前編
孤独な主人公のお話です。多くの人に共感していただけたら、嬉しいです。
二〇〇三年 九月
「一番高いやつでお願いします」。
「はい?」と俺の声が小さかったせいか、店員は聞き返した。
「一番高いやつです」。俺は腹から声を出しもう一度、答えた。
「一万八千円になります。女の子をお選び下さい」。店員は、黒いファイルを取り出し、俺の前に置いた。俺はその黒いファイルを開け、フラッシュの光でやけに顔が白くなっている女の子の写真を一枚ずつめくった。
俺は、ほとんど何も考えることなくただページをめくり続け。そして一番最後のページに来て、俺は「その女」を選んだ。
店員は俺を奥の部屋へと案内した。そこにはサラリーマン、学生風の男達が順番を待っていた。俺も席に座り、テレビに顔を向けた。
テレビは昼のニュースを映している。中年の男が女子高生に売春をさせた容疑でパトカーの中に連れていかれる映像が流れていた。
この男とたいして変わりはしないと心のなかで俺はつぶやいた。ただこの男は、心の中のことが行動として表れた。そして、それが警察にバレた。それだけである。
何も変わらない。人間は、本来汚いもので、罪深い生き者である。ただ、その汚いものが外に出るか、内に潜めるかの違いである。人は悲しいぐらい「罪深い」。
すると、また一人男が入ってきた。俺のおやじぐらいの年齢の男で、全身がまるで「ぼろ雑巾」のようにくたびれていた。この人も俺と同じぐらい罪深く、寂しいのだろう。顔を下に垂らすと、ジャケットの袖口に赤い染みがあるのに気がついた。目に飛び込んだその小さな赤い染みを起点に、脳の中ではまるで車両が連結されるかのように、ゆっくりと記憶が遡っていった。一両そして、二両、三両と繋ぎ合わされた後、記憶が一瞬、「父親の顔」で充満した。その後、胸の奥から汚物のようなものが込み上げ、口の中が異様な酸味で満たされた。
「青い札七八番のお客さま」。
すると、一番奥の席に座っていた三十代のサラリーマンが立ち上がった。店員の男に連れられ、カーテンの中の暗闇へと姿を消した。
口の中の酸味を何度も唾と一緒に飲み込みながら、俺は雑誌を取出しては、元の場所に戻し、そして席を立ち上がっては、また座っていた。
緊張なのか、それとも罪悪感なのか分からないが、俺の体は小刻みに震えていた。これでもう何もかもを失った。それを選んだのは俺自身である。これしか道はなかったんだ。何も変わりはしない。もとに戻るだけだ。俺には、やっぱり無理だったんだ。そんな答えのない問いばかりを頭の中で繰り返していた。
また、店員の番号を呼ぶ声が聞こえ、ぼさぼさの頭で、よれよれのTシャツを着ていた男が立ち上がった。そしてカーテンの中の暗闇へと消えていった。
俺は頭を抱え、何度もため息をついた。これでいいんだ。ここにきたのは、俺の二本の脚と俺自身の意志である。
俺はトイレ行った。そこで鏡に映る自分の顔を見た。醜かった。自分の心がそのまま顔に現れ、それが鏡に映っていた。やめよう、このまま帰ろう。こんなんじゃだめた。俺は深い後悔の念でいっぱいだった。
昼をすぎた当たりで、次から次ぎえと下を向いた男達が店に入ってきた。そして待合室は、一時的な「肉欲」を満たそうとする寂しい男達でごったがえした。
店員の甲高い声が忙しなく、聞こえた。すると俺の右に座っていた男が読んでいた新聞を置き、素早くち上がった。そして暗がりへと姿を消した。
俺はいろいろと考えるのをやめようと、テレビに意識を集中した。そこにはワイドショーが映り出されていた。相変わらずのゴシップと生産性のない話題だけが聞こえた。俺の心によりいっそう強い暗闇が広がった。
「赤い札十一番のお客さま」。
俺は、背中に一本の寒気が通ったのが分かった。そして急いでポケットの中のカードを見た。俺のカードは「百一番」だった。
ほっとした。やっぱりこんなんじゃダメだ。ここを出ないと、逃げないとそんなことを考えていたが、体は漬物石のようにビクとも動かなかった。
