月が赤色だから
コロナ前に書いた小説の中では最も文字数が多かった作品です。
是非、お読みください。
「思えば不幸な人生だったよ……」
どこか重たげな空気が漂う暗いバーのカウンターで、うつむき加減で座っている女は眠たそうな目をこすりながら呟いた。何とも冴えない哀愁を漂わせた彼女は大分酩酊状態に近い状態とも言えよう。それを見て、バーテンダーはタバコに火を灯しながら、はぁと軽い溜息をつき、
「過去を思い出したされたのですか?」
しかし、彼女は質問に答えようとせず、もう一杯とだけ言う。バーテンダーは返事をせず、くるりと後ろを向いて冷蔵庫の中にある瓶を取り出す。その間、店内には深い沈黙が流れる。客は彼女以外にいないため、雑音は存在しない。薄らと流れる店のBGM――甘酸っぱさを帯びたサックスの音色が奏でるジャズの音色のみが店内の暗さを彩り、それ以外に発せられる音は無い。そんな中、バーテンダーは瓶の蓋を開け、グラスに酒を流し込み黙々とオーダーを作っている……。それから二、三分ほどしたころだろうか、
「お待たせしました」
バーテンダーは彼女の眼前にすっと酒を差し出す。
「フランス原産のリキュール、アブサンの水割りでございます」
表情の無いバーテンダーの顔を見て彼女はふっと微笑を浮かべてグラスを持ち上げ、ゆっくりと匂いを嗅ぐ。瞬間、つんとくるアルコールの刺激が彼女の鼻をくすぐった。どこか焦点が合ってない目が何か考えているであろうことを暗示している。
「アブサンね……。てっとり早く酔おうと思ったら、やっぱこれだよ、まぁ初めて飲むけど。んー、でも、いつも酔ったらぺらぺらろくでもないこと喋り出しそうで怖いんだよなー」
彼女がぼやくように言うが、それを聞いたバーテンダーは、
「心配いらないのでは? もうすでに酔っておられるではありませんか」
少し挑発するような口調だ。それを聞いて、彼女は口角をゆがませ、その瞬間、一気にグラスを口へと運んだ。喉が音を立てて、液体を呑み込み、見る見るうちに彼女の顔は赤くなってゆく。
「まだまだ、こんなのじゃ足りない……」
そう言いつつも、少し呂律が回っていないように聞こえる。頬杖をつき、今にも寝てしまいそうな具合である。そして、右手の人差し指をバーテンダーに向け、ばんっと呟いた。バーテンダーは酔っ払いの戯言として受け取り一切動じない。
「ノリがいい人は撃たれる振りをしてくれるらしいんだけどね」
そう言って彼女の目つきが鋭くなった。どことなく氷のような冷たさを帯びているように感じるのは気のせいか。バーテンダーは彼女の方を向き直り、溜息をつく。だが、彼女はなおも目つきが変わらず、その様子に少し押されたのかバーテンダーはごくりと唾をのみ込む。
それも束の間、彼女はふっと微笑を浮かべる。そして、正気と泥酔の微妙な間を味わいながらゆっくりと語り出した。まだまだ夜は長くなりそうである。月はまだ沈まない。
1
大学生の八割は一種類の人間である。それは一切に対し興味を持たず無気力に陥り、日々を幸福も不幸もなく過ごす輩だ。未来を考えず過去に囚われず現在を退廃的に駆ける。この輩の中に、時折、未来に悲愴を抱き、過去を引きずり、現在に対して何の希望も抱かず、ただ時が過ぎるのを静観する者が存在する。そのような者にとって、日々を過ごすにあたり、依存性のある何かに頼らざる得なくなるのだ。下らないスマホの課金ゲームや賭け事、アルコールや煙草。極端な奴はわけの分からない宗教や麻薬に走ったりするらしいが、彼女の場合はそこまでではなかった。しかし、理由も無く強烈なルサンチマンを抱え、なおかつ自身が持つ劣等感を解消する術も気力すらも無く、ただ時が静かに流れるのをのを無気力に受け止めているだけだったが為に自身に希望も活力も見いだせないでいた。
――人生とは喜劇であり、同時に悲劇でもある――
海辺に建つ小さな私立大学に通う女子大生である神無のテーゼはこの一言に尽きていた。これは大昔の役者の名言であるが、彼女なりに解釈されるに、ここでいう喜劇は悲劇の延長線上にあるという。悲劇には当然の如く悲愴が内包されるが、悲劇の度が過ぎると、もはやあきれ笑いが生まれてしまうのだ。思い返してみると、このような状態になる理由というのは何一つとして無かった。ただ、日々の生活を送ることに精一杯で、必死になって生きてきた成れの果てであるのだ。
そのようなことはあまり人には言えないだろう。どうせ言う相手もそんなにたくさんはいないからだ。そんな靄を抱えて日々を過ごすある日、神無の平穏を打ち破る存在は突然やってきた。彼女が入学して一年半ほど経った時のことだろうか。
「ねぇねぇ、この授業面白いと思う?」
授業中、神無の隣にいる男子が携帯を触るのを止めて突如話しかけてきた。なんというかまったくもって特徴の無いことが特徴という感じの人物である。服装は量産型大学生という感じで、赤いパーカーに安物っぽいアクセサリー、髪は薄い茶髪でさらっとしている。強いて何か言うなら、ちょっと喋り方が緊張してるってくらいだろうか。顔にあえて偏差値をつけるのであれば五十五が妥当であろうかという感じの人物である。唐突に見ず知らずの異性から声をかけられることに神無は思わず警戒心を隠すことはできないものである。
「えっ……。えぇ、まぁ……。なんというか、あんまり面白くないよねー」
彼女も相手同様に緊張してしまう故、何とも無難な返答をする。彼はそれを聞いて、特に目立った反応をしなかった。
「やっぱ皆思っていることは一緒だよねー」
そう言ってふと微笑を浮かべる。笑っているか笑っていないかの境界にあるという感じの微笑。よく分からない退廃が薄らと感じられるそれには彼女も一歩引き下がりそうになった。だが、そんなやり取りは風景の一場面に過ぎない、この平淡な空間で彼女及び彼がつまらないと感じている授業は進行を止めることはない。頭が禿げかかってバーコードのようになった老教授が黒板に訳の分からない専門用語を書き綴ってわーわーと喋り続け、周りにいる学生は一部を除いて聞いている様子は一切ない。後ろの方はどこぞのテニスサークルに入ってる感じの連中が独占し、にやにやしながら性行為についての話題を口にしており、真ん中あたりあるいは講義室の両側にいる連中は食い入るようにスマホの画面に釘付けで、時たままともにノートに向かっている者もいるが、ほんの一部に過ぎない。そして前列にいる彼らはそのような光景に一切の興味がないという様子で黙々とこの時間を過ごしている。彼も当然の如く、そんな周りの様子に何も感じていない。はぁとため息をついて、
「まぁ、それにしても面白さの欠片もないね。ちょっと度が過ぎるわー。だからノート取る気まったくしないし――」
流れるように愚痴をこぼすが、彼女は彼とあまり目を合わせたくなかった。何故にそう思うかは、やはり微笑が要因ではなかろうか。これの為に、本質的に何を考えているか全く読み取れないのだ。恐怖心とかではなく、穏やかに迫ってくる違和感と言うべきであろう。だが、なんとも拒否し難い喋り方に思わず耳を傾けずにはいられない。
「そもそも受けたくて受けてるんじゃないんだよね、こんなの。ねぇ?」
