記憶の夏と冬の日
アルテミシア王女が侍女のために手ずから淹れたハーブティーは、淡い金色をしていた。爽やかな香りが立ち、ほのかな酸味を含むすっきりとした味わいで。
「身体が温まりますし、気分がさっぱりしてとても美味しいですわ」と、カーラにも好評だった。
侍女の住居を後にし、王宮へ戻るまでの短い道すがら。
リゲルは、先ほど薬局で目にした光景を思い返す。侍女を思って真剣に茶葉を配合する、王女の横顔。それから、以前彼女にもらった緑褐色の液体のことも。
――あれも、彼女は今日のように作ってくれたのだろうか。自ら薬局へ足を運んで、材料を選りすぐって。
そういえば、きちんと礼を伝えられていなかったかもしれない。……言うなら、今か。
居住棟から王宮へは、庭園の芝を縫って作られた歩道で繋がっている。その道筋の半分ほどへ差しかかったところで、礼を述べるなら今しかないと、リゲルは意を決する。
しかし、その瞬間。先に口を開いたのは王女のほうだった。道の真ん中で足を止めた彼女は、ゆっくりと護衛騎士を振り返った。
「お祖父様に、言っていないの?」
「……何を、ですか」
「“私が結婚したがらない理由”。それを聞き出すのがあなたの仕事だったんでしょう」
――言われてみれば、確かに。リゲルは彼女の言葉をもって、初めて気づかされる。
王女が結婚しない理由には、どうやら十年前の婚約者が関わっているということ。詳細は不明でも、国王から命ぜられた“特別任務”の内容を思えば、一旦は報告すべき事柄だろう。
だが、それどころではなかったのだ。十年前という時期に交差する記憶、そこに纏わってくる感情の細波によって、王命のことはすっかり頭から抜け落ちていた。
さっさと変な任務を終えて王宮を去る、初めはそう決めていたというのに……。
己の一貫性のなさに呆然として。何をやっているんだと脱力し。けれどもそこで、リゲルはもうひとつ気がついたことがあった。
「……でも、王女殿下とも約束しました。期限までの一年間は、殿下の側付きでいると」
本音を言えば、それも含めて考える余裕がなかっただけではあるが。
王命の期限を踏まえて王女がしてきた提案。“理由”は最後に話すので、それまでの一年間は騎士として側にいること、と。これを承諾した以上、今リゲルが国王への報告を優先するのは、彼女を裏切る行為に思える。
王女は、まじまじとこちらを見ていた。初めの頃、配置の不自然な新人騎士を訝しんで声をかけてきたときとも違う、たとえば何かめずらしいものでも見つけたかのような瞳をして。
「あなたって、結構真面目よね」
そうして、目の前の珍獣に対する率直な感想を述べると、気が済んだらしい。彼女はくるりと身を翻し、再び私室へと戻る道を歩きはじめた。
慌てたのはリゲルだ。王女からもらったハーブシロップの礼。侍女にハーブティーを届けるという今日の出来事にでも結びつけなければ、ほかに述べられる機会など見当たらない。
騎士を置いて我が道を行く王女へ追いつくために、早足になりながら。その勢いで、リゲルは彼女の背に向かってひと息に話しかける。
「あの、王女殿下……先日いただいたシロップ、ありがとうございました。美味しかったです」
今度は足を止めずに、彼女は顔だけで振り向いた。それから、ふっと微笑む。
「当然でしょう。私が作ったのだから、美味しいに決まっているわ」
――一瞬の錯覚。
防寒のため首元に白い動物の毛皮を纏い、着込んで普段より丸みを帯びた王女の姿は、にわかに幼い少女の姿と重なった。
灰色の冬空を映してくすんだ風合いが漂う庭園に、夏の光が差した。奥に、樹々に囲まれた閑かな湖が、その碧色の輝きが見える気がした。
この僅かな間、リゲルは忘れたのかもしれない。身に受けてきた災難のことも、もはや立場の違う彼女のそばにはいられないと思ったことも。
昔、熱を出した王子にとシロップを作ってくれたお姫様は、「わたしが作ったんだから」と胸を張った。同じことを言っている、と、それがおかしくて。
彼女の微笑みと記憶に重なる風景に、思わず見惚れた。
だから――
「ねえリゲル、あなた……今、笑ったでしょう」
「は……?」
リゲルは本当に自覚がなかったのだ。自身の口元が、彼女につられて微かに綻んでいたことに。
「なんだかとてもめずらしいものを見た気がするわ。ねえ、もう一度笑ってみせて」
「え、いや、何を言って……笑ってなど、いません」
「嘘。絶対笑ったわ」
前を歩いていたはずの王女は踵を返し、こちらへやって来た。
俯くリゲルの顔を覗き込むように見上げながら、彼女はじりじりと近寄ってくる。長い睫毛に縁取られた瞳は好奇に満ちて。
護衛騎士が笑ったことの何がそんなに面白いんだ、咎めるならまだしも、いや、そもそも俺は笑ったつもりはないし。このお姫様は一体どうしていつも俺を放っておいてくれないのか――
気まぐれな王女の好奇心に耐えかねて、リゲルは大きく後ずさった。無礼と言われたとて知ったことではなく。