すると、俺の後に入ってきた俺のおやじと同じぐらいの年の男が席を立った。ぼろぼろになったツイードのジャケットが一層、悲壮感を助長している。小柄な体系に加え、猫背で歩く姿に「希望」はなかった。そして肉欲が渦巻くカーテンの暗がりへと姿を消した。俺の視線に気が付いた店員はあまりにもカーテンに入る男達をジロジロと見るため、ドアを閉めた。
俺の後に入ってきた男達がつぎつぎと呼ばれ。俺と二人の男だけが残った。
俺は思いきって立ち上がり、店員の方へと向かった。
俺は腹に力を入れ、「時間がないので、帰ります」。
店員は俺の小さな声に聞き取れなかったせいか、もう一度聞き直した。
「帰ります」少し声を張って言った。店員は、俺の強気な態度に苛立ったのか「返金はできません」と強い口調で言い返した。俺は席に戻った。金なんかどうでもいいはずだ。「帰ろう」と頭の中で何度も連呼する。
「赤い札百一番のお客さま」と甲高い無表情な声が店の中に響いた。
俺は一瞬、ためらったが、覚悟を決め、カーテンの中へと足を踏み入れた。
心の中は完全に冷めきっていた。何も思わず、感じず、ただ真空パックされた「怒り」だけがそこにはあった。
「警察がいなかったら、お前のことを絶対に殺しとった」。
周りの景色が暗い。そして、真っ暗な周りの景色の真ん中には、小さな点があって、そこから記憶の動画が流れている。
大声でどなり、女の人を蹴ったり、殴ったりしている男の人。俺は心が騒いできたので、その動画を取り出し、それを「真空パック」にした。
すると、真っ暗な景色の右上に、渦巻きが現れて、カメラの絞りのようしにして、小さな点があらわれた。
そこから、さっき殴られていた女の人が、小さな子供をハンガーで殴っていた。またその動画を取り出して、「真空パック」にした。
真っ暗な景色に手をのばすと土壁のようにぼろぼろとはがれてきたので、それを手でこすると、動画が現れた。高校受験のプレッシャーで深夜に大声でないている男の子。何かに追われているみたいだった。悲しかったので、「真空パック」にした。
布団圧縮のように平になった無数の真空パックを、物置きの中に並べていたら、一番下にあった真空パックに傷が入り、空気が突然、勢いよく入った。
そうすると、たばこの箱ぐらいの大きさの真空パックが、みるみる膨らんで、最後には、気球ぐらいの大きさになって、俺を飲み込んだ。
俺は、記憶に飲み込まれた。
一九九一年 七月
夜九時頃だった。部屋の中にいたら、父親の大声が聞こえた。俺はその声のする方向に駆け寄ると、父親が母親を俺の革製のリーバイスのベルトでムチのようにして殴っていた。
俺は恐かったので、部屋に戻った。母親の悲鳴が聞こえる。俺は母親が俺のリーバイスのベルトで殴られているのを想像すると、いてもたってもいられなくなった。
俺は部屋のドアの横にあったバットを取り出して、父親の怒鳴り声と、母親の鳴き声のする方向に歩いた。
音をたてないように階段を、一歩、一歩ゆっくりと下りた。
「やめろ」と一四八センチの体と軟式用のバットで怒り狂っていた父親の前に立った。
今まで感じたことのない恐怖が、俺の膝をがたがたと小刻みに振動させた。父親は何か短い言葉を俺に言ったが、恐怖で聞こえない。
涙でくしゃくしゃになった母親の顔が、俺を見ている。ありもしない偽りの正義感が、俺をその場から立ち去らないでいさせた。
複雑な思い、考え、そして損得勘定みたいなものが絡み合った。
こんなことをして、まだこの家で住むことはできるのか、追い出されて、施設に入れられないか、父親との関係はどうなるのか。そんなことが瞬時に頭の中に流れた。
そのすきをついて、母親が自分の部屋へと逃げ込んだ。父親は俺に激しい口調で何かを言い、俺はなぜか家を飛び出した。
家を勢いよく出ても、行くあてがなかった俺は、何周も家の周りを歩き回った。父親に対する憎しみよりも、自分がどうなるかだけが無償に心配だった。汗がたくさん溢れた。夏だったのかな。
母親の叫び声が再び外まで響いたので、右手にもった木製の軟式用バットを強く握りしめ、親父のいる家へ戻った。
急いで二階に駆け上がると、父親がバケツを右手に持ち、母親の部屋中に水をまき散らしていた。
