庭園での接触
“リゲル・オーディス、二十歳。とある地方貴族の末子だが、剣の腕が立ったために近衛騎士の任へ取り立てられた。王女の部屋付きとなったのは、国王の差配である”。
これが、侍女を通じてアルテミシア王女が知り得た情報だった。
なお、此度の騎士就任にあたり、リゲルは適当な貴族家の養子に入れられている。知らぬ間に手続きが済んでおり、彼自身は家の者に会ったこともないのだが。そして王女の耳に、この養子の件までは届いていなかった。
リゲルの目から、王女は新人騎士に一切興味がないものと見えていたが、そんなことはない。彼女はしっかり訝しんでいた。不自然なほどに同行回数の多い、若い騎士のことを。
――どんな意図があって配置したのか、お祖父様に直接訊いてみようかしら?
彼女はそう考えて、しかし思いとどまった。現国王である祖父が、最近やや忙しそうであるのを知っていたから。王は、息子――アルテミシアからすれば叔父に、近々譲位する準備を進めているところだった。
それに、顔を合わせる機会を増やせばまた縁談のことを言われるかもしれないし……。
結局アルテミシアが祖父に訊ねることをやめたのは、どちらかと言うと後者の理由が大きい。彼女は孫思いの祖父を心から慕っていたが、年々強まる結婚への圧にはうんざりしていた。
また、ふとこの点に意識が向けば思い至ることもあった。そういえば、祖父からの縁談話が止んだのは、と。
――あの新人さんが来た頃……? お祖父様の小言が減ったのは、忙しくなったせいだと思っていたけれど。まさか。
改めて思い返せば、結婚に関する祖父の小言は減った、というよりぴたりと止んだ。そしてそれは、不審な新人騎士が配置された時期と一致していた。
ここからアルテミシアが導き出したのは、一つの仮説――あの新人騎士は、自分の新たな婚約者候補なのかもしれない。
王女の相手に名前が挙がるような有力貴族との縁は、既に一通り断ってしまった。ならばと対象を拡げた祖父が、次の候補として彼を連れてきた可能性はある。なぜわざわざ近衛に就けたかという点は理解できないが、通常の縁談話であれば自分は聞く耳を持たなかっただろうし、祖父なりの策なのかとも。
こんなようなことを、アルテミシアは静かに考えていた。王女として培った、内面を表情に出さない術のもと、リゲルが若干気を緩めている傍らで。
そして、彼女は心に懸かることをそのままにしておける性格ではなかった。
「ねえ、リゲル」
さわさわと風が木の葉をくすぐる音に混じって、その声は発せられた。
リゲルは常に、護衛の役割を果たせる位置に控えながらも、この範囲内でなるべく王女から距離をとっていた。二人の間の距離は、大股で一、二歩。
読書中であった王女の体勢に動きはない。木陰のガーデンチェアに座って、視線は手元に開いた本へと落としたままである。
また、呼びかけの声は決して大きなものではなかった。けれども、護衛騎士に対して滅多に向けられることのないそれは。気まぐれな風のそよぎ、空を渡る鳥の羽音にもかき消されることなく、確実にリゲルの耳に届く。
「……はい」
やや間があいて、リゲルはようやく返事をする。
王女は本の頁に目をやったまま、言葉の続きを紡いだ。
「最近私のそばにいるのが、いつもあなたのような気がするのだけれど」
「……私は与えられた業務にあたっているだけです」
動揺を押し隠そうと、返答を急いだのがよくなかった。リゲルの口からはつい、生意気ともいえる返事がこぼれてしまう。
「与えられた業務、ね……」
王女はそこで初めて本を閉じ、ゆったりした動作で椅子から立ち上がった。淑やかに一歩、二歩、新人騎士に近づいて足を止める。
目が合わないようリゲルが僅かに瞳を伏したところで、彼女は軽やかに言い放った。
「ではその、お祖父様から与えられた業務というのが何か、すべて教えてもらえるかしら?」
――いち護衛のことなど、気にもしていないだろうと思っていたのに。
