの応用だったのだ。
故に、平均的な頭の良さであったルリナリンには解けず、小試験の点数は四点であった。
その解けなかった問題の解き方を教えてもらおうと、ルリナリンは、家族の中で一番頭がいい姉に話しかけて――
「はっ」
――鼻で、笑われた。
リビングのソファに足を組んで座っている姉は、まるで女王のような、まるで世界で一番偉いような、そんな姿と態度であった。
そしてその姉の、ハッと鼻で笑ったその声は――ルリナリンの今までの努力全てを嘲笑うような、そんな声にも聞こえた。
「え……」
「ナに、あナたはそんナ問題も解けナいんですの? そんナの、基礎を少しだけ特殊ナ形で使って、解けばいいだけの話ですわ」
「え、いや、それが、わかんないから……」
「わたくしに聞いたと? 図々しいにもほどがありますわよ、あナた。いつわたくしが、あナたにわたくしに物事を尋ねる権利を与えましたの?」
「え、は……?」
その嘲笑いの声に、ルリナリンは一体どういうことなのか、と疑問声を発するが――そこからさらに返ってきたのは、また意味のわからない言葉であった。
解き方が、基礎の使い方がわからないから聞いているというのに、姉は本当に単純な疑問を持つように、ルリナリンに権利だのどうだのと、問う。
その答えも問いも――ルリナリンには、意味がわからなかった。
「い、いや、権利とかそういうのどうでも良くてさ……あの、教えてほしいかな、って」
「権利がどうでもいい? あナた、ナにを仰っていますの? わたくしのような高貴の人間にあナたごときの平民が、権利も持たずに欲望だけでわたくしに問題の答えを聞くナど……あナた、常識ってものを理解してナいのですか?」
「だ、だから、高貴とか平民とか……同じ家族でしょ! このぐらい、教えてくれても良くない……?」
姉の言っていることが意味分からずとも、どうにか反論して答えを教えてもらわねばと、ルリナリンは若干上目遣いの涙目になりながら、言葉を紡ぐ。
それに対し、姉は今度は高貴だの平民だの、立場的差別のような言葉を使う――というより、それがそもそもおかしいのだ。
ルリナリンと姉であるファム・メードは、同じ屋根の下に暮らす家族だ。なのに、なぜ、立場がどうのこうのと、言われなければならないのか。
やはり意味がわからなく、ルリナリンは少しだけ泣きそうになりながらも、反論をすると――
「……ふふっ」
「え?」
――そのルリナリンを見てか、姉が口に手を当て、上品な風に笑い出した。
その、嘲笑いのような見下すものでもなく、大笑いのような揶揄うものでもない、微笑ましいものを見るような突如の笑いに、ルリナリンは一瞬だけ何事かと疑問を持つ。
だがその一瞬の後、もしや今までのはただの演技で、ルリナリンを揶揄っていたのではないかとルリナリンは思い、少しだけの希望を――
「いい、いいですわね、その顔。――哀れで惨めで、たまりませんわね」
――持った途端、その声が聞こえ、持つ予定だった希望は失せ、ルリナリンは再び疑問も持ち始めた。――だが、その疑問もまた束の間で。
「え、えと……?」
「いえ、ただ単に、あナたの顔が愉快だっただけですわよ?」
「は……?」
「だから、わたくしはこう言いましたの。……あナたの哀れで惨めで、今にも泣き出しそうナその顔が、愉快だった、と」
その姉が放った言葉の意味を、ルリナリンは詳しくは理解できなかった。
ただ、一つだけ理解できたのは――その言葉が、明らかに好意から放たれたものではない、ということ。
言葉の意味がわからず、唯一理解できたこともまたその内容の意味がわからないもので、呆然としているルリナリン。
そんな彼女に、姉が、心底呆れたようにため息を吐きながら、言葉を溢す。
「いいですの? あナたとわたくしには、頭脳や運動神経、そう言った明らかナ格の差の違いというものがありますわ。わたくしが上、あナたが下。それはこの家庭の中で決められた絶対的ナ法則であって、揺るがナい真実ですわ。だから、わたくしが上、誰よりも上、一番上、上で上で上で上で上で上で上で上で、最上で、最上級で、最上位。ここまでいいですわね?」
「ぁ、え……?」
「そしてわたくしがあナたより上ナら、わたくしがあナたを娯楽の一環として使うのは、変ナことではナいですわよね? だから、あナたの今にも泣き出しそうナ、哀れで惨めナ顔が面白かった。だからわたくしは微笑んだ、だからわたくしはあナたを見下した、だからわたくしはあナたを下に下に下に下に下に下に下に下に見続けた。……とっても、愉快ですわよ」
「ぁ、は、ぁ?」
細かく詳しく、一から十まで聞いても、ルリナリンは姉の言っていることが理解できない。
言っている言葉の内容はわかる、意味もわかる――だが、なぜそれを発せられるのか、なぜそう言った考えに到達するのかが、わからない。
確かに、ルリナリンと姉は頭脳や運動神経、試験の点数や料理掃除洗濯と、さまざまな分野でのできの格差は大きい。
――だが、その理由だけで、家族内での立場すら変わってしまうのか。
ルリナリンが下で、姉が上という絶対的な立場が作られてしまうのか。だから、姉がルリナリンに対してどんな扱いをしてもいいというのか。
――わからない。その理由が、その発想が、その思考が、わからない。いや、そもそも――
「お、姉ちゃんは……」
「ナんですの?」
「ま、前まで、あたしと普通に接してくれてたのに……!」
「ああ、あナたは頭が悪いので、揶揄い甲斐がナかったのですわ。だから、変に嫌味とかを言うのも面倒臭くて。所詮、前までの関係ナんて偽りにしかすぎませんわよ」