ねぇ? と唐突に振られて彼女は瞬時に戸惑う。何を聞いてきたのか? 相槌を打つしかないだろう。
「そーですよねぇ……」
一瞬、沈黙が二人に訪れる。
「…………」
「…………」
しかし、講義室の喧騒は止む気配がない。彼は一瞬後ろを向くが、また彼女の方へ目線を戻した。
「お気楽な連中だなー」
彼の口調こそ気楽な感じがするが、彼自身どこまで気付いているかは計り知れない。
微笑をあきれ笑いに転じさせたのだろう、彼は口元を片手で覆い隠した。それに釣られて、彼女も微々たるが愛想笑いを浮かべる。それを見て彼は、
「ところでなんだけど、あとでノート写メらせて欲しいっ。ちょっとこの授業出なさすぎて単位の危機なんだ。お願いできないかな」
彼女にとっても予想できていたことだったが、やはり目的はこれだったようだ。特に予想外というような反応もなく、彼女も心の中でやっぱりかと呟き、
「そうなの。でも、私も基本この授業中はノート取らないこと多いから。ごめんっ。残念だけど」
淡々と答える。一方の彼も驚く様子は無く、
「あらら。まぁ、そういうこともあるよね」
その時、チャイムが講義室に鳴り響いた。耳に残らない聖歌風の学園歌がオルゴール音で流れ、授業の終了を告げる。瞬時に喧騒は盛り上がりを見せ、皆次々と立ち上がり扉へと向かった。老教授がまだ終わっていないという調子で何か喋っているが、誰も気にする様子は無いし、本人も分かりきっているのだろう、後でホームページに告示しますとだけ聞こえてきた。
「じゃあね」
彼は立ち上がり、くるりと背を向け雑踏の中へと消えて行った。
そして、残された彼女がふと横を向いて窓の外を眺めると、夕暮れ時の月が薄ら赤く染まっていた。
知らない人物に話しかけられるのは、宗教の勧誘を受ける時くらいであろう。特に波風が彼女の生活に舞い上がったわけではないが、これは明確に波紋と位置付けて良かろうと考えていた。なにせ他学部の授業では親しい人物がいない為に一人で受けざるを得ない。わりと孤独というのはあまり好きではないものである。まぁ、彼とのやりとりは彼女にとって悪くない暇潰しになったのだ。
それにしても、そんなに馬鹿って感じの人ではなさそうだと彼女は感じていた。いわゆる本気出していないだけって類なんだろうと。特にまた会おうと思わないが、話しぶりを聞いた限りではあまり喋りは得意ではなさそうだが拒否感は感じない相手である。次の授業でも、また会う可能性は低くはない。
そんなことを脳内で思い描きながら、神無は夕食を食べるために教室を後にして食堂へと向かう。廊下は人で溢れ返っている。雑踏の中、人をひゅっひゅと避けて足早になりながらも、数分後ようやく入口が見えると彼女はほっとした。
幸いなことにこの夕暮れ時の時間帯はあまり混雑しない。皆六限目は部活やサークル・バイトで忙しいから、晩飯どころではないのだろう。暇人たちがたむろしている。そこに入るなり辺りを見回し、奥へと突き進む。それも束の間、微かに炒飯の匂いが鼻をくすぐる中、神無はどうやら発見できたらしい。
「お~い、神無~、ここだよー」
座ってる黒髪の女子が神無に手を振ってくる。
「お疲れー。待った?」
「ううん」
神無は女子の傍らの椅子に腰かけ、鞄から持参した弁当を取り出した。彼女はいつも自分で弁当を作る。外食よりも節約でき、なおかつ自分で作るが故、味に対して不満を言う必要が無いからだ。
蓋を開けると女子がそれをのぞき込む。野菜の煮込みが少々入ってるくらいだ。
「わぁ、今日も質素だねぇ」
「あんまり食べ過ぎたらどこかの国の独裁者みたいになっちゃうから」
女子は神無の冗談を受けて大笑いした。そして一しきり笑うと、机の上に置いてあるコンビニ弁当に箸をつけ始めた。
ぺちゃくちゃと会話しながら食べるとご飯は美味しくなる。どこかでそんなこと言ってる人がいたなと神無は反芻し、共感すると思った。一人で食べると少し味気ないのも事実だ。彼女は元々声が大きいほうではないこともあり、横に座っている少し明るい印象のこの女子に対して聞きに徹する。
「最近さー、台風多すぎん?」
「ほんとそれ。何かの陰謀じゃないとかツイッターで話題なってるし」
「同意同意。この前、ライブが台風で中止なってさー。しかも、返金はいたしませんって!」
「えぇっ?」
こんな感じで他愛も無いことが次々と口から出てくる。平凡な話ばかりだ。何か刺激が欲しいような気もしないでもないと神無は感じていた。その時、
「ねぇ知ってる? うちの大学の都市伝説っての」
女子が唐突に興味深い話題を提示した。
「何それ。めっちゃ気になるんだけど」
「なんと……最近、謎の人物が大学内にあらわれるんだよ! 突然現れて喋りかけてきて、流れで『友達なりませんか? LINE交換しましょー』って」
神無は驚かざるを得なかった。まさか……先ほどの人物は……。あの彼の顔が脳裏を過る。そんな彼女をよそに女子はまだ語る。
「私も喋りかけられたの。んで、流れでLINE交換しちゃった」
「え? 怖くない?」
「まぁ、色んな人も喋りかけられてるけど、その後音信はないらしいし大丈夫じゃない? なんか聞いてくる人はこの人単独で他にはいないらしいからネットワークではないんじゃないかな。あっ、その人アイコンが自撮りだから見せてあげる。こんな人だよ」
そう言って女子はスマホを神無に差し出した。おそるおそるスマホを覗き込む。
「この人?」
そこに写っていたのは金髪の女性だった。
「そうそう。神無も気を付けてねー」
彼女は思わず拍子抜けした。そして、懸念が無くなった為、また先ほどのようなつまらない話題に再び移行する。
一しきり二人で語り合って一時間ほどもした頃合い、ようやく彼女らは帰路に就いた。空もそろそろ暗くなっている。
「じゃあまた明日」
「ばいばーい」
そう交わして二人は別れた。
彼女はそれから十五分と経たぬ内に帰宅した。ただいまーと呟くが、全く返答が無い。それもそのはず、下宿生の一人暮らしとはそういうものだ。はぁとため息をついて部屋の明かりを灯し、ベッドに仰向けになってスマホへ向かう。音が無い部屋はやはり何とも言えがたい空虚さが拭えないものであるのだろう。彼女はテレビのリモコンを手に取った。
「今先ほど届いた速報をお伝えします。デブス共和国外省部が、アメリカ合衆国政府並びに日本国政府との間で合意した事項を即時破棄し核兵器保持を復活すると発表しました。これ受け、アメリカのジョーカー大統領は事実上の宣戦布告であると表明。また、デブス共和国最高指導者であるアツ・ジョンチェン氏は日本を火の海にすると声明を発表――。あっ、ただいま入りました、中継です。亜法総理大臣による記者会見です!」
「えー、先ほどの声明を受けまして、我が国といたしましては非常に遺憾にであり、外交ルートを通じデブス共和国に強く抗議致します。デブス共和国に対し、我が国政府はジョーカー大統領と緊密に連携し、国際社会の規範に則って対峙していく方針でございます。国民の皆様を不安に陥れる脅威に対し、毅然とした対応で! 向き合って参ります。以上です」
会見から画面が切り替わり、デブス共和国の国営メディアのニュースの映像に移る。民族衣装を着た中年女性のアナウンサーが、独特の怒ってるかのような演技的な口調で原稿を読み上げる。
