勤務初日、揺らぎと決意
血生臭いとは、こういうにおいのことを言うのだろうか。
赤黒い煙と喉に絡みつく熱気。悲鳴と怒号が響く。何が起きているのかわからない。目の前は暗闇で、かと思えば視界に燃え盛る炎が押し寄せてくる。熱い、息が苦しい、怖い――
そこで、リゲルはハッと目を覚ました。
急な悪寒に身を震わせる。冷や汗をかいたらしく、濡れたシャツが素肌に張り付いてとにかく不快だった。
――ああいった夢は、長らく見ていなかったのに。
彼はベッドから身を起こすと、寝衣として着ていたシャツを雑に脱ぎ捨てた。仮滞在にあてがわれた客室を見渡して、重い息をつく。
こんなに広い場所で眠ったのは何年ぶりだろう。王からしたら憐れな者への親切心かもしれないが、善意の施しが常に人を救うとは限らない。
……分不相応のものを受け取るのはたくさんだ。
リゲルが王宮にて勤務する手筈は、数日のうちに整えられた。用意されたのは近衛騎士の地位で、主たる業務は王女の護衛。これに伴い、居室は王宮に付属する騎士寮の一室へと移される。
豪華な家具が揃えられた客室に比べれば、寮の部屋は簡素だった。一人用のベッドに小さな書き物机、騎士制服を数着掛けられるほどの衣装棚。必要最小限の物だけが置かれた手狭な空間に、彼はいくらかの安堵を覚えた。
勤務初日の朝、衣装棚に付属した鏡を確認したリゲルは、苦笑せずにいられなかった。そこに映った青年の姿が、どうにも居心地が悪そうだったからだ。
支給された制服は上質な濃紺の生地で仕立てられ、落ち着いた色味ながら華やかさが漂う。一見立派な近衛騎士の装い。だが纏う本人の表情はというと、来る場所を間違えたみたいに陰鬱である。
浮かない印象があるのは、おそらく前髪のせいもあっただろう。少しくせのある黒髪は中途半端に伸び、琥珀色の瞳に影をつくっている。
勤務開始日を待つあいだ、彼は少々髪を切った。伸びっぱなしで肩まで届きかけていたのを、顔の輪郭に沿うくらいまで。
けれど、前髪だけは目にかかる長さのままにしていた。きちんと採光設計がなされた王宮はどこもかしこも明るくて、その不慣れな明るさを直視するなど耐えられなかったから。ここの生活を完全に受け入れたわけではない――そんな、せめてもの抵抗の意もあったかもしれない。
リゲルの最初の仕事は、主人かつ護衛対象となるアルテミシア王女への挨拶である。
――できる限り、普通に。俺が“レグルス”だとは、悟られないように。
亡くした“王子レグルス”だった頃の自分。彼はその正体を暴かれたくなかった。特に、この王女相手には。
上官騎士に連れられて、リゲルは王女の私室前へと到着する。しばし待機していると、侍女の手によって内側から扉が開けられた。
室内の中央に、幅の広いソファーが置かれているのが目に入る。
ソファーに背もたれを使わずに座している人影が、王女その人だ。芯の通った上半身から床へ向かって品よく広がるドレスの裾は、流れるようなシルエットを成して。端然として優美さも備えた佇まい。
彼女は入室してきた騎士たちにさりげない視線を投げ、微笑みをくれる。
目通りの流れは滞りなかった。
上官は、王女に対する定型の挨拶を述べたあとで、リゲルの紹介に移った。
「新人が入りましたので、ご挨拶に参りました。主に王女殿下のお部屋付近を担当する者です」
「リゲルと申します。誠心誠意務めます」
打ち合わせどおり、リゲルも上官に倣って低く頭を下げる。
――やはり、気づかれはしなかった。
彼は、落ち着いた態度で場に臨んでいた。王女が浮かべた微笑は臣下を労う公的なもの、そう見てとると、ひそかに胸を撫で下ろす。
……十年も経っているんだ。以前は子供だったうえに、俺はすっかり変わっている。
上官と打ち合わせた手順はこれで最後。形式に則った短い時間はもうすぐ終わる――
しかし、気が緩んだのは束の間。