二〇〇三年 九月
茶色いカーテンの中から、すらっとした長身の女の子が出てきた。ぺらぺらで、ナイロン製の色あせたワンピースを着て、つま先とかかとの両方が高くなっている巨大なハイヒールを履いている。
軽いあいさつを交わした後、彼女は俺の右手に腕を絡ませて、俺を個室までつれていった。
俺はうつむきながら、その腕に引っ張られる方向へと歩いた。異様な雰囲気だった。部屋は薄い布だけで仕切られていて、手をのばせば、簡単にそこの中が見えそうだった。
その女の子は、奥の個室へと俺を連れ、薄い布をまくり上げ、巨大なハイヒールを脱いで、彼女は部屋の中に入った。そして俺もその中へと招いた。
深い後悔の思いと絶望が、俺をつつみ込んでいた。希望もなく、生きる意味も解らず、ただ惰性だけで生きている人生に嫌気がさしていた。何もかもから逃げたかった、解放されたかった。悲しみと苦しみと憤りの糸で織られた過去の記憶。そしてその延長線上にある俺の人生。複雑にしているのは、俺自身だというのも分かる。もっとシンプルに、この世と折り合いをつけて、人生も楽しめという今流行りの哲学にも、理解はできる。
しかし俺はそんなにも器用ではなかった。孤独には慣れている。無性に人が恋しくなるのも慣れている。孤独で人が恋しいにも関わらず、誰とも話をしたくないのも慣れている。誰とも話さず、この底なしの孤独感に肉欲をそそぐことで、「モルヒネ」のように少しの間だけ孤独が麻痺すればと思っていた。
それで俺は自らの足で歩いてここに来て、金を支払い、肉欲を買った。
「こんなところにくるのは、はじめて」。
俺が下を向いていたら、底なしの孤独感に肉欲を注入するモルヒネのような存在の女の子が、俺に話をしてきた。俺は無償に恥ずかしかった。いつも友達になにかを悟ったようなかたり口調で話している俺は結局、寂しい男達の一人でしかないことに気付かされたからだ。
顔を下に垂らしたまま、小さくうなずいた。
彼女は俺のことをシャイだと思ったのか、よく話しかけてきた。どこから来たとか、どんな仕事をしているのかとか、車はもっているのかとか、そんな意味のない話を繰り返した。重要でない話が、妙に心地よかった。
孤独を肉欲でうめようとして金で女を買う男と、そんな寂しい男達から収入を得ている女、お互い負い目を感じているせいか、深い話をしないし、聞こうとしない。その対等の立場が、心を落ち着かせた。
彼女はそわそわとしだして、早くようをすませたそうだった。
俺はそんな彼女の様子に気が付いたので、話を切り出した。
「とても嫌なことがあったんだ、それはどうしても自分の力では解決できないんだ」と彼女と一度も顔をあわせることなく話した。
「どんなこと」と彼女は、初めて俺に興味を示した。人の不幸とは、蜜の味と誰かが話していた言葉を思い出した。
「どこから話したら良いんだろうな」と俺は悩んで見せた。彼女が、最愛の人と生き別れたみたいなドラマ・チックなことを連想し、期待しているのが、なんとなく想像できた。
しかし、事実は「愛」や「恋」などの生温いものではなく、人の「生死」だった。
一九九一年 七月
父親の顔は、酒に酔っているのか、興奮しているせいなのか分からなかったが、とにかく赤鬼のように真っ赤だった。部屋中が水浸しになり、母親もそれと同様に頭のてっぺんから足先までびちょびちょだった。そして、父親は右手に持っていたバケツをおもいっきり壁にぶつけた。
俺は非常に恐かったが、偽りの正義感のようなものが小さな体をつき起こした。
「何してんねん」と少年球児がノックを受ける時のような大声を振り絞り、父親に向かって叫んだ。父親は視線を俺に向け、その顔を見ると怒りに満ち、まるで「悪魔」のようだった。
俺は恐かった。泣きそうになった。母親を助けることができるのは俺しかいないと言う偽りの正義感だけが俺の両足を支えていた。
父親は長い言葉を数回に分け、断続的に怒鳴り声を放った。通常値を超えた恐怖が父親の言葉を俺の頭から閉め出した。その後、父親は顔を母親の方に向け、再び母親を殴り始めた。
