辿る記憶
それから半月ほどの間。アルテミシア王女はいつも通りときどき庭へ散歩に出てきて、その時間を使って二人で話をした。リゲルが国を追われてからどのように生活してきたかなどについて。それは、再会するまでの十年を埋めるような時間でもあった。
「――じゃあその、剣の先生がずっとそばにいてくれたのね」
炎に包まれた館からリゲルを助け出し、旅路をともにしてくれた剣の師匠シリウスのこと。そうした説明を、王女は興味深げに聞いている。風がそよいで、彼女の顔にかかる木の葉の影が揺れた。
今日の散歩計画は、庭園の中でもとりわけ大きな樹の根元にブランケットを敷いて、地に直接腰を下ろすというもの。王女は細長い瓶に冷たいハーブティーを入れて持参しており、もはやピクニックの様相である。さらに先ほど侍女がそそくさとやってきて、焼き菓子のバスケットを置いていった。
ティータイムに王女の話し相手となるのは侍女たちの役目ではないのか、護衛騎士ではなく――という抗議が通らないことは、もうわかっている。一応の抵抗として、リゲルは敷かれたブランケットに全面的に座りはせず、尻だけをそっと布地の端に置き、足は芝生へと出していた。
「びっくりしたわ、あんなに剣が得意だなんて。十年前の印象は、もっと大人しかったから。外で遊ぶのも、嫌そうなところを私が連れ出していたでしょう?」
「いや、別に嫌だったわけでは……」
こんなにお転婆なお姫様がいるのかと、面食らっていただけで。
「でも……必要だったから、ということよね。土地を渡り歩くのは、大変だったでしょう」
穏やかな会話の中、けれども王女の声には気遣わしげな色が滲んだ。リゲルはその言葉を考える。
たしかに、必要だった。
炎の館から逃れた夜、十一歳のレグルスには何が起きているのかわからなかった。煙を吸って朦朧とした頭で、おぶってくれたシリウスの背中にただ揺られて。どこをどう移動したのかは覚えていない。
不幸中の幸いか、祖国を滅ぼした敵方からの追手はなかった。だが当然、亡国の王子としてそのまま生きていくのは危険すぎる。シリウスは、祖父と孫の二人旅を装うことにすると言い、死にぞこなった王子に「リゲル」という名をくれた。
リゲルは状況をすぐに受け容れたわけではない、というより、向き合えなかった。後から思えば一種の防衛本能だったのだろう。生まれ育った国はなくなり、家族を失い。この状況を直視すれば心が壊れてしまう、と。
ぼうっと日々を過ごした。自分から何かを発することはなく、すべてシリウスの言う通りにした。彼が身体を気遣って食べろだの寝ろだの言ってくれることに、はねのける元気もなく従う。そうして生きるための行為をしているはずなのに、生きている実感はまるでなかった。
心持ちが変わったのは、シリウスが怪我を負ったときだ。
あてのない旅が始まって、二月か三月かした頃。小さな町や村を巡る中で、柄の悪い連中に絡まれた。発端は些細なこと、というか向こうから一方的に。酒場から出てきた彼らはたまたま機嫌が悪く、酔っていた。
「こんなしょうもないことで剣を抜きたくなかったんだがなあ……」
相手連中の一人がいたずらに小刀を振りかざしたせいで、シリウスもぼやきながら剣を抜いた。
彼は、数年前に引退済みではあったものの、長年王家に仕えてきた腕のある騎士だ。剣先を少々交えただけで実力差を悟った相手は、そそくさと逃げ出した――が、悔しまぎれか、あたりに落ちていた酒瓶を投げつけてきた。「下がってろ」というシリウスの指示を守っていたリゲルに向けて。
瞬時に庇ってくれたシリウスのおかげで、リゲルに怪我はなかった。しかし、飛んできた瓶を受け止めた彼の左腕は、血で赤く染まっていた。落ちていたものだ、元々割れでもしていたのだろう。
「大丈夫、ちょっと切れただけだ」と、シリウスは大して気にしない様子で言ったが、リゲルの目には、彼の血の赤がとても鮮やかに映った。何を食べても味がなく、何を見ても色を感じない、そんな無機質な日々が続いていた中で。失われた感情が急に息を吹き返した。
――怖い。シリウスを傷つけたくない。僕のせいだ、僕が弱いから足手まといになった。これじゃ駄目だ、強くならなくちゃ――
それから、シリウスに剣の稽古をつけてほしいと頼んだ。彼は驚いていたけれど、すぐ快諾してくれた。必死で稽古を重ねるうちに、リゲルは日々を生きるだけの体力を取り戻した。
……そんなことを包み隠さずに話して、王女はこれを静かに聞いていた。
「素敵なお師匠様だったのね。会ってみたかったわ」
「気さくな爺さんでした。剣術に関することは何でもしっかりしていて、武器の手入れはすごく丁寧で、器用なはずなのに……野営の料理は下手くそだったな」
「ふふ」