リゲルは自身の瞳にかかった前髪の隙間から、そうっと相手を窺った。淑女の微笑みが見える。「いいお天気ね」とでも言われたかと錯覚しそうになるが、そうではない。彼女はきっと、あやしげな新人のことを見きわめようとしているのだ。
狼狽えつつも高速で頭を働かせて、なんとか事態を整理する。
俺が国王から何か言われているのは、彼女も知っているらしい。だが内容までは知らずに訊いてきたというわけか。国王は、俺の過去は秘すると言っていた。気づかれていないと思いたいが――
こちらを見上げる王女の顔は、リゲルの記憶より低い位置にあった。そういえばあの頃は身長が同じくらいだったと、十年の時を経て互いに子供ではなくなったことを実感する。
しかし、こんなふうにじっと見られていては落ち着かない。まさか死んだ人間が目の前にいると思ってはいないだろうが……いや、だが下手に取り繕うよりは、むしろ……。
短時間で必死に、脳を最大限に回転させて。
逡巡ののち、リゲルは腹を括った。というより、これ以上彼女に見つめられてはかなわないと思ったのだ。
「陛下より、王女殿下が結婚に前向きでない理由を聞き出すように、と仰せつかりました」
万が一、彼女の意識が自分の正体へ向かうなんてことになる前に。
“特別任務”については潔く明かしてしまったうえで、あわよくば例の理由を聞き出せないか、そんな作戦だった。
王女の口から漏れたのは、まあ、といった溜め息混じりの声。
「お祖父様ったら、やっぱり諦めていなかったのね。……でも、どうしてあなたが?」
それはこっちが聞きたい、リゲルは喉元まで出かかった言葉を抑え、「私にもわかりかねます」と返答する。
王女の顔には、微かな困惑の色が見てとれた。ふいと斜めにやった視線の先に浮かべたのは、あの曲者の祖父のことか。
「とにかく、わかったわ。お祖父様なら言いかねないもの。でも、そうね……私は理由を言うつもりはないけれど、王命を果たせなかった場合、あなたには何か罰があるの?」
「……罰、というのではないですが」
“理由を言うつもりはない”、と。こうもあっさり出鼻を挫かれるとは……リゲルは途端に拍子が抜けたような気分になる。
さらに彼女の視線が再び自分のほうへ向いたのを感じて、続きを白状したのは半ば自棄みたいなものだった。
「――一年以内に理由を聞き出せなければ、私が王女殿下のお相手になるように、とのことです」
「まあ。どうしてそんな、ややこしいことをするのかしら」
王女は眉を寄せ、今度はわかりやすく怪訝な表情をしてみせた。
まったく同感である。この王はいったい何をおかしなことを、そう思った自分の感覚は間違いではなかったと。片手で頭を抱える相手を横目に、リゲルはひととき緊張が途切れる心地さえする。
しかしそれは、彼女の次の言葉が放たれるまでのことで。
「それで、あなたは私と結婚したいの?」
「え、いや……」
思いもかけない方向からとんできた追及に、リゲルはまたしても狼狽える羽目になる。
咄嗟に否定が口をつくが、はたと気がついた。「結婚したくない」と女性に、それも王女相手に言うだなんて無礼が過ぎないか。でもだからと言って、結婚したいは違うだろう。
彼はもう、数年分の労力を使い果たした心地だった。
相手の意識をそらすため王命の内容を全て打ち明け、しかしそれはあっさり受け流されて。今度は「結婚したいかどうか」だなどと、まったく予期せぬ角度から問い詰められ――情緒が忙しすぎる。
そうやって、困り果てたリゲルが口を開けたり閉じたりしているのを。しばらくの間王女はまじまじと眺めた。
それから彼女は、ふ、と小さく笑みを漏らす。
「全部顔に出ているわ。あなた、隠し事は苦手でしょう」
「…………」
「お祖父様からの任務に、あなたが乗り気でないことはよくわかったわ。無理に結婚を迫ったりもしないから、安心して。ただ――」
あ、まずい。すっと細められた碧色の双眸を前に、リゲルは本能的に思う。
次の瞬間、王女の顔にはその愛らしさを存分に生かした満面の笑みが広がった。
「あなたの存在は私にとって都合がいいの。お祖父様の小言を避けるために、一年間付き合ってくれないかしら?」