「な……」
――前までは普通に接していたではないか、とルリナリンは反論するが――所詮そんなのは偽りだったと、一蹴されてしまった。
――ルリナリンは絶句する。
確かに、姉の言うことは的を射ている。
一歳や二歳のときには話にもならなかっただろうし、三歳や四歳、五歳のときもルリナリンの思考は常にお花畑で、今のようなことを言われても、特になんとも思わなかっただろう。
六歳や七歳のときから常識というのが少しずつ身についてきて、段々とお花畑は薄れていった。だが、そこら辺の頃は姉は小学校に入ったばかりで、ルリナリンと話すことは碌になかった。
だから、今。だから、今、ルリナリンが問題を聞いてきたときに――まるで、ちょうどいいと言わんばかりに。
「ぁ、ぅ……」
「はっ。と言っても、この程度でそれぐらいの反応ナら、もうあまり揶揄う価値もナさそうですわね」
――ルリナリンとその姉は、小学生時代から既に、ほとんど関わらなくなっていった。
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――小学校から帰ってきたら、基本的には兄のせいか、自分の部屋の中の物がたくさん壊れている。
問題や試験でわからないところがあっても、誰にも聞くことができない。
成績も伸びない、運動神経も落ちていくばかり、努力しようという気にもならない。
そのせいか、ルリナリンは少しずつ少しずつ、学校に登校しなくなっていって――小学三年生の九歳の頃には、不登校となっていた。
そして、そんなルリナリンに対し、兄は無関心で、姉は大して興味を持っていなさそうで、両親は――
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――怒りか、はたまた今までの鬱憤が溜まっていたか。
バリィンと割られた皿の音は、ルリナリンと母の関係を割ったような音にも、聞こえた。――聞こえて、しまった。
「ねぇっ、なんでなのっ?」
とある日の夕食、大きな部屋の大きな机にて。
所謂誕生日席、というものにルリナリンが座り、そこから時計回りで父、兄、姉、母と並んで座っている。
夕食の内容は、厚切りの焼いた牛肉が乗せられたようなパンに、数々の野菜が盛られた和え物、そしてとうもろこしの温かい汁物。
かなり豪華そうな食事で、遠目から見れば幸せそうに見える家庭だが――不満げに放たれた母の声が、その雰囲気を全てぶち壊した。
「ねぇっ、なんでなのって聞いてるのっ」
「ぁ、ご、ごめんなさぃ……」
「謝れなんて一言も言ってないっ!」
「ひっ……!?」
母はルリナリンを射殺しそうな勢いで睨み、唇を精一杯噛み締めながら、言の葉を紡ぐ。
その、明らかに怒っているとわかる雰囲気に、ルリナリンはまず謝罪から始めたが――それが逆に、母の地雷に触れる。
自分の言ったことは全て聞けと、そう言った俺様な性格な母親が故、ルリナリンの言葉は琴線に触れたのだろう。
母は焼いた牛肉が乗ったパンを右手で潰し、怒り狂ったようにその潰したパンを、ルリナリンに向かって投げつける。
「なんでっ、ねぇなんでなのっ、なんでなのっ!」
「ぇ、ぇと……な、何を、質、問、してるのか……」
「わからないのっ……? 平気な顔して学校休んでっ、なのにのこのこと夕食に出てきてっ! こっちは金払ってっ、ご飯まで作ってっ、洗濯とか掃除までしてあげてっ! そんなにやってるのに、あんたはその恩の一つも返す気はないのっ!?」
「ぁ……」
なんでなんでと繰り返されても、ルリナリンは何に対しての質問なのかを、理解できていない。故に聞いた。そしてまたそれが、地雷に触れた模様。
母はおそらく、ルリナリンが不登校になったことについて怒っているのだろう。――激怒しているのだろう。
確かに、母は学校に行くためのお金を払い、朝昼晩のご飯を作り、家族全員の部屋の掃除をしっかりとし、家族全員の服の洗濯もしっかりとしている。
そんなにやっているのに、してあげているのに、ルリナリンはそのことを当然と受け入れ、しかも学校は平気で休み、恩を返す様子はない。
――それは、怒るのは当然なのかもしれない。日頃からの努力を無碍にされているようなものだから、怒るのは当然なのかもしれない。
でも、だとしても――
「わ、わからないよ……」
「はっ!?」
「な、何すればいいか、わからないの……!」
――わからない、ルリナリンにはわからない。
ルリナリンには成功体験がないのだ。
ルリナリンには努力をして報われて褒められた経験がないのだ。
ルリナリンにはこれからも楽しく生きようと思えた日々がないのだ。
ルリナリンはまだ九歳だ。求めるのにも、恩を返せとせがむのにも、自分でやることを見つけてもらうの、早すぎはしないだろうか。
だが――
「わか、らないっ……?」
「お母、さん……」
「なん、なのっ……私はこんなに頑張ってるのよっ……? なのに、なんで期待に応えてくれないのっ……?」
「ぁ……」
――究極、すれ違いでしかないのだ。
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――その後、夕食を残し部屋に戻ったルリナリンは、泣いて泣き喚いて泣き叫んで泣き嘆いて泣き続けた。
――わからない、ルリナリンには何一つとしてわからないのだ。
成功体験がないから、何が成功と言えるのかわからない。
家族に褒められた経験がないから、何で満足してもらえるのかわからない。
昔の関係は上っ面、そして今は亀裂が入りまくった関係のせいで、人の機嫌を取った経験もなければ、慰めたり仲直りした経験もない。
