リゲルの領域
「調べたの。あなたはオーディス家の三男だと聞いていたけれど、養子だったのね。養子縁組がなされたのは、近衞就任と同時期」
いいえ自分は「リゲル」です、と。適当にごまかすことが難しいくらいには、そばにいすぎてしまった。夏の日の湖に似た、碧色の瞳。あれほど避けていた彼女の視線を、今は振り切ることができない。
王女の身体は未だ、リゲルに寄りかかったまま、リゲルはこれを支えたままで――だが身動きが取れないのは体勢のせいではない。
しかし、踏み込んだのはリゲルのほうだ。国王の気まぐれで王女の側に配置された近衛騎士「リゲル」であれば、決して立ち入らないであろう場所へ。
なぜ、聞きたいと思ってしまったのだろう。聞いたところでどうすることもできないのに。彼女の言う“理由”がリゲルに――レグルスに関係あるかどうかにかかわらず。
「模擬試合で倒れたとき、あなたは私のことを“ミーシャ”って呼んだわ。……誰かと間違えたの?」
ミーシャ。懐かしい呼び名が、太陽の下、駆け回る少女の姿を浮かび上がらせる。
――そうだ、俺は、彼女に笑っていてほしいと思って。昔も、今も。
万一の可能性、過去の約束が彼女を縛っているとしたら、正体を告げたほうがいいのかもしれない。そう、庭の花を見ながら考えて。
何の返事もしないリゲルを、王女はただ見つめている。
鼻先が触れそうなほど近くにいるのに、彼女がどんな表情をしているのかわからない。彼女の式典用の化粧のせいか、それとも雨に濡れた自身の前髪が、目元に纏わりついているからか。
笑っていてほしい、だけど――
「…………レグルスは、死んだ」
ぼやけた視界の向こうで、彼女が小さく息を呑むのがわかった。肩と、左腕の重みがなくなる。彼女の身体が離れたのだ。
やはり失望されたのだろうか。「会いに来る」「迎えに来る」だなんて言っておきながら、約束は十年間錆びついて。
王子としての立場も、彼女を迎える場所もなくなった。そもそもそれらはすべて、周囲に与えられるまま享受してきたもので。
今ここに立つのは、無力で、何も持たない“レグルス”の亡霊。今さら何を、と思われて当然だ。だから、早く立ち去ろうと思っていたのに――
「あなたなの?」
突然ぱっと視界が開ける。リゲルの濡れた前髪が、王女の手で掻き分けられたのだ。だが目に映る彼女の像が定まらないのは、己の視点がぶれているから。
先にすべり落ちた“レグルス”の名と、その後の沈黙は、彼女の質問において「肯定」と捉えられたようだった。
「本当に、あなたなのね……。どうして、おしえてくれなかったの?」
「……レグルスじゃない」
「名前を変えたからということ?」
俯くリゲルの顔を前へ向かせるようにして、王女の手が頬に添えられる。
僅かでも目が合ってしまえば、もう逃れられなかった。空の青と森の緑、その両方を映したような碧い瞳は、リゲルを夏の日へと連れ戻す。
震えて、掠れて。けれどもずっと止めていた呼吸を吐き出すようにしてようやく溢れたのは、自分自身の声だった。
「…………怖かった」
「怖い?」
「俺は変わってしまったから。俺にはもう何もなくて、約束も守れなくて。君に合わせる顔がない。だから、言えなかった」
彼女の大きな瞳が、時間をかけて、こちらを見ていた。
目の前に立つ男がどのような者であるのか。かつて王子として会った相手が、名を失い、どのようにリゲルとして生きてきたか。そうして、十年分の今を見られているような。
最後に、その瞳がゆっくり細まった。
「馬鹿ね……。こうして会えただけで、嬉しいに決まっているでしょう」
「……ごめん」
驚くほど素直に、謝罪の言葉がこぼれた。つい今まで必死に逃げ回っていたのが嘘みたいに。
夏の森、空を映して静かに煌めく湖面。子供ながらに美しいと心動かした景色の中には、彼女がいて。
一瞬、戻れるような気がした。自分はただの「レグルス」で、昔も今もただ、このお姫様に目を奪われただけで。
けれど――労わるようにリゲルの頬を撫でた王女の手は、そのままするりと離れていった。
「謝るのは、私のほうだわ。きっと私のせいなの、私はあなたのそばにいてはいけない」
急に何を、と。リゲルの理解を置き去りにしたまま、彼女は続ける。
「約十年前にあなたの身が危険に晒されたのも、この間の、模擬試合の怪我のことだってそうかもしれない。私は大切な人を傷つけてしまう“月の子”だから」
「何の話を……?」
「でももういいの。来月から、私は外交でしばらく国を空ける。戻るのはあなたの任務の期限が終わる頃だし、もしかしたら“月の子”であることが役立つ可能性も……
そう、なぜ私が結婚しないかという話だったわ。私は不吉な子だから、誰も愛さないと決めたの。特別な人をつくってはならない。私のせいなのよ、レグルスのことも……!」
