模擬試合
迎えた模擬試合の日。公式な催しでもないのに、訓練場には多くの見物人が集まっていた。
自身の修練を続けながらも、いつ試合が始まるのかと浮ついている騎士たち。そのほか見るからに野次馬であろう衛兵や下働きの人々は、今は非番なのだろうか。
日常と大して変わらぬ心構えで場を訪れたリゲルは、思わず額に皺をつくる。“模擬試合”というからには、普段騎士同士で声をかけ合って行う、訓練の延長のようなものを想像していた。
――まあ、そんなわけにはいかないか……。
わざわざ国王の許可を得て手配された試合であり、近衞騎士の人事がかかっている。それに、訓練の延長として収めるには、競技者が目立ちすぎているのだ。
何がなくとも話題にのぼる、美貌の次期公爵家当主ジリアン。のみならず、突如現れて舞踏会で王女のパートナーを務めたリゲルも。
影の薄い存在を目指していたつもりが、あれ以来他人の視線を受けるようになってしまった。
それから――
ふと見物人の世間話が止んだ。好奇にさざめいていた場の空気を、一瞬で我が物として攫ったのは。
「王女殿下がこんな場所に?」
「やはり噂は本当なんじゃないかしら、これは婚約者を決める戦いだって!」
お喋りな女性使用人たちが、すかさず囁く。彼らの視線の先を追わなくてもわかった。アルテミシア王女自らが観戦にやって来たのだ。
この訓練施設は、屋根のある建物部分と屋外の訓練場から成っている。試合会場となるのは屋外の一画。模擬試合用に柵で四角い囲いがつくられ、それを観衆が取り巻いている様子は、さながら何かの競技大会である。
人々は道をあけ、柵のすぐ外に王女の席が設けられた。護衛の者が椅子を用意したが、彼女は立ったまま会場を眺めている。側にはジリアン、どうやら一緒に来たらしい。
既に柵の中で準備をしていたリゲルは、王女到着の一連を少し離れた位置から見ていた。
今日の彼女は「王女」の顔をしている、と思う。民衆に見せる顔。喩えるなら……そうだ、以前訪れた修道院で見た女神像のような。アルテミシアという一人の人間ではなく、万人に向けた微笑みを携え、王女の役割を纏って立つ姿。
そして次に、彼女の瞳がこちらへ向いたように見えたとき。
リゲルはつい咄嗟に顔を背けた。自分でも不自然だと思うほど大きく、ぐるりと。……なんとなく気まずかったのだ。先日の庭園で騎士を気取ったことが思い出されて。
だが、気を散らしている場合でもなかった。
目の前にはいつの間にか、ジリアンが颯爽と立っていた。
「さあ、早速始めようか」
確かに、ジリアンは強かった。
試合開始の合図とともに、会場は静まり返る。まずは小手調べといったところか、余裕を持った間合いから繰り出されるジリアンの突きは、戦いというよりこちらの腕をはかっている様子。冷静に跳ね返しながら、リゲルも相手をうかがう。
軽やかに舞うような身のこなし。試合用に顔は金属でできたヘルムで覆っているが、その無骨さを上書きする華やかさがある。彼が動くたび、後ろで一つに束ねられた金髪が、細く光の尾を描いて揺れた。
なんというか、“魅せる”動きだ。剣をわざと大きく振るい、観衆の目を引いている。だがそれでいて、パフォーマンスに偏るばかりではないのが憎らしいところ。鍛練の積み重ねが見える剣筋は、攻めとして有効な箇所をしっかり突いてくる。
でも――
「どうした? 受け流すだけでは勝てないぞ」
なかなか攻撃してこないリゲルへ、ジリアンから声がかかる。
今回の試合は、定期的に王都で催される競技大会のルールを用いている。ヘルムや胸当て等の防具を用い、剣は刃をつぶした模造刀。頭・胸ほか決められた箇所への攻撃を得点とし、三点先取するか、相手を行動不能とすれば勝ちだ。
防御だけでは勝てないのはジリアンの言うとおり。なので、リゲルはそろそろ反撃に転じることにした。
「…………っ……!?」
交わる剣先から、微かな動揺が伝わってくる。今しがたリゲルが放った斬撃は、相手にとって予想外のものだったのだろう。
ジリアンは、間違いなく強い。華麗な立ち回りが目を引くが、その裏には基礎を積み重ねた真面目さが見える。平和な国の次期公爵という、守られる側にしておくのは勿体ない腕前。競技大会にて毎回好成績というのも頷ける。
けれどもそれは、やはりこの王都の平和さによるものかもしれない。
ジリアンを怯ませたリゲルの技は、貴族や騎士たちが使う由緒正しい剣術ではなかった。手首の返しを増やして素早く切りつける、遠い異国の術だ。
「正統な剣術をお行儀よくやる必要なんかない、なんでも覚えとけ」、そう言う師シリウスから教わった。生きるために。
普段のリゲルなら、これを使うことすら考えなかった。試合の勝ち負けなどどうでもいい。次期公爵様が「勝ちが欲しい」と言うなら、躊躇なくくれてやった。
だが……仕方ないじゃないか、約束してしまったのだから。