だから、明日からどんな顔をして家族に会えばいいのか、わからない。この家には、この家族には、ルリナリンの味方はいない、誰一人として存在しない。
――自己中心的に怒鳴る母も。
――割られた皿のみに興味を向けていた兄も。
――母とルリナリンのやり取りを面白そうに見ていた姉も。
――自分には何一つ関係ないと言うように、あんなことがあっても黙々と一人で食事を続けていた父も。
味方は誰一人として、いない。泣いても慰める人はいないどころか、なぜ泣いているのだと面白がってくるか、怒ってくるかの二択の選択肢の人しかない。
ルリナリンは――もう考えることすら疲れ、泣き止んで眠りに落ちた。
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――翌日、ルリナリンは布団の上で目が――覚めることはなかった。自分の部屋の、床の上で目が覚めた。
そこら付近に、泣き跡があちこちとあるため――おそらく、昨日の泣いて寝落ちした場所から、変わっていないのだろう。
どうやら、昨日の夕食後、実は母はやはり反省していて、ルリナリンに毛布を被せて――と言った、頑張れば仲直りができそうな関係には戻っていないらしい。
これは本格的に見捨てられたかもしれない、ともはやどこか現実逃避気味に考えるルリナリンは――
「……?」
――自分の部屋の窓の外を見つめて、外が何か明らかに騒がしいことに気づいた。
ルリナリンの部屋は一階だ。というより、この家は二階がなぜか物置のような倉庫と化しているので、家族全員部屋は一階なのだが――まあ今はそんなことはどうでもいい。
ルリナリンは今、外で何が起こっているのかと窓際まで歩き、窓の外を覗く。
「……誰か、引っ越してきた?」
そして、外を見たルリナリンの仮説の発言が、それだ。――誰かが、引っ越してきた。
窓の外は、都会と田舎のどっちと言われると明らかに田舎と言われるほど緑が生い茂っていて、少しだけ整備された土の道が通り、その近くには田んぼや畑がいくつかある。
どうやら田舎に住むというのは、父が自然好きで、都会には絶対に住まないと譲らなかったが故らしい――が、それも今はどうでも良く。
窓の外の左右を見ると、家が左右ともにずらりと並んでいて、その横や後ろに、畑や仮牧場など置かれている。
そして、ルリナリンから見た方向の右側の、すぐ隣の家の前に――人や箱などが、たくさん並べられていた。
「うん、どう見ても引っ越し現場だよね」
家の中と外を、その人や箱が出入りを繰り返している。故に、ルリナリンは引っ越し現場だと確信を持ち、そう独り言を呟く。
ルリナリンはそのまま、少しだけその現場を眺め続け、そして途中で満足がいったのか、しばらく眺め続けた後、布団の上へと小走りで向かっていく。
布団の上に飛び乗ったルリナリンの耳にボフン、という音が入ってくる。
「――――」
その音から、このベッドは普通のものよりは高級品なのかな、と言った考えが、ルリナリンに生まれてくる。
ボフン、と音が鳴る原因は、飛び込んだ際にその布団の中の空気が外に出るからだ。
基本的に、高級品の布団は通気性を良くするため、中に空気が多く入っていることが多い。
そこまでルリナリンは明確に知っているわけではないが、なんとなくベッドは高級品だと、ルリナリンは予想がついた。
「……高級品、か」
なぜ高級品が使われているのか、ルリナリンは布団に横になり、目を瞑りながら考える。
高級品が使われている理由――それは昨日の母の言い分の通り、彼女がいろいろと努力しているから、だろう。
高級品を買うほどのお金を貯めるのも、高級品を見つけるのも、家具選びをするのも、母が頑張ってくれたから。
――その向けられている愛情が、今はルリナリンには酷く、苦しかった。
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――そこからさらに後ろ向きな考えをしていっても自分自身が辛くなるだけなので、ルリナリンはそのまま意識を手放そうとした。
だが先程まで寝ていたので、碌に寝れるはずもなく。
横になっても目を瞑っても眠気がやってこないルリナリンは、何をしようかと少し考え――考えた後すぐに、窓際へと再び歩いていく。
先程、別に隣の引っ越しなど自分には関係ない、と思い観察を途中でやめたルリナリンだったのだが――どうやら、まだまだ興味はあるらしい。
「……あれ?」
そして窓際へ寄り、もう一度外を見つめたルリナリンは、その外の様子を見て、疑問声を放つ。疑問声が放たれた理由は、外の様子が変わっているからだ。
否、外の様子が、というよりかは、外の隣の家の様子が変わっている、と言った方が適切かもしれない。
外の様子は先程までと同じく、田舎らしい風景や畑や田んぼが広がっている、という感じなのだが――隣の家の前の人や箱が綺麗さっぱりなくなっているのだ。
そしてその家の玄関の前に、銀髪の少女が出てきている。おそらく、隣に引っ越してきた隣人なのだろう。
腰まで長く伸びた銀髪に、おそらく玄関にいる両親たちに向けているであろう笑顔、出ているところは出ていて出ていないところは出ていない体。
――と、その雰囲気から幼さも感じられるが、同時にどこか大人っぽさも感じられる少女。
「――――」
ルリナリンは思わず、何も言葉が出ないほど、その少女を見つめ続けてしまった。なぜ言葉が出ないほど見続けているのか、ルリナリンにはわからない。
だがなぜか、その少女を見ているだけで、心臓の鼓動がトクントクンと、少しだけ速くなっていく。
