月の女神
――「似ている」のは、気のせいだと思っていた。私が、過去の記憶にとらわれているからだと。
同じ年頃、ふわっとくせのある黒髪、琥珀色の瞳……似たような外見の青年なんていくらでもいる。それにあの男の子はもっと気弱で、剣が得意そうな印象はなかった。
第一、彼は他国の王子で、――国ごと亡くなったはずで。
王宮の礼拝堂にて。朝の祈りを捧げ終わったアルテミシア王女は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
王女の前には白布で覆った祭壇があり、金細工の燭台が並ぶ。奥にある台座からは、女神像が礼拝者を見下ろす。
月明かりとともに地上へ舞い降り、大地に豊穣をもたらす。地母神として古くより祀られるこの女神は、人々へ微笑みかけ、右手のひらを開いて差し出している。
神の手中にあるものを、人へとお恵みくださっているのか。それとも。
女神が持つもうひとつの面について、アルテミシアが知ったのは十歳のときだ。
ある日突然に、祖父王から「悲しい報せ」を聞いた。自国と友好関係にあった小国ネメシアで、政変があったということ。王族が生きている見込みはない。その王族の中には、アルテミシアがひと夏をともに過ごした小さな王子も含まれていると。
政変……。祖父の話はまるで、歴史の授業でも聞いているかのごとく流れていった。そうして、山脈を越えた向こうの国で確かに起きた出来事を、咀嚼できないまま。
翌朝、幼いアルテミシアは王宮の礼拝堂を訪れた。
国を守る神への祈りは、王族にとって大切な日課。普段どおりの礼拝を行いながら、アルテミシアはこの日、小さな王子へと思いを馳せた。――彼はもう、いないのだろうか。
大人しくて、手を引かれるがままに後をついてきた男の子。けれど、一度だけとても強い瞳を見た。
「毎年会いに来る、それで、大人になったら迎えに来るから」……そう言ってくれた、あの瞬間。
ふと顔を上げると、台座の上で女神様が微笑んでいた。片手がこちらに差し出されて、それは神の恵みを意味していると思っていたけれど。
たった今、天から舞い降りてきたかのように。やや前かがみになって、足元は軽く、ふわりと地上を見下ろす女神様。「おいで」、と。なぜだか急に、そう言っているように感じられて。
もしかすると私が、夏の離宮で彼の手を引っ張ったことを思い出していたからかもしれない。
でも、それはまるで――
そこで、十歳のアルテミシアの脳裏には、さらに何年か前の記憶がよぎった。女神発祥の地とされる教会本山を訪れた、七歳のときのこと。
この訪問は、子供の成長を祝う儀礼のためだった。しきたりにならい、純白のドレスを身に付け、神の御前に跪いて祈りを捧げる。続いて神の代理である神官長から花を賜り、儀式は終了する手筈だったのだが。
花を受け取ろうと顔を上げたとき、神官長と目が合った。垂れた目尻に深い皺が刻まれた、老年の、優しそうな女性神官様。
彼女は急に、ふっと時空の狭間にでも落ちてしまったかのように動きを止めた。そしてただ一点、幼い王女のほうをひたむきに見つめて呟いた――「女神様」と。
彼女はそのままふらりと体勢を崩し、教会の床へ倒れてしまった。アルテミシアには為す術もなく、大人たちが駆け寄って手を貸すのを呆然と見ていた。
倒れた神官長に大事はなかった。教会内の一室で休むところを見舞うと、彼女は「お恥ずかしい」と穏やかに笑った。王女に花を授けるという大役に緊張するあまり、老齢の身がもたなかったのだと。
「ねえ神官長様、さっき、“女神様”っておっしゃっていたのは?」
相手の無事に安堵したアルテミシアは、先ほどのことを訊ねてみた。しかし彼女は自分が発した言葉を覚えてはおらず、「王女殿下がお美しいので、きっと女神様のように見えたのでしょう」と言った。
そのときは何も思わなかった。子供心に、女神様に似ていると言われて嬉しい、くらいに感じていたかもしれない。
しかしそれから数年が経ち、初恋相手の訃報を聞いた翌朝。
アルテミシアの胸には不意に、言葉にならない何かがきざした。地上の人々へ向かって手を差し出し、微笑む女神像を前にして。
胸騒ぎとでもいうものか、いや、それよりもっと微かな、夜の草地を音もなく掠めるそよ風ほどの。
――女神様のこと、知らなくちゃ。
突き動かされるように、王宮図書館へ向かった。周囲にはなんでもないふりをして、勉強熱心な王女を装って、目当ての資料を探した。
『神話・伝承事典』『山西地域の信仰について』『月の女神と暦』……
そして知った。女神様は、ただただすべてを授けてくださる存在ではなかった。
千年も二千年も昔の、古代研究や逸話によるものではあるけれども。この女神は人身御供、即ち人身の生贄を要求する神であった。
こんな話もある。月に住まう女神は、時折大地へと降り立ち、繁栄と豊穣をもたらす。しかし人を愛してしまった女神は、月へ帰る際にその人を空へ上げた。これが、人身御供風習の元になっていると。
また、現在この国には、“月暦の年”というものがある。天体の巡りと人が用いる暦の周期を調整するために、五年に一度、四の月が一日増えるという年。この年には、月の女神の力がより一層強まるとも言われる。
