旅の小休憩
「ねえ、進行方向と逆向きに座っているからじゃない? 席を代わって、こちら側へ来たらどうかしら。肩くらい貸すわよ」
「いえ……身に余るお言葉ですが、丁重にお断り申し上げます……」
よく晴れた夏の日。クローティア国王女アルテミシアを乗せた馬車は、外交先の大国ブロンテオンへと向かっていた。
馬車内には王女と、その隣に侍女が一人。向かいの席には公爵家嫡男で王女の再従兄妹でもあるジリアン、そして護衛騎士リゲルといった面々。前後にはほかの護衛や侍女を乗せた、数台の馬車が連なっている。
必要な外交とはいえ、曰く付きの大国へ向かう王女を放っておけない――そう勇んでついてきたはいいが、リゲルは今、苦難の真っ最中である。端的に言うと、馬車の揺れで酔ったのだ。
十年ほど前、馬車で初めて同じ山道を走ったことが思い出される。流れ者のときは歩きが基本で、王女の護衛になってから馬車に乗る際は近場ばかりだったから、この感覚はすっかり忘れていた。
クローティア国王宮を出てしばらく、平らな道はなんともなかった。けれども数日目、徐々に山道といった雰囲気が高まってきた今日。脳みそをぐらぐら揺すられるような不快感に、リゲルはじっと耐えていたのだが。
ついに先ほど、王女にばれた。「肩を貸す」だなどと冗談なのかなんなのかわからないが、そんなこと無理に決まっている、いろいろと。
「それなら、僕の肩に寄りかかったらどうだい? 遠慮は無用だよ」
「……いえ、光栄ですがお気持ちだけ……」
すかさず口を挟んでくるジリアンにも、力なく返事をするのが精一杯だ。護衛騎士として大変不甲斐ない。
なお、今回久しぶりに顔を合わせることになったジリアンだが。リゲルに対し、以前と比べてほんの少し控えめというか、圧が減ったようにも思われる。
旅の初日、道中の宿泊地にて。交代で休憩を取っていたリゲルのところへ、彼は唐突にやって来て言った。
「一部で囁かれていた、アルテミシア王女殿下と大国との縁談の話。殿下を思いとどまらせたのは、君なんだとか」
「はい……?」
「我が国の至宝である王女殿下が彼の国へ嫁ぐなんてこと、表立っては言えないが、どうにか防ぎたいと思っていた。殿下にその気がなくなったのが君のおかげだと言うなら、その点だけは感謝しよう。気に食わないが」
「はあ……」
そんな話の諸々を一体どこから聞きつけたのかわからないし、彼自身の心の声までしっかり付されていたが。なんだかよくわからないままに、一応は感謝されたということらしい。
一方で、普段見る猫を被ったような好青年っぷりに比べ、不満をはっきり表に出す姿はなんだか好ましい気もした。
……などと思っていたが、次の場でリゲルはこれを撤回したくなった。
馬を休ませるため、旅の一行は日に何度か休憩を挟む。木がまばらになった草地に差し掛かったところで、馬車は本日一度目の停車をした。担当の者が馬の世話をし、他の人々も降りてきて、めいめい外の空気を吸うなどしている。
近くには、小さな川が流れていた。おそらく天然の湧き水だろう。澄みとおった流れは馬車酔いの心に涼しく、リゲルはなんとはなしにその小川へ目を向けていた。
と、そんなふうに一息ついていたリゲルの前を、軽い足取りで横切る者がある。
「……殿下?」
護衛騎士として追いかければ、王女は小川に歩いていって縁へと屈んだ。土埃にまみれるのも構わず、進んで庭仕事をするような王女である。彼女が自然の中を気ままに散策しようと、今さら驚くことは何もない。
「ねえリゲル、これ」
「はい?」
こちらを振り向き立ち上がった彼女の手には、白絹のハンカチが握られていた。リゲルはその意味がわからず、ただ護衛の距離を守っていたのだが。
「冷たくて気持ちいいはずよ。多少は楽になるでしょう?」
「……えっ……」
まさか水に濡らしたハンカチが、自分の額に押し当てられるとは思ってもみず。リゲルははっと息を呑んだ。
いきなり額に感じた冷たさに――というよりは、白絹の向こうに覗く、悪戯っぽい少女の笑みに。
「ごめんなさい、冷たすぎたかしら」
「……っ……。いえ、平気です。それよりも、手……」
濡れたハンカチはひんやりして心地よく、たしかに酔い覚ましにはちょうどいい。だが、王女はそれだけ冷たい流れに手を突っ込んだということだ。
気づいた瞬間、リゲルは思わず彼女の手を取ってしまった。滑らかな素肌には珠のような水滴がいくつか光っていて、そしてやはり冷たい。
「ええと、あの、大丈夫よ。暑かったから、私も涼めたわ」
「……申し訳ありません」
めずらしく慌てた様子の王女を前にして、リゲルは我に返った。
急いで手を離せば、彼女は馬車のほうへそそくさと戻っていく。踵を返す直前、微かに頬が赤らんで見えたのは、彼女の言うとおり暑かったからだろうと。そう思うことにするけれども。
――いつも遠慮なく距離を詰めてくるのは彼女のほうだというのに。あんな反応を見てしまっては……なんだかまずい気がする――
なんとも言えない気まずさとむず痒さに、リゲルはしばらくその場で立ち尽くすしかなかった。
その後ようやく皆が休憩しているほうへ戻ると、ジリアンが腕を組んで待っていた。
均整のとれた体躯に、華やかな目鼻立ち、輝く金髪。そんな相手の視線を受けながら、立っているだけで絵になる人物だなと、半ば逃避のように思う。
彼は温和な笑みを浮かべ、社交界で世間話でもするかのように、リゲルにだけ聞こえる声で囁きかけてきた。
「王女殿下と君は、一体どういう仲なんだい?」
「……王女と護衛騎士です」
「へえ……」
ジリアンは微笑を湛えたままだったが――これは絶対に納得していない。
美貌の公爵家嫡男どのから向けられる視線には、初めて対面したとき、いやそれ以上の圧が宿っているように見えて。リゲルの旅には、馬車酔いとともに頭痛の種が増えたのだった。