「……あ」
と、ルリナリンがその銀髪の少女に目を奪われていると、その少女が隣の家の前から飛び出してくる。
そして、ルリナリンから見た左方向――つまり、ルリナリンの家の方向へと歩いてくる。
歩く、というより小走りに近い故、ルリナリンが一体何事だ、と硬直しているうちに、その少女はルリナリンの家の玄関前までついてしまう。
――そしてコンコン、と少しだけ大きな音で、戸が叩かれた。
「ん、ん……?」
どうせ母か父が対応してくれるだろう、とルリナリンは考え、少女訪問の件については一回置く。
そしてなぜその少女がルリナリンの家にやってきたか。それを考えることとする。
「――――」
まだ幼いルリナリンの頭脳で考えられた可能性は、二つだ。
隣に引っ越してきた故、挨拶に来たか。
もしくはこれから同じ地域に住むということで、何か交流を深めるために家に招待されるか。
その、どちらか――とりあえず、引っ越しの件が関わっているのは確実なはずだ。
「って……」
と、おそらくそこまでの思考時間、約十秒。
その十秒の間、それはルリナリンが考えている時間でもあり、少女が戸をコンコンと叩いてからの時間でもある。
そう――この十秒の間、兄や姉はおろか、母や父ですら、戸を叩かれたことに対応していないのだ。
「は、わわわ……」
ルリナリンはそのことに気づき、幼い故か、はたまたその少女が気になる故か、もしくは待たせるのは悪いと本能が感じた故か。
自分の服装や髪の毛の乱れの確認もせず、自室を出ていき玄関まで走っていく。
「ほっ、ほっ、ほっ……」
と言っても今、家族に会ってしまったら気まずいため、できる限り音は鳴らさないように、丁寧に丁寧に走っていく。
そして部屋を出て左に曲がり、大部屋に出てもう一度左に曲がり、そして――
「あ、おはようございます!」
「お、おはようございます」
――その少女と、対面を果たした。
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――その少女はやはり、幼さを感じられる雰囲気ながらも、どこか大人っぽさも感じられるような雰囲気も放っていた。
おはようございます、とその少女が笑顔になると、その輝く銀髪が揺れ、ついでにその少女の歳にしては成長している方であろう胸も揺れる。
着こなされた冬服らしい上着に、その上着とは合わなそうなのになぜかその少女が着ることで魅力を引き出している、青色のスカート。
幼いが大人っぽい。――本当に、そんな評価が似合う少女である。
「初めましてをば! この度、先程お隣にお引っ越しをして参りました、フィファラ・シェンテリオンと言います。お隣にお引っ越ししてきたご縁があるということで故、挨拶がてら交流を深めたら深められるなと、気持ちとお菓子を持ってまいりましたでございます」
ルリナリンがその少女に再び目を奪われているうちに、少女――フィファラ・シェンテリオンと名乗ったその子は、ルリナリンの家に来た理由を話す。
その理由はやはり、隣に引っ越してきたので挨拶、というルリナリンが予想していた内容であった。
だが、おそらく丁寧な言葉遣いで話そうとしたのだろうがどこか微妙にずれている内容のせいが故、ルリナリンには話の半分ほどは入ってこなかった。
が、とりあえずルリナリンは返信をしなくてはならない。
「あ、えと、ご丁寧にありがとうございます」
「はい、どういたしまして! えーと、この家のお子さんですよね? 母親さんでも父親さんでもいいので、呼んできてもらえると嬉しいのですが……」
「あ……」
と、返信ということで感謝を述べたルリナリンだったが、次のフィファラの言葉に、ルリナリンはどうしようかと、思考が一瞬だけ止まった。
「――――」
「……あの?」
フィファラが心配そうな声と表情で首を傾げ、ルリナリンを見つめているが――それは、今のルリナリンには入ってこない。
――今、ルリナリンはどんな顔をして、親に会えばいいと言うのだろうか。
「――――」
「えーと、あの?」
ルリナリンは昨日、母と盛大な喧嘩をした。否。あれは実際、喧嘩と言っていいものなのか、それ以上のものなのか、わからない。
だとしても、ルリナリンは仲直りした経験も喧嘩した経験もないため、仲直りの方法もどんな顔をして会えばいいかも、わからないのだ。
故に、率直に言うと会いたくないのだが――今の状況が、それを許さない。
「――――」
「おーい、おーい?」
ルリナリンの私情で親に会いたくないとなると、フィファラがどうすればいいか困るだろう。
彼女はお菓子まで持ってきてくれたのだ。その好意を無駄にするほど、ルリナリンに悪い意味の勇気はない。
だがだとしたらルリナリンは、母や父に会わなければいけないことになる。
どんな顔で会えばいいかわからないし、どんな言葉をかければいいのかわからないし、どんな表情を作ればいいかわからない。
自分を優先すればフィファラが困る。フィファラを優先すれば自分がどうすればいいかわからない。故に、ルリナリンはどうすればいいかと悩み続け――
「あの、もしかしてなんか困ってます?」
「へ?」
――その、突如として割り込んできたフィファラの声に、思考を断たれた。
「あ、え?」
「いや、さっきから声かけても全然反応しないので……」
「あれ、声かけて、たの?」
「気づいてすらない!?」
と、ルリナリンは突如のフィファラの声に、すぐには理解できず変な声が出るが――それをどう読み取ったのか、フィファラはそのまま言葉を放つ。