俺は「本気で、バットでどつくぞ」と父親に叫び、バットを強く握り、父親の目の前に高く突き上げて見せた。その時、俺の頭の中でカチッという音が聞こえスイッチがオンへと切り替わった。同時に、頭の中でいろんな現実的な情報が「大阪のマルビルの」電光掲示板のようにぐるぐると周り初めている。
「十二歳の少年、実父親をバットで殺害」
俺の人生はこれで終わるのかなと少し悲しくなった。
「うわっ」。
俺は急いで記憶の外に出て、大きくなりすぎた記憶を凍らせて、再び真空パ
ックにした。もう少しで記憶に完全に飲み込まれるところだった。そうなると長くて半年間は、うつの渦の中で生活をすることになる。それを避けるために、過去の記憶を「真空パック」にしておく。過去は事実なので、変えることはできない。苦しもうと、悲しもうと過去の出来事は、すでに存在しているので、それに対する処理の仕方は、ただ距離を置くとうことしかない。
そう、言い換えれば、「忘れる」のである。いや忘れたふりをするのである。そうすることで、将来に対して、感情がニュートラルでいられる。俺は物置の中にあるたばこサイズの真空パックされた記憶を整理していた。薄く・平たい真空パックされた記憶の断片の中央には、ラベルが張られていた。ラベルには題名が書かれている。
俺は題名の書かれた真空パックを「あいうえお順」に並べていた。無数にある中から最初のひらがなが「あ」の文字を探す。一つ一つ真空パックを手に取って、ラベルを見る。「夏に家族で行った四国旅行」「小学校六年/少年野球」「予備校時代」。
「あ」から始まる文字がみつからない。
俺は急に自分の間抜けさに気が付いて大声で笑った。
腰を地面について、大の字になって、空に向かって大声で笑った。俺は真空パックされた記憶を「あいうえを順」に並べることの無意味さに今、気が付いた。もう二度と開けることのない真空パックされた記憶を俺は丁寧に並べようとしていた。
子供のころから厳しく母親に整理・整頓のしつけをされていたことが、無意識に行動として現れたようだ。人はいくら記憶を忘れようとしても、過去の影響を受けて今を生きていることに気が付いた。過去の出来事だけが、今存在している全てなのかもしれない。
意識とか無意識はそれほど重要ではなく、過去を忘れることは、意識の中には出でこないが、無意識の行動には現れる。だから、過去を真空パックすることは、意味がないのかもしれない。
俺は「大の字」になったまま、両手を上に付きのばして、体を張って、「あーっ」とう声を出しながら、全身を上下に伸ばした。そしてそのまま体を横にした。
目の前に黄色ラベルが貼られている真空パックがあった。俺はそれを手に取り、ラベルを何気なく見た。
すると、「この世の唯一の生ける神」とそこには書かれていた。
2
一九九七年 三月
一九歳だった。小学の卒業文集のタイトルに「希望」という言葉を使ったが、この年ぐらいから「希望」の持つ本当の意味が何となく分かりはじめていた。逆説的だが、「絶望」の意味を先に理解したからである。何に絶望していたかという特別なものはなく、ただ暗かった。しかしきっかけになった出来事はあった。大学受験に失敗した。完敗だった。
その時初めて、自分の力や努力では、どうすることもできないものが存在することを知った。第一志望の受験直前で首のリンパ線を腫れ、約一か月間、まともに食事がとれなかった。案の定、試験はダメだった。
良い大学・良い会社のレールをそこで大きく踏み外した。俺の怒りの矛先は一時的だが「社会」に向いた。失敗したほうが学ぶことは多いと誰かが言っていたが、俺はそのとおりだと思った。
それから俺は大きく変わってしまった。自意識過剰だった性格が、一変して臆病になり、今まで不安など感じたことのなかった俺が、極度の不安から「うつ」というものを始めて経験した。
行動は両極端だった。不安がすべての根源だったのは間違いない。不安から寝ずに勉強したり、不安から破格の金を自己に投資してみたり、その金を稼ぐために一日数千枚の皿を毎日洗っていた。