顔を上げたそのとき、王女の碧色の瞳がリゲルを捉えた。
音もなく、彼の心に細かな波が立つ。水面を風が撫で、波紋は広がってゆく。
王女とリゲルとの間には、それなりの距離があった。王女の座るソファー前には背の低いテーブルがあり、騎士たちはこれを挟んでさらに一歩引いた位置に控えていた。目が合った感覚が本物かどうか、判断にかたい距離。
けれども、リゲルはまるで射すくめられたように視線をそらすことはかなわず。時が、止まった。というより、動き出したのだ。
十年前に見たあの湖。記憶の奥底に消えたと思われた景色。光や空気の涼やかさまでもが、確かな質感を伴って眼前によみがえる。
アルテミシア王女は、記憶の中の姿とまったく変わっていなかった。正確に言えば、子供の頃の可憐さはそのままに十年分大人びていた。
窓から漏れ入る陽光が、無数に煌めく中。
彼女の金色の髪は豊かで、耳元の部分を編み込んで後ろへ纏め、残りは下ろす形に整えられている。肌は透き通るほどに白く。やわらかな丸みを帯びた頬と唇には、健康的な紅色が差す。
ただ容姿に優れているというだけでなく、大切にされて育ったことがひと目でわかる愛らしさ。
何よりその、一言では簡単に表せない色彩を秘めた両瞳が――新人騎士の姿を映し、僅かに見開かれる。
リゲルの胸のざわめきは、今やはっきりと耳元で聞こえるほどの音を立てた。
◇
初日の勤務を終えて。リゲルは寮の部屋に戻り、ベッドに身を横たえていた。
業務は何事もなく終了した。
基本的な内容は、王女の私室付近への待機、及び彼女が私室を出るときは持ち場の誰かが護衛として付き従い、不審な物事がないか常時注意を払うこと。彼女と交流がある人物の顔と名前、役職を覚えること、等々。
変わった出来事がなければそう難しいものではないが、不測の事態に備えて日頃の訓練を怠らないように、とは上官から念押しされた。
また、「君は通常の護衛業務に加え、陛下直々に特別任務を賜っていると聞いている。通常業務については周りがしっかり補助するから、君は任務に専念してくれたまえ」。上官のニコラスは、眉ひとつ動かさずリゲルにそう告げた。
ニコラスは、強面で筋骨逞しい四十代くらいの男性だ。仕事一徹といった雰囲気で、必要なこと以外は口にしない。“特別任務”について彼がどこまで話を聞いているのかリゲルは知らないが、とかく仕事には全力で取り組めとの圧を感じた。
なかなか寝付くことができずに、リゲルは今朝対面した王女の姿を浮かべる。
――正体に気づかれたかと思った。
目が合った途端、微かに揺れた碧い瞳。
けれどそれはほんの僅かな時間で、王女はすぐ元の表情に戻った。臣下に向ける穏やかな微笑へと。変化があったかに見えた一瞬も、思い違いだったのかもしれない。
ごろんと寝返りを打ち、彼は思考を続ける。
「王女が結婚したがらない理由を聞き出せ。一年以内にできなければ、そなたが王女と結婚せよ」――王は冗談ではないと言うが、まさか本気ではないだろう。
俺が彼女の伴侶になるわけにはいかない。王族の血筋といっても故国は既になく、人生の約半分を流れ者として過ごしてきたのだ。
となれば、例の理由とやらを聞き出す必要がある。妙な任務だが、さっさと遂行してしまおう。それで騎士の職は辞して、ここを抜け出す。つい丸めこまれて話を呑んでしまったものの、やっぱり性に合わない。
任務を果たし、辞すことを願い出るためには……まずは通常業務をこなしながら様子見か。
面倒だな――ふと、リゲルの心に後悔が首をもたげた。
国王の命だろうが、最初から断固拒否してしまえばよかったのだ。元より失うものは何もないのだから。
……だというのに。
我ながら愚かだと思う。忘れていたはずの想いがよぎってしまった。それも、子供の頃の話に過ぎないものが。
あの少女は今どんな姿をしているのか、ひと目彼女に会ってみたいと。