どうせいつものはったりとテンプレ、こんなの出来レースだ絶対。彼女はそう思い、テレビのチャンネルを変える。案の定、他のチャンネルでは下らない通販の番組が放送されている。先ほどの内容は画面上のテロップで小さく表示されているだけだ。
――誰もが、自身に迫りくる危機に慄くとは限らない。何故なら興味がないからだ――
幸福も不幸も無い人生に対する刺激などもはや刺激ではない。SNSを巡回するのに飽きた彼女はふと立ち上がり冷蔵庫へと向かった。微かにブーンと低い機械音を鳴らし続けるそれから五百ミリリットルの缶チューハイを取り出す。近年、合法麻薬とも呼ばれている代物だ。アルコール度数が九%ということもあり手っ取り早く酔うことができ、なおかつ二百円と安いのだ。彼女は勢いよく喉に流し込み、一息つく。少し間を置いて顔がほんのりと赤くなる。しかし、顔に酔いが表れるのは、彼女のコンプレックスだ。二十歳になった誕生日に友人と大学の近くの居酒屋に呑みに行った際、初めて飲酒して、顔が赤くなることを茶化されたからである。それ以来、家で一人で飲むことが癖になって現在に至る。静寂の中、孤独に飲むと何やら胸の中で蠢くものがすっと消えるように感じるのだ。
そうしている内、彼女がふと窓を見ると、夜の光景と相俟って彼女の顔が映っている。不美人ではないが美女ではないと昔からよく言われてきて、彼女自身そう思っていた。でも、少し頬がやつれた自分の顔を見て、彼女はまた再び缶を口へ運び、滝のように喉へと流し込んだ。
――誰もが誰もを信じない。自分さえも、鏡さえも。信じられるものは、信じるものなど無いという事実だけ――
眠気が彼女を襲う。
――大人はもう寝る時間。今や自分は甘い夢をみている少女ではない――
月明かりが照らす彼女の顔に表情は無かった。
2
それから一週間が過ぎた。朝ごはんも食べず、起きるなり散らばっていた服の中から無造作に選んで着て、薄化粧をし、家を出た。当然の如く、学校へ向かうのだ。ここ数日、一限に間に合わなかったり、授業をさぼりがちになっていたのだから今日くらいは思い立たねばならなかったのである。
向かう道中、潮風に当たりながら早歩きになる。人間墜ちると墜ち続けるというが、怠け癖はついたら払拭が結構めんどくさい。まるで阿片である。そう思ったところで時に立ち上がることすらできないこともあったが、今日はまだマシな方であろうと彼女は考えてた。一度生活のレベルを上げたり下げたりすると、そこから元に戻すことは非常に難しいものだ。彼女は先週の出来事などとっくに脳裏においやり、そんな下らないことを考えて歩いていた。すると、
「おっと」
誰かにぶつかったようだ。おそるおそる神無が顔を上げると、そこにはどこかで見たような顔があった。特徴のない顔で茶髪の男子が口を開いた。
「あらっ、もしかして……」
彼女は一瞬、戸惑う顔をしたがすぐにはっと気が付く。そう、あの授業の時の彼だ。なんとも言えない独特の微笑はすぐに思い出させた。
「あっ、この前の!」
「やっぱそうだよね」
偶然というものは突然に生じる。これは彼女にとっても、恐らく彼にとっても予想出来得る範囲内の出来事では無かっただろう。
「また後で」
「う、うん」
そう言って彼は素早く歩き去り、後に残ったのは、学生たちが歩く喧騒と波の音だけとなった。
それから数時間が経過し、学園歌のチャイムが構内に鳴り響いた。あと十分の後、五限が始まるのだ。四限が空きコマであった彼女は図書館のパソコンでゼミの課題を作っていたが、それも微妙なところで終わってしまった為、つい溜息をつく。だが、今から彼と一週間ぶりに再会する。
講義室に入ると、もう既に彼は前の方に座っていて、スマホをいじっていた。
「おっ、来たか」
彼はにこりとし、傍らに置いていた自分のリュックサックを自分の足元へと退かす。
「来るの早いね」
「意識高いから」
彼は軽口を叩く。講義室には続々と学生たちが入ってくるが、まだ騒がしくない。
「そういえば名前は?」
彼女が尋ねる。まだ互いに名前を知ってはいなかったのだ。
「そういやまだだったね。俺は赤月遊里、経済学部の二回。そっちは?」
「私は佐伯神無。あなたと同じ二回で文学部。よろしく」
軽く互いに自己紹介をした。そんな折、教授が最前列の席にレジュメを置きだした。
「取ってくるよ」
遊里がスマホを置きレジュメを取りに行って、一人になった席で、神無がふと置かれたスマホを見る。何やら外国語でメールを打っている最中だったのだろう。アルファベットではない文字で書かれていたので読めはしなかったが、かなりの長文である。スマホはすぐにスリープした。
「どうぞ」
遊里が戻ってきて、レジュメを神無の眼前に置いた。神無はありがとうと言い、レジュメを手に取る。
この国際構造論という厳めしい名の授業は誰にとっても分かりやすいものとは云い難かった。
「やばいやばい。全く分かんないわ」
遊里がそう呟き、笑いながら頭を抱える。
「授業この前のが初めてだったらそりゃ分かんないよね。でも、出席点無しテストだけで成績決まるから希望はまだあるんじゃない?」
しかし、神名のフォローはあまり効していない。
「おっ、いかにも意識高い系って感じ。ちゃんと授業受けてる人がいかにも言いそうなこと言うじゃん」
「そんなことないよー。頑張ったら大丈夫だよ」
「いやー、そうは言うけど、無理なもんは無理だって。だって見て。ここに日本語は書いてない。意味不明な単語の羅列ばっかり」
彼は小さい文字で論文の引用と思われる英語の長文を指差す。
「英語? 何それ美味しいのって感じ」
謙遜という調子ではなさそうだ。しかし、神無はなおもフォローする。
「でも英語くらいいけるでしょー。だってさっきメール外国語で打ってたじゃん」
その時、ふと遊里の顔から笑いが消えた。
「えっ?」
「…………」
音が渦巻く講義室の中で異様なるものがそこには在り、先ほどの好青年は神無の隣には座っていない。光の無い目をした彼に対し、どことなく背筋が冷たくなるものを神無は感じた。無言になった間を数秒置き、彼が口を開く。
「あぁ、あれは外国の通販サイトで注文していてね。翻訳サイト使ってただけだよ」
そう言った彼はもう爽やかな笑顔を取り戻していた。つられて神無も腑に落ちないながらも笑顔を浮かべ、そうなんだと相槌を打った。
そうこうしている内にチャイムが流れる。授業が開始されるのだ。だが、彼らにとってはこれはもう暇を持て余す時間ではなくなっていた。
3
一か月が経ち、そろそろ前期の単位認定試験が始まるという頃合となって、それに伴い神無は図書館に籠る日々が続いていた。だが、特筆することはこれだけではない。というのも、彼女にとって初となる他学部の友人を獲得したことは非常に大きい出来事と言えるであろう。
「よし! 間に合ったー」
チャイムが鳴る寸前、遊里が講義室へと入ってきた。入ってすぐの前方の席、神無が座っているいつもの定位置へと向かい、彼女の横へ腰を下ろした。彼女は待ってたとばかりに、彼の分のレジュメを差し出した。
「今日は珍しく遅かったね。いつもは私が来たらいるのに」
