舞踏会の後ろで
ブロンテオン王がアルテミシア王女を妃に望んでいる。噂は嘘ではなかったが、クローティア側が憂慮していたほどには、先方の姿勢は重くなかった。
アルテミシア王女は故国を出る気がないという意志をはっきり述べ、相手はこれを了承した。
だから、あとは。公務をこなす彼女を見守り、帰国するまで静かに付き添う。ただそれだけの――普段どおりの任務のはずだった。
ブロンテオン王には妃が幾人もいるというが、そのわりに彼女らの存在は薄い。昨日の夜会にしろ、昼間の祝賀式典にしろ、会の中央に堂々姿を現したのは王ひとりのみ。
アルテミシア王女とジリアンが挨拶に出向いたときも、側に妃はいなかった。だからこそ「新たな妃に」なんて軽口も叩けるのかもしれないが。複数妻がいるというのも大変なのだろうかと、大した感慨もなくリゲルは思う。
公式行事の最後を飾るのは、舞踏会だった。男性は燕尾服、女性は丈の長いドレスと、貴人たちはダンスに適した装いで集っている。ここまでの行事で挨拶を重ねてきているからか、会場の空気は序盤から温まっていた。
「最後の夜だ。無礼講と思って、皆大いに楽しんでほしい」。王の短い挨拶をきっかけに、優雅なワルツが流れ出す。シャンデリアの明かりはやや落とされ、夜遅めの時刻に設定された場には、円熟した雰囲気が漂う。
――ああ、あれが妃なのか。
一曲目、ブロンテオン王が手を取ったのは、濃い色合いの金髪を上品に結い上げた女性。落ち着いた佇まいから、王と同じくらいの年齢と察せられる。妃に相応しい美しさだが、人離れした美貌を持つ王と並ぶと霞んで見えてしまう。
その近くには、これまで見かけなかった女性が数人控えていた。妃たち、ということなのだろう。大国の王が妃を何人持とうとリゲルにはどうでもいいことだ。何の気なしに視線を外そうとして、しかし、ふとした違和感に襲われた。
――なんだ……?
不意に、思考の片隅に黒い靄が差したような。先ほどまで目を向けていた先に、何か。見落としてはならない何物かがあった気がして。
妙な感覚に、恐る恐る視線を戻す。二曲目が始まり、王は踊る相手を変えていた。あれが第二妃だとすると、次が第三妃、それから……。
「妃たち」と認識した女性の列に、踊らない女性がいた。控え目に、ただ微笑んで会場を眺めている。
深い紫色のドレスに、黒髪を低く結った、王より年上にも見える立ち姿。妃ではないのかもしれない。親族とか、例えば王の姉とか。王の――姉?
引き寄せられるように、一歩、リゲルの足が動いた。女性の顔貌は、もう少し近づかないとはっきり見えない。
いや、見てどうするというのか。遠い大国の、妃かそれに準ずる立場の女性。今後関わる気もなければ、これまでだって一切知らない……知らないはずの、その女性の顔を。
「……リゲル? どうかしたの?」
持ち場から僅かに離れて、再びあるべき場所へ戻ってきたリゲルのところへ。ダンスを一時休憩したアルテミシア王女が近づいてきた。
リゲルの表情が見える位置まで来ると、彼女ははっと息を呑む。
「ねえ、ひどい顔色だわ。もしかして、舞踏会だから?」
「いえ、大丈夫です」
「そんなわけないじゃない。外に……」
「本当に、大丈夫ですので……」
王女が差し伸べた手を、リゲルは思わず振り払った。謝罪する余裕もなく、顔を背ける。
「なんでもありません。このまま業務を続けます」
「そう、わかったわ。……ねえ、そういえば私、外の空気を吸いたい気分なの」
「え……」
「外に出るには護衛が必要でしょう。付いてきてくれる?」
リゲルは、王女の後ろに立つジリアンを見やった。どちらかと言えば止めてほしかった。
だが彼は半ば呆れたように、王女からは見えない位置で小さな溜め息を吐く。
「ジリアン、少し外すわ」
「ええ、承知しました。社交の場は私にお任せください」
瞬時に、お手本のような笑顔に切り替わったジリアンに見送られて。リゲルは王女に引っ張られる形で、大広間を後にした。
「あの、殿下……俺、私は大丈夫ですので……」
「鏡を見てから言ってほしいわ、ひどい顔よ。でも、ごめんなさい。あなたがこういう場が苦手なのは知っていたのに」
広間を出て、王女はどこへ向かうともなく廊下を歩いた。ぽつぽつと衛兵が立っているが、それ以外の人気はほとんどない。大勢がひしめく舞踏会会場とは違い、涼しさを感じる。知らずうちに身体にこもっていた熱気が、すっと冷やされる心地がした。
