仮初めの時間
――もしかすると僅かばかり、心が浮わついていたのかもしれない。
舞踏会当日。会場となる大広間付近の小部屋にて、リゲルは午後すぎから身支度を始めていた。
湯浴みを済ませ、用意された衣装に袖を通す。そばに侍従が一人付いて、整髪などを手伝ってくれる……というより有無を言わせず横から手が伸びてくる。
リゲルの衣装は、正装として仕立てられた騎士服。通常業務のものとは違い、重厚感のある漆黒の生地に、襟元や袖口には金糸で刺繍が施されている。肩や胸元にはこれまた金色の飾り帯やら金具やらが大量にあしらわれ、装飾物の重みだけで肩凝りがしそうだ。
指定時刻になったら別部屋の王女を迎えに行くよう言われていたので、支度後はそのまま小部屋で待機する。
しかし、予定よりも早く。
不意に扉が開く音が聞こえて、リゲルは振り返った。そして思わず息を呑む。
開いた扉の先に立っていたのは、舞踏会用のドレスに身を包んだアルテミシア王女だった。
着飾った彼女が美しいという事実、そんなことは見る前からわかる。
だから予め心の準備が必要だったのに。その手順をすっ飛ばすことになって、リゲルはつい目を泳がせる。
日常で見るのより裾の広がりが大きいドレスを物ともせず、王女は真っ直ぐリゲルのほうへ向かってきた。
彼女の歩みに伴って、淡金色のドレス生地に散りばめられたスパンコールがキラキラと輝く。否、輝いているのはそれだけではない。彼女の首や耳元を飾る大粒のダイヤモンドも、複雑に編み纏め生花をあしらった黄金の髪も、薔薇のつぼみのように瑞々しい色をした唇も。
未だ、リゲルは視点をどこに定めればよいかわからないほど。
が、狼狽えている場合ではなかった。
目の前までやってきた王女は、なぜかリゲルの顔をまじまじと見ている。
「ねえリゲル、あなた……」
おもむろに彼女の右手が持ち上がったところで、ハッと我に返った。
白いレースの手袋をはめた指先は、リゲルの額へと伸びてきている。
そして気がつく。普段目元を隠すために下ろしている前髪は、先ほど侍従の手により左右に分けて整髪されたことに。
――まさか……、ばれたのか?
このところ、すっかり油断していたのだ。
舞踏会のパートナーに指名されたあと、王女とダンスの練習をする機会は何度かあった。当然至近距離で顔を合わせることになるが、正体をあやしまれているような気配は見られず。
十年前に会った少年のことなどもうさっぱり忘れたのだろう、そうした結論に至っていたのだが。
彼女の指先は、リゲルの前髪をかき分けるようにして、その弾みで、つ、と軽く額に触れた。
速まる鼓動が煩い。だが平静を装うしかない。
よりによって今気づかれたとして、このあと一体どんな顔をして彼女と踊れと――
「顔、そうやって出しているほうがいいわ」
「…………え」
「いつもは髪で隠れていて、表情がよくわからないんですもの」
胸中の張り詰めた空気を割るように、耳に飛び込んできたのは予想とは異なる言葉だった。
リゲルはぽかんと王女を見つめたが、彼女には特段変わった様子はない。「じゃあ行きましょうか」と優雅に身を翻し、部屋の扉へと向かいはじめている。
ふっ、と肩の力が抜けて。
リゲルは急いで彼女の後を追うことはせず、呼吸を整えてからゆっくり歩き出した。
――まったく、こっちの気なんかいつでもお構いなしだ。
先に行ってしまうのかと思われた王女は、けれど扉の前でついと振り返った。
彼女はリゲルが追い付くのを待って、この仮初めのパートナーの腕へと手を添える。
こうした動作が自然なのは、彼女が臣下に手を引かせるのに慣れているからだ、そうわかっていても。
並んで手を組んだ瞬間、リゲルの脳裏にはふと過ってしまった。
……もし、約束を守れていたら?
