侍女のお見舞い
――十年前……。
その言葉の意味を、リゲルは考える。
近衞騎士の業務を終えた彼は、服を着替えもせず自室のベッドに寝そべっていた。
アルテミシア王女に婚約者がいたという事実、そしてそれは十年前だということ。元婚約者とは、何らかの理由でもう会えないこと。
修道院の庭で聞いた話はそこで途切れた。様子を見に庭へ出てきた院長が、二人のところまでやって来たからだ。
院長と挨拶を交わして修道院を後にし、王女の私室まで護衛として付き添い、しばし待機するうちに勤務終了時刻がきて、今に至る。
十年前とは、“王子レグルス”だった彼がちょうどこの国を訪れた頃。夏の離宮で小さなお姫様と出会い、子供ながらに将来を口にした。
あのとき既に、王女には婚約者がいたのだろうか。それとも離宮から帰ってすぐ話があがったのか、……もしくは。
その、か細い糸のように頼りない可能性を、リゲルはこれまで無意識に見ないようにしてきた。
王に謁見した際、妙齢の王女が未だ結婚も婚約もしていないと聞き、幼い日の記憶がよぎったものの。関連はないと、反射的に判断を下した。
――だって、あり得ないだろう。あんな子供同士の約束が、正式な婚約でもないものが、十年も彼女を縛っていたなどと。いや、「生涯結婚しない」と言うのだから、十年どころでなく一生かもしれない。
レグルスは死んだ。彼女を「迎えに来る」と宣った、甘ったれの王子はもういない。
彼女との再会時に正体を明かせなかったのは、約束を守れなかった負い目だ。そして、惨めな姿を見られたくなかった。全てを失くしてやっと己の無力さを知った、愚かな王子のなれの果てを。変わらず美しく成長した彼女を目の当たりにして、なお思った。
「今さらよく顔を出せたものだ」と。記憶の中の笑顔が、冷ややかに歪むのを見るのが怖かった。
だが、それが――
果たされなかった約束が、もしも、彼女を苦しめていたのだとしたら? 夏の日差しの下、翳った少女の表情を変えたくて口をついた言葉が、あれからずっと彼女を縛っていたのだとしたら。
……なぜ約束を守ってくれなかったのかと、罵倒されたほうがはるかにいい。
今リゲルの胸に浮かぶのは、彼女の笑顔ではない。「レグルスもおうちに帰ったら家族がいるのよね」、そう呟いた、両親のないお姫様の寂しげな横顔だ。
とはいえ、正体を明かして“めでたしめでたし”というわけにはいかない。この先レグルスとして生きる気も、まして彼女の伴侶になるつもりもないのだから。
その前に、「十年前の婚約者」が自分であるかも定かではない。
ベッドの上で、目元を覆うように額へ片腕をのせたまま、リゲルは夜じゅう結論のない考えを悶々と巡らせた。
◇
そうこうするうち、季節は本格的な冬を迎えた。
冴えた外気に肌がひりつくような寒日が続き、散歩や木陰での読書を好む王女も室内で過ごすことが多くなった。
結局、リゲルは特段何をするでもなく。これまでどおり粛々と業務にあたっていた。
王女が宮殿内を出歩くときには付き添うが、彼女が外へ出なくなった分、顔を合わせる時間は短くなったかもしれない。会話はなく、貴人にとっての空気と化す護衛業務の感覚が戻りつつあった。
そんな中。ある日王女は、宮殿裏庭の一角に備わる王室薬局へと赴いた。王族が使う薬剤の管理や、王宮で働く人々へ薬の処方を行なっている場所だ。すぐ横には薬草園と温室が併設されている。
護衛として付き従うリゲルは、初めて来た施設の外観をさっと眺める。
規模だけでいえば、この園より先日訪れた修道院の庭のほうが大きい。だが、向こうでは薬草に限らず食料となる野菜等も育てていた。こちらが薬草類に特化していることを考慮に入れると、充実具合は同程度かもしれない。
いかにもどこかのお姫様が喜びそうな場所だ――と、そう考えたところで、前を歩いていた王女が唐突に振り返った。
「今日は、ハーブティーの茶葉を配合しに行くのだけれど。あなたも見に来る? 興味があるかと思って」
「あ、はい……?」
しまった、臣下として過ごすうち、とりあえず「はい」という癖が付いてしまった。
