新緑鮮やかな季節に
「……どうしてあなたがここにいるの?」
国王への謁見から数日後。リゲルは再び近衞騎士の制服を纏い、アルテミシア王女の前に立っていた。
数日のうちに業務の引き継ぎなどを行い、今日の勤務開始は午後から。しばらくして私室から出てきた王女は、人員配置の異変に気づき、ぴたりと動きを止めた。
「また、お祖父様が何か……?」
「いえ」
虚をつかれた様子でこちらを見ている彼女に、リゲルはきっぱり伝える。
「私が、国王陛下にお願いしました」
「…………」
大きな瞳がいっそう見開かれて。二、三度瞬きを繰り返したあと、彼女は困ったように眉を顰めた。
「とりあえず、外に出るわ……」
王女は、手に一冊の本を持っていた。天気が良いので外で読書をしよう、当初の予定はそんなところだったのかもしれない。
しかし、彼女は読書の定位置である木陰のガーデンチェアを通り越し、迷うかのように庭を歩き回った。いつも目的地に一直線の彼女にはめずらしい。最終的に、石造りの噴水を囲むように置かれたベンチ、そのひとつへと腰を下ろす。
「座って」
「……はい」
業務中なのでと断れば、おそらく「私が言っているのだからいいの」等と返ってくる場面だ。それを察し、リゲルは大人しく彼女の隣へ腰掛けた。
眉間に微かな皺を寄せたまま。彼女は、日焼け防止の絹手袋をはめた指先で本の表紙を数度撫ぜてから、ようやく口を開く。
「どうして、自ら近衛に戻ったの?」
「王女殿下が結婚なさらない理由を、まだきちんと聞いていませんでしたので」
「それは……もういいと言ったでしょう。それに、なぜ急に? あなたはずっと、お祖父様の任務に消極的だったじゃない」
俯き加減で話をしていた王女がぱっと顔を上げて、途端に目が合った。だがリゲルはもう、これをそらさない。
「……俺のせい?」
「え……?」
「この間、“不吉な子”、って言っていたのは」
数日前、国王へ謁見した際のこと。「王女の側付きに戻してほしい」というリゲルの申し出を、王は二つ返事で了承した。
拍子抜けしていると、王はすかさず問いかけてくる。
「それよりも、あの子が結婚したがらない理由はわかったのかね?」
「いえ……、確かな話は聞けていません」
「ふむ、そんなに難しい話だとは思っていなかったのだがな。流れ者の君がここへ来たとき、私はピンときたのだ。あの子は、幼い頃の婚約話を忘れられないのではないかと」
あっさり明かされる王の思惑、その手の中で踊らされていた事実に、複雑な感覚が湧く。が、この王が食えない相手だというのはわかっていたことだ。
そんなことよりも、と。気を取り直したリゲルは、心に引っかかっていた事柄について訊ねた。
「あの、“月の子”というのは何でしょうか。王女殿下が、ご自身をそう仰っていました。不吉な子だとも」
「月の子だと? ああなんと、あの子はそんなことを気にしていたのか……」
国王には意外な単語だったようだ。目尻の皺を伸ばすように小さく目を見張ってから、王は説明をしてくれた。この国に古くからある「月の女神」信仰、五年に一度の「月暦の年」、その閏日に産まれた子供の誕生日をずらす風習があること。
「国の長たる私がはっきり言い切るのもどうかとは思うが、“月の子”は古い慣習で、形式的なものに過ぎない。どの土地にもあるだろう? 念のため守り続ける、厄祓いなどのしきたりが」
他国出身のリゲルは知らなかった風習だが、どうやら一般的には気にするものではないらしい。
だが、彼女は――熱があったとはいえ、先日の取り乱し方は尋常でなく見えた。本気で、自身を“不吉な存在”だと思っているとでもいうような。
――彼女が言う「私のせい」って、それはまさか……
「自分のせいで、レグルスが死んだ、と?」
声もなく俯いた王女を前に、リゲルは己への情けなさが募ってゆくのを感じた。
俺が自分のことばかり考えている間に、彼女はどれだけ苦しんでいたのだろう。幼くして両親を亡くし、そこへ婚約者の訃報が重なって。周囲に不幸が降りかかるのは自らのせいだと、迷信ともいう考えを握りしめるまでに。
「月の子の風習について、陛下から聞きました。だけどそれはあくまで形式的なもので、不吉だなんて誰も思っていない――」
「わかっているの」
「……え」
彼女がこだわる慣習というのは、恐れるべきものではない。だが、伝えようとした言葉は思いのほか静かに遮られる。
「古ぼけたしきたりだというのは、私もわかっているわ。でも……怖いのよ。もしも大切な相手ができたときに、その身に何かあったら、私は自分のせいだとしか思えない」
「そんな……。だから、わざわざ曰く付きの、他国との縁談に乗り気だと?」
「……大国と縁を結ぶのは、悪くない話よ。私だって一応王女ですもの。それに、もし私が“不吉な子”だったとしても、好きになれそうもない相手に嫁ぐならちょうどいいでしょう」
