影向
影向
向こうに人影があった。
「あんなところに人がいる」
「いや、そんなわけないよ」
満月が明々と輝く夜の下、焚き火の音が響いている。自然に囲まれた川辺へ、昔からの親友とキャンプに来ていた。テントやらなんやらを設置し終えて休憩している時にその人影を見つけた。
「あ、奥に入っていってしまう」
「うん?あ、あれか、確かに人だ」
人影は一人分しかない。それも、かなり軽装のように見える。
「あれ、まずいんじゃないか」
「うん、そうかも、あの人ライト持ってなさそうだし」
ここらはだいぶ自然豊かで、ライトがないととても安全に歩けるとは思えなかった。川辺ならまだしも、あの人影が向かうのは雑木林の奥の方だ。
「ど、どうする?いくか?」
「あー、そうだな、うーん、くそ、もう一人いればな」
「しかしもう一人に留守を頼んでもそいつが一人だ」
「ならもっと大人数で来ればよかったな」
「と言うか、そんなこと言っている場合じゃない。どうする」
人影の歩みは遅かった。ここまで話し込んでもまだ少ししか進んでいないようだ。
「……あれ、本当に人影なのか?ただの木の影じゃ?」
「でも、動いているじゃないか……ん?動いているか?」
「いや、止まってるよ」
「なんだ、止まっているのか」
安堵して、腰を下ろす。ギュ、ギュ、と折りたたみ式のキャンプ椅子が音を鳴らした。
「というか、この焚き火が見えるはずだし、迷っている訳でもないようだ。本当に人でも大丈夫だろ」
「ま、確かにな」
そう言いながら、やはり不安だった。しかしどうしようもない。とにかく、温めていた飯盒をとって、飯を食った。良い香りがして、もしかしたら林の中から腹の虫の鳴る音が聞こえてくるんじゃないかと思った。
「ふあ、あ、おはよう」
「ああ、おはよう」
いつもより早く起きる。やはりベッドが変わるとだめだ。
川まで行き、手を突っ込んで水を掬う。
「つめてえ」
「ほんとにな」
その冷たい水で顔を洗った。
「あ、やばい、タオルとって」
「自分でとれ」
「くそ、役立たずが」
「変わんねえだろ」
冗談を言い合いながら、朝飯の用意を始めた。
もう一度火を起こしていると、パキ、パキ、と後ろから枝葉の折れる音がした。
「ん、だ、だれ?」
思わず立ち上がって後ろを見ると、こんな山奥にそんな格好、と思うほど軽い装いをした……女?が立っていた。
「誰、誰でしょう、多分神様?」
男とも女とも取れぬその人は、体型も声も髪型も中性的であった。
「か、神様?」
「うん、神様」
そして、訳のわからないことを口走っている。
「こんな山奥に、神様が何用でしょうか……?」
刺激してはだめだと思い、なるべく失礼の無いような態度を取ろうと心がける。
「我輩はここの辺りに住んでいるのさ。むしろ、君はなんでこんなところに?君はここの生まれじゃないだろう?ここは今の人間にとって辛くないかい?ほら、インターネットとかなくてさ」
そう言われて、口籠もる。気分は先生に叱られている生徒のようだった。
「……ふむふむ、死ににきたのか」
図星を突かれて、心臓が飛び跳ねた。
「あまりに話さないものだから、ちょっと覗かせてもらったよ。しかしなぜ死ぬんだ?我輩は君たちを自害するように作った記憶はないのに」
なぜ、なぜと言われても、死ぬしか楽になれないと思ったから。そんな簡単な理由だ、そんな理由で親からいただいた命を蔑ろにしようとしている。
「果たして本当にそう思っているのかな?」
神様が笑った、ように見えた。口角を上げただけだろうか。神様の世界に、笑うなんてないのだろうか。
「いやいや、あるよ。というか喋ってくれないか。久々に会話できるんだ、話してくれなきゃ困るよ」
「あ、は、はい」
すると、神様はこっちに歩いてきて、キャンプ椅子に座った。
「ほら、座って話そう。君には辛いだろう、立っているのが」
