九
ルミアが皇帝の座を退位してから、一週間が経った。
帝都の混乱がさらに渦巻いている最中、粗悪な酒場には、皇帝だった頃より幾分かやつれたヘリクが座っていた。彼は銘柄もへったくれもない、アルコールの味しかしない酒をあおっていた。
「おお、前の皇帝様ともあろうお方が、えらく安い酒を呑んでるんだな」
カウンター席の隣に、ヘリクにとって耳障りな声を発する人影が現れた。
「……ランベル。お前こそ、大見得を切った割には、随分とおとなしいな」
「ちょうど、流行病に罹ってしまってな。今夜は復活を告げにきたんだ」
ランはヘリクのグラスを見て、同じものを頼んだ。
「……もう、私は皇帝じゃない」
「しかし、お前の後続はもう投げ出してしまったようだが?」
「まさか、こうも災いが続くとは。運が悪いとしか言いようがない」
「ああいうのは何かを崩すのは得意だが、来たる問題に対しては弱いからな」
「……ふん……」
ヘリクはわかった口を利くな、と言いたげだったが、内容にには賛同しているのか、言葉を飲み込んだ。
「じゃ、俺はいく。明日からが楽しみだ」
ランは置かれたばかりの酒を飲み干し、席を立った。
「あ、支払いはそいつにつけといてくれ」
「……」
ヘリクは何も言うことなく、ランを睨んでいた。
ランは店を出て、今やとっくに少なくなった人混みの中を歩いていた。
「おい!ランベル」
後ろからヘリクの声がした。
「明後日の夜、来い」
それは、わざわざ言わずとも、決闘の申し出であることがわかった。
「どこに?」
ランは待ってましたと言わんばかりに振り向いた。
「孤児院だ。場所はわかるか?」
「ああ。大丈夫だ」
ヘリクが孤児院を選んだ理由をランは知っていたが、それはあえて言わなかった。
約束の明後日の夜、不気味なほど静かな孤児院前、ランは独りで孤児院前の土に足を踏み入れた。
「……来たか」
暗闇の中からヘリクが現れた。
「準備はできているな?」
「できていないなら来ていない。ヘリク、お前の方こそ”準備”は終わったのか?」
「私はずっと前からできている。皇帝を辞めてからずっとな」
そう言って、ヘリクはその隻腕で腰から刀を抜き取った。ランにその切っ先を向ける。
「それは……ガレオンの刀か。鎮戦の時から同じものか」
この世界では、達人レベル同士の戦いとなると、C.I.E量の関係から通常の武器がただのおもちゃ同然となってしまう。その時に用いられるのがガレオンで作られた武器である。ガレオンは準特別指定物質の一つであり、触った人間ののC.I.Eに反応してその強度が変わる性質を持っている。つまり、使用者が強ければ強いほどより強固になるのだ。ヘリクはそんなガレオスの刀が手に馴染んでいる。なお、リンが持っている刀もガレオン製の刀である。
「本気で戦うのは、いつぶりになるかな……」
ヘリクはギラついた目線を飛ばした。しかし、その目に光は灯っていない。
「意外だな。もっと諸種の策を使って俺を倒しに来ると思っていたが……真っ向勝負を挑んでくるんだな。今のお前が本気で戦ったとして、俺に勝つ希望は薄いのは明白だろう?随分と感覚が老いぼれちまったみたいだな」
ランの瞳が白く光った。風がなびく。
「誰が真っ向勝負だと言った?ただの時間稼ぎかもしれないぞ?」
「ふん。時間稼ぎにすらならないかもな」
「元より、貴様に負けるつもりはないがな」
二人のぶつかり合う視線が、さらに熱くなった。
「そうか。では、その意気込みに敬意を払い、俺も本気で戦おう」
二人の間で口上が終わったようだ。ヘリクは足を引き、肩のラインをランヘ向けた。ランは微動だにせずに、そのまま仁王立ちしている。
二人が体勢を整えてから、異様に長い五秒がたった。二人はまだ動かない。
二人が瞬きを耐え始めた。
二人のまぶたが痙攣してきた。角膜が乾いている。
先にまぶたの裏を見たのはランだった。その瞬間、ヘリクは思い切り前の足を蹴り、後ろに飛んだ。彼はそのまま近くの物陰に身を潜めた。ランが瞬きをし終えるまでの出来事だった。
「あら?カッコよく啖呵切りだったんだがな」
ランはヘリクが視界から消えたことを確認し、呟いた。
「やっぱり、俺の実力を評価してくれてるんだな。嬉しいよ」
ヘリクは物音一つ立てず、場所が不明だったため、ランは虚空に向かって声をかけた。