「寝過ごしたんだ」
週一度毎週会う彼は神無にとって気が置けるようになっていた。今や授業中だけの知人ではない。
「そういや、神無ちゃん最近よく図書館で見るね」
「だって家だと勉強できないし、図書館は集中できるんだよ。図書館で勉強しないの?」
「図書館には邪魔なものがあるんだ。あそこに置いている本さ。色々気になってるの多くて……。読んでると勉強どころじゃない」
そう言って遊里は自嘲気味に笑った。勉強しないとか嫌いとか言っても、興味がある分野は学びたくなるもの。神無は中学校時代の恩師の言葉を思い出す。そういうものなんだなと妙に納得する。
「さて、今日も勉強?」
神無をおちょくるような口調で彼が尋ねると、少しふてくされた感じの神無はいいやと呟き首を振った。それを見て彼は、
「じゃあさ、これ終わったらどっかに食べに行かない?」
突然の提案に神無は一瞬驚く。金銭的な事情もあってあまり外食しないが、人から誘われたらあまり断れない性質であることもあり、
「えっ、いいじゃん。行こう行こう! そういや一緒に行くの初めてだねー」
「よし、決まったな。ところで大学の近くに美味しいとこあったりする? 自分からふっといてなんだけど、あんまりこの近辺のお店に行かないから知らないんだよね」
神無は少し首を傾げ考え込む。何せ大学周辺は商店街があるがあまり活気がなく、いくつかある居酒屋がたまにサークルの打ち上げ場所になってたりするくらいだ。それから、ひとしきり間を置いて、
「うーん、思い付かないから終わったら歩いて探してみよう」
「オーケー」
その日、授業が終わるのはいつもより遅かった。何せ、教授が第三次世界大戦は必ず近いうちに起きるという持論を延々と語り出し、周りの誰もが呆れているにも関わらず勝手に白熱してしまったからだ。授業が終わり、校門を出た時には夏の空が既に夕日に包まれていた。
「えー、まぁそのー、いわゆるですねー、第三次世界大戦はー、集団安全保障の限界を超えて起こるー、ものなんですよー。日本もー、巻き込まれてー」
遊里が軽蔑する調子で教授の口調をまねした。地味に似ているもので、神無はくすっと笑った。
「ちょっとオーバーじゃない? もう少し穏やかだよ」
「いつもこの調子でしょ」
二人は校門を出て商店街へと歩き出した。校門を出て少しのところは海沿いの散歩道の先である。そこには釣り人と退廃的な紅さしかない。日の入りを迎えて訪れた夕焼け空は、二人を照らす。適度な距離感を取って風に吹かれるが如く足早に歩む二人は場違いなようであるが、気にする素振りは無い。行き先を定めずに歩くことは地獄へと繋がるなどと勿体ぶったことを言った偉人の声など忘却の彼方と言わんばかりである。
「あの商店街の居酒屋は二、三回行ったことあるけど神無ちゃんが気に入るって感じじゃないんだよねー」
「そうなの? あまりそういうとこ行かないけど」
「でも、だいぶ前に通りがかった時に、なんか美味しそうなとこあったけど、そこはいいかもしれないな」
遊里は目を輝かせ、少し自信を持った感じで言う。
「えっ、どんなの?」
「ロシア料理とかいうやつ。店頭のメニュー表見たけどビーフストロガノフとかいうのが好評だとかなんとか」
しかし、神無はそっぽを向いてあまり乗り気ではない様子である。それを見て、遊里は軽く咳払いをした。そして、
「ところでさ、神無ちゃんはお酒とか飲んだりする?」
先ほどと打って変わって、遊里が突如話題を変えた。神無は少し戸惑う。
「え、飲めないことはないけど、そんなに……。遊里は?」
「俺もそんな感じかな。なんか飲んでたら顔赤くなるからあんまり外で飲まないけど今日くらいは神無ちゃん次第でって考えてたんだ」
遊里が気恥ずかしそうに言ったのを神無は聞いて安堵する。彼に自身との共通点を見出したからだろう。それと、彼はあまり強い弱いという印象が無いので、意外な一面を知れたことは彼女の好奇心を軽く助長した。
「お酒飲んでる時、色んなこと教えて欲しいな」
「いいさ」
そのようにしてる内、二人は商店街へと到着した。やはり活気というのがあまり感じられないものだ。さらに日差しを避ける為のアーケードがある故に、先ほどの海辺の散歩道にあった爽涼な潮風が無く、少し物足りない感を後押ししている。そんな通りの左右に位置する店々を二人は見回した。
「どこもいまいちね」
二人は騒がしい雰囲気を求めていないから、いくつか立ち並ぶ大手チェーン系列の居酒屋はどこもなんとなく入るのを憚っていた。その時、
「一階だけしか見ないのはダメだね。自分より高い場所を見るのも大切なんだな」
遊里がぱっと指差した先は、建物の二階へと続く階段だった。そこに置かれたプレートには各種カクテルが用意していますと書いてある。
「これバーじゃない?」
「そうだね」
二人は立ち止まり、黙って向き合う。その短い静寂の後、先に口を開いたのは神無だった。
「行ってみよう!」
心躍るような感覚に突き動かされた神無は階段を駆け上がっていき、その後に遊里も続いた。
この手の店の入り口はどことなく入りにくい感じがするが、神無が恐る恐る扉を開ける。古めかしい木製の扉はキィィとあまり耳障りの良くない音を立てて彼らを内側へと誘った。すると同時に中にいる白髪の老練な印象のバーテンダーがいらっしゃいませと呟いた。店内の雰囲気は暗めで客は彼らを除き誰一人いない。ラジオから流れるサックスの音色が静かに響いている店内は重い空気が漂っていて、二人は自分たちが少々場違いなように思えた。彼らが店内を一瞥して店の奥側にあるテーブルへと着くと、バーテンダーがつかつかと歩いてきた。
「ご注文がお決まりでしたらお伺います」
しかし、遊里は気にせずに先ほどバーテンダーが立っていたカウンターを眺めていた。棚にずらりと陳列している酒瓶はウイスキー、ブランデー、ジン……数えきれないほどである。そんな中、神無はバーテンダーを待たせては悪いと思って口を開く。
「あのー、まだ決めかねてまして……」
「お決まりでしたらまたお呼び下さい」
バーテンダーは後ろを向き、カウンターへと向かおうとした。その時、
「スパークリングワインのハーフ何か置いてませんか?」
遊里が尋ねた。それを聞いて神無は少々驚く。彼女がメニュー表を見ると、ワインという文字はどこにも見当たらない。
「そうですね。シャンパンならモエ・エ・シャンドンを置いておりますが」
バーテンダーの返答を聞き、神無はいつもの缶チューハイを買いに行く酒屋の一角にある高額なワインコーナーを思い出した。モエ・エ・シャンドンはいつもそこに羅列してあるのだ。彼女はシャンパンと聞いて特に実感が湧かなかった。強いて持っているイメージは、金持ちが優雅に飲んでいる印象のみである。
「いいね」
遊里が右手でOKのサインをすると、バーテンダーはかしこまりましたと言ってカウンターへと戻って行った。
光よりも闇の比率が大きい店内は二人の緊張気味な男女を包みこんで離さない。二人はそろそろこの空気に慣れてきたのだろう。ぎこちない感じを振り切ろうとするかのように談笑が始まった。
「シャンパン飲んだことないんだよねー」