そうなってようやく、リゲルは王女の言葉に耳を傾けることができる。
「こういう場が苦手」。そうだ、そのせいで自分は以前、舞踏会のパートナーを務めた際に倒れかけたんだった。
彼女には「広くて明るい場が苦手」だと説明したが、物理的な広さや明るさではない。王子だった頃の生活を想起させる場、という意だ。
そういった意味では、今回のように大規模な行事に参加するのは困難なはずだった。だがそれは、自分でも忘れているほどで。
とにかく、周囲が不安がるような場所へ彼女をひとりでは行かせたくないという一心で付いてきた。自分のことなどどうでもよく――いつの間にやら平気になっていたのだろうか。
「……さっき、申し訳ありません。手を、はねのけてしまって」
「そんなことはどうでもいいの。少しは落ち着いた?」
「……はい」
はいと言いつつ、心中には再び黒い靄がよぎった。取り戻した正気が、一瞬にして遠のきそうになる。
「まだ、何かあるのね」
「いや、舞踏会の会場がどうとかはもう、大丈夫で」
「じゃあ、どうしてあんな顔をしていたの?」
「それは……」
言いよどんだリゲルを、王女はそれ以上追及しなかった。
彼女は躊躇うことなく護衛騎士の手を取り、屋外へ出られそうな方向を目指して歩き出す。
「無理に言わなくていいわ。どうせだから、散歩でもしていきましょう」
靄は消えない。というより、リゲルの心はまったく整理が追いついておらず、混乱の最中にあると言ってもよかった。
ただ、こんなにも自然に離れるという選択肢をくれる彼女に、救われる。
――もう、いいのかもしれない。
彼女に手を引かれて歩きながら、ふと、胸の内に浮かんできた言葉。どこかから誰かの独り言が、ぽんと飛んできたような。何が「もういい」のか、自分でもよくわからなかった。
けれど、黒い紗のかかった思考に、微かな風が通った。
「……もう、大丈夫です。戻りましょう」
振り返った彼女と目が合う。束の間見交わしたのち、彼女は小さく頷いた。
リゲルが繋いだ手に身を委ねているうちに、二人はどこかの庭まで歩いてきていた。舞踏会会場の喧騒は遠い。
ブロンテオンの王宮は、大きな宮殿を一つというのではなく、広い敷地内に様々な建物が並び立つつくりをしている。建物と建物の間は、渡り廊下で繋いでいたり、芝生の庭が道代わりになっていたり。
そうした庭の一角にいた二人は、戻る方向へと歩みを変えた。賑々しい会場の気配は遠くに聞こえていて、それを目指せばいいだけだった。だが。
「ねえ、言いづらいことを言ってもいいかしら?」
「……言われなくてもわかる気がします」
芝生の道を歩いて建物の角を曲がる、これを数度繰り返した今、そろそろ会場が目の前にあってもおかしくない。しかし目的地となる賑わいには、近づいているような、そうでないような。
どうやら道に迷ったということらしい。とはいえ、衛兵にでも訊けば案内してくれるだろう。
立ち止まって人影を探さんとしたそのとき、くしゅん、と聞き覚えのある音がした。
リゲルははっとして彼女を見やる。深緑色の上品なドレスは露出が少ないものの、素肌の首元は夜気にさらされている。大慌てで騎士制服の上着を脱いだ。
「申し訳ありません、これ……」
「ありがとう」
肩へ掛け渡した上着を、王女は微笑んで受け取る。
その柔らかな碧色の瞳を、リゲルはつい見つめてしまった。ジリアンにまた嫌な顔をされそうだ、ともよぎる。
「……誰かに訊けば、すぐ戻れるはずです」
「ええ。でも、急がなくてもいいわ」
「…………」
目を、そらせなかった。彼女もそらさなかった。それ以上でもそれ以下でもない、ただそれだけのことだけれど。一瞬が、惜しいような気がした。
彼女の白い指先が、羽織った騎士制服を、胸元で合わせるように押さえていた。自身の視界にかかる伸びっぱなしの前髪を、夜風が揺らす。それが邪魔くさいと思った。
そんな、静かなざわめき。
しかし、その微かな揺れに耳を傾けることを、世界は許してくれなかった。
背後から、落ち着いた女性の声がする。描かれた風景の中にあとからふっと溶け込むような、馴染みよい声。
「可愛いおふたりさん、道に迷われたの? ご案内しましょう」