いつの間にか彼は、明るい色の砂土で固められた歩道から、庭園の芝生部分へと踏み込んでいた。しかし王女はこれを気にもとめず、騎士に詰め寄るのをやめない。
結果。道と芝生の境目へと差しかかった王女は、その仕切りとしてあしらわれた小石の列に、見事に足を取られることとなった。
「あっ……」
「――え」
体勢を崩す彼女を前にして、躊躇ったのがよくなかった。
護衛というのは何も、外敵から主の身を守るばかりではない。目の前で主がすっ転ぼうとしていようものなら、即座に手を貸さねばならないのに。自ら彼女に近づき触れることへの抵抗が、リゲルの反応を鈍らせる。
とはいえ王女を地面に叩きつけるわけにはいかず、遅れて伸ばした腕は彼女に届いた。が、直前の僅かな迷いが仇となり。
万全の状態で相手を受けとめられなかったリゲルは、体勢を保てずそのまま背から芝生へと倒れ込んだ。
――こういうとき、時間がものすごくゆっくりに見えるのはなぜなんだろう。
倒れかかってくる王女を右腕に受けとめながら、リゲルは、自らの体がもう元に戻せない角度まで傾いていることを知る。せめて彼女を地面に触れさせないようにと、空中で身をよじり、両腕で相手を抱え込むようにして。
頬に、冴え冴えとした冬の空気を感じた。躓いたことに驚く彼女の表情、向こうに連なる庭園の樹々、雲が覆う灰色の空――一枚一枚絵を捲るように視界が切り替わって、その最後に。
仰向けに地面へと打ちつけられたリゲルは、軽く顎を引いて自身の胸元に目をやる。倒れた衝撃で、王女はそこへ顔を埋める形になっていた。
リゲルが下敷きになったのでたぶん相手に怪我はないだろうと、ひとまず安堵しようとしたとき。彼女がぱっと顔を上げて、視線が交わった。
舞踏会でダンスをしたときよりも近くに彼女がいた。先ほど記憶に重なった少女の姿ではなく、今の彼女が。人ひとりの重みが、腕の中に確かにある。
碧色の瞳は少し見開かれて、目が合ったそのままにこちらを見ていて。長い金色の髪が垂れかかってきて頬を撫ぜるので、リゲルはむず痒かった。
不思議と、何も。互いに言葉は発しなかった。きっと、まだ転倒した際の余韻が続いているのだろう、そうリゲルは思う。
でなければこんなふうに見つめ合うはずがない。時間の感覚がおかしくなっているだけだ、目をそらせないのは、ただ――
そこでふと、リゲルは地を伝う足音に気がついた。ようやく日常の感覚が身体へ戻り、時間が流れ出す。
首をひねって足音の出どころを探すと、上官ニコラスが歩いてくるところだった。彼は休憩時間を利用して自宅に戻ることがあるので、その途中だろう。
そして、我に返る。芝の上に寝転がる王女と護衛騎士。王女の身を守るためだったとはいえ、リゲルの腕の片方は未だ彼女の腰元を支えたままになっていて。
どこからどう見ても、不敬。さあっと血の引く音を聞いた気がした。急いで立ち上がる案もないではなかったが、上に乗っている彼女を押しのけることになるし、上官はもうすぐそこまで来ていた。
この国の極刑はなんだろうか……。もはや他人事のように考えはじめたリゲルを、現場に到着したニコラスは静かに見下ろす。
多くの人が近寄りがたく思う、厳しい顔つきで。芝の上に折り重なる二人を見た彼は、眉ひとつ動かさずに平然と言った。
「……これは失礼を。お取り込み中でしたか」
――いや、その反応は絶対おかしいだろう……!
◇
「ジリアン様、少々調べてまいりましたが。あのリゲルという青年は、オーディス家の養子のようですよ」
王宮にも引けを取らぬ立派な造りをした邸宅の、一部屋。絵画と見紛うほどの優雅さで茶を嗜む青年のもとへ、灰髪の家臣が報告事項を持ってくる。
「オーディスというのはわりと古い家柄ではありますけれども、まあ……地味というか。南西の、さほど大きくも豊かでもない土地を管理する家です」
「田舎者ということだな。それに、養子?」
「ええ、縁組がなされたのは最近です。近衞騎士に就いたのと同時期ですな」
養子縁組というのは、後継問題の解決手段として貴族社会ではよくある話だ。だが、本調査対象のリゲルという青年においては、近衞騎士就任のために縁組があったと考えるのが妥当だろう。
元々の身分では、近衛職に就けるに足りなかったということか。であればなぜ、そこまでして――ジリアンは、先日王女を訪れた際に見た、何の風格も感じなかった若い騎士を思い浮かべる。
並外れた剣の腕前を持っているとか? そんなふうにも見えなかったが。それに、剣術であれば私だって負けてはいない。
考えを整理したジリアンは、手元のカップから紅茶を一口飲む。そしてその優美な居ずまいを崩さぬままに、傍らの家臣へ命じた。
「ひとつ、機会を作ってくれ。王女殿下に相応しくない者が纏わりついているというのは、いただけない話だ。この機に彼のお手並みを拝見させてもらおうじゃないか」