それとは反して、不安で目が覚めていても体はおきることができず、一日中ベッドの中にいたり、体重は十キロ前後そげ落ちたり、いつも「このままでいいのか」と俺の耳元で囁く声のせいで、全く心を休ませることができないでいた。
完全に全てにおいてバランスを失っていた。
見える景色が、赤や黄色の原色からダーク・グレーにかわったのは、この時からだったような気がする。
そう、生きる意味を真剣に問いはじめたのもこの頃からだった。もっと前からそういった種類の問いはあったのかもしれないが、受験に失敗したのが引き金となり、すべての膿みが溢れ出た感じだった。
次第に、「人はなぜ生きているのだろう」がいつの間にか俺の口癖へと変わっていった。
二〇〇三年 九月
俺は頭を下に向けて、悩んだふりをしていた。
するとこれから肉欲を注いでくれるモルヒネのような彼女は、興味深そうに俺を見ている。「嫌なことがあった」と言ってもどこからが嫌なことなのか俺には分からない。この暗い、どんよりとした雰囲気はある一点を指すような気もするし、ずっと続いているような気もする。その発端はどこだったのかと、散策すれば「オギャー」と産声をあげた、その時にまで遡るような気もする。
「恋人と別れた」と彼女は俺に聞いた。
俺はその問いには何も反応しなかった。
「嫌なことが多く積み重なって、具体的にこれというのはないんだよ」と曖昧な言葉で、質問をかわした。
俺の答えに満足しなかったのか、彼女は俺への視線を外した。
「恋人はいるの」と彼女はもう一度 そう言った類いの問いを俺に尋ねた。
「アメリカに行く前にはいたよ」と俺は短く答えた。
「へえー、アメリカに行ってたんだ、仕事、勉強?」。
「留学しててん」と俺は答えた。
「へえ、何の勉強してたの?」
「政治学の大学院に行こうとしててんけど、結局途中で駄目になったけどね」。
「すごい、政治学か、なんか難しそう」。
「そんなことないよ。政治なんて何の役にもたたない、趣味みたいな勉強やな」。
「英語ぺらぺらなんでしょ?」。
「授業が英語やから、喋れないとやってけへんから、多少は喋れるよ」。
「すごいな、私は駄目、大学での第二言語の成績かなり最悪だったから」。
「大学行ってたんや、何を勉強してるの?」。
「法律」。
「法学部か、あ、そうなんや」。
「そう、法学部の風俗嬢って笑えるでしょ」と彼女の冷めた言い方が、妙に俺の胸に響いた。俺はそれ以上質問するのをやめた。
「ね、恋人とどうして別れちゃったの」。
「アメリカに行くことを決めたから、その時はいつ日本に帰れるか分からんかったし、アメリカに行っている間も彼女として束縛するのが、申し訳ないっていうか、そんな感じやな」。
「好きじゃなかったの?」。
「好きやったで、けど彼女一筋にはなれなかった」。
「浮気したの?」。
「そういうのじゃなくて、彼女と過ごしていた時間と、今一人になった時間とじゃ断然に彼女といた時間のほう楽しかったよ。ただ物足りなかったというか、満たされなかったと思う」。
「それってつまらなかったって意味でしょ?」
「つまらなくはないよ。彼女といても他のことを考えてしまうねん。それに楽しい瞬間が、無償に恐くなる時もあった」。
「他のことって何を考えてたの? あの娘かわいいなとか、あれ次買おうとか、そんなこと?」。
「そうやな、うまく言えへんけど、たぶん人生の意味みたいなことだったと思う」。
「へえ、哲学も好きなんだ」。
「どうやろ、そういうこと一度は必ず考えるでしょ?」。
「考えるかもしれないけど、そういうのって答えがあるの。人それぞれ違う答えを持っていて、がんばって突き詰めても単なる『自己満足』じゃないの?」。
「『自己満足』か、そうかもしれへんな」。彼女の口調にはまだ幼さが残っているが、彼女が知的なタイプの人間であるのが見抜けた。
「人間って『自己満足』が好きなのよ。『自己満足』の中に自分を陶酔するって言うか、そう言う難しいことを考えてる自分に酔ちゃうのよ」。
「おもしろいこと言うな」。
