湖のほとりで
ここクローティア国王宮では、毎年秋の終わりに大規模な舞踏会が開催される。社交や会議のために王都を訪れる貴族たちは、冬になると各領地に戻って寒い季節を越すのだが、その前の締めくくりといった意味合いだ。
王家主導の催しなのだから、当然そこにはアルテミシア王女も出席する。そして、舞踏会にはパートナーが必要である。
「それを、あなたにお願いしたいのよ」
――いやいや待て待て。この王女は何を言っているんだ……?
一緒に庭仕事をしたあとの日々において、二人の間に接触はなかった。それまでと同様に、リゲルは単なる護衛騎士の一人としてできるだけ気配を消して業務にあたっていたし、王女のほうから何か言葉や視線を向けられることもなかった。
リゲルは完全に油断していたのだ。ある日の午後、普段どおり王女の私室前で待機していたところへ唐突に扉が開いて、中に呼ばれるまでは。
「……私は剣ばかり握ってきたので、難しいかと」
「ダンスの講師を付けるわ。まだひと月ほどあるから大丈夫」
「いや、でも、そのような大役は。もっと相応しいお相手がいるのでは」
「相応しくては困るの。未婚の王女が舞踏会に伴う相手といえば、そういう意味にとられるでしょう? その気がないと言っていたあなただからこそ、お願いしているのよ」
「…………」
“あなたの存在は私にとって都合がいい”、一年間側にいるという話をした際、アルテミシア王女が言った台詞。なるほどこういうことかと、リゲルは改めて咀嚼する。
舞踏会のパートナーは伴侶か婚約者、もしくは親族が務めるもの。もし王女からこれを依頼されたとなれば、相手は「自分は未来の王女の伴侶だ」と喜ぶことだろう。
祖父王の小言を躱すだけにとどまらず、こういった仮のパートナーが必要な場面でも、変な勘違いをしないリゲルは彼女にとって有用ということだ。
しかし――リゲルはふと、あることに気がつく。
「恐れながら、昨年のお相手がどなたか存じませんが、その方に依頼するというのは」
「ええ、それがね……」
平然と微笑を湛えていた王女は、そこで僅かに瞳を伏して、陶器のような白肌にまつ毛の影をつくってみせた。
「こういうときは、いつもお祖父様がエスコートしてくれていたのだけれど。もうそろそろ歳だから難しい、なんて仰るのよ」
――あの、狸じじい…………!
結局、リゲルがこの話を断れなかったというのは言うまでもない。
◇
――なんだか、馬鹿らしくなってきたな……。
その夜、ベッドに横向きに寝転がった体勢で、リゲルは自室の壁を見つめていた。
彼女と、“レグルス”として顔を合わせるのが気まずくて。立ち回りに苦慮しているというのに、自身を取り巻く状況はそんな労力などお構いなしだ。
俺の正体について、彼女が気にしている様子もないし。なんならレグルスの存在自体、憶えていない可能性も……。
十年前、彼女とともに過ごした期間はたったのひと月ほど。
当時「旅に行きたい」と駄々をこねた小国の王子レグルスを、クローティア王家が受け入れてくれた。夏の間は王太子一家が避暑地の離宮で過ごしているから、是非そこへ遊びにおいでと。王太子の姪にあたるアルテミシアは年齢が近いから、気が合うかもしれない、とも。
それで、「気が合う」というよりは「振り回された」と言ったほうが正しいのかもしれないが。
ともかく十歳のレグルスは、一つ年下のアルテミシアと毎日一緒に遊んだ。彼女に手を引かれるがまま、外に出て、自然の中で太陽を浴びて。
アルテミシアの叔父である王太子には息子と娘が一人ずついるが、彼女より少し年下だ。従弟妹たちがまだ存分に外を駆けられる年齢ではなかったので、気兼ねなく連れ回せるレグルスの存在は貴重だったのだろう。
とはいえ、年齢の問題がなかったとしてもアルテミシアは、彼らをあれほど容赦なく外に誘ったりはしなかったかもしれない。
今考えると、彼女は幼いなりに気を遣っていたのだと思う。王太子一家、そして将来王位を継ぐ立場の従弟妹たちに。
明るくて、あっけらかんとして、天真爛漫という言葉がぴったりのお姫様。
それなのに、実はそうした周囲への気遣いが大きかったり、年齢のわりに弁えているところがあった。
時々ふっと遠くを見て、大人びた表情をして。
レグルスの滞在終了が近づき、翌日にはクローティアを発つという日――
「……レグルスも、おうちに帰ったら家族がいるのよね」
湖のほとりに座った彼女は、ぽつりと呟いた。
不意に、胸がぎゅっと掴まれたような苦しさを覚えて、レグルスは言わずにいられなかった。
「来年も、僕はここに来るから。待ってて。来年も、再来年も、その次も」
湖と同じ、一瞬ごとに違う色の光を見せる彼女の瞳には、子供のレグルスが映っていた。
「絶対に、毎年来る。それで、大人になったら……迎えに来るから。僕が、君の家族になるから――」
そのときの少女の表情が頭から離れない。
だから今、リゲルはアルテミシア王女の顔を真正面から見られないのだ。
――甘ったれた子供だった。
レグルスだった頃の自分を、リゲルはそう振り返る。
兄が二人、姉が一人。四人きょうだいの末っ子で、兄や姉と少し年齢が離れていた。当時の国王は祖父だったが、末の孫として特に可愛がられた。
軽い気持ちで旅に出たいなんて言って、簡単に手配してもらって。日々の暮らしに何の不自由もなかったし、それらがどういった苦労や責任の上に成り立っているかなんて、考えたことさえなかったと思う。
全てを失って、やっと思い知った。自分がどれだけ無知だったか、無力な子供に過ぎないかを。
それが、「迎えに来る」だなんて笑わせる。彼女を迎えられる場所はもうないし、仮にあったとしても、俺はそんな器がある人間じゃない。
彼女が憶えていないというなら、それはそれでいいのかもしれない。
……でも、もし欲を言うならいっそのこと、既に別の誰かと幸せになってくれていたらよかった――。
目下、結婚を拒んでいる王女が舞踏会のパートナーにリゲルを選んだのは、“その気がない”からだ。
十年前は、彼女の寂しさを晴らしたくて結婚を口走ったというのに、今や「結婚を望まない」ことが彼女の助けになるとは。皮肉だとしか思えない。
数日後には早速始まるというダンスのレッスン、その先に控える舞踏会の予定から逃避するかのように。リゲルは布団を頭までかぶって、足を折り曲げ丸まった体勢で目を閉じた。
彼は亡き国を追われて以来、なるべく狭い場所で身を縮めて眠るのが癖になっていた。