「優しくて、強くて。さすがに年齢には勝てなかったけど、最後までぴんぴんしてました。だんだん体にがたがきて、寿命が近いのは気づいてたんだろうけど、動いているほうが元気だとか言って稽古を続けてた」
旅に慣れてきた頃、シリウスに伝えたことがある。「足手まといになってごめん」と。彼はきょとんとして、それから声を上げて「はっはっは」と笑った。
「俺ひとりだったら、こんなふうに一生懸命生きてない。食べて寝て体を動かしてって、毎日それなりにちゃんとした生活ができているのはお前のおかげだ。剣だって、誰かのためにあるから強くなれる」
王子と臣下の会話ではなく、すっかり自然になった、砕けた口調でそう言った。
――誰かのため、か……。
不意に思い出された師の言葉。「誰か」に弟子を当てはめてくれた師匠への感謝はあったが、リゲル自身がその言葉を“言う側”として意識したことはなかった。シリウスに迷惑をかけまいと、早く一人前にならねばという気持ちで腕を磨き続け、彼が亡くなってからはひとりだったから。
そうして過去の記憶を辿るうち、王女との会話が疎かになっていたことに気がついて、リゲルははっと横を振り向いた。だが彼女は特段気にしていないらしく、目が合うと小首を傾げてくる。
その寛ぎきった表情に、再びリゲルは勢いよく顔を背けた。既に正体はばれているのだから、目をそらす必要などない。しかし今は、以前とは違う理由で彼女の瞳を見られないのだ。なんだかむず痒くて。
今しがた王女にした話、剣を磨くに至った経緯には、実は端折った部分がある。正確に言えば放浪の旅に出る半年ほど前から、レグルスはシリウスの指導を受けていた。
遡って、幼少期から教養として剣を握る機会はあったのだが。末っ子の甘ったれ王子は、これに大した興味を持たないまま十歳までを過ごした。
転機は、とある国のお姫様と約束してしまったこと。「迎えに来る」だなんて言った手前、強くあらねばと思った。少年らしく微笑ましい思考だが、自分のことだと思うと恥ずかしくてたまらない。それで、「もっとちゃんと剣を学びたい」と祖父であった国王に頼んだところ、隠居して暇を持て余していたシリウスが講師として来ることになった。その後は、話したとおり。
……まあ、いずれにせよシリウスに習ったという話だから、細かい部分はいいだろう。
「リゲル」になってから、もう戻れはしないのだと、心の奥底にしまって忘れてきた記憶の数々。彼女といると、蓋が次々に開いていくので困る。
とはいえその“困る”という感覚は、決して不快なものではないのだが――。
王女が、先ほど侍女が持ってきた菓子を差し出してくるので、素直に受け取った。硬めのタルト生地に、中に詰まった木苺のジャムは酸味が強く、どこか懐かしい味がする。
そうしてしばらくの間、許された沈黙を味わったあと。
そろそろ部屋に戻る頃合いかと思ったところで、ふと王女が口を開いた。
「ひとつ、話しておきたいことがあるのだけれど」
その碧い瞳からは寛いだ雰囲気が消え、微かな緊張があるようにも見えて。
「この間私は、他国との縁談は受けないと言ったでしょう。でも、外交自体をなくすことはできないの。他国で開かれる式典には、予定どおり私が出席する。だから、少しこの国を離れるけれど……待っていてくれる?」
近隣の大国で王の交代があり、もうすぐ祝賀式典が開かれる。そして、その国の王はアルテミシア王女を妃に望んでいるという噂。
縁談はまだ公的なものではないらしいが、来る式典の参列者にはアルテミシア王女を、との指名があった。向こうの王は、彼女と直接会った際に打診する意があるのかもしれない。
式典の出席を断れないというのは、リゲルにもわかる。だが、彼女がそうした事情をわざわざ自分へと伝えてくれたことには、再び心がむずむずするような感覚が湧いてくる。
ただ一方で――彼女の言う内容については、頷かなかった。
ゆっくり頭を振ったリゲルを見て、王女は怪訝な面持ちになる。
なぜ彼女が「待っていて」と言ったのか、リゲルには心当たりがあった。
しかし、自分は近衞騎士なのだ。変な意地や何やらは捨てて、ずっと彼女のそばにいると決めたのだから。
王女が大国との縁談に乗り気だという話が出たとき、カーラをはじめ、近く仕える者たちは皆心配していた。「あまりいい噂を聞く国ではない」と。外せない公務とはいえ、そんな場所に彼女が行くというのに、もう大人しく待つつもりはない。
「俺も、ついていきます」
「え、ついていくって……だって、わかっているの? 私がこれから向かう国がどこか」
王女は大きく眉を寄せ、急に慌てた様子で言葉を連ねる。対して、リゲルは落ち着いた声ではっきりと返事をした。
「わかっています。ブロンテオンでしょう」
途端に、王女がはっと息を呑む。
ブロンテオン――それは、かつてリゲルがレグルスだった頃、彼の祖国を滅ぼした国の名前だ。