修道院の庭にて
アルテミシア王女が王都の修道院を訪問するという日。この外出予定の前に、王女は一件の来客を受けていた。
リゲルは通常通り、宮殿内での護衛に当たっていた。客人の待つ応接間へ入っていく王女及び侍女の姿を見届け、扉の前で待機する。特筆すべきこともなく、会合は終わると思われたのだが。
ひと通り世間話が済んだくらいの頃合いだろうか、応接間内に控えていた侍女カーラが廊下へと出てきた。
用事でもあるのかとリゲルが視線を向ければ、彼女はやわらかに微笑む。
「少し経ったら、入室して王女殿下に伝えてくれますか? “次のご予定が迫っています”と」
「……次の予定までは、まだ余裕があるのでは」
「いいのですよ」
再びにこっと口角を上げてみせたカーラは、落ち着いた物腰で部屋の中へ戻っていった。
王女の“次の予定”、即ち修道院への外出だが、聞いていた出発時刻までにはだいぶ余裕がある。少々不思議に思ったものの、女性は支度に時間がかかったりもするのだろうと、リゲルは侍女の言いつけを守ることにした。
とはいえ「少し経ったら」というのはなかなか曖昧な指示だな……と、胸中でこぼしながら扉を叩く。
「お話中失礼いたします。王女殿下の次のご予定が迫っておりまして……」
臣下としての振る舞いも慣れたものだ。低姿勢に語尾を濁せば、続きは王女本人が継いでくれた。
「あら、本当だわ。残念だけれどお話はここまでね。ジリアン、今日は顔を見せてくださってありがとう」
「いえ、そんなお言葉を賜るなど我が身には勿体ないことです! 冬季の間、領地に戻る前にひと目殿下のお姿を拝したいと押しかけてしまったのはこちらのほうですから。幸せなひと時に胸がいっぱいで、大変感謝いたしております」
「…………」
ジリアンと呼ばれた青年の大仰な物言いに、王女は微笑でもって返した。
青年は止めなければいつまででも話し続けそうな勢いだったが、王女がさりげなく椅子から立とうとする素振りをしたのにあわせて、彼も席を立つ。
立ち上がった彼はすらりと背が高く、男女問わず見惚れてしまいそうな美青年だった。印象深い緑色の瞳に、華やかな色味の金髪は肩につくくらいの長さで、後ろの低い位置で一束に纏めている。年齢はリゲルより二、三歳上だろうか。
公爵家の嫡男で、王女の再従兄妹にあたる――というのは、「王女と交流がある人物の名前や役職を覚えるように」との業務的指導により、客人の到着前に上官ニコラスから教わったことだ。
「次にお会いできる日を、今から待ち侘びております。それではどうか、お健やかにお過ごしくださいませ」
ジリアンは王女の片手をとり、その甲に口づける仕草にて別れの挨拶とした。部屋の扉へ向かった彼は一度振り返って、改めて恭しく礼をする。
なんとなく、リゲルがこれらを呆気にとられたような気持ちで眺めていると。
ジリアンは退室前に、予定を告げに来た近衛騎士へ一瞥を投げていった。一瞬のうちに上から下まで値踏みされた、そんなふうにも感じる視線。
きっと、舞踏会で王女のパートナーを務めた者だと気づかれたのだ、とリゲルは察する。
貴族たちがこぞって集まる大規模な会、公爵家嫡男なら確実にあの場にいたはず。また、なかなか婚約者を決めなかった王女がいきなり一介の騎士を伴ったとあれば、面白く思わない人間もいるだろう。元々王女に釣り合う身分の男性であればなおさらだ。
――どう思われようと、俺にその気はないというのに……。
溜め息を吐きたい思いをこらえ、リゲルは客人の背を見送る。
なんなら、ジリアンみたいな男性がパートナーを務めればよかったのだ、とさえ思う。目を引く容姿に、ぱっと周囲を明るくする華麗な雰囲気。王女と並べば眩いほどだったに違いない。
が、ジリアンへの評価という点において、どうやら王女本人の意見は異なっていたらしい。
「外出までにはまだ時間があるわね。少し休憩して、予定通りの時刻に出るからよろしくね」
「申し訳ありません。声をかけるの、早すぎましたか」
「いいえ、助かったわ」
「……?」
リゲルが思わず出してしまった怪訝な表情を見て取ると、王女はふと悪戯っぽく口元をゆるめた。
「あの調子でずっと喋られたら疲れるでしょう」
「…………まあ、確かに……」
「以前、縁談を断ってから静かになったと思っていたのだけれど。そうでもないみたいね」
「……断られたのですか」
「だって、彼がずっと隣にいたら疲れるもの。あ、もちろん悪い人じゃないのよ」
先ほどの、淑女然としたよそ行きの態度とは打って変わって、王女は砕けた口調で話し出した。客人対応から解放されて気が緩んだのかもしれない。彼女が「疲れる」を二度言ったことに気がつき、リゲルはひそかにおかしく思う。
王女の縁談について祖父王から話を聞いたとき、王は「候補者は皆申し分ないのに、王女が断ってしまう」と言っていた。だが、案外全員気に召さなかっただけなのでは……と、そんなことまでよぎった。