熱に浮かされたように、まるで譫言かのように流れ出てくる言葉。そこでリゲルはハッとする。そうだ、彼女は体調が悪いのだ。
彼女の口から聞く断片的な内容が気にかかったが、それどころではない。
リゲルは、どこか軸が定まらない彼女の身体を支えると、急いで雨宿りの小屋を出た。気づけば雨はもうほとんど上がっていて、ニコラスは小屋のすぐ近くで待機していた。
◇
「やっと来たか」
久しぶりに対面した国王は、初回と同様にこやかにリゲルを迎えた。
初回、つまり流れ者だったリゲルが王宮に呼びつけられたときは、謁見の間での面会だった。今日は、おそらく王が私的利用している部屋のうちの一つに通された。
前回の謁見時、周囲に控える人数はかなり絞られていたようだったが、今回はさらに。というか、テーブルの上に紅茶と焼き菓子が並んだのを確認すると、王は完全な人払いをした。二人きりで優雅にティータイムを楽しむ仲ではないと思うのだが。
「座りたまえ」
「いえ、私はそんな身分ではありませんので」
「ふむ。君は、単に雇われの騎士……今は警備兵か、としてここへ来たのか? てっきり他に、何か話があるのかと思ったのだが」
「…………」
返事の代わりに、リゲルは静かに椅子を引いた。座面がふっくらと盛り上がった植物織柄の椅子は、腰掛けてみると案外硬い。
王に突かれたとおり、この謁見は呼び出されたのではなく、リゲルのほうから申し入れたものだ。王と話すべきことがあった。
先日、体調不良の王女を部屋まで送り、諸々を侍女たちに任せたあと。ニコラスは王女の不調を見逃したことについて、リゲルに詫びた。二人が何か話している様子だったので、近くで待機していたと言う。
リゲルはふと、その機に彼へ訊ねてみた。雨宿り中に王女が話していた「外交」とは、と。
ニコラスは、特に隠す必要もない様子でおしえてくれた。既に決定して手配が進んでいる件なのだろう。山向こうの国で祝事があり、式典に王女が出席する予定だということ。
現在この国の王と王太子は、譲位の準備で多忙だ。そのため、名代の形で王女が外交を担うのは自然なことかもしれない。
しかし、暫しの間を置いたあとで、ニコラスはこうも言った。
「……出席者に王女殿下をと望んだのは、先方なのだ。公的な話が来ているのではないが、どうやら向こうの王は、アルテミシア王女殿下を妃にしたいとか」
「それは……」
おめでたいお話なのでは、と。リゲルは咄嗟に、当たり障りのない相槌しか打てなかった。そう単純でなさそうなのは、みぞおちのあたりにゆらゆらと、嫌な予感として燻っていたのに。
「あまりいい噂を聞く国ではない。カーラも心配している。公的な話でないにもかかわらず、王女殿下ご自身が……なんというか、乗り気なのだという」
――アルテミシア王女が、他国との婚姻に乗り気? に、しては……。
外交、結婚を拒む理由、“不吉な子”……雨宿りの際、口走るように彼女が残していった言葉は、繋がりそうで繋がらない。ただ、心から「乗り気」ではないのでは、そんな気はする。
王女が誰かと結婚する気になったのなら、リゲルの“特別任務”は終わりだ。「よかったですね」と、孫娘を案じていた祖父王に伝え、ここを去るまで。そう、「リゲル」ならそれでいい。
だが、気づいてしまった。自分は彼女に笑っていてほしい、それがすべてのはじまりだと。
子供時代、彼女の寂しさを取り払いたくて口にした約束。
十年を経て思わぬ再会をした彼女に対し、自身の立場は昔とあまりに違いすぎていて。その事実と向き合うことを恐れ、逃げてきた。
けれども結局のところ、自分は彼女から目が離せない。頼み事をされれば断れないし、望まれれば騎士として勝利を誓った。
彼女には笑っていてほしいのだ。だから、彼女が結婚を拒む理由において、十年前の約束がしこりになっているならばと。自身の正体を明かしたうえで、気にせず別の縁を選んでほしい、そう伝えるべきかと悩むところまできて。
――私のせいなの。
……どういう意味だ?
あれほど遠ざけていた結婚に、乗り気だという王女。
結婚したがらない孫娘を案じた国王が、リゲルに命じた任務。それだけを考えれば、もはや自分になすべきことはないはずなのに。
他国との縁談は本当に彼女が望むものなのだろうか。
「最後だから、もういいの」と。不自然なまでにはっきり引かれた線をそのままにして去ることは、もうできなくなっていた。
王に指摘されたとおり、それは単なる“雇われ兵リゲル”が憂うべき領域ではない。
しかし理解したうえでなお、リゲルは決めてきた言葉を王へと伝える。
「お願いがあって参りました。私を、再び王女殿下の側付きに戻していただきたく存じます」