月の中庭で
半月ほどの旅程を経て、アルテミシア王女一行はブロンテオン首都へと到着した。
大陸北部を中心に広い領土を持つこの国は、夏季でもかなり涼しい。だが、長い冬を耐える現地の民にとっては貴重な季節だ。通りには多くの人が行き交い、公園では日光浴する姿が見られ、国全体が短い夏を謳歌しているようだった。
――どの国も、人の暮らしは似たようなものなんだな……。
馬車の窓から外を眺め、リゲルはぼんやりそんなことを思う。
かつてリゲルの祖国を滅ぼし、すべてを奪い去った大国ブロンテオン。だがそこに息づく人々の生活は穏やかで、自分たちと何ら変わりない。十年前の侵略において何も知らなかったであろう民草に対し、憎いという感情は湧かなかった。
かと言って、この国の王と対面するとき、自身がどのような思いを抱くのか。それもリゲルには想像がつかないことだった。
ブロンテオンが取るに足らない小国を攻め滅ぼすに至った経緯を、リゲルは知らない。また、今回開かれる祝賀式典は王が代替わりしたからだというが。十年前の侵略号令をかけたのは、先王なのか新王なのか。
憎しみの矛先を向けるにしては、わからないことが多すぎた。
◇
ブロンテオン王の持つ敷地は広大で、王族が住む宮殿や付属施設のほか、外交的用途で建てられた宮がいくつもあった。こうした催しの際、賓客が滞在するためのものである。
クローティア国アルテミシア王女の一行にも、そのうちの一区画が割り振られていた。式典まで二日ほど余裕を持って到着したので、寛いでお待ちくださいということだ。
今回公式行事として予定されているのは、前夜祭の名目で夜会から始まり、その翌日昼間に祝賀式典とガーデンパーティー、夜の舞踏会。さらなる交流を望む場合には、別個に謁見を申し入れたり小規模な茶会の席を設けたり。
だがクローティアはブロンテオンとそこまで親交が深くないので、公式行事だけ参加すればいいとのこと。彼の国の王と顔を合わせるのは最小限で済みそうだと、リゲルはやや安堵する。
ブロンテオン王――ここ数十年のうちに近隣の国や領土をいくつか取り込んだ大国の王は、北部帝国の皇帝を名乗っている。
山岳地帯を挟むため、これまでクローティアとの縁は薄かった。しかし、即位したばかりの新王はアルテミシア王女を妃に望んでいるという噂。今後は山岳を越えた西方にも手を伸ばしたいといった思惑があるのかもしれない。
ただし、妃にと言っても。ブロンテオンの新王には既に数人の妃がいる。彼の年齢は四十歳、アルテミシア王女から見れば親世代。クローティアの祖父王はじめ、周囲が王女を止めるのも無理のない話である。
もし正式な打診を受けた際には、「断る」と王女は言っていたが――約十年前、有無を言わさずすべてを奪われた身からすれば。そんなに聞き分けのいい相手だろうかという疑念が渦巻く。
そうした思いを胸に燻らせながら、リゲルは、王女が滞在する客室前にて護衛業務を行なっていた。
クローティアから同行した護衛騎士たちは、ブロンテオン滞在中も交代で王女の身辺を守る。公式行事の開始を明日に控えた今夜、リゲルは部屋の前の見張りを担当していた。
ブロンテオンの夏は日が長く、夜は遅くまで明るい時間帯が続く。しかしその太陽がようやく眠りについて、人々もまた寝静まる、そんな時刻。
キィ、と蝶番の軋む音が、微かに廊下の空気を震わせる。振り返ると、王女の部屋の扉が内側から開かれていた。
「どうかしましたか?」
「あのね、少し、散歩しようかと思って」
「……こんな時間に?」
つい怪訝さを滲ませてしまった。王女は長い髪をおろして、厚いガウンを羽織っているが下は夜着のはずだ。
「なんだか眠れなくて。……緊張しているのかもしれないわ」
「……わかりました」
そう不安げな瞳を向けられては断れない。いや、そもそもリゲルは王女をたしなめる権限を持ち合わせていない。