毎年夏に、彼女が過ごす避暑地の離宮を訪れて。それを積み重ねた先に、彼女を迎えに来られていたら。
仮ではなく本物のパートナーとして、今隣に立っている未来もあったのだろうか。
図らずも、直後、彼はこの自問への答えを得ることになる。
浮かべてしまった微かな感傷さえ、自身には過ぎたものであると――そう思い知ることに。
大広間には既に大勢の貴族たちが集っており、舞踏会の開始を待ちわびていた。
彼らがまず楽しみにしているのは、王太子夫妻、続いてアルテミシア王女が披露する最初のダンス。特に、年々美しさを増す年頃の王女は催事の華であり、皆の注目の的である。
広間へと続く廊下を歩くうちから、会場の賑わいは伝わってきた。
左右に開かれた大扉付近には幾人もの護衛騎士が控え、給仕の使用人たちが忙しく出入りしている。奥には、飾り立てたご婦人方と思しき色とりどりの人影。
入場前に外から見える会場は、ぼんやりと赤っぽい光の集合体に感じられた。天鵞絨のカーテンや椅子等の調度品が赤色で揃えられていること、またシャンデリアに揺らめく蝋燭のせいだろう。
近づくにつれ、これは温度をも伴うようだった。王宮での催しに心躍らせる人々の熱気、夜の広間を明るくするため大量に灯された炎。
そして――この熱は陽炎のように。実体のない身をゆらゆらと燻らせて、地を這いいつしかリゲルのほうへと向かってきていた。
“熱い”。反射的にそう思ったのに、背には悪寒が走った。それから、眩しい。
広い空間を照らし出す無数の光が、前髪を上げているリゲルの瞳へと直接流れ入る。
にわかに呼び起こされる、王子として明るい場所で暮らしていた頃の感覚。
同時に、それらが一瞬にして炎に包まれ消え失せたことも。そんな日が来るとも知らず、呑気に甘えて生きていた子供の自分も。
「――どうしたの?」
リゲルが隣からの呼びかけにようやく気がついたのは、それが三度目になされたときだった。
横を振り向くと、王女が正面を向いたまま、僅かに顔を傾けて視線をよこしている。
いつの間にかリゲルは会場内にいて、王女と並んで所定の場所に立っていた。ただし、廊下を歩いていた途中から意識がまったくない。
あたりを見れば、国王が気のいい様子で参加者たちへと語りかけている。
その奥に、会場の広さと明るさが改めて浮かび上がり――視界がくらっと歪んだ。咄嗟に片手で額を覆う。
「ねえ、やっぱりおかしいわ。なんだか体がふらついているし、具合がよくないの?」
「……いえ」
輪郭のぼやけた赤い光の球が、明滅しながら目の前になだれ込んでくる。
渇いた喉から、リゲルはどうにか返事を絞り出した。
「少し、苦手なだけです。こういう、広くて明るい場所が」
「少し苦手、という程度ではない気がするけれど。顔色も悪いし、無理しなくていいわ、代わってもらいましょう。今からでもお祖父様に言って……」
先ほどまで参加者たちへ社交用の微笑を送っていた王女は、今やしっかりとこちらを見ていた。声には心配の色が滲む。
会場の中央では、王太子夫妻のダンスが始まっている。リゲルたちの出番はすぐ後だ。
この寸前で交代を提案されるとは、自分は一体どれほどひどい顔をしているのだろう、未だぐらつく視界を支えるように額を押さえながら、リゲルは思う。
舞踏会のパートナー。確かに気が進む仕事ではなかったが、一度はやると言ったのに。
……また、守れないのか。こんな小さなことですら、俺は彼女との約束をまた――
「いや、大丈夫です。引き受けた以上、やらせてください」
自身の掠れた声が、耳元で響いた。
気力を振り絞って顔を上げると、彼女と目が合った。初めて、真っ直ぐに。
再会してからずっと直視しないよう避け続けていた碧色の瞳が、リゲルを見つめ返す。
「……わかったわ」
楽隊の奏でる音楽が変わった。まるで彼女の返事が合図となったかのように。
王太子夫妻のダンスが終わったのだと気づき、リゲルの頭は急いで手順を確認しはじめた。王女の手を引いて、前に進み出て……
だが、これが終わるよりも早く。隣から伸ばされた手が、ごく自然に彼を前へと進ませた。
レースの手袋をした華奢な手は、リゲルを引っ張って会場の中央へと連れ出す。それは決して強引には感じられない。
適当な位置まで到達すると、王女はさっと身を返してリゲルの懐に収まった。向かい合って手を組む、これまで練習してきたダンスの姿勢だ。
彼女は観客へ向けた淑女の微笑を浮かべて、それから共に踊る相手にだけ届く声で囁く。
「この会場の、広さと明るさが駄目ということよね? それなら、見なければいいのよ。練習のときと同じ、ステップの一つ一つに集中して」
ぐらぐらと揺れて定まらなかった視点が、途端に正しい位置へと戻されるようだった。
「……そう、大丈夫。そのまま、周りは見ないで――私だけを見ていて」
押し寄せてきていた不快な光は、彼女を取り巻くやわらかなものへと置き換えられて。握った手を通して温もりが思い出され、悪寒がすっと引いてゆく。
周囲は皆、王女とそのパートナーのダンスに注目しているのだろう。
けれど、そうした会場の様子はリゲルには見えない。ただ素直に、彼女の言葉に従って彼女だけを見つめる。
天井から降り注ぐ明るい光は、彼女の黄金の髪と睫毛、白い肌の輝きの上に散って、煌めく繊細な粒へと姿を変えあたりを漂っていた。
ずっと合わせないようにしていた碧色の瞳、その中に何が映っているのかが見える。唇は、二人にしか聞こえない言葉を囁いて。
一歩踏み出せば、彼女はこれを掬い上げ、軽やかに音楽へとのせる。一つ一つの動作が点ではなく、旋律となって流れ出す。
揺れて、流れながら何度も戻ってくるような三拍子のリズムは、思いのほか心地良い。
手の中で時折くるりと舞う彼女。再び目が合って、微笑む。
――本当は、どこかで少し浮かれていたのかもしれない。口では気の乗らない仕事だと言いつつも。
だが、そんなのは身分不相応な思い上がりだと。今日の会場のようにちょっと明るい場所に出ることすらままならない、情けない自分には過ぎたものだと、改めて思い知った。
なのに――とらわれてしまう。ここには他に誰もいないような、彼女が目の前で笑う、この空間を独り占めしているんじゃないかというおかしな錯覚に。
このふわふわとした心地に身を委ねていたい、そんなふうに思ってしまう。
……今だけは。