「じゃあ一回飲んでみたら? 飲んでみないと分かんないものも感じるだろうし。でも、どう感じるかは気分しだいかな」
「そうなんだ。この前、テレビ見てたら芸能人の豪邸行ってみようって番組あって、その家に置いてあったシャンパン何十万円もするとかなんとか。びっくりしたんだけどそういう感じがあるよね、シャンパンって」
神無が言うのを聞いて、遊里は肩をすくめる。その時、バーテンダーがカウンターからつかつかと足早に戻ってきた。彼の右手にはボトル、一方の左手には氷水が入ったシャンパンクーラーが握られていた。
「お待たせしました。モエ・エ・シャンドン、ロゼ・アンぺリアルのハーフボトルでございます」
バーテンダーはクーラーを机の上に置いた後、慣れた手つきでボトルのラベル上半分と栓を押さえている針金を取り外した。
「あっ、ちょっと待って。これは俺がやるよ」
遊里がボトルをバーテンダーから奪い、勢いよく栓を抜く。すると、弾けるような音がそれまで静寂に包まれていた店内に隕石が落ちた時の百万分の一ほどの小さな衝撃を与え、神無はびくっとした。そんな様子を尻目に遊里は抜いた栓を少し嗅いだ後、神無にグラスを持つよう促した。
「さぁ、どうぞ」
彼が神無のグラスに波々と注ぐと、薄い紅色の液体はグラスの中で発泡した。それを見た神無は感嘆した。
「あー、こういうのだよね、高級なお酒って」
「それは飲んでから言うべきじゃない?」
遊里が自分のグラスに酒を注ぎ終わると、神無はグラスを手に取った。これがなければならない理由など無いが彼らはやはり行うのだ。
「「乾杯!」」
硬質と硬質がぶつかり合う音がチリンと小さく鳴り響き、二人は酒を口へと運んだ。一口でグラスの三分の一ほどを喉頭へと送った神無に対し、遊里は半分ほどを飲みきった。二人とも酒が進むのは、夏の始まりの暑い時期がもたらす喉の渇きのせいだ。
「何とも言えず上品な味だね。美味しい!」
そう言って神無はもう一口とグラスに口をつけた。その様子を尻目に遊里はグラスを机に置いて二周ほど回す。
「そう思うのなら俺たちは本当に気が合うのかもな」
遊里は窓の外をちらりと眺めた。もう夜の空が現れている、黒いベールが覆うそこには星の一つも見当たらない。彼は何気なくため息を吐いて再びグラスを口へと運んだ。その頃、一杯分を飲みきった神無はグラスをテーブルに置いて頬杖をつき、彼が飲み終わるのを待っていた。彼が飲んでいる間、やはり店内にはBGMのサックスの音色以外の音は無かった。
数秒の後、遊里は飲み干すと口を開いた。
「色んなことを教えて欲しいとかさっき言ってたっけ?」
「特に焦る必要は無いでしょ? ゆっくり聞いていこうって思ってるし」
ボトルを手に取って遊里のグラスに注ぎこんだ。
「こっちもそのつもりだから」
彼は神無からボトルを取って彼女に返杯する。泡を立てながら最後の一滴まで出し切ってボトルは空となった。
「ハーフボトルって意外と少ないのね」
神無は少し不満そうに呟く。
「そりゃそうでしょ。三七五ミリリットルだから自動販売機とかで売ってる缶ビールとかと容量あんまり変わらないし」
「へー、そうなんだ。でもこれ度数ってどれくらいだろ……。えっ、十二パーセントもあるの?」
ボトルのラベルを見て驚く彼女に遊里は少し戸惑う。
「そういうもんよ。辛口のスパークリングワインって大体この程度が普通でしょ」
「私がいつも家で飲んでるストロング系のチューハイが九パーセントだから結構強くない⁉」
「そーいうのは酔いやすくする物質が入ってるから強いように感じるんだと思うな。ところで神無ちゃんは普段から宅飲みする感じなんだ」
二人とも顔に少し赤みを帯びてきた。酔いが回ってきているのは火を見るよりも明らかである。
神無は遊里の顔の赤みを見て安堵する。彼が行き道で言ってたことは嘘ではなかったからだ。何より自分との共通項を持つ者を見たことによる安心感があった。
「晩酌だけを頼りに生きてるんだから仕方ないでしょ。一人暮らしの下宿生は大体こういう人多いし」
「だよね。孤独感ってのは怖いよな」
彼らが大笑いしたその時にはグラスに中身は存在していなかった。飲み干されたことを確認して、それらを回収ようとさりげなくバーテンダーが奥からやってくるのを遊里は見計らっている。
「すいません、追加注文でモスコーミュールお願いします。神無ちゃんは?」
神無は一瞬だけ考えこんだが、
「じゃあ、私はスクリュードライバーを」
対抗するかのように遊里と同じウォッカベースのカクテルを注文した。
「かしこまりました。お二人ともお強いようで」
バーテンダーは薄ら笑いを浮かべて再び奥へと消えて行った。
それから大分時間が経ち、二人は教授や名の知れた芸能人に対する罵詈雑言を吐き出しながらこの一杯を飲んでいると、とてつもなく良い気分に思えていた。しかし、喋り疲れたのかそれにも飽きてきたようだ。このロングカクテルを飲み干すころには、二人とも既に酩酊の域に達しかけている。次の日に影響が出るか出ないかなど何も考えていない。人は何故飲むかという疑問を今の彼らに投げかけても無駄であると見える。
「あー、目が回ってきた感じ。ところで遊里君は彼女いるの?」
神無は呂律が回っておらず、机の上に突っ伏している。また一方の遊里も少しうつむき加減だ。
「高校の時以来いないんだよー。なんつーのかな、彼女よりも好きな人ができたらなーって願望が……。それより、今は彼女より単位の方が欲しいな」
「共感共感。リツイート百回くらいしたい」
「そんなこと言ってる神無ちゃんこそ彼氏いそうな気するんだけど」
「いたら一緒には来ないよ。ってか自分から振っといてなんだけどこの話したくない」
「まぁ、また気が向いたらいつでも聞くわ」
それから話が途切れ、また店内にはサックスの音色だけが響き渡る。神無が気まずそうにしているのを見て遊里はおもむろに立ち上がり、ふらつき加減で店の奥へ向かう。用を足しにいくのだろう。一人になった神無は暇をもてあそぶべく鞄からスマホを取り出した。いつものように彼女はSNSの巡回をしようとしていた。しかし、それは叶わないこととなる。日常は侵食されていたのだ。
「えぇっ⁉」
彼女が声を上げて驚くのは無理もない。何故なら、彼女の持つスマホの画面にはポップアップで衝撃的な表示が成されていたからだ。
「デブス共和国が……日本海上に向けてミサイルを発射?」
警報と写し出され、危険を呼びかける内容が書かれている。近頃のニュースなどで報道される話題だが、今の彼女にとっては他人事ではない。ミサイルの落下地点はこの町が面している海であり、数キロと離れていない地点であるのだ。彼女はしばらく前に家で見たニュースを思い出していた。あの時は単なるいつものはったり、遠くの出来事と思っていたのに今やいつ自分の頭上に落下してきてもおかしくない状況となっているのだ。正直、このミサイルのニュースで酔いは半分くらい覚めたようである。
これを見て、彼女の脳裏に数時間前に耳に入れた話が過った。それは第三次世界大戦が近いというものである。でも、先ほどの話はそれに信憑性を変に持たせてしまったようだ。そんな折、遊里が席へと戻ってきた。
「ちょっと! これ見てよ」