どうやら、フィファラはルリナリンが思考の海に溺れている間、何度か声をかけてきていたらしい。
気づいてすらなかったルリナリンに、フィファラががーん、と効果音がつきそうな声と内容で言葉を発するが――それも束の間。
「ま、いいです。……なにか困ってるなら、言ってくれてもいいんですよ?」
「え、あ、その……母と喧嘩しててっ……!?」
フィファラが、その年相応以上に育った胸を張り、頼もしい雰囲気で、そう言う。
そのフィファラの言葉に――ルリナリンは自分でも驚くほど、今の自分の悩みが口からあっさりと出てきた。
「あ、ちょ……」
「ふむふむ、なるほど! そういうことなら、私に任せてください……いや任せて。喧嘩の仲裁は意外と得意なの」
「え、ちょ!?」
先程の発言を、ルリナリンは取り繕うと何か言おうとするがーーその前に放たれた、フィファラのなぜか嬉しそうな声となくなった敬語に、ルリナリンは驚き、言おうとした内容を忘れてしまう。
そして、自慢げな表情で言葉を放っていたフィファラが、そのままルリナリンの右を抜け、玄関に上がり靴を脱いで、家に上がっていってしまった。
そのことにさらに驚き一時停止したルリナリンであったが、停止している暇などないに等しい。フィファラは既に、玄関から見た右の角を曲がろうとしていた。
「ちょ、待って待ってって!」
「ん、これさ……あ、そういえば名前聞いてなかった。なんて言うの?」
「え、へ? ルリナリンだけど……」
「じゃあルリナちゃん、母親さんの部屋どこ?」
「る、ルリナちゃん……!?」
フィファラを追いかけると、彼女は名前を聞いてきた。確かに、ルリナリンは自己紹介をしていなかった故、名前を言うと、なんとまさかの愛称呼び。
その後、驚きの余りに母の部屋の場所の質問に答えられないルリナリンに、フィファラがなぜか頬を膨らませ――ルリナリンの頬を、両手で包んできた。
「むにゅっ!?」
「ルリナちゃん……」
「にゃ、にゃに……?」
「可愛い!」
「ほへ!?」
ルリナリンは何事か、とフィファラに問う前に、彼女はいきなり抱きついてきて、そしてさらに頬擦りをしてくる。
ルリナリンは、初対面にしては近すぎるフィファラの触れ合いに、顔を赤くしながら固まってしまう。
そして、フィファラはルリナリンの感触を堪能することに満足したのか、しばらくしてルリナリンを離し――
「はい、じゃあ母親さんどこにいるか教えて」
「あ、はひ……」
――本題へと、話を戻した。
その、いろいろと大袈裟で、しかしどこかしっかりとしている雰囲気――ルリナリンは、それに翻弄されるばかりであった。
△▼△▼△▼△▼△
――そんな雰囲気もあったため、ルリナリンは先程まで感じていた不安や悩み、緊張などは、少しずつ薄れていった。
しかし薄れていったとしても、不安は不安で、悩みは悩みで、緊張は緊張だ。
体は強張るし、どんな顔をして合えばいいか未だに見当がつかないし、フィファラが何を言うのかも不安だ。
そしてあの後、フィファラからの急接近を受けたルリナリンは思考力が低下したので、あまりにもあっさりと母の部屋の場所を、教えてしまった。
――故に今、ルリナリンとフィファラは、母の部屋の前で立ち尽くしている。
「ふぃ、フィファラちゃん……」
「ん、大丈夫大丈夫。後、私のことはフィファラでいいよ」
「え? でも、フィファラちゃんはあたしのことルリナちゃんって……」
「いいからいいから。さて……」
緊張の場面の前とは思えない軽々しいやり取りをし、ルリナリンは顔色を不安に染め、フィファラはなぜか自信に染めている。
こう言った仲裁が得意と言っていたが、それは一体どういうことなのだろうか。そして得意故、フィファラは今、自信に満ちた顔をしているのだろうか。
「――――」
そしてルリナリンは、深呼吸で息を整えているフィファラを見つめながら――気づいた。
先程から、フィファラを見ると心臓は鼓動が速まり、ずっと見ていたい気分になる、その感情――それはきっと、憧れだ。
自分にない部分があるフィファラに対する、自分に自信を持てるフィファラに対する、初対面の人でも助けようとするフィファラに対する、強い強い憧れ。
だからルリナリンはフィファラを見ていると、少しだけ変な気持ちになるのだ。――ちなみにその感情が憧れではなく恋だと気づくのは、二年後の話である。
「――――」
ルリナリンは、フィファラに対して憧れを持っている。だから今の場面でも、フィファラを信じているから止めようとしない、のかもしれない。
思考力が低下したとは言え、母の部屋の場所を教えたのも、出会った当初、あっさりと自分の悩みを吐いてしまったのも――全部、憧れていて、信頼していたから、なのだろうか。
「……ふぅ」
そう思うからこそ、そう気づいたからこそ、ルリナリンは、フィファラを期待の眼差しで見つめる。
彼女が、これからどんなことをしてくれるのか――
「よし。……たのもぉ!!」
「へ?」
――期待していたルリナリンは、いきなりのフィファラの大声に、素っ頓狂な声を出さずにはいられなかった。
というより、声だけではなく、その光景も何が起きているのか信じられなかった。
――入っていいですかや失礼しますなどの言葉はおろか、戸をコンコンと叩きもせずに、フィファラは体当たりして扉を吹っ飛ばしたのだ。
その小さな体にどれだけの力があるんだ、と言った突っ込みすらも湧かないルリナリンは、唖然としたままだったが――約一秒経った後に、意識を取り戻す。
そして今、何が起こったのかを深く理解して――
「な、な、何やってんの!?」
――そう、突っ込まずにはいられなかった。