王女は一度部屋に戻り、ガウンを外出用の上着に替えて出てくる。リゲルは普段どおり、しかしクローティアにいるときよりやや近い距離で、彼女に付き添って夜の散歩へと出かけた。
散歩と言っても、王女はそう遠くまで行くつもりはないようだった。
ブロンテオンから割り当てられた滞在用の宮は、他国との区分けがしっかりなされている。外交の場以外では寛げるようにといった配慮だ。
王女はその区割りを出ない範囲で少し歩き、小さな中庭を囲む回廊までやって来た。暗くなった空には星が瞬いている。
王女が回廊から庭の芝生へ下りたので、リゲルも付き従った。と、そこで、彼女がこちらを振り向く。
「明日から公式行事が始まるけれど……あなたは、大丈夫?」
「…………」
咄嗟に返事が出てこなかった。先ほど言っていた「緊張」とは、彼女自身の不安のことだと思ったし、無論それもあるのだろうが。
「俺のこと、心配してくれたんですか」
「それは、当たり前でしょう」
思いがうまくまとまらず、リゲルは王女を見つめた。僅かに目が合ったのち、彼女がふいと視線をそらす。
その視線の先には、皓々と青白い光を放つ月がのぼっていた。
「今夜は満月だったのね。……月の夜は、苦手だったけれど」
月の女神の力を宿し、大切な人を空へ連れ去ってしまう“月の子”。
自分自身がその不吉な存在なのだと、彼女は長い間苦しんできた。迷信だと頭では理解しても、度重なる悲しい偶然が、幼い彼女の心を縛った。「自分は誰のことも愛してはならない」、そう決意するまでに。
「ごめん、俺のせいで――……うっ……」
こうして月を見上げるたび、彼女の痛みは増していったのかもしれないと。
思わず込み上げた言葉は、しかし勢いよく遮られた。ぺちん、と叩くように、王女の手のひらが飛んできてリゲルの口元を塞ぐ。
「もう、どうして自分のせいだなんて思うのよ。……今は、大丈夫。そんなはずないって、あなたが言ってくれたから」
「…………」
口を塞がれていることもあり、リゲルは無言で頷いた。これに気がついた王女は「あ」と声を上げ、恥ずかしそうに手を引っ込める。
だが、リゲルはその手をぱっと捕まえて。数日前とは違い、今度は離さなかった。
「俺も、大丈夫だから。外交の間も、騎士としてしっかり付いてる。何があっても……ずっと、そばにいるから」
彼女は碧い瞳を大きく見張って、でももう顔を背けることはなかった。
リゲルが一方的に捕まえていた手には、柔らかな力がこもる。
「この間あなたは、私が不吉な子じゃないって証明するために、そばにいるって言ってくれたでしょう。本当に嬉しかった。でもね、それだけじゃなくて」
クローティアの王宮に呼び出されて、おかしな任務を命じられたとき。さっさと片付けて去らねばと思った。離れなければ、この王女から、と。
しかし、自分にどうしてそんなことができるだろうかと、今やリゲルは思う。握り返された手の温もりを、もう離したくない。
「そんなこと関係なしに、私、嬉しいの。こうしてまたあなたと一緒にいられることが。ねえ、リゲル……生きていてくれて、ありがとう」
彼女の言葉が、すとんと心に落ちる。それから、優しく頬を撫でられてはじめて、リゲルは自分が涙を流していることに気がついた。
「え、俺……」
驚いて、声を上げる。
彼女の両腕が伸びてきて、首元に回される。気にしなくていいとでも言うように。
この十年、涙を流したことはなかった。国を、家族を失い、炎の館から逃れたときも。いや、あのときから。心はずっと止まっていた。
自分だけが――生きてしまっていることに、どこかに罪悪感があった。今この瞬間も、それがなくなったわけではない。きっとこの先も、消え去ることはないのだと思う。だけど。
首にかかる彼女の両腕の重み、髪を撫でられる感覚を、快いと感じる。そっと抱きしめ返して、この腕の中に収まる温かさを、離したくないと思う。
失った過去は戻らない。その現実に、今初めて向き合えた心地がした。




