騎士の誓い
年が明けてしばらくした頃、近衛騎士団幹部のもとへ一つの申し入れがあった。
――アルテミシア王女殿下付き近衛騎士の配置に関する申入書:
昨年より、王女殿下の警護にあたる近衛騎士の中に、かなり年齢の若い者が配置されていることを存じております。
年齢にかかわらず能力のある人物を登用するのは素晴らしいことですが、彼に十分な力があるのか、経験が足りているのか、という点には些か疑問があります。
王家をお支えする公爵家次期当主の立場において、また王女殿下の再従兄妹としましても。敬愛する殿下の御身の安全は最も心にかかる事柄であり、護衛という任務は最善を尽くしても尽くしきれない事項です。
つきましては、是非私自身の目で当該騎士の業務的適性を確かめたく。彼と模擬試合を行う許可を得るために本書状を認めている次第です。
……ヴェール公爵家次期当主、ジリアンの名で。
端的にいうと、“若輩のくせに王女の側に付いている騎士が気に食わない。腕前を見てやろうじゃないか”、と。
この申入書は、王女の身辺警護における責任者ニコラスの手へ渡った。
だがそもそも、件の若者が近衛職に就いたのは国王の差配だ。当然ニコラスは王の指示を仰いだわけだが、王は本件の判断を彼に委ねて――
「というわけで、君が負けることは許されない」
――なぜ、試合をする流れになっているんだ……?
いつもながら、威厳ある風貌にて淡々となされる上官の説明に、リゲルは戸惑う。
正直、ジリアンの意見は真っ当だといえる。彼は国王直々の命とは知らないのだから、どこの馬の骨とも知れない若輩者には異議を唱えたくもなるだろう。
リゲルとしては、王の威を借りて大きい顔をするつもりはない。……もう、これ以上は。周囲の疑念を押し切ってまで近くにいるべきではない、そんな思いが湧いた。
「試合は必要ないのでは? 元より近衛騎士というのは、自分には過ぎた立場です。疑義が寄せられたなら降格で構いま……」
「いや」
しかし大人しく退任の意を述べようとしたら、食い気味に遮られた。常に冷静であるはずの上官の瞳の奥には、なんらかの光が宿っていて。
「君だけの問題ではない。監督する私にも責任がある。この申し入れは、日々騎士の誇りを持って任務にあたる我々全体へ異を唱えるものだと言えよう。君には近衛の立場に相応しい能力があるということを、ジリアン殿にしっかり示してほしい」
……何か、仕事一筋である彼の矜持に火をつけてしまったのかもしれない。普段と変わらぬ真顔がかえって怖かった。
そして、この人は。
「ねえ、ジリアンと剣の試合をするんですって?」
普段はすまし顔で王女と臣下の距離を保っているのに、時折それを忘れたかのごとく唐突に話しかけてくる。
リゲルが上官から模擬試合の話をされた翌日。王女は庭の様子を見に行くと言って、私室から出てきた。
行き先は、リゲルも作業を手伝った、秋に球根を植えた小庭。なんでも「早いものは雪の下で芽を出すこともある」、とのこと。
だが残念ながら、球根花の息吹を感じるには時期尚早であった模様。先日降った雪が日陰に残る庭園は静かだ。ただ、冬季でもきちんと庭師の手は入っていて、常緑の芝は丁寧に刈られているし、幹の色が特徴的な低木は、葉が落ちても枝自体が赤、黄などの彩りを見せていた。
これはこれで風情があるとつい感心していたところ、彼女から試合の話を振られたのだ。
「ああ見えても、ジリアンは結構強いわよ」
「はい、上官から聞きました」
王都で定期的に開催される競技大会にて、彼は毎回好成績を出しているという。一見剣など握ったこともないような美青年でありながら、身軽さを生かして華麗な立ち回りをするらしい。
「で、あなたはどうなの? そんなに強そうには見えないけれど」
「……そんなに、強くはないですよ」
謙遜ではなかった。表向き、リゲルは剣の腕前を買われて近衛に取り立てられたことになっているが、実際は国王の気まぐれだ。試験を受けたのでもなければ、王宮職に就くまでに剣を抜いてすらいない。
必要だったから扱えるようになった、ただそれだけ。自分が生きるため、というよりは、共に旅をしてくれた師シリウスの足手まといになるまいと。
結果、一人で放浪生活を送るのに困らない程度の腕にはなったが、近衛となる資格がどうこうと言われれば自信はない。
「それでは困るのだけれど。ジリアンは、あなたが負けたら私の側付きを辞めるように言ってきたと聞いたわ」
そう、例の申入書には続きがあった。リゲルが負けた場合には王女の側付きを退くように、その位置には代わりに自分が入るからと。