「いや何やってるって、喧嘩してるんでしょ? 売られた喧嘩は買わないと」
「いや、いやいや!?」
さっきまでの憧れを返してほしい、という意味合いも込め騒ぐルリナリンに、フィファラはものすごく平然とした風に答える。
――否、風というより、本当に平然としている。瞳には迷いがないし、声は震えてないし、足腰はしっかりしているし、なんなら腕まで組んでいる。
逆に憧れが増えたかも、とルリナリンは現実逃避気味に思っていると――
「な、なにっ……?」
「あ……」
――寝起きなのか、ベッドの上で身を縮こませている、少しだけ怯えた母の声が聞こえた。
△▼△▼△▼△▼△
「な、なにっ、誰っ、誰っ!?」
「あ、初めまして。お隣に引っ越してきたフィファラ・シェンテリオンです」
「ひ、引っ越しっ!? あっ、ど、どうもっ……」
慌てている母に対なるように、フィファラは至って平然としている。
そして隣に引っ越してきたと事情を伝えると、母も無礼はやめた方がいいと悟ったのか、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「え、ええとっ、何の用でっ……?」
「あ、はい。どうやらお子さんと母さんが喧嘩してる、と聞きまして」
「ちょ……」
「っ……」
何用かと問うた母に、フィファラはあまりにも率直に用件を答える。
その率直さに、母のみならずルリナリンも慌てたように言葉を溢すが――フィファラはルリナリンの唇を、人差し指で封じる。少し静かにしていて、と言うように。
その行為に、ルリナリンはフィファラの意図を読み取るというより、恥ずかしい故に静かになる。
そしてルリナリンが静かになったことに満足したのか、フィファラはルリナリンの唇に人差し指をつけたまま、母の方を向き、言葉を発する。
「他の家族の事情に関わるつもりはないですけど、私の目から見てもルリナちゃんはなんか哀れだったので、仲直りしてほしいと思いました。大変傲慢なことかと思いますけど……どうか、隣人からの粋な計らいと思って、母親さんはせめて、ルリナちゃんの話を聞いてはくれませんか?」
「――――」
最初のルリナリンに出会ったときの全然使えていなかった敬語は演技だったのか、と疑うほど、丁寧でわかりやすく配慮がある、綺麗に並べられた言葉が発せられる。
母親さんやルリナちゃん、などの年相応な言葉遣いも多少はあるが。
だが、その幼さでそんな言葉を使えたことに感心したのか、はたまたここまで言われるとさすがに考えぐらいはするのか。
母はそのフィファラの言葉を聞いて、少しだけ考える仕草をする。
「――――」
そして、約二十秒経過。母は腕を組み、目を閉じて――話しを聞く体勢へと変わる。
ルリナリンもフィファラもその意図を読み取り、フィファラはルリナリンの唇につけていた人差し指を離し、ルリナリンは緊張しながらも前に出る。
そして――
「え、ええと、その、お母さん……ごめん」
――まずは、謝罪から始めた。
「い、今まで、お母さんの努力とか、頑張りとか、その、あたしが生まれたときから続けられてたから……当たり前と思っちゃって、ごめん」
ルリナリンは腰を折り、精一杯の謝意を示し、言い続ける。
「あの、さっき気づいたんだけどさ……あたしの部屋の布団、あれ高いやつだよね。お金貯めたのも、家具選んでくれたのも、全部お母さんの頑張り、だもんね」
「……料理も洗濯も掃除も、学校だって選んでくれたし、お金出してくれたし。あたしだけじゃなくて、お兄ちゃんとお姉ちゃんの世話だってしてるし……」
「だから、これからはたくさん感謝する。今まで頑張ってきてくれてありがとうってたくさん言う。だから、その……ごめんなさい」
――ルリナリンは顔を上げず、礼をしたまま言い終え、母の反応を待つ。
長い沈黙が場を制覇し、緊張が心の中で蠢き、それらが合わさりルリナリンの冷や汗として、おでこを伝う。
そして、そんな長い沈黙で、最初に聞こえたのは――
「……け、ないでよっ」
「へ?」
「っ、危ない!」
「へっ?」
――母の掠れた声と、その後に発した自分の素っ頓狂な声と、フィファラの切羽詰まったような声と、さらにその後にもう一度聞こえた、自分の素っ頓狂な声。
何が何だかわからず、ルリナリンは勢い余って顔を上げると――目の前には、おそらく部屋の飾り物であろう金属か何かでできた修飾品が、飛んだきていた。
そして、それがルリナリンの顔面にぶつかろうとした刹那――ルリナリンの視界が、大きく揺れる。
「ちょ、わ!?」
視界が大きく揺れ、そのまま床へと倒れ、床に当たったであろう部位に激痛が走る。
突然の動きから激痛までの時間が僅か一秒。余りに怒涛の展開がすぎて、ルリナリンは思わず大声で叫んでしまった。
――だが、そんなことを考えている暇も、痛みに嘆いている暇も、なく。
「っ、ルリナちゃん大丈夫!? 怪我ない!?」
「だ、大丈夫……ちょっと痛いけど」
「そ、そっか……良かった」
そしてその後、自分の右耳の近くから、フィファラの声が聞こえてきた。
フィファラの心配そうな声にルリナリンは大丈夫と答えると、フィファラは次は露骨に安堵したような声を出す。
その言動からして――おそらく、先程の怒涛の展開は、フィファラによって起こったのだろう。
ルリナリンの目の前に来ていた金属や何かを避けるため、フィファラがルリナリンを押し倒すか抱きつくかでもして、床に倒す。
きっと、そのようなやり取りだったはずだ。
「……え?」
だが、そこでルリナリンの頭には、新たな疑問が湧いてきた。
――さっきの金属のようなものは、どこから来た?