神無は遊里に見せると彼は目を丸くする。しかし、反応は薄くマジかとだけ呟いた。無関心とでも言うかのようである。
「いやいや、マジかじゃないでしょ。ここからそんなに離れていないところに落ちてるのよ。いつここに撃ち込まれてもおかしくないって書いてあるんだけど」
神無は彼の態度を見て少々興奮気味になっている。だが、彼は平常心というような調子を崩すことはなく、
「ミサイルが落ちたから何かある? 極論だけど人間はいつか死ぬ。ミサイルでも病気でも事故であれ、いつかは来るもんだろ。それにこんなのがのさばってるのは俺たちが生まれた時から定まっていた運命なんだ。高校の世界史で勉強しなかったか?」
気怠そうな彼の言動を聞いて、神無は考え込んだ。生まれた時から定まっていた運命……。彼女らが生まれた頃、世界は激動の時代を迎えていたことを思い出した。誰かから聞いたことだ。
かつて頭のネジが外れたどこぞの国の独裁者が世界を征服せんと大戦争を起こした。しかし、彼は敗北によって死を迎え世界は東西に二極化されて、世界の半分は赤く染まった。世界は崩壊の危機の一歩手前の状況で何十年も生き長らえたのだ。しかし結果的に東を支配した北の大国は自らの政体の為す矛盾に耐え切れず属国たちに見限られ自壊し、分極化された現在の世界秩序が構成された。それがちょうど彼女らがこの世に生を受ける十年ほど前の頃である。その結果、彼女らは現在において形式的な平和を享受しているはずだった。だが、崩壊は目に見えて始まるつつあるように誰もが感じている。落ちぶれた北の大国は再び立ち上がらんとするスパイ出身の大統領を迎えた。彼は表向きは民主主義国家で言論・選挙の自由は保障されているが、反体制派が何者かに暗殺されたりスキャンダルが頻発したりと物騒な国を作り上げて軍事力を強化し、かつての属国たちへ再び圧力をかけ、再国有化した豊富な地下資源の値段を吊り上げて国際秩序に挑戦せんとしている。その北の大陸と地続きの欧州は二度の世界大戦や冷戦を経てようやく連合体を作って合衆国の如く一つになったが、今一つ足並みがそろわず、最大の覇権国が連合を脱退してセルフ経済制裁な立場に陥ろうとしている。東の脅威が復活戦としているのにも関わらず。そんな状況の中で世界最大の経済大国、かつての西側の盟主は十年ほど前に石油利権を狙おうと中東の小国相手に戦争をしたが結局石油は発見されることなく国際社会における覇権を急激に失墜させ、景気は下がり世界中に大不況をまき散らした。それから大統領が交替したがこれは悲劇かもしれない。それというのも、新しく誕生したジョーカー大統領は自国が世界で優位に立つ唯一の国となることを公約に当選した戦争成金だった。政治の経験など一切無い上に国内外の自身に反対する勢力は他国の首相であろうと公然と侮辱し、核兵器を打ち込むかもしれないと毎日のようにツイッターなどSNSで主張している。そんな国に同盟国の多くは愛想を尽かして西側を脱退してしまった。これらの余波を日本だけが逃れられることは当然無いのである。かねてより日本と冷戦時代から対立する隣国デブス共和国は冷たい戦いが終わって友好関係を模索し、日本もそれを目指していた。しかし、彼らは自由主義社会になることを条件に日本から大量の円借款を受けたにも関わらず、約束を破って独裁体制を強化した上に世襲・個人崇拝を確立し、経済力で日本を追い越した上に無数の核兵器を生産して日本に照準を当てた。そんな国で数年前に独裁者が死亡し、その隠し子とされる若干十四歳の少年が国家のトップとなった。彼の代になってデブス共和国は日本との戦争を望んでいると国内外で言われている。しかもこの少年、アツ・ジョンチェン書記長は国外記者を前にした会見の度に世界中の処女を強姦したいと叫ぶ問題児で、一国の指導者たりえない人物であると西側メディアによって指摘されている。多くの国で女性が行方不明になる時、デブス共和国の陰謀という都市伝説が頻繁に挙がるのも無理も無い。そんな隣国を持つ日本は昨年政権交代が起こり国民から圧倒的な人気を誇った政治評論家である亜法氏が首相になった。しかし、亜法氏は公約の変更を唐突に主張したり、与党間の内部分裂を抑えられていないなど手腕に問題があり国民の多くは失望している。当然、国際問題も上手くまとめれるはずがなく軍事的に依存する米国との外交関係は急激に悪化、それに加えデブス共和国との対抗上必要な周辺諸国の反日感情をいたずらに刺激して国交断絶寸前となり、それら国々は今やデブス共和国との併合を望んでいるという。
今や世界が壊れかかっていることは誰の目でも分かる。誰もその現実を受け止めようともしない。傷とヒビだらけの地球はいつか何者かにアイスピックを突き立てられるだろう。なんかの授業でも言ってたが百年ごとにそういう状況になってやばい奴が現れるらしい。
「あの教授が言ってたこともあながち間違いじゃないかも」
神無はぼそっと呟く。そう、あの教授が言ってたこと――。
「第三次世界大戦が起こるってやつ?」
「それだよ」
顔色を変えずに答える遊里の悠然としたどことなく冷たい感じに神無は背筋が凍るのを感じた。それ飲んで忘れさろうとするもグラスがもう既に空になっていることを思い出した。
「もうこの話は終わり! もう一杯飲みましょ。なんか最後に良いのないかな?」
神無は無理に話題を変更して遊里に尋ねる。
「かなり飲んでるけど大丈夫?」
「だいじょーぶ。強さには自信あるし。ってか今さっきので酔い吹っ飛んじゃったんだけど」
「家に帰れなくなるぞ?」
「そんなに遠くないから問題ないよ」
遊里は少し心配そうに眠気眼の彼女を見つめる。
「最後だからストレートで強いの飲みたい」
「マジで。じゃあテキーラ頼んでみる?」
「飲みたいなぁ。今まで飲んだことないもん」
遊里は冗談のつもりで言ったようだが神無は真に受ける。彼は鳩が豆鉄砲をくらったという感じだった。しかし、すぐに不敵な笑みを浮かべて店の奥に向かって声を上げた。
「マスター! クエルボのゴールドをストレートで二つお願い!」
かしこまりましたとの返答と共にバーテンダーは冷蔵庫から瓶とショットグラス二つを取り出し、机へと向かってくる。机にショットグラスを置いて、バーテンダーは瓶の中の金色の液体を丁寧に注ぎ込み、
「アルコール度数四十度なので飲むときはお気をつけて」
軽い警告をするが二人とも聞く素振りは無い。
「こんなのただの水よ」
神無は自信ありげに言い放ち、目の位置までグラスを持ち上げてその中に写る彼の顔を眺めた。一方の彼もそれに気付いて同様にグラスを持ち上げ、彼女のグラスに軽くぶつけた。これは鐘の音かもしれない。彼女の脳裏に小学校の頃放課後に校庭で遊んでた思い出が過る。夕方には決まってチャイムが鳴ってそれを合図に学校を後にしている日々だった。
――けれど、それも過ぎし日のこと――
彼女は喉にテキーラを流し込むと、焼けるような感覚によって思い出はたちまち消えてしまった。飲み干したグラスを机に置いた時、遊里は立ち上がった。
「それじゃあお開きということで」
再びやってきたバーテンダーは今度は手に伝票を持っている。遊里は懐から財布を取り出す。
「お代は七千九百円になります。今後ともご贔屓を」