「そう思わない?政治家だって、いろんなところから汚い金もらってるけど、路上で演説している時なんか、自分に酔っているから、『国民の皆様のために自分を犠牲にしますよ』みたいな正義の味方を演じる。けど選挙で勝ったら、あっさり自分が特をすることだけを考える。結局、「弱い者」とか「貧しい者」なんて関係なくて、みんな自分以外、興味ないのよ」。
「僕の場合は、どんなに時代が移り変わっても、絶対に変わらない 何かがあるんじゃないかなと思ってん」。
「私には、そんなものがあるとは考えにくいわ」と彼女の言葉には妙に説得力があった。
「例えば、意識しなくても心臓は動いているし、夜に空を見上げれば星はあるし、朝になれば太陽は東から登って、西にまた沈んで行く。こんな当たり前のことが、何千年も前から続いている。二〇〇〇年になってテクノロジーが発達しても、こんな当たり前のことが一つでもなくなれば俺たちはやっていけない。そんなことを考えてた時があった」。
「だからどうだって言うの?」。彼女の表情から、「苛つき」が滲み出ていた。
「なんて言うんやろ、こういう当たり前の事って、何千年も前から天文学的な確率の奇跡が連続して起こり続けてんのかなって疑い始めたてん。子供の時から、空き缶が、何度やってもゴミ箱の中に入らないことに気付いたのが切掛けで、このことが頭に浮かんでん」。
「そんなことどうでもいいじゃない。私は今が楽しければそれでいいわ。速くしないと時間終ちゃうわよ」。
彼女の白い手がスーッと、ベルトに伸び、俺のズボンに手がかかった。
「この世の唯一の生ける神」とかかれた真空パックの袋を手にとった。
「神」という言葉の響きに懐かしさを感じた。恐らく、それは子供の時、無意識に「神」という存在を身近に感じていたのかもしれない。
幼稚園ぐらいの子供なら「神様が見てるもん」とか「神様助けて」と誰が教えたというわけではないのだが、なぜか子供達は知っている。たぶんこの懐かしさは、そういった感じのものだと思う。
俺は体を横にしたまま、ぼんやりその真空パックを眺めていた。
突然、目の前に、交通安全キャンペーンの際に、小学校の視聴覚室で見た時のような形と大きさの白いスクリーンが現れた。
スクリーンの中は、真っ黒なコーヒーに白いクリームを入れた時のような白と黒の渦巻きがぐるぐると回っていた。すると、白と黒からなる渦巻きに少しずつ色が重なり、人の形のようなものに変わって行くのが分かった。そして、古いテレビの電源を入れた時のように、だんだん形と色が現れ、最後にはくっきりと子供が映っているのが見えた。
その子供に見覚えがあった。
スクリーンには声が流れず、代わりに、字幕スーパーが左から右へと流れていた。『なんで指が動くんだろう?』と字幕が流れ、不思議そうに、その子供は右手の小さな人さし指を小刻みに動かしていた。
前髪がまっすぐにそろえられたおかっぱ頭の男の子は、手をパーにしたり、グーにしたりして不思議そうに手のひらを動かしている。そして、『ぼくはなんでいるんだろう』と画面の下に字幕が流れ、男の子は顔をあげ、前方へ視線を向けた。
すると、男の子を映し出していたスクリーンが、ゆっくりと向きを変え、男の子の視線の先へとピントを変えた。
そこに映っていたのは、一人の女性だった。
彼女は遠くに映っているせいか、よく顔が見えない。すると、少しずつ遠くにいる彼女へとズームし、その女性の顔が少しずつはっきりと明瞭になってきた。彼女がはっきり現れ出すと、取手の部分が黒くなった鉄製の裁縫はさみをもっているのが分かった。
そして、その女性は、自分の「母親」だった。
母親は突然、はさみを頭の上近くまで大きく振り上げ、刃先を外に向けて、いきおいよく振り下ろした。そのふり下ろした先には男がいて、その男は「父親」だった。父親はあわててはさみをもっている母親の手をつかみ、間一髪で串刺しになるのを免れた。
その後は母親からはさみを奪い取り、父親はそれを遠くへ放り投げた。
するとスクリーンは、父親が投げたはさみを追った。ゆっくり、ゆっくりとはさみは自転を繰り返しながら、宙に舞った。