「ぁ、え……」
「とりあえず、ルリナちゃんは無事として……実の子に物を投げるとは、一体どういうことでしょうか。母親さん」
「ぁ、ぁ……」
疑問が生まれ、疑問符がついているであろう声を出すルリナリンだったが――疑問を解決する前に、フィファラが言葉を発する。
それは、ルリナリンが無事なことへの喜びと確認。そして――母への問い詰めが、内容だった。
「ぁ、ぁぁ……」
その内容を聞いて、ルリナリンは先程生まれた疑問に、予想がついてしまった。
ルリナリンは前を見ると――母の足が、見える。
母は意外と高身長なため、太ももの中間ら辺ほどまでしか見えない――故に、そこから状況を探るには、まだまだ情報が必要だろう。
布団で体を起こし降りようとしてフィファラの声を聞き、戸惑って降りようとした最中で止まっている、という可能性もあるのだ。
そこで、次に加わる情報――それが、手だ。
母の太ももの中間ら辺――そこには、握られすぎて肌が若干白くなっている、手が映っていた。
「ぁ、ぁぁ……」
そして、太ももと手の向きは平行だ。両方とも一直線に、床に向けられている。
太ももと手が平行で、向きが床に向けられている――そこまでの情報を見れば、立っているということがわかる。
そう、立っているのだ。立って、いるのだ。さっきまでベッドで上半身だけを起こしていたというのに、立っているのだ。
――まるで、何か近くの物を掴み投げるために立ったとでも言わんばかりに、立っているのだ。
「ぁ、ぁ……!」
そこまで情報が集まれば、予想ができてしまえば、後はわかる。
そう、先程の金属のような何かは――
「ぁ、ぁぁ……!」
――母が、投げたのだ。
△▼△▼△▼△▼△
――和解は不可能であった。
金属のような物をルリナリンに向かって投げた、ということは、それはつまりルリナリンに当たれば自分が得をする、ということだ。
おそらく、さっきのルリナリンの発言が何か気に食わなくて――投げた、のだろう。
「な、んで……!」
「ルリナちゃん」
「あ、う?」
「大丈夫」
「あ……」
何が気に食わなかったのか。何が駄目だったのか。それらが一切わからないルリナリンは、気が狂いそうになるが――そこで、フィファラが声をかけてきた。
それはたった一言。――大丈夫という言葉だけ。その言葉だけで、自分の味方になってくれる人がいるだけで、ルリナリンは、少しだけ楽になった。
――だが、それも束の間で。
「……再び問います、母親さん。なぜ、実の子に向かって物を投げる、なんて行為を?」
「……ざけ、ないでよっ……」
「……? あの、声がよく聞こえな」
「ふざけないでよっ!!」
先程した問いを、フィファラはもう一度、母へと問う。
そしてその返答は、母の微妙に聞こえない掠れた声だった故――フィファラはよく聞こえないと言おうとした。
だがそのフィファラの発言に割り込むかのように、母は大声で、言った。――ふざけないでよ、と。
「うっ……」
「ルリナちゃん、大丈夫だから」
「あ……うん」
それに怯えるルリナリンであったが、先程と同じようにフィファラの一言だけで、少し安心した気持ちが増える。
フィファラをより一層抱きしめ、ルリナリンはその温かさと柔らかさをじっくりと堪能しながら、母を見ると――
「ふざけないでよっ、ふざけないでよっ……!」
「――――」
――そこには、憤怒の険相を浮かべた母が立っていた。
「ふざけないでよっ、今さらっ、今さら気づいてもっ、もう手遅れでしょうがっ!」
「っ……」
「せめてっ、私が言う前に気づいてくれれば良かったっ! 私がいろいろ言った後で気づいても、なんの意味もないっ! そんなの、私が自分の努力で解決したのと同じじゃないっ! あんたはっ、あんたはまたっ、私に迷惑かけるのっ、恩を返すってのはどこに行ったのっ!?」
「――――」
――それは、極端すぎる理屈だった。
確かにルリナリンは母にいろいろと言われてから、高級品のベッドや、他の母の努力諸々について、深く考え気づいたに至った。
そしてルリナリンがそれに至ったのは、母が原因を作ったからなのだから、母がやったことと同じ。
――つまりは、お前はまた自分の努力で得をするのかと、それでその分の恩は返さないのかと、言いたいのだろうか。
「そん、なの……」
ルリナリンからしてみれば、それはとてつもない理不尽だ。
考えてもわからない例外。理解をしようとすら思わない埒外。理由も理屈もめちゃくちゃな理外。論ずるに値すらしない論外。
そう言われてしまっては、ルリナリンはどうすればいいというのか。
許しは永遠と与えられないと言うのか。今まで以上の苦しい生活をしろと言うのか。そんな理不尽に死ぬまで耐えろと、言うのか。
「なんでっ、なんでなんでなんでっ! 私はあんたをそんな出来損ないな子供に産んだ覚えはないっ! 私はっ、私はもっとっ、優秀な子がっ……」
「それ、本気で言ってるの?」
「「へ?」」
どんどん、考えの明暗が深淵の底へと落ちていくルリナリンの元に、さらなる母の罵声が浴びさせられる。
そして――ルリナリンがもう何も聞きたくないと、目を瞑ったとき。母が何か、言ってはならないようなことを言おうとしたとき。
――フィファラの絶対零度のような冷たい声が、ルリナリンの元には聞こえてきた。