予想外に高かったことに驚く神無を尻目に遊里は財布から一万円札を取り出して会計を終えた。
「じゃあ行こうか」
待たせていた神無に呼びかけ扉を指差し、二人は千鳥足で扉へと向かった。その時、彼女はふと窓の外を眺める。満月が青白く輝きを放っており、神無は思わず見とれてしまった。普段月に引き寄せられることなどないのに今日という日は海の真上に君臨する楕円形のそれを目に焼き付けた。改めて彼女は今や酔っていることを再認識してしまい、扉の軋む音も耳に入らない。扉が開き大きな一歩を踏み出そうとする。
「あっ、危ない!」
遊里が突如として彼女の手を握った。彼女はびっくりして言葉が出ない。
「ちょっとどうしたの?」
「足元見ろよ」
彼の言われるままにして神無はある事実を思い出す。ここは二階にあって扉を出れば螺旋階段があるのだ。
「ああー! 忘れてた。遊里がいなかったら絶対転げ落ちてたやつじゃん。ほんとありがとー」
彼は神無を追い越して玄関を潜り、手すりを握りながらゆっくりと螺旋階段を下りだした。その後に神無は続く。
閑静ですっかり暗くなった商店街は人があまりいない。まばらに人通りはあるが、昼間に比べて活気は薄れている。そんな場所をふらふらと歩く二人は何か物足りなさそうにあたりを見回した。
「さて帰ろうかな。神無ちゃんは家どのあたり?」
「ここからまっすぐ行ったとこだから大丈夫だよ。あとは一人でいけるわ」
「いやー、酔っ払い女子を一人にはできないでしょ」
「お節介」
それから二人は商店街を抜け、白くこうこうと灯る街灯が頭上に幾多もある道を進んでいく。夜は初夏の暑さも軽減されるとはいえ涼しいと言えるものではない。神無は額の汗を拭った。
「今日はめっちゃ美味しかった。ごはん食べようとか言ってたのに結局空きっ腹で飲んじゃったけど。そういや私、遊里に自分の飲んだ分払ってなかったような? 四千円くらいだったよね……」
神無は財布を取り出そうとしたが、遊里は制した。
「いや、あれはレジュメ見せてもらったお礼ということに」
「えっ、ほんとに。じゃあ、次どっか行った時、私に払わせて」
「じゃあ今度は最高級フランス料理食べに行くか」
「すぐ調子乗るー」
月光の下わいわい大声で騒いでると、遊里はふと足を止める。
「そうだ。今思いついたんだけど……テスト終わって夏休みになったら花火大会行ってみない?」
彼は神無の瞳を食い入るように凝視した。どこか不敵な賭けをしようとしているその迫力に神無はひるみそうになる。彼女には遊里が何を考えているのか予想できない。
「えっ?」
「…………」
改めて二人は互いの顔を見つめることになる。神無は輝きの無い大きな瞳に少しこけた頬、そして赤毛のショートヘアーと人には覚えられやすい顔つきであり化粧をしていないせいかくっきりとしているように見える、一方の遊里の顔はやはり何度見ても特徴を捉えることが難しく、その眼差しの奥には何も無い。神無より十センチほど身長は高いだろうか。彼女を見下ろす彼の柔らかな茶色い髪が夜風に舞うと月明かりに照らされて目元に影がくっきりと浮き上がった。
「い、いいよ」
神無は深く考えなかった。いや、そうせざるを得なかった。何か考えると余計な妄想に取り憑かれてしまいそうだったのだ。でも、一度吐いたものは飲み込めない。彼女はどこか心騒ぐ感覚を覚えながらも一寸の期待を抱く。
「決まりね」
遊里は再び歩き出して少し早歩きになり、神無はその後ろを急ぎ気味で付いていった。気遣うように一瞬後ろを振り向いた彼と目を合わせるとそこに興奮の色があるように感じて彼女は確信する。これは間違いなく遊里が自身の好機を画策していると。だからか声が少し裏返ってしまう。
「そ、そういえばあれめっちゃ人多いとかなんとか聞いたけど……。あと……リア充ばっかりだとか」
一方の彼は平然としている。
「そりゃそうでしょ。それより家はこの辺?」
二人が団地が立ち並ぶ通りに出ると、神無はその場所に見覚えを感じた。いつも歩く通学路。ここからならもう酔っぱらいのボディーガードはいらないはず。彼女は視界内に下宿先が見つかると同時に頷き、それを確認して遊里は軽い別れの挨拶をして足早に闇の中へと去って行った。神無が振り向いた時にはそこにはもう誰もいない。
彼女はため息をつき、ゆっくりと自分の棟へと歩み出し、不意に公園の時計を眺めた。まだ九時を少し回ったくらい。しかし、七月の熱帯夜は涼しさの欠片も無くただ蝉の鳴き声しかない。彼が消えてから、先ほど飲んだ酒を反芻してしまい思わずむせ返りそうになる。途端に不安に脳が支配されるのは恐らく気のせいではない。とにかく彼女には多くの課題があるからだ。何というものではない。そろそろ来る期末試験もそう……つい最近バイトを辞めてから段々と切り崩している貯金……そんなことよりも、どこぞの北国のミサイルが今この瞬間にも頭上に落ちてきたら……。思わず頭上を見上げると一瞬流れ星が光ったのが見える。本当に流れ星かはともかく、願いは定まっていなかったのだ。そんなのを気にしている間にもう玄関を潜り、神無は孤独な部屋へと舞い戻った。妙に空気がひんやりしているのは冷房の消し忘れだろう。その事に安堵してベッドにうつ伏せとなると瞬時にブラックアウトしていく。その最中、一枚の紙が彼女の目に映った。
「あっ」
先ほど遊里が言ってた花火大会の広告だった。だが考える間もなく夢の世界へと引きずり込まれて彼女の瞼は静かに重くなっていった。月明かりが照らす紅の華は色褪せない……。
4
それから二週間が過ぎて、神無たち大学生の期末試験はようやく終了した。すなわち夏季休講期間いわゆる夏休みが幕を開けたということだ。ついこの間のぎすぎすした空気が嘘のように構内はダンスサークルや運動部の活気で満ちている。まるで皆、戦争が終わったかのようだ。
そんな中を神無が一人歩いていくのは、レポート作成の参考資料として借りた文献を図書館に返却する為である。だが、それも午後にある用事の暇潰しに過ぎない。照りつける日の下で熱気を我慢して歩き、横目で活動している学生たちの明るい様子を眺める。彼らの陽気さを目の当たりにして今朝の臨時ニュースで感じたような不安を忘れ平和を感じるのも束の間、彼女は後ろから肩を叩かれた。
「おはよー。神無ちゃんも学校来てたんだー」
同じ学部の女友達だった。走ってきたのだろうか、顔は汗で光っていて息が荒くなっている。
「あっ、おはよー。随分急いでるね」
「部活に遅刻しちゃいそうだから」
「大変そうだね。私なんか入ってないから全然わからないけど」
「いや、本当に。テストで全然寝てないんだから少しくらい寝坊しても多目に見てよって思うわ」
その会話の途中、女子は立ち止まって鞄から水筒を取り出した。それから一しきり飲んだあと、はーっと息を吐き出して神無に尋ねる。
「ところで彼氏できた?」
唐突にして直球な質問を受けて神無は戸惑いを隠せない。神無が戸惑えば戸惑うほど女子は興味の色を隠そうとせず、目をらんらんと輝かせ彼女に顔を近づける。神無は一瞬後ろに仰け反り、うーんと唸った。しかし女子は逃さないぞとでも言わんばかりである。
「今日何の日か私が忘れてるとでも思ってるの? 花火大会でしょ」