傍らで、カーラが一連の様子をにこやかに見守っていた。
◇
目的の修道院は、王宮から馬車ですぐの場所だった。敷地は高い石壁で囲われており、市街地の中心部にありながら一歩足を踏み入れれば静謐さを感じる空間だ。
馬車が着く前から門前に立って出迎えてくれた院長は、温和な老婦人。王女とは顔馴染みらしく、二人は和やかに言葉を交わす。
王女はまず礼拝堂にて祈りを捧げ、その後は院長と話があると言って、慣れた雰囲気で応接室へ入っていった。ここへは定期的に訪れているようで、おそらく王族による視察といった意味もあるのだろう。
リゲルは部屋の前で待機するという業務をここでもしっかり遂行する。先のジリアンとの会合時よりもいくぶん長く待機したあとで、院長との話を終えた王女が応接室から出てきた。
「お待たせしたわね。じゃあ、約束どおり庭を見に行きましょう」
修道院の庭は、王宮の庭園とはまた違った趣のものだ。園内は、低い柵で囲われた四角い区画が整然と並び、囲いの中にはそれぞれ異なる植物が植えられている。庭、というより菜園の印象に近い。
「王宮の庭は、人が見て楽しむものが中心になるでしょう。でも修道院では、日々の食料だったり薬草だったり、実用性のあるものが大半よ。鑑賞花もあるけれど、宗教的な意味合いをもって儀式等に用いられるものが多くて……」
どことなく楽しそうな王女の説明を聞きながら、リゲルは彼女の半歩後ろを歩く。
今日の外出にあたっては、ほかにもう一人の護衛騎士と若い侍女が随行していたが、彼らはなぜかやや離れた場所に位置取っている。
「ただ、今は冬季だから種類が限られていて。せっかく案内すると言ってあなたを連れてきたのに、地味だったかしら」
「いえ、普段見る庭の風景とは違って、興味深かったです」
「そう? よかった」
王女がこちらへ向けた顔をふわりと綻ばせるので、不意にリゲルの胸の内はざわめいた。
それにしても今日の彼女は、気を許しすぎではないか。愛好する分野の話ができて上機嫌なのかもしれないが……。
騎士の当惑をよそに、王女は自らの歩調を続けている。
「施設への訪問は、王族として仕事の一環でもあるのだけれど。こうして庭を見て回るのが楽しみなの。帰るのが惜しいくらい。……いっそ私も、修道院に入ってしまえばいいのかしら」
しかし平然と変わらぬ調子で放たれたので、聞き逃しそうになったのだが。その流れの中に、リゲルの耳は冗談かどうかはかりかねる発言を拾った。
“生涯独身が前提である修道院に、入ろうか”と。
――植物好きが高じて、王女が修道院へ? まさか。
どこまで本気の発言かわからないが、若い未婚女性、それも王女の口から気軽に出る選択肢ではない。やはり彼女には、どうしても結婚しないという意志があるのだろうか。
外出前、ジリアンに関するやり取りをした際には。彼女の結婚問題というのは、単にお姫様の我が儘のようなものじゃないかとも思えた。
だが――
「……なぜ、それほどまでに結婚を避けるのですか」
初めて純粋に、疑問を感じた。
王から聞き出すよう命じられたからとか、この特別任務を果たさなければ騎士を辞められないからとか、それらはすべて別にして。
彼女は、歩みを止めて振り返った。リゲルのほうを仰ぐ碧色の瞳が、微かに揺れたようにも見えた。
「私の都合でだいぶ振り回してしまったわけだし。あなたには、話してもいいかもしれないわ」
寒風が庭を抜けた。リゲルは咄嗟に、芯地の入った硬い騎士服の襟へと首をすくめる。
王女は動じることなく、再び前を向くと、栽培区画を縫って巡らされた小道をゆっくり歩き出した。
「婚約者がいたの。今日来ていたジリアンや、他の候補者との縁談話が出るもっと前のことよ。……今は、会えない人だけれど」
婚約者、か。あまり予想していなかった言葉を、リゲルは噛みしめる。
けれども王命を受けてからいろいろと考えてみた中で、その可能性に気づかないほうがおかしかったのだ。
あれは、子供同士の口約束に過ぎないのだから。別の正式な婚約者を、後日彼女が得ているのは十分あり得ること、むしろ当然だろう。
斜め前を歩く彼女の表情は、淑女たちが防寒用に被る布の帽子に隠れて、見えない。
すう、と、風が身体の内まで抜ける心地がした。同時に苦々しくも思う。彼女に婚約者がいたという事実へ――一体どの分際でこんな感覚を抱いているのか、自分でも呆れるくらいだ。
口ぶりからすると、元婚約者を忘れられないということなのか。今は会えないとは、何か事情があって破談になったか、もしくは相手に不幸があるなどしたか……
「いつまでも囚われているなんておかしいのかもしれないわ、もう十年も前のことなのに。でも、私にとっては大きなことだったの」
――…………ん? 十年前?