「まあ、でも俺も本気を出すって言ったしな。行かせてもらうぞっ!」
ランは指をパチンと鳴らした。途端、今まで暴れ騒いでいた風が止み、静寂が訪れた。
「さて、何秒持つかな」
ランが心の中で数を数え始めた。
それからおよそ三十秒後、ランは周りを見渡し、ヘリクを発見した。
「お、そこにいたか。」
ランは振り向き、もがき倒れているヘリクの元へ歩み寄った。
「三十秒か。よくもったな」
ヘリクは身体中が赤く腫れ上がり、目や口の水分はカラカラに乾き、口をパクパクと動かしている。
「ああん?なんて言ってるか聞こえないな?あ、振動する空気がないんだから当たり前か」
ランはニヤリと笑顔を浮かべた。
「俺はパッシブを使ってこの辺りの空気を全て取り除いた。要するに、真空状態を作ったんだ。ああ、もちろん俺のいる場所以外にな。教養深いお前ならわかると思うが、真空状態に曝された人間は様々な故障が起こる。見事にお前は真空にやられたってわけだ。って、こっちの声も聞こえてないか」
ランはさらにヘリクへ近づき、彼をつぶさに観察した。
「実は、ここまで本物の真空に近い状態でやったのは初めてなんだが……よく聞く血液は沸騰してないな。ただ、こっちは見えてないみたいだが……眼圧が上がって視覚がやられたのか?しかし、さすがヘリク。この程度で済むんだな」
そこまで言ったところで、ランは周りの空気を元に戻した。
「くは!はぁ……はぁ……」
ヘリクは誰の目から見ても満身創痍であり、誰の目から見ても勝負は決まっていた。
「……強くなったんだな。悲しみを経て」
ヘリクが片膝をついた。
「強さとは悲しみを起こさないためにある。順番が逆だ」
「確かにな。さもなくば、今のお前のようになってしまう」
「まったく。その通りだ。その通り過ぎて少しも癪に触らない」
ランはヘリクの隣に腰を下ろした。
「口を開けろ」
「……まだ、負けを認めていないが?」
と言いつつも、ヘリクは口を開いた。ランはそこへ何かの粒を放り込んだ。
「ラビナックだ。飲め」
ヘリクは素直にそれを飲み込んだ。ラビナックを飲めば、数分で損傷した組織を再生させることができる。
「……驚かないんだな」
「私に施しをした、ということに関しては若干の一驚を感じたが」
「俺がラビナックを持っていることだ」
「お前らが夢獣の研究について嗅ぎ回っていることは知っていたさ」
ヘリクはフッと笑い、ランの腕を鷲掴みにした。
「お前らが誰かは知らなかったが、初めて大学に侵入した時から、すでにわかっていた。だから、その時点で重要な研究データはすべて回収していたんだよ。お前達は私達がまだ夢獣を操れないと思っているのかもしれないが、その研究はとっくに終わっている!」
ヘリクは舞い上がらん勢いで言った。
「時間稼ぎと言ったな。あれは嘘ではない。今、私達が飼い慣らしている全ての夢獣をこちらへ解き放った。その数は優に千体を超える。そしてそれは、全てお前の元へ向かい、お前を殺すまで追いかけ続ける。計算上、お前が二人いようとも、どちらも死ぬ戦力だ!」
ヘリクは視力が回復したのか、カッと眼を見開いた。
「なるほど。今俺に触れたことで、何か目印となるものをくっつけたのか?つまり、お前は俺に触れさえすればよかったんだな」
ヘリクとは反対に、ランは冷静に分析している。
「タネがバレようと、どうと言うことはない」
「ふん。そうか」
ランは余裕の表情で、こめかみに拳を置いた。
「……遅いな。」
数分経ったが、未だに夢獣は一体も到着していなかった。
「相手をしてやろうと思ったんだが……俺の仲間が倒してしまったか?」
「そんなはずはない」
ヘリクはキッパリと言い切ったが、勢いに陰りが見えた。なお、彼はランの仲間が全員開眼者だということを知らない。
「……手合いが来るまで、話をしようか」
ランがヘリクへ真っ直ぐに視線を向けた。ヘリクも鋭い目つきで応戦してくる。
「先に聞いておきたいんだが、お前が自らの命を危険に晒してまで俺を止めたい理由、つまり、この国を守りたい理由はなんだ?」
「……そんなもの、どうだっていいだろう」
「そんなわけがない。全ての行動には理由がある。それを知ることで、ことの有り様を理解できる。まあ、返答拒否というのは答えとして充分だ」
閑話休題、ランは咳払いをした。
