不自然な人員配置
「ねえ、カーラ。あのリゲルという新人騎士は、どこの家のご子息なのかしら?」
「あら、めずらしいですわね。アルテミシア様が殿方にご興味を持たれるとは」
やわらかに朝日が降りそそぐ部屋で、アルテミシア王女は侍女のカーラに髪結を任せていた。
王女が朝の支度を整える間、お喋りの話題は最近入った若い近衛騎士のこと。
「そういうんじゃないわ。ただ、近衛として私の部屋付きになるには若すぎるし、なんだか不自然な人員配置に思えて」
「ニコラスによれば、陛下直々のご差配という話でしたわ。私から夫に詳しく聞いてみましょうか」
「お祖父様の……?」
生まれてこの方一度も顔を顰めたことのないような、白くなめらかな王女の肌。その眉根が微かに寄せられる。
「ええ、ではお願いね」
聞いてみましょうかという侍女の申し出に対して返事をすると、王女はそれきり口をつぐんだ。
――似ていると思った。ふわりと空気をはらんだ軽さのある黒髪に、琥珀色の瞳。年齢も同じくらい。
でも……彼が大人になったとして、あんな顔つきになるだろうか。無愛想、なのはさておき、どこか他人を立ち入らせない固さがあったように思う。
それに、私の記憶がどこまで正確かもわからない。子供時代の、短い期間のみ共に過ごした相手のことを、いつまでも気にしすぎなのだろう。ゆえに似ていると感じただけかもしれない。
何より――彼はもう、この世にいないはずの人なのだから。
◇
リゲルにとって、王宮で働くなどということはまさに青天の霹靂であった。
青く晴れわたる空に突然起こった雷。遠い異国の故事による喩え――それも、流れ者として日の当たる場所を避けて生きてきた彼にしてみれば、そんな表現はいささかおかしなようにも思えるが、ともかく。それほどの衝撃、動揺であったのだ。
だが、彼の戸惑いに反し、王女付き近衛騎士としての日々は穏やかなものだった。
朝、日の出る少し前に起床。軽い朝食を取り、身支度を整えたら持ち場である王女私室前へと向かう。交代する者から引き継ぎを受け、その場に待機する。
しばらくすると朝の支度を済ませた王女が出てくるので、これに付き従う。行き先は、王宮の敷地内に建てられた礼拝堂だ。彼女は毎朝神前に赴いての祈りを欠かさない。
この国の宗教はさほど厳格なものではないが、王族として民に模範を示すだとか、儀礼的な意味合いもあるのだろう。
宗派は異なれど、リゲルも王子だった頃は毎朝自室にて祈りを捧げ、週に一度は母や兄姉に連れられ礼拝に出たことを覚えている。
ここでの生活に話を戻し。
王女が祈りの儀を終えたあとは、私室前へ戻って再び待機。これ以降、王女が部屋を出る用事があれば同行するといった流れが繰り返され、夕方頃に業務が終了する。
規則的な勤務に、毎日の宿の心配が要らぬ暮らし。放浪を経て辿り着いたなら誰もが手放しで喜ぶだろう地位であったが、リゲルは勤務初日の決意を忘れてはいなかった。
「王に言われた任務を遂行し、さっさとこの場所を立ち去る」。
師の手紙がきっかけとなり、王宮に呼び出された日。諸々を承諾することになったのは、国王が食えない人物だったからというばかりではなく、自身の僅かな気の迷いが隙をつくったのだと。リゲルは反省していた。
そして、今現在の王女の姿を認めてしまってからはさらに――できるだけ早く彼女の元を離れるべきだ。このほとんど直感にも似た思いが、決意をますます固くしていた。
しかしながら、“特別任務”に取りかかるには少々問題もあった。王女から、結婚を拒む理由を聞き出すといっても。
――そもそも、会話をする機会が見当たらない。
とある日の午後、王宮敷地内の庭園にて。
木陰で余暇を過ごす王女に、リゲルはちらと視線をやった。天気が良いのでと外に出てきた彼女は、白いガーデンチェアに腰掛け、手元に本を開いている。
木漏れ日の、露のような玉が煌めく金の髪を時折風が揺らして。小ぶりの耳にかけられた後れ毛のうち一筋が、はらりと頬の上に落ちた。けれども彼女は気にする素振りなく、読書を続ける。
今日も、私室を出た王女に同行するのはリゲルの役目だった。
王女の私室前には常に数名の近衛騎士が待機しており、彼女が外出する際は誰かが護衛として付き従う。
本来この同行は日によって別の者が行うらしいのだが、リゲルが持ち場に着く日にはもっぱら彼の仕事となっている。特別任務を重んじる上官ニコラスの指示だ。
しかし王族からすれば、護衛の騎士とはいわば空気のようなもの。そばに控えているのは当たり前で、取り立てて意識することはない。
アルテミシア王女も例外ではなく、彼女は高頻度で付いてくる新人騎士の存在に、特には気をとめていない様子である。
よって、リゲルはここ最近誰よりも彼女の近くにいながら、未だに言葉の一つも交わしていなかった。近衛騎士の仕事が始まってから、気づけばもうすぐひと月になろうとしている。
――例の任務のことを考えるなら、焦るべきなのだろうが……。
なさねばならぬ物事はまったく進捗がない一方。
だが実を言うと、リゲルには安堵のような思いも湧いていた。急に付いて回るようになった新人騎士に、王女はなんの関心もなさそうだからだ。
リゲルは、自らの正体を隠したままでいたかった。ことに、在りし日の記憶を共有する彼女には。
『来年も、僕はここに来るから。再来年も、その次も。それで、大人になったら――』
不意に、守れなかった約束が脳裏をかすめる。
……しょせん子供の話だ。向こうは憶えてさえいないかもしれない。
ただ、もし自分がレグルスだと気づかれても、今さらどんな顔をして会えばいいかわからない。
彼女がこちらに意識を向けずにいるのなら、どうにかこのまま、注意を引かない形で任務を済ませられないか――。
そんなふうに思案していて。
だから彼は驚いたのだ。
「ねえ、リゲル」
そのとき突然、王女が新人騎士の名を呼んだことに。