雨宿りの小屋で
警備兵の制服というのは多少の雨雪でも大丈夫なように作られているんです、制帽もありますし――そうやって丁寧に説明しても、王女は引かなかった。
「ほら、少し詰めれば入るわ」
言いながら、たっぷりと膨らみを持たせたドレスのスカートを、上から手で押さえてみせる。
どう考えても警備兵ひとりが濡れるかどうかより、王女の衣装を美しく保つことのほうが大事だと思うのだが。
固辞の姿勢を続けるのはかえって面倒なことになりそうだ……そんな気配を察したリゲルは、そろりと小屋に足を踏み入れた。間違ってもドレスの裾を踏んだりしないよう注意して。
「……祭りの催しは、終わったのですか」
「ええ、公務は終わったわ。少し疲れたから、息抜きに庭を見に来たの」
よほど早く息をつきたかったのか、王女の装いはおそらくセレモニーのそのままだ。ショールを一枚羽織ってはいるが、公務が終わってすぐ着替えずに出てきたのだろう。
頭には葉冠を模した金細工のティアラが輝き、日常で下ろしていることが多い髪は、編み込んで結い上げられている。
ドレスは光沢のある白い絹地に、金糸で立体的な植物柄を織り出したもの。白と金のシンプルな配色には、職人の手仕事による繊細さが際立ち、式典に相応しい気品と荘厳さがある。
リゲルはまるで庭道具のひとつにでもなったかのように、小屋の壁にぴたりと背を寄せた。それから、先の考えへと思いを巡らせる。
――言うなら今だ。“特別任務”の終わりについて、話をする機会がほしいと。
「あの――」
だが、意を決して発した呼びかけは、思わぬ音に遮られた。
「くしゅん」、と。初めて聞くその音は、一瞬耳を疑うほどの無防備さで。
「……寒い、ですか?」
「ええ、少し」
拍子抜けすると同時に、それが王女のくしゃみだと気づいて声をかける。彼女はいつの間にか、ショールの上から自身の両腕を抱くようにしていた。
「……こんなもので、申し訳ありませんが」
やや迷ったのち、リゲルは制服の上着を脱いだ。王女の肩にかけるようにすると、彼女はそれを素直に受け取る。
しかし、それでもなお腕を抱いたままの彼女を見て、リゲルは違和感を覚えた。
雨で多少気温が下がったとはいえ、震えるほどではない。ドレスも薄手には見えないし、渡した警備兵の上着は、普段着ていて暑いくらいの防寒性がある。
「もしかして、具合が悪いのですか」
「……実は、風邪気味なの」
「え」
式典用の化粧でわかりづらいが、言われてまじまじと見てみれば、王女の頬は火照っている気もした。寒気を覚えるほどだ、熱があるのかもしれない。
「早く中に戻らないと。傘、探してきますので」
体調が悪いのに、長くこんなところにいさせるのはよくない。
一向に戻らないニコラスに痺れを切らし、リゲルは傘を取りに出ようとした。――が、
「待って」
再び袖を引かれ、続いて左腕のあたりに重みを感じる。
見れば、そこにはリゲルの身体にもたれるようにして、王女の頭が寄せられていた。
「それよりも、少し肩を貸して」
「…………」
しばらくの間、思考が止まった。
だが、彼女がもたれている箇所から伝わる熱に気づいて、ハッとする。――やはり熱い。先ほどまで涼しい顔をして、“王女”の表情を見せていたというのに。
絶対に早く部屋に帰して安静にさせるべきだ、そうは思うものの、こう寄りかかられては身動きも取れず。リゲルはそっと、腕を持ち上げて彼女の背を支えた。
さらに遠慮なく身を預けてきながら、彼女は言う。
「なんだか気が抜けてしまったみたい。公務は問題なく終えたし、ジリアンにも、ニコラスにさえ気づかれなかったのに。どうして、あなたの前だとゆるんでしまうのかしら……」
しとしとと降る雨は止まず、かといって強まることもなく。静かに、二人の空間を包んでいた。
湿った土と、小屋に染みる木の匂い。そこへ調和するように漂う、なんとなく白き花を思わす仄かな香り。それは庭の花ではなく彼女のものだ。
「……もう少し、ご自身を労ってください」
間が持てず、つい、ぼやきがこぼれた。
「侍女を心配したりとか、私にも以前ハーブシロップをくださいましたが、ご自分の風邪はそっちのけで無理をするなんて……」
侍女の見舞いに行くと言って自らハーブティーを作り、護衛騎士に迷惑をかけたと落ち込んではシロップを持ってきて。気ままに庭仕事や散歩をしていたかと思えば、公の場では澄ました顔で王女の責務をこなす。
優秀な近衛であるニコラスにさえ、体調不良を悟られなかったという。祭りの公務に立つ間、いったいどれほど気を張り詰めていたのか。
……まあ、そんなことを言う資格はリゲルにはないのだが。きっと、にわか雨のせいだ。
狭い小屋に身を寄せ、あるのは雨が土に染みていく音だけ。静けさに包まれ、世界から二人取り残されてしまったような。そんな現実離れした空間のせいだと、リゲルは思う。
そうしてうっかり小言を漏らしてしまったわけだが、ちらと斜め横を窺うと、なぜか王女は微笑んでいた。
「あなたって、優しいわよね」
そして、すう、と瞳を細めてから。彼女は独り言のように言葉を続けた。
「あなたに頼るのは、駄目なのに。でも、もう最後だからいいかしら」
「……最後、とは?」
「一年間私のそばにいてと言ったこと。それからあなたが受けた王命も、もういいの。お祖父様には私から言っておくわ」
春が過ぎ、夏が深まれば、リゲルが国王に命ぜられた任務の期限がやってくる。
一方で彼女と交わした「そばにいる」契約――は破綻してしまったわけだから、彼女はそのことについて言っているのだと思った。
リゲルも同じことを切り出すつもりで、だからちょうどよかったはずなのに。彼女の口ぶりに、何かが引っかかった。
これまでと違い、何かはっきりと線で区切られたような。
「……つまり予定より早く、王女殿下が結婚に前向きでない理由を教えていただけるという意味ですか? それで私が陛下に報告して、任務を終わらせると」
「いいえ。理由は、私の口から直接お祖父様に伝えるわ。あなたにはお咎めがないよう、きちんと話しておくから。
お祖父様の任務も、私との契約も、あなたは元々乗り気ではなかったでしょう? 巻き込んでしまってごめんなさい。だから、もういいのよ」
「…………」
彼女がそう言うなら、それでいいはずだ。
さっさと王宮を――彼女のそばを離れることが、リゲルの目的だったのだから。自身の正体がばれないうちに、なるべく早く。なのに。
「……“理由”を、聞いてもいいでしょうか」
正面を向いて話をしていた王女が、ついとこちらを見上げた。碧色の瞳がリゲルをとらえる。
「あなたは、理由については特に興味がないと思っていたわ。でも……そうね」
なぜ、自ら訊いてしまったのだろう。任務の終わりが見えた今、なぜ王女が結婚を拒むのかなんて、リゲルには関係ないことかもしれない。
「理由について話をするなら、その前に聞きたいことがあるわ。
ねえ、リゲル――あなたは誰なの?」