リゲルが思ったのも束の間、王女は満足げに瞳を細めると、さっと身を翻して薬局の建物へ入っていった。
王女は薬師たちに声をかけながら、勝手知ったる足どりで目当ての部屋へと向かう。辿り着いたのは、乾燥ハーブのビンが棚にずらっと並ぶ保管庫だ。
王室薬局は病気や怪我の治療薬だけでなく、風邪予防、健康維持のための食品も扱っているらしい。そのひとつが、隣の薬草園で採れたハーブを使った茶葉である。
来る途中で引き連れてきた中年女性の薬師に、王女は何事かを相談している。彼女らは次に、相談中に書き綴ったメモを片手に、ビンをいくつか棚から出して作業台へ並べていった。
普通ならば、リゲルは部屋の外で待っているところだが。先のぼんやりとした返事のせいで、庫内まで付き添う羽目になっていた。手持ち無沙汰さを抱えつつ、少し離れた位置で作業を見守る。
並べられた乾燥ハーブは、リゲルがなんとなく想像していたよりも様々な色合いをしていた。まさに薬草といった緑色の葉だけでなく、赤や黄色の花びら、植物の根に木の棒のような見た目のものも。
王女と女性薬師は、これらを天秤ばかりで計量し、混ぜ合わせる。それから湯を沸かし、淹れた茶を試飲したのち、目を見交わして頷き合った。どうやら完成したようだ。
続いて王女は、休みを取っている侍女カーラのもとへ向かうと言う。
――しばらくして。
一体なぜだかリゲルはカーラと二人、向かい合ってティーテーブルに着いていた。
「私の身体のことは、アルテミシア様から?」
「あ、はい。はっきりと仰られたのではありませんが」
王宮のすぐ隣、側仕えの者たちが住む居住棟。王女がここを訪ねたのは、「カーラのお見舞い」ということだった。
そういえば数日カーラを見かけていないなと、どこか具合でも悪いのですかと問えば。
「大事をとって安静にしてもらっているけれど、病気とかではないのよ」という返事が来て、リゲルは察した。おそらくまだ大っぴらに言う時期ではないが、妊娠中なのだろうと。
「アルテミシア様は大袈裟なのですよ。悪阻もあまりないし、私は元気ですのに」
ふふ、と微笑むカーラの表情には和やかさが満ちている。大袈裟だとこぼしつつも、受けた処遇は王女の心優しさゆえと知ってのこと。
そして当の王女は、現在カーラ宅の台所にいる。持参したハーブティーを淹れると言って、有無を言わせずカーラを座らせ、この家の使用人と共に奥へ入っていった。
「待っている間、話し相手が必要でしょう」と、これまた有無を言わせず一緒に座らされたのが、リゲルというわけだ。
話し相手としてあてがわれたからには、何か話題を振ったほうがいいのだろうか……そうは思っても、リゲルは話術などというものは持ち合わせていない自覚がある。
この青年の困惑を知ってか知らずか、カーラは穏やかに話を続けた。
「ニコラスと結婚して何年も経ちますが、子供を授かったのは初めてです。実は、望めないと思っていたのですよ」
二人が結婚に至るまでには、いくつかの壁があったという話。
由緒ある貴族家の令嬢であったカーラに、十歳以上も年上で財を持たない王宮勤めの騎士。一番の壁は、この身分差に引け目を感じるニコラス本人だった。
また、ニコラスは幼少期に高熱を出した経験があり、その際に医師から「将来子供は望めない可能性がある」と告げられた。これも、彼がカーラの求婚を固辞する理由になったそうだ。
「私はあの人がいればいいので、授かれないならそれでもよかったのですけれど。どちらにしても、私は今とても幸せです」
うまい相槌すら打てないリゲルは、温和な夫人の話をじっと聴いていた。
端々になかなかの惚気っぷりを感じるが、不思議と許容できる甘ったるさなのは、彼女の落ち着いた口調と品位のなせる技か。
そんなふうに思ううち、ついまじまじと相手を見すぎていたことに気がついて。
リゲルはハッとしたが、カーラはこれを咎めることなくゆったりと続ける。
「……それから、生き方は人それぞれですので、結婚だけが幸せとは思いません。でも、皆もっと素直になったらいいのにと。そう思うことはありますわ」