「自分の思い通りにいかないからってぎゃーきゃー騒いで、子供みたい。恩だの努力だのなんだのかんだの言ってるけど……人生そんな上手くいくわけないでしょ。恩を一つ一つしっかりと返されたら、それかなりすごいことだと思うよ? てか、あなたはどこかの誰かに恩を返したこととかあるの?」
「な、なにをいきなりっ……子供なんかにっ、なにがわかるのっ!?」
「言ってることわからない? ……子供ですらわかるようなことで、ぎゃーぎゃー騒いでるあなたが馬鹿らしいって言ってんの」
「っ……」
ルリナリンは一瞬だけ身を強張らせてしまう。
それほどまでに、憧れの対象として見ているルリナリンですら身を強張らせるほど、フィファラの声は冷たかった。
「で、話戻すけど、あなたは誰かに恩返したことある?」
「あ、あるに決まってっ……」
「もちろん、自分がありがとうって言った人全員にだよ? 誰か一人でも恩返してないと、人のこと言えないもんね。で、それでどうなの、恩返してるの? ……ああ、こだわるぐらいなんだから、忘れたとは言わないよね?」
「っ、違うっ、違うっ! 何もかもが違うっ!!」
「は……?」
追い詰めるように、問い詰めるように、フィファラはまさに論破、と言った形で母をどんどんと言葉で反論できなくさせていく。
それは、子供と大人の構図がまるで逆なような、そんな風に見える――とルリナリンが思ったのと同時に、母の言語力が崩壊する。
違う違うと、母は何回も繰り返して。
「違うのっ、違うのっ!! 別に恩なんてどうでもいいっ! それが一番示しやすいってだけでどうでもいいっ!」
「……どういうこと?」
「私はっ! ルリナリンには優秀な子供に生まれてほしかったっ! 頭がいい子に産まれてほしかったっ! ファムを超えるぐらいの天才に産まれてほしかったっ! ファトの破壊行為をどうにかできる子に産まれてほしかったっ! 私とかグレイテイル以上にすごい子に産まれてほしかったっ!! ルリナリンはっ、ルリナリンはっ!! 私のその希望を、壊したのよっ!?」
ルリナリンはその言葉を聞いて、涙が出てきた。
そうだ。母だって、好きでルリナリンを愛していないわけではない。
ただただ自分の希望が裏切られたから、望みを断たれたから、愛する気持ちが湧いてこないだけだった。
こんな状況になったのも、全てルリナリンが、優秀な子に産まれなかったせいで――
「何、言ってんの……?」
――と、ルリナリンが自暴自棄な考えを生み出そうとしたときに、フィファラの疑問の声――否、拒絶するような声が、ルリナリンの思考を打ち止めた。
ルリナリンは一体どうしたのかとフィファラを見ると――そこには、信じられないものを見ているような、そんな顔をしたフィファラがいたのだ。
「意味、わかんないんだけど……」
「そりゃそうでしょっ、子供に何がわかるのよっ!?」
「……そんなこと言うなら、なるなよ……」
「はっ? なんてっ……」
「だから!!」
そして、ルリナリンと母両方が思わず黙るほど驚くような、そんな大声で、フィファラは――
「自分が望んできた能力の子しか愛せないなら!! 自分が優秀だと思う子しか愛せないなら!! 他の子が全く愛せないなら!! どんな子でも愛するって母親の想像を壊すなら!! 母親になる資格がないって言ってんだよ!!!」
――そう、言ったのだった。
△▼△▼△▼△▼△
――その後、その言葉を聞いた母は、心ここに在らずといった感じで、不動になってしまった。
ルリナリンもまた、フィファラがいきなり放った大声と内容に硬直して不動になっていたが――フィファラからされた口づけにより、意識が完全に覚醒した。
ルリナリンはフィファラとともに家を出て、そのままフィファラの家に入っていった。
そこでフィファラのお爺さんやお婆さんたち――なぜか父親と母親はいなかった――に事情を説明して、ルリナリンはフィファラの家に住むことになった。
そしてやむを得ず、フィファラの家はもう一度引っ越しをすることになったのだ。
そして、その引っ越し先が今のルリナリンが働いている、第一巨大王国ノヴァディース、ということだ。
そうして、ルリナリンとフィファラは、今のような状況に至った。
△▼△▼△▼△▼△
――ルリナリンは嬉しかった。母に対しては罪悪感をかなり感じていたが、そんなことよりも、嬉しさが勝った。
幼いときから、ルリナリンには味方が一人もいなかった。家庭では言わずもがな、学校でも特別仲のいい友達はいなく、先生との交流も深くなかった。
だから、ルリナリンは嬉しかった。
――フィファラが、母よりも自分の方を優先してくれたことが、嬉しかった。
――フィファラが、自分のためにいろいろと考えてくれたのが、嬉しかった。
――フィファラが、引っ越しや仕事先を探すなど、自分のために一肌脱いでくれたのが、嬉しかった。
だから、自分を肯定してくれる存在をとにかく好むルリナリンは――
「私と、友達になってくれませんか?」
――メリアのその提案には、すごく心が躍ったのだ。
はーい、ルリナリンの名前回〜。
まあそんなことどうでもよくて、ええとフィファラの名前回が第六章ら辺に出てくるはずなんで、なんかあれ、フィファラなんかなんかだなーって思った人はそこで謎が解けるはず。
以上、今回も読んでくれてありがとうございました!
次回、クラティックの名前回。
追記:厚切りの焼いた牛肉……ステーキ
数々の野菜が盛られた和え物……サラダ
とうもろこしの温かい汁物……コーンスープ