すると、ある瞬間からはさみのスピードが急激に増し、俺は「あぶない」という暇もなく、突然、はさみは、男の子の額に突き刺さった。
その男の子は「俺自身」だった。
俺は急いで立ち上がり、そのスクリーンを真空パックに詰め込んだ。袋に詰め、空気を抜いた後、俺は無償に悲しくなった。
なぜか、とても「愛されたい」と思った。
俺は地面に座りこんだ。肩を落とし、頭を垂らしながら、泣いた。真空パックにしたので、何に悲しんでいるのかは、もう覚えていない。頭の中に、悲しみの記憶は消えていたが、胸の中はしっかり覚えている。頭で物事を順序立てて整理できないまま、俺は流れる涙を何度も右手でこすった。
記憶を失った悲しみは、完全に行き場を失しなっいる。
一九九八年 四月
「人はなぜ生きているんだろう」と思いはじめたのは、この頃からだったよ
うな気がする。
有名な小説家や、哲学の本に影響されたわけでもなく、悩んでいる自分に酔っていた思春期とも違い、ただ純粋にその意味を知りたかった。
大学に通い、コンパやバイト、サークルに忙しそうな大学生を横目に見ながら、その答えを探していた。その答えの延長線上に、「希望」を夢見ていたのかもしれない。生まれるという選択を一度もすることなく、物心がついた頃に俺という存在を知り、「生きる」ことを全く意識することなく、時間の経過と共に俺はここにいた。
意識とか無意識とかは別に、そういった種類の問いを誰もがするのではないだろうか。
特に、あまり子ども時代の環境が恵まれなかった人間ほど、そういった類の問いをする機会が増えるのだろう。子どもは無力なので、状況や環境を自分の力で改善することは、ほとんど無である。だから自分の無力感を痛感する。その無力感は、大人になった後も続く。
俺は自分が無力であることを認めずに生きてきた。自分は、困難な状態を自分の力で打開できると信じていた。その思い込みが、俺の野心や夢の土台だったような気がする。具体的に何がしたいとか、どうなりたいといったものはなく、ただテレビのブラウン管に出てくる人々のまねがしたかった。そのことに気が付いたのは、だいぶん後になってからだ。
俺は大学でもほとんど友達を作ることなく、大学には退屈な講義を受ける目的のためだけに来ていた。理由はシンプルだった。講義を受けて知らないことを知り、それを繰り返し続ければ、「生きる意味」の謎にたどり着くのではと安易に考えていたからだ。
大学の昼休みは、友達がいなかったので、共に食事をする相手もなく、毎日図書館で時間を潰していた。
整然と並べられた図書館の中の本を見回し、ただ思い付くままに物色した。経済・法律・歴史・心理と分野はなんでもよかった。中には「ブラック・ユーモアの話し方」という一度も借りられた跡のない本を持ち帰ったこともあった。
無償に英語をマスターしたいと感じるようになったのもこのころからだ。
俺が大学を入学した頃は、バブル経済と呼ばれる好調な日本経済が崩壊し、本格的に日本がダメになる時だった。日本の伝統的なシステムや既存の価値観が少しずつ音を出しながら崩れた。それを象徴するように、「銀行は絶対に潰れへんから」と正月に親戚のおばちゃんが自分の息子の就職を自慢していたが、それから数十年後には山一證券の倒産、北海道拓殖銀行の破たんであっさり覆された。この世には「絶対」と呼べるものがないことに気づかされた。
その変化の波に多くの人はついていけず、日本の社会全体に不安の空気が漂っていた。これは俺、個人が持っていた「不安」の上に社会全体の「不安」が積み重なった瞬間だった。俺は生きることによりいっそう息苦しさを感じていた。その息苦しさを払拭するために俺は英語をマスターすることを思い付いた。
人とは違う技術をもつことで、不安や息苦しさといったものから解放されると考えていたからだ。他人とちがう力が俺の不安を塗りつぶす事ができるはずだと真剣に信じていた。
金がなかったので、「NHKラジオ放送」のテキストを買って、毎日ラジオを聞き、二時間繰り返すだけで、英語が聞けるようになった。どんなに才能のないやつでも、続けることさえできれば、それなりになる。この世界のいう才能とは単なる「継続力」を表しているのではと感じたのはこの時からだった。