「話っていうのは、ヘリク、お前のパッシブについてだ」
ヘリクは落ち着いた呼吸のまま、黙っている。
「お前はガレオンの刀を使い、戦いでは敵をなぎ倒していた。このことから、お前のパッシブは身体強化系である事は間違いないだろう」
ヘリクの様子に変化はない。
「聞いたところによると、七年前、お前はある紛争にて、帝国を傾けてしまうほどの軍勢の約半数を壊滅させたんだってな。そして、その時お前は開眼者だったって話じゃないか。それを考えると、当時のお前と今のお前とでは強さがかけ離れすぎている。七年経っているとはいえ、そこまで衰えはしないだろう」
ヘリクは口で呼吸をし始め、視線を逸らした。
「つまり、お前は現状力を出しきれていない。つまり、お前のパッシブを発動させるには何らかの条件が必要だと考えられる」
ヘリクはランへと視線を戻した。
「ヘリク、お前、呪いの帝王って呼ばれていたな?国に争いが起きるたび、お前の周りの人間が殺されたという悲劇」
ヘリクは呼吸を荒げ、手に汗を握った。
「全部、お前がやったんだろ」
ランはヘリクから視線を離さない。
「お前のパッシブは、人を殺すことで発動する能力だ。それに加え、自分と親密な人間を殺す必要がある。なるほど、確かにこれは呪われているな。ようやくお前がああした意味がわかったよ。だから七年前、恋人を失ってから、お前は人との関わりを断ち、隔たりを持つようになった。人を殺さずに済むようにな」
近くの茂みから、草木をかき分ける物音と、人間の呻き声がした。ランは音の方へ目をやり、お、来たか、と呟いて、ヘリクへ視線を戻した。
「ただ、そう考えると不可解な点が生じてくる。どうして、今俺が戦ったヘリクは弱かったのか。今までの話を加味して考えると、お前が命をかけてまで俺に挑戦してきたことと繋がってくる」
ヘリクは呼吸を一瞬やめ、固唾を飲み、再び呼吸を再開した。
「そう、お前には……よほど大切な人間がいるんだろう?」
茂みの中から、例の夢獣が姿を現した。
「な——」
ヘリクの呼吸が、止まった。
「レイ!」
そこには、少し前まで孤児院で健気に暮らしていたはずのレイがいた。彼女は白目を剥き、髪は白く変色してなびき、身体を痙攣させながら喘いでいた。
「レイ……レイ……レイラン……嘘だ……」
ヘリクは夢獣に陥ってしまったレイの顔先まで詰め寄った。彼はうまく呼吸できずに、レイの顔に涙を垂らしている。その様子は、ヘリクにとってレイがランの言った、よほど大切な人間であると言っているようなものだった。
「正解のようだな。お前はこいつのために、こいつに悲しみを与えないために、この国を守ろうとした。この孤児院を戦場に選んだのも、とっくに子供達を逃していたからだろう?」
ランがヘリクへ語りかけた。
「どうして……どうしてわかった!」
「実を言うと、俺は、俺達は別にこの国を滅ぼそうってわけじゃなかったんだ。本来の目的はシンアイへの反逆。その始まりとして、この国の皇帝、お前を攻略するのが目的だったんだ」
ランは淡々とした口調で語りながら、ヘリクへ近づいた。
「お前を攻略するにあたって、俺たちはお前の弱点を探った。先の通り、俺はお前のパッシブと大切な人間について、推測を行なった。それから、別の情報として、お前が作った孤児院。それはお前が改革を始めた七年前、直ちに作られた。近くには何かあってもすぐに人を送れる公安、すぐに他の場所へ逃げられる鉄道があった。孤児院を守りたいって意思がバレバレだ。だから、お前に一度喧嘩を売った後、仲間に駅で待ち伏せしてもらい、レイ、もといレイランを捕まえてもらったんだ」
「しかし、なぜそれだけの情報で、レイを特定できたんだ!」
「レイは孤児院設立当時からの古株。そして何より、お前の亡き恋人、ヒシンの連れ子。だろう?」
「な——」
その言葉にヘリクは驚愕した。
「なぜそれを……知っている……レイがヒシンの娘だという記録は全て抹消したはず……知っているのは、私以外誰もいないはずなのに……」
ヘリクは力なくうなだれ、へたりこんだ。
どんよりとした空気が、ヘリクの涙と嗚咽を際立たせる。
「ごめんな……レイラン……守ってやれなくて……ごめんな……」
ヘリクはゆっくりと立ち上がった。そして、持っていた刀を、レイの首元へ近づけた。