ジリアンは、この見慣れぬ技をどうにか受け止めていたが、今やどちらが優位かは明らかだった。
リゲルは有効な攻撃を一点、二点と重ね、最終得点を視野に入れる。異国の術は手首への負担が大きいため、痛める前に決めねばと。
試合が動いたことで観衆の熱気は高まり、あちこちで驚きや興奮の声が上がった。しかしリゲルはこれらを耳に入れず、ただ最後の一手に集中する。
もはや勝敗は決したかに思われた。
――が、リゲルが全神経を傾ける集中の外側で。不意に、風向きが変わった。
「あら、これは、雪……?」
観衆が見たのは風花だった。晴れた空に、風に吹かれてちらちら舞うような小雪。
春に向かっているとはいえ、未だ沢水の凍る季節だ。降雪自体はめずらしくないが、にわかに晴れ空を彩ったそれは、一瞬観客たちの注意をそらした。
そして、同時に。
リゲルの視界の外で、一人の男が小さく動いた。
「ジリアン様を、負けさせる訳にはいかない……っ」
人々の喧騒に紛れて、男は何かを呟いた。男が掌に収まるほどの紙片をひろげると、中から細かな砂が舞う。
砂は小雪の間を縫ってふわりと漂ったあと、意思を持ったかのようにある一点へと飛んでいった――最後の攻撃を決めんとしている、リゲルのもとへ。
あり得ないものがリゲルの瞳に映った。
ぱち、と音を立てて爆ぜる炎。花びらがごとく静かに散っていた雪が、小さな火球へと置き換わった。
それらは風に揺れながら寄り集まり、渦状に、地面から伸びる竜巻を成す。
瞬間、視界から試合会場の景色が消えた。真っ暗闇の中、リゲルはひとりだった。明かりと言えようものは、不気味に渦巻く火炎のみ。
ごご……と、耳でなく、足元から鈍い響きが伝う。背筋の粟立ちを感じる間もなく、炎の渦は火竜となり咆哮とともに向かってくる。
――熱い、息が苦しい……!
猛る炎の牙を避けるのがやっとだった。だが避けた先、暗すぎて見えない地面は脆く崩れ、リゲルを底へと引きずり倒す。
頭に割れそうな痛みが走った。脳天に鈍器を打ちつけられ、衝撃が身体の芯まで達するようだった。
「――リゲル!!」
試合会場は騒然となった。皆がほんの一瞬雪へと注意をそらした隙に、戦況はまるで変わっていた。ジリアンの剣による打撃を真正面から頭に受け、近衞騎士は地に転がった。
状況を掴みかねている観衆をかき分け、脇目も振らずに駆け出したのはアルテミシア王女だった。
◇
――……ここは、どこだ? そうだ、俺は剣の試合をしていて……。
火竜を避け、地の底へ引きずり込まれたあと、リゲルの意識はどこかを揺蕩っていた。
相変わらずの暗闇。だが、あの恐ろしい炎があるよりは真っ暗闇のほうがましだ、朦朧とする頭でそんなことを思う。
ずきずきと頭痛がし、体は重く動かないので、諦めて身を任せる。横になって、川か何かを流れている感覚だった。
しばらくそうしていると、川の流れが止まり、リゲルは閉じていた瞼を開けてみる。
目の前には、少女がいた。十歳くらいだろうか。川べりに座って一心にこちらを見ている。その大きな両瞳に、光が滲んだ。涙だ。
――どうして、泣く……?
少女に問おうとして、しかし口をつぐむ。
……いや、俺のせいか。俺が、約束を守れなかったから。そんな表情をさせたくないのに、俺はいつも。
リゲルは、重たい身体からどうにか片手を持ち上げて、少女の頬をそっと撫でた。
「ごめん……。ごめん、ミーシャ」
――王宮内の医務室。
模擬試合の最中に倒れた近衞騎士の青年は、この医務室に運ばれ、適切な処置を施されたところ。彼は、頭を強く打ったことで脳震盪を起こした。そして意識の戻らぬままベッドに寝かされている。
傍らには、アルテミシア王女が座っていた。どうしても青年の容体が知りたいと、彼女自ら医務室へ押しかけたのだ。医師の処置が済んだ今、ベッド周りにカーテンを引いた空間内には、王女と青年の二人きり。
ふと、青年の瞼が微かに動いたため、王女は椅子から身を乗り出した。彼はゆっくり目を開けたが、瞳はどこかうつろだ。
王女はただ、じっと青年の様子をうかがう。すると彼は、焦点のぼやけた瞳で見つめ返してきた。ぎこちなく持ち上がった片手が、王女の頬に触れる。
「……ごめん、ミーシャ」
それだけ発すると、青年は再び瞼を閉じた。
「どうして……?」
王女が負傷した青年を案じる想いは、周りが痛々しく思うほど強く顔に表れていた。
けれども今、そうした彼女の表情の中には、僅かに別の感情が浮かんだ。
――私を「ミーシャ」と愛称で呼ぶ人は、亡き両親と、それから。
『初めまして、お目にかかれて光栄です、アルテミシア王女殿下』
『なぜそんなに堅苦しいの? お友だちになりに来たんでしょう、“ミーシャ”でいいわ』
慣れない異国の言葉で、精一杯背伸びした挨拶をしてくれた、小さな王子様の記憶がよぎる。
「どうして……、どうしてあなたがその呼び名で私を呼ぶの?」