俺は金を稼ぐためにバイトをし、そしてそこで知り合った女の子と恋に落ち、つきあうようになった。その時、初めて異性から愛される経験をした。愛された経験が乏しい俺は、「好き」という感情を外にだすのがへたくそだった。
そんな俺を「好き」といってくれる子が、不思議だったし、うれしかった。
ただ、「あなたさえいればいい」みたいな歌謡曲的な感覚とは、かなりかけ離れていた。今振り返れば、それだけで十分よかったかもしれない。
いつでも、どこでも耳元で、誰かがつぶやく。それは心が癒される時間を邪魔し、平気で俺の心の上を土足で駆け込み、眠っている俺を叩き起こした。
そして最後には決まってその声は「これで十分なのか?」と俺に問いかける。
「なにを考えているの?」と俺の話が止むと決まって彼女は尋ねた。
「いや、何も」ときまって俺は嘘をついた。
二人が行くカフェはだいたい決まっていて、そこで俺は、シナモンが丸々一本カップの横についているカプチーノを必ず注文し、彼女の注文はいつも違っていた。
「私といて楽しい?」。
「うん、楽しいよ」と表情がどこか引きつっている自分の姿を想像しながら、答えた。
彼女がこの質問をする理由は、決まっていた。俺が楽しそうに話をしていたら突然、口数が減り、テーブルの上に会話が消える時だった。そう、頭のなかでは黒くて厚い雲が光を閉ざす瞬間だった。
「それで、さっきの話の続きは?」。
「え、何の話やったけ?」。
「ほら、違う事考えている」。
「いや、レポートの締め切りが近付いてたなとかを考えててん」。
「私、Jの話を聞いているのが一番好きなのにな、いつも途中で終わっちゃう」。
「そんなに、おもろいかな?」
「Jの話は政治とか、経済とか、いろいろな本の話をしてくれるから、聞いててすごく勉強になるっていうか、社会ってそうなんだって思う」。
俺は大学四年間、友達がいなかったせいで、ただすることは、毎日本を読む事だけだった。そのため、俺の会話の中身は、自然とそういうこ難しい内容になっていた。そう、俺は本の中で誰かが話している言葉を、いかにも自分の論理であかのようにして、彼女に話していた。それが彼女には好評だったらしい。
「Jの話を聞いていると、世界はどんどん悪い方向に行っているみたい」。
「俺、そんなふうに話してたっけ?」。
「私、『ナショナリズム』とか『グローバリズム』とかはよく分からないけど、政治家の人たちは結局、自分の国のことだけしか考えないから、問題がなくならないんでしょ?」
「単純に言ったらそうかもしれへんな。けど、政治家は自国の国益のために政治活動をしてんねんから、他国の国益のことなんか普通考えないでしょ」と先日読んだばかりの本に書いていた通りを彼女に話した。
「それって、『国対国』じゃなくても、『人対人』でも同じことが言えない」。
「どういうこと?」と俺は崇高な政治学を単なる人間関係に置き換える彼女に少し苛立った。
「人って、自分が一番かわいいから、他人のことなんかどうでもいいって感じじゃない。そうして、相手のことを認めなくて、自分だけが正しいってなる。そうするとだんだんお互い口を聞かなくなって、喧嘩を始める」。
「そうやけど、そうなった時に、法律は正義と悪の判断を下して、その判断を実行するために国家権力が介入するんやん」と俺は国際法の講義で有名国立大学を定年し、あまりやる気のなさそうな老教授の話をそのまま彼女に話し、彼女に反論の機会を与えないようにした。
「それは、表面的には解決するかもしれないけど、『くそ〜』とか思う人の心の中は未解決なままじゃない」。
「『心』とかはあんまり関係ないよ」。
「そうかな、私、『政治』とか『外交』って人間関係の単なる延長線のような気がする。
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最後まで読んでいただいてどうもありがとうございました。コメントをいただけたら嬉しいです。