「公爵家嫡男を護衛にするわけにいかないでしょう。どちらかといえば、護衛される身分だというのに。それに……」
なんとなくだが、今日の王女は機嫌が悪い。そんなに眉を顰めて、額にあとでもついたら戻ったとき侍女に何か言われるのではないかと気になってしまう。
そういえば、ジリアンは彼女にとって「疲れる」相手なんだったか。それにしても、こんな表情をするまで毛嫌いしているとは知らなかった――
「ねえ、聞いているの? 一年はそばにいる約束だって、あなた自分でも言っていたじゃない」
「……え」
お姫様の愚痴を流し聞きしていたつもりが、いつの間にかその矛先はリゲルへと向いていた。
「それは……申し訳ありません」
「だから、なぜ最初から負ける前提なの? もしかして、これはいい機会だとでも思っているのかしら?」
「いい機会、とは」
「私のそばを離れる機会よ。あなたにはいろいろと無理を強いてしまったし……そろそろ嫌になったかと思って」
なんだか思っていたのとは違う話の流れに、リゲルは内心で首をひねる。この、時に気難しいお姫様が何を言っているのか、本当にわからなかったのだ。
「もういいわ」、リゲルがきょとんとしているうちに、彼女は話を切り上げた。
――よくわからないが、怒らせてしまった……か? 彼女の言うとおり、王命ついでに一年間そばにいるという約束はした。
が、近衛としての能力不足を指摘されてもなお王女付きでいるというのは、さすがに難しいだろう。嫌とか嫌じゃないとかそういう話ではない。
「もう戻りましょう。寒い中付き合わせて悪かったわ」
そのいつになくぞんざいな口調が。少し、リゲルの心を波立たせた。
戻ろうと言いつつも庭の一角へ視線をやったまま動かない彼女の横顔を、そうっとのぞき見る。
王女とした一年間の契約。この本旨は、期限ぎりぎりまで「彼女が結婚したがらない理由」を国王に伝えないこと、だとリゲルは捉えていた。
しかし、そのついでにそばにいるという点においては、試合に負ければ破ってしまうことになる。
確かに、そこについては気づいて詫びるべきだったとようやく思い直す。気の回らない自分に、彼女は腹を立てているのだと思った。けれど。
のぞき見た先、こちらではないどこか一点を見つめる彼女の瞳には、見覚えがある。
途端に、胸の奥にきり、と細い痛みが走った。
これは、怒っているのではない。いやでも、まさか。
「惜しんでくださっているのですか? ……私が、そばを離れることを」
「……ジリアンとは、こうして、花の様子を見にきたりすることはできないわ」
未だこちらを向かない彼女へと、ぼんやりした冬光が差しかかり、睫毛の下の白肌に影をつくっていた。
誰しもが愛さずにいられない無邪気な瞳には、ふとした瞬間に別の色が映る。
遠い日に出会った、少女の寂しさ。夏の離宮で客人が帰国する前に見せた、あのときのような。
見過ごすことは、リゲルにはできなかった。
ずっとそばにいることはできない。
ジリアンとの試合の結果がどうあれ、王命の期限である一年が終われば、俺はここを去る。それは覆せない。
わかってはいる、だが、それでも――、
「……勝ちます」
我ながら、柄にもないことをしたと思う。
リゲルは腰元に下げた長剣を静かに引き抜くと、これを地面に横たえた。それから、自身は片膝をついて跪く。
「王女殿下に、勝利を捧げることを誓います」
今の自分にできる、精一杯だった。
いつかのように、軽々しく「ずっと」なんて言葉は使えない。だが、騎士という立場にかこつけて忠誠を表すことならできる、と。
首を垂れる動作をしていたので、王女の表情は見えなかった。
地につけている右膝へ、厚手の騎士制服さえ通してじわりと冷気が伝ったが、そんなことはどうでもよく。リゲルはただじっと、不揃いな大きさの砂粒で固められた庭の小径を見つめていた。
その視界へ、突然すっと片手が差し入れられる。身につけていたはずの革手袋は取り払われて、しかし素肌とは信じがたいなめらかさを誇る、白く華奢な手。
顔を上げると、碧色の瞳が二つ、こちらを見下ろしていた。
「……約束よ」
差し出された彼女の右手を、下からすくうようにして握る。同じ時間だけ外にいたのに、リゲルの手のひらへ余りなく収まったその手は、ほのかに温かかった。
――あといくつ、約束を守ったら。
果たせなかった過去の約束を、彼女は許してくれるだろうか。
握った手の甲へそっと唇を寄せながら、ふと、そんなことを思った。