「えっと、お気遣いありがとうございます」
「アハハ、そんなに畏まらなくていいよ」
神様は用意していた朝飯のアヒージョを勝手に手に取った。
「食べてもいいかい?少しだけ」
「え、ええ、もちろん」
熱いだろうアヒージョを手掴みで取って食べた。
「うーん、美味しいね」
「は、はあ」
「朝からアヒージョって君、どうなんだい」
「い、いえ、今日死のうと思っていたものですから」
「ふん、だから死ぬ前に少しいい思いをってことか」
「ええ」
アヒージョを火の近くに戻して、神様は一息ついた。
「……」
「あ、あの、昨日の人影は神様ですか?」
ふと気になったことを聞いてみる。
「昨日?ちょっと待ってね……あ、これか、うん、そうだね。我輩だ」
昨日の記憶が鮮明に思い出されたかと思うと、神様はそう言った。記憶を無理やり引き抜かれたようだった。少し頭痛がした。
「あ、すまない、もしかして頭痛めたかい?」
「ええ、大丈夫です」
このくらいの頭痛なら、耐えられる。
「そうか。普通の人間なら死ぬほど痛いんだけれどね」
「え?」
「もう終わったことを、あんなに鮮明に思い出そうなんて所業、君たちの体じゃできないって話さ」
「は?」
「そういうふうに作っていないもの。なんで君は生きているんだい?強いね。部下が間違えて作ったのかな」
アヒージョを手に取って食べた。そして、立ち上がる。
「まあ、君は駄作ってことだね。曖昧に記憶することもできない、人の形をした欠陥品さ」
自殺の名所と言われる、切り立った崖を目指す。
「着いていこう。君から離れることはできないんだもの」
意識が先に歩く。音がまるで後ろに聞こえるようだった。神様の足音のようだ。
「おっと、流石に気づけた」
「ええ、そうですね」
神様は僕のようだった。僕はいつの間にか狂っていて、幻覚を見たようだった。
「いつからだと思う?」
「……この山に入ってから?」
この山に入って、僕はだいぶ心が落ち着いていた気がする。しかし実のところ、多大なストレスがかかっていたようだ。死ぬことを誰に伝えた訳でもなく、今日の学校もバイトも無断でサボった。
「君は昔から優しいだのなんだの言われていたね」
ただ自分が可愛いだけだ。周りからどう思われるのか気になって仕方がないのだ。
「それで君、気づいているかい?」
「はい?」
「君、一人で来たのに誰と喋っていたんだね」
僕には昔からの親友がいた。小学校三年生からの親友だ。弱かった僕を助けてくれた、最高の友だ。
「その頃から狂っていたんだね」
こんなこと、僕に知る由もない。なんでこんなこと、僕の意識が分かるんだ。
「だって我輩、神様だから。君は我輩が作ったのさ」
神のくせに、人間様を作ったというのか。
「うん。あ、そこ、根っこが危ない」
足が引っかかって、よろめいた。
「ほら、君の意識外のこともわかるんだよ。つまり、我輩は君のいう親友が実はいないのも知っている」
与えられた生に疑問を持たぬ赤ん坊のように、抗うことなく僕は地面に体を打ちつけた。
「痛い、痛い」
「だ、大丈夫か」
「これは幻想だ」
倒れている僕の肩に触れた、と思った親友の手は、僕の手だ。僕の手はまるで親友面をして、心配するように僕の肩をさすっている。
「き、気持ち悪い」
「そうだな」
ようく、気づいた。
僕は立ち上がって、膝から出る血を気にせずに歩く。
「クマが気づいて、僕を殺してくれ」
「それは無理な話だ。そんなに都合のいいようにはいかない」
少し開けた場所に出た。ここが、有名な崖だ。近くに滝があって、心安らぐ。
「楽しかったかい?」
誰か僕の中の一人が、僕にそう聞いた。
「ええ、人生で一番、楽しかった。ありがとう、神様」
崖は思ったより高くて、飛ぶのに少し躊躇った。
また一人、無名の若者が有名な崖を飛び降りた。原型の分からぬそれは、男か女かすら判別がつかなくなっていた。