SS:琥珀色の記憶(前篇)
※ 出産と死に関わるシーンがあります。苦手なかたはお避けください。
リゲルの剣の師である、シリウスを中心とした過去のエピソードです。
「待って……待ってったら、エメラルド!」
王宮の裏庭に、慌てふためく少女の声が響く。
若き近衛騎士シリウスは、十四歳になる王子アルベルにせがまれ、剣の稽古をつけている最中だった。快活な十代少年の体力は衰えを知らない。今日のように、日暮れが近づくまで稽古が続くのは日常だ。
遠くの少女の声を聞きつけると、シリウスはちょうどよかったとばかりに王子へ声をかける。
「殿下、今日はこのへんにしましょう。どうやら姉君がお迎えにいらっしゃったようですよ……っと」
その言葉が終わるかどうかというところで、シリウスの足元に白い何かが突進してきた。ふわふわした長毛に、くりっと丸い瞳が特徴の小型犬――彼女がエメラルドである。少し遅れて、犬の飼い主であり王子の姉、リリア王女が追いついた。
「もう、エメラルドったらお転婆なんだから……」
息を弾ませながらこぼした王女を前に、シリウスは笑いを噛み殺す。愛犬を全力疾走で追いかけるお姫様も大概ですよ、と。
そして、そう感じたのはシリウスだけではなかったようだ。
「姉上、御髪が大変なことになっていますよ。エメラルドのことは言えないんじゃないですか」
王子はさっと手を伸ばすと、風に吹かれたかのごとく乱れた姉王女の髪を整えてやった。近頃王子の身長が一気に伸びたので、弟のほうが少し背が高い。
「お輿入れまでもうすぐだというのに。お相手の王子殿下に呆れられないか心配です」
「あら、嫁ぎ先ではこんなふうに走ったりしないわ」
「でも、エメラルドも連れていくのでしょう? 二人して猫をかぶれるとは思えませんけど」
「それは……頑張るわよ、ね、エメラルド?」
エメラルドは返事をする代わりに、しっぽを振り回して周囲をぴょんぴょん跳ねている。姉弟は顔を見合わせて笑い、シリウスはその様子を微笑ましく眺めていた。
「――じゃあ、エメラルドはまだ元気が有り余っているようなので、僕が一緒に走って部屋まで戻ります。姉上はお疲れでしょうから、シリウスとゆっくり歩いてきていいですよ」
庭でのしばしの戯れのあと、王子はそう言って、犬とじゃれ合いながら駆けて行った。
何時間も剣の稽古をしたあとだというのに、少年の体力は本当に底無しだ……とシリウスは思う。自分だってまだ二十代のくせしてなに年寄りくさいことを、と突っ込まれそうではあるが。
西の空が、夕の色に染まりはじめていた。抜ける風は思いのほか冷たくて、首筋に秋の深まりを感じる。
今年十八歳を迎えたリリア王女は、山向こうの小国へ嫁ぐことが決まっていた。輿入れ時期は次の春だ。
「ねえ……シリウスも思う? こんなお転婆王女じゃ、結婚生活が不安だって」
宮殿へ向かって歩いていると、不意に王女が口を開いた。先ほど弟に言われたことを気にしてか、唇を小さく尖らせている。
「まあ、お転婆という言葉は否定できませんが」
「ちょっと、あなたまでひどいわ」
王女は大袈裟に眉をひそめて、睨むような仕草をする。シリウスは、はっはっはと声を上げて笑い、その視線を軽くかわした。
父親が文官として王家に重用されていたため、シリウスは子供の頃から王宮に出入りする機会があった。そして自然と、少し年下の王女や王子の遊び相手に抜擢された。
幼い王女が今日よりもっとやんちゃに走り回っていたことも、当然知っている。だが――
「きっと大丈夫ですよ。王女殿下は、立派に成長されましたから」
「そう、かしら。……あちらの王子殿下、お優しいかただといいのだけれど」
めずらしく、ふいと俯き視線を落とした王女を、シリウスは横目で窺った。
彼女の嫁ぎ先となる国は、東の山岳地帯を越えたところにある。これまで交流は多くなかったが、近年道の整備が進んだことを契機に縁談が持ち上がった。
リリア王女が、婚約者の王子に直接会ったことはない。未知ばかりの結婚生活に対して不安があるのだろう。
シリウスの目には、彼女は最近ぐっと大人びたように映っていた。女性とはいつの間にか成長しているものらしい。
だがこうして心許なさそうにする様子を見ると、やはりまだほんの少女だなとも思う。幼い頃を知る相手だからかもしれないが。
「エメラルドがついていますよ。あと、ついでに俺もいますし」
「……え? どういうこと? あなたは輿入れの護衛任務が終わったら、ここへ戻るのでしょう」
「いや、俺はそのまま向こうに残ることになっています。エメラルドと、侍女何人かと、あと俺」
王女の嫁ぎ先へ同行することについて、シリウスは正式な辞令を受けていた。姉思いの王子アルベルが、王へ進言したのだという。
また、王子から直接言われてもいる。「シリウスと剣の稽古ができなくなるのは寂しいけど、遠い国へ行く姉上はもっと寂しいはずだから。シリウスは姉上に譲る。だからどうか、僕のぶんまで姉上を守って」と。
シリウスは迷いなくこれを受け入れた。元より、騎士として彼らの幸せを守り続けたいと思ってきた。在る場所が変わろうとも、その意志は変わらない。
というわけで、同行については王女も既知だと思っていたのだが、そうではなかったようだ。
王女は急にぴたり歩みを止めると、シリウスのほうを見て、なぜだかとても複雑な表情を浮かべた。それから、「そう」とだけ返事をすると、再び何事もなかったかのように歩き出す。
その見たことのない表情に、シリウスは少々面食らった。嬉しいとか悲しいとか、わかりやすい名前がつくもの以外の感情を、彼女が見せることは滅多にない。
思ったことがそのまま顔に表れる、あどけない少女だったはずだ。少なくとも一、二年前までは。
やっぱり、女性とはいつの間にか成長しているらしく、そしてよくわからないものだ――一瞬、観念したように目を細めてから。同様に、シリウスもいつも通りの歩調で王女の隣を歩きはじめた。
* * *
次の春、リリア王女と小国の王子ウィクトルの結婚は、無事に成立した。
王女が抱えてきた不安はまったく心配の要らないものだった。夫となったウィクトル王子は、優しく誠実な人だったからだ。夫妻は穏やかに愛情を育んでいった。
二年ほど経って、リリア妃は初めての子を身に宿した。
「男の子でも女の子でもどちらでもいいわ、会える日が楽しみね」、そんな言葉が自然に出てくることからも。二人は王太子夫妻という公的な関係だけでなく、仲睦まじい普通の夫婦であることが窺えた。
シリウスは二人を心から祝福し、そばで見守れることを嬉しく思った。
その幸せが、まさか――ほどなくして、儚く消えてしまうなどとは思いもせずに。
リリア妃の出産は、突如、予定日より数月も早く始まってしまった。医師たちが手を尽くしたが、子が産まれることはかなわず、妃自身も帰らぬ人となった。