「だけど……!」
再会した彼女が、流れ者の自分とは異なり、記憶のままに美しく成長した姿が眩しくて。いっそ別の誰かと幸せになってくれていたらよかった、そんなことを思う瞬間もあった。
しかし、周囲が心配する縁談、これを前向きに考えているのだと言う彼女は。雨宿りのときと違い、やけに落ち着いた微笑を湛えている。その笑みはどこか寂しげで、たとえば何かを諦めたようにしか見えなくて。――違う、そんなふうに笑ってほしかったわけじゃない。
「俺は、行ってほしくない。自分が不吉だという前提で、身を捧げるなんてことしないでほしい」
碧色の瞳がリゲルのほうを向いて、驚きに見開かれる。
国王と話をする中で、彼女が結婚を拒む理由が繋がっていった。自分のせいで誰かを不幸にしてしまったのだと、心の傷をひとり抱える少女の姿がよぎった。
心臓を掴まれた心地がした。俺のせいで……彼女はレグルスの死に罪の意識を感じて苦しんでいたというのに、俺は自分のことばかりで。
何も持たない自身を惨めに思い、彼女の隣に立てる存在ではなくなったことを気にして、逃げ続けて。
そんなの、どうでもよかったのに。夏の湖畔へ並んだときに感じた想いは、ただ彼女に笑っていてほしい、それだけだったのに。
「君は、不吉だからそばにいられないと言って俺を遠ざけたけど、それは違う。現に俺は生きてる。君は不吉な子なんかじゃない。証明が必要だと言うなら、この先も……、俺はずっとそばにいる。だから、行かないでほしい」
こぼれ落ちるんじゃないかと思うくらい大きな瞳が、リゲルを映して、揺れて。その驚きのような表情が、ゆっくり移り変わっていった。
――……ああ、似た光景を、いつか見た気がする。
昔も今も、俺に大した力はない。それでも、ほんの僅かでも彼女の救いになればと、精一杯の言葉を探して、絞り出して。
そんなちっぽけなものしか渡せないというのに、彼女は。この世にある幸福すべてを受け取ったかのような表情をするから、もらったのはこちらのほうだという想いで胸がいっぱいになる。
「……わかったわ。縁談は、受けない。それで……あなたはずっと私のそばにいると言うの? それって……」
王女は時間をかけて、穏やかに頷いた。けれどもそのあと、ちらと見上げるように向けられた視線には、不安げな様子が残って見えて。
リゲルは、早く王宮を去ろうという当初の決意はすっかり消えていたのだが、彼女にもこれを伝えなければと思い、口を開いた。
「任務が終わったら王宮での職を離れるつもりだったけど、近衛を続けられるよう申し出ようと思う。分不相応だと言われるなら、警備兵でも下働きでも。何らかの形でここにとどまれるようにするから」
「……え?」
「え?」
どんなに長くても、特別任務の期限である一年で近衛騎士を辞める予定だった。だがその後も彼女のそばにいると決めたなら、王宮にとどまる方法を見つけなければならないと。
リゲルとしては真剣で、自然な思考の流れだったのだが。
「あなたがお祖父様と取り交わした内容って、たしか……。この流れで働き口の心配に意識が向くって、すごく真面目なのか、ものすごく鈍感なのか、どっちなの?」
なぜだか王女は心底呆れたような顔をして――それからとても無邪気に笑った。
「まあいいわ。ねえ、あなたはやっぱりレグルスなのね。名前を変えて、今の自分には何もないだなんて、別人にでもなったような口ぶりだったけど、あなたは何も変わっていないわよ」
「………………えっ……」
王女ではなくひとりの女性の、ごく素直な感情がこちらへ向けられていることに、そのくるくると変化する表情に、リゲルは見惚れていた。
と、不意に上半身が前方へ引っ張られる感覚があり、思わず声を上げる。そして遅れて理解した状況に、慌てた。
王女の両腕が首元に回されている。つまり、勢いよく抱きつかれたような格好である。先ほどまで敬語も忘れて話をしていたというのに、リゲルは急速に自身の立場を思い出した。
だが、「どうか離れてください」と上げかけた抗議の声は、王女の小さな動作によってかき消される。
彼女はリゲルの癖のある黒髪をふわりと撫でて、子供に対するように優しく言った。
「きっと、大変だったのよね……。嫌じゃなかったら、だけれど、聞かせてほしいわ。この十年間、あなたがどうやって生きてきたか」
「……うん」
結局リゲルは大人しく頷いて、ふわふわと頭を撫で回される感覚を受け入れる。やっぱりもらったのはこちらのほうだ、と思いながら。
力強い日差しが降り注いで、瑞々しい新緑や花々の色を、よりくっきり映し出している。さああ、と、絶え間なく流れる噴水の水音が、耳に涼しい。
彼女と出逢った夏が、近づいていた。