そして――ここからは、アルテミシアが図書館での調べ物を始める前には知らなかったことだが――五年に一度来る“四の月・三十一日”、この日に産まれた赤子は“月の子”と呼ばれ、誕生日を一日ずらす慣習があった。その赤子に女神の力が宿り、大切な人を月へ連れて行ってしまうのを防ぐために。
何かが結びついていく感覚に、アルテミシアは恐怖を覚えた。自身の誕生日は四の月・三十日と聞いていた。
疑うことはなかった、十歳であったそのときまでは。
――私は、“月の子”なの? 女神様の力を持って、大切な人を空へと連れて行ってしまうという……
そう思い至ってしまえば、悪い記憶は連なる鎖のようにするすると現れ、彼女の心を縛った。
両親が事故で亡くなったのは、五歳のとき。五年に一度の“月暦の年”だった。その五年後には、婚約者となるはずだった王子。
だから、十五歳になって祖父から縁談話を持ちかけられたとき、アルテミシアは首を縦に振らなかった。「結婚」が現実味を帯びる年齢になって、改めて決めたのだ。相手が誰であろうと結婚はしない、愛する人は作らない、と。
そして今、次の誕生日で二十歳になるアルテミシアは、模擬試合で怪我を負った青年を思う。
無愛想で、護衛業務も嫌々そうで、かと思えば庭仕事を手伝ってくれたり、苦手を押してダンスに付き合ってくれたり。
他人を寄せ付けまいといった様子で張られた壁は、思いのほか脆く。長い前髪に隠された表情は、存外素直なことも知った。
確かではないけれど、彼が「彼」だと言われれば、納得もする。
……でも、本当にそうなのだとしたら、……だからこそ――
◇
医務室のベッドで、リゲルは目を開けた。ずいぶん長い間眠っていたような気がする。放浪の旅に出て以来、こんなに長く寝ていたのは初めてかもしれない。
身体を起こそうとすると、頭痛がした。――ああそうだ、試合をしていたんだった、それで……。自分は眠っていたというより、倒れていたんだということを思い出す。
ベッドの周囲にはカーテンが引かれていたが、天井が白んでいて、少なくとも日が出ている時刻だということはわかった。四角いタイルのような幾何学模様が描かれた天井を眺めながら、意識を手繰り寄せる。
試合は勝つ気でいた。ただ、相手も強かったので気は抜けなかった。目の前の一手に全神経を注いで、それで。
白地に茶系の色で描かれた天井模様のひとつが、ぼやりと赤く燻った気がした。
あれはなんだったんだ? 夢に炎を見ることはだいぶ減ったのに、まさか白昼夢を見るとは――
そのとき、ベッド周りのカーテンが揺れた。細く開かれた隙間から顔をのぞかせたのは、上官のニコラスだ。
「起きていたか、ちょうどよかった」
カーテンを開いて中へ入ってくる上官を横目に、リゲルは思わず眉を顰めた。
「……試合、申し訳ありませんでした。勝てなくて」
ニコラスはこの試合を、個人同士の戦いというだけでなく、近衞騎士の誇りをかけたものとして見ていたはずだ。彼は、リゲルに近衛職に就くだけの能力があると信じて送り出してくれた。期待に応えられなかったことを申し訳なく思う。
「終わったことは仕方ない。君の腕は確かだった」
「…………」
「だが、近衛からは外れてもらうことになった」
「……当然です、負けたんですから」
「いや……」
無駄なく明瞭なニコラスの言葉が、急によどんだ。そして、リゲルが気絶した後のことを説明してくれる。
ジリアンは、勝利したにもかかわらず、倒れた相手を見て呆然としていた。医務室に運ばれたリゲルが大事ないと知らされた際は、心底ホッとした様子で。聞けば、「あんな大きな一撃になると思わなかった」と言う。
試合の終盤、形勢不利であったジリアンは焦っていた。そこへ、突然にリゲルの動きが鈍ったため、好機と見て一撃を放った。それまでの相手の立ち回りから、退けられることを計算に入れ、全力で。
だが、相手は反撃どころか防ぐ動作さえせず、何かおかしいと気づいたときには遅く。全力を傾けていたジリアンは体勢を戻しきれず、予想外の大打撃が入ってしまったのだと。
「ジリアン殿は、“無抵抗の相手に大怪我を負わせるなど騎士道にあるまじき行為、これは勝ちとは認めないでほしい”、と言っている。ジリアン殿が勝ったら君の代わりに近衛職に就くという話も、これでは受けられないと」
「はあ……」
そうは言っても、勝ちは勝ち、負けは負けだ。隙があれば突くのが基本、リゲルは別にジリアンが悪いとは思わなかったし、近衛職については大人しく引くつもりでいた。
ただ、ひとつ心残りがあるとすれば――「約束よ」、と差し出された手の温もりが、リゲルの胸の奥を小さく痛ませる。
一方で、ニコラスの説明はまだ続いていた。
「ジリアン殿がそう強く言うので、こちらとしては君に近衞を続けてもらって構わないと思っていた。試合結果はどうあれ、君の腕は悪くない。しかし――これは王女殿下のご意向だ」
「……え」
「君を側付きから外すようにと、王女殿下から直々の通達があった。……それから、一応これも伝えておく。春に行なわれる“月祭り”だが、そのセレモニーで王女殿下をエスコートする役は、ジリアン殿に決まりそうだ」
胸の痛みが、遠ざかる。
そうだ、王女に忠誠を誓う騎士は俺だけじゃない。彼女が他の者を選ぶと言うなら、それはそれでいいじゃないか。
リゲルが「わかりました」とだけ返事をすると、上官はカーテンをきれいに閉め直して医務室を出て行った。