「う、うん……」
「いい浴衣着てるじゃん。マジでさ、かわいさ十三倍。普段全然服装に気を使わない神無が本気出してるってもしかして! これって! 恋?」
神無は思わず苦笑する。桃色で花の柄が付いた浴衣は少々歩きにくく歩幅が狭くなるが、女子が注目するように見栄えは言うまでもない出来だ。ただ、お世辞でもかわいいと言われて気を悪くする訳がない。彼女の声のトーンが少し大きくなる。
「もう! 言ってくれるね。ってか、部活に遅刻するんじゃないの?」
「そうやって追い払おうとする~。まぁ、また話聞かせて頂戴ね。ばいばーい」
女子が走り去って神無は一息つく。女性の勘は侮ることができないもの――いや、誰でも分かることか、ましてや自分みたいなのが突然めかしこんだら。彼女が退廃的な笑みを浮かべた時には図書館は眼前まで来ていた。その図書館の前では何やら大人数の団体が横断幕や拡声器を持って何やら騒いでいる。いわゆる市民団体とかいうやつだろう。最近、このような人々がこころなしか増えているように神無は感じていたが無関心からぶれることはない。それは信念ではなく考える気力が無駄であるからだ。そしていつものように通り過ぎようとするが近距離で耳が張り裂けんばかりの大音量で無理に聞かせようとするのを避けることは出来ない。
「近年、軍事的脅威を拡大しているデブス共和国。この国は工作員を使い、善良で無垢な我が国の人々を数えきれないほど拉致してきました。彼らはある日突然見知らぬ国に連れ去られ、人権を奪われ下品な幼い独裁者に弄ばれ、今も帰りを待ち望んでいます。工作員は今あなたのとなりにいるかもしれません。一刻も早い奪還に向け、皆様のご支援どうかよろしくおねがいします。また、拉致の事実を認めないデブス共和国に、そして追究に及び腰な日本政府に対し毅然とした態度を取って――」
団体の誰かが差し出してきたパンフレットを受け取らず、図書館へと入っていく神無は内心彼らを馬鹿にしていた。力無き正義など無意味でしかない。その裏付けがあって正義は正義になるのだ。享受する平和の中でしかこのようなことは成し遂げれないだろう、だがそれは彼女も例外ではない。誰にも気づかれずこの世界の空気は間違いなく重く暗いものになっていて、気付けばもはや手遅れになってしまうところまで来ても誰も立ち上がることはないだろう。その毒に侵されて敗北主義者になっていることにすら感覚を覚えない奇妙な現象に身を委ねるのだ。人間の本当の敵はある日牙を剥く人工知能や自然災害でもなく、現実そのものなのだから。朝のニュースでは国際情勢を他人事のように報じて、もし飛翔物が飛んできた時の為にできるだけ人の密集しているところに行かず自分の家にいましょうと言っているだけだった。誰がその通りにするというのだろうか。誰も何も考えていない。そうした不信が自分のような馬鹿どもを養っているのだと神無は考えていた。
図書館に入って喧騒から逃れるとそこが至福の空間であるかのように神無は感じていた。閑静は時に安堵と不安をもたらすが今回は前者だろう。本を返却し、殺風景な本棚の間をかい潜るとつい先日までの人の多さが嘘のようにがらんとしている。神社は正月が終わると参拝者が十分の一に減ると言うが大差は無い。だが、やはり一定の需要はあるのだろう、だから成り立つのだ。見渡すとまばらに何故いるのか分からない人々が音一つ立てずに読書している。そんな折、前から背の高い金髪の女性が歩いてきた。
「あっ、どうもどうも~。夏休みなのに図書館で勉強しにきたのかな? 偉いね~」
半笑いで気さくな様子である。彼女は右手でスマホをいじりながら神無に喋りかけた。不審者という印象を抱かせず、神無は驚くも恐怖は感じなかった。
「私ね、最近この学校に編入しちゃってー。知り合いを増やしていきたいなーって考えててさ。良ければLINE交換とかしたいなーって思ってるんだけどどうかな?」
金髪女性は一歩身を乗り出して神無に迫った。その様子に嫌とは言えないものだ。神無は力なくはいっと呟いて自身のスマホを取り出し、金髪女性はその画面を覗き込む。
「もしかして佐伯神無さん?」
「そ、そうですけど……?」
女性が突然自分の名前を口にしたことに神無は戸惑った。女性は一瞬だけ無表情になって自らのスマホの画面を食い入るように眺め、
「いや、もう既に持ってたよ。ごめんごめん。では」
すぐに元の半笑いに戻りそのまま立ち去って行った。その後ろ姿を目で追い、神無は呆気にとられる。学内で同じ学部の友人や遊里以外に教えたことがない自分のLINEを何故彼女が持っていたのかは謎であったが、神無はそれ以上にこの急な展開に茫然とせざるを得ないが、ふと気を取り直して元の目的、即ち時を過ごさんと近くに置いてあった本を片手に机へと向かうこととなった。
数時間の後、空は段々と夕闇が差してくる。そろそろだろうか。神無が時計を覗き込むと一八時を指そうとしている。おもむろに立ち上がって、冷房の効いた空間を後にし、重苦しくゆっくりと開く入口の自動ドアを潜るとそこにはもう既に彼が到着していた。
「やぁ」
黒一色の浴衣に身を包んだ遊里は今までになくにこやかで清純な印象を与える感じであった。神無が着ている明るい色のものと対比的であるように思える。近くのコンビニで買ったのであろう缶や菓子を詰め込んだビニール袋を片手に持ち、ゆらゆらと揺らしてる。
「じゃあ、そろそろ行く? やっぱり混んでるのかな」
「駅の方に向かってる人がちらほらって感じかな。でも、始まるまでまだ時間あるから大丈夫だよ、多分」
遊里は空いた手を神無に差し出すと彼女は反射的に握った。この前に飲みに行った時は酔ってて気づいていなかったが、彼の手は冷たさが支配している、とても体温を感じず夏の暑い空の下で汗一つ無くひんやりとしたそれが何となく爬虫類的な何かのように彼女は思えたが、今さら手を放すことは出来ない。二人は横に並んで歩き出し、そのまま構内をそそくさと抜け出した。
商店街とは反対方向に向かい、駅へと続く道にある並木通りには独特の夏の匂いが香っているが二人の鼻をくすぐるこ普段より今の神無の口数が少なくなっているのは明白で、遊里もそれを認識しているが自分からぺらぺらと話しかけるのを躊躇しているように見える。
「いや、何ていうかさ……」
彼は何を喋りかけようとして口ごもり、神無が彼の目を見ようとするとさっと逸らした。その様子に神無は少々の不満を顔に隠そうとせずうつむき加減になってしまう。それを見て遊里もミステイクを意識し、何とか調子に乗せようとする。
「夏休みになったけどバイトとかしようかなーっとか思ったりしてるんだけど……神無ちゃんはしないの?」
「全くもってする気無いよ」
素っ気なく返され、気まずさが二人の間の十センチメートルに穏やかに浸透し始めている。これが壁となるのは時間の問題であろうか。神無もこれを打開する気は無いわけではないが、緊張にはあまり耐性が無い以上どうすることもできず挟み撃ちになっているような感覚に心地の悪さを感じざるを得ない。今までこういう時は酒の力を借りて乗り切ったりしたが、普段よりも突然明るくなる自分を後で振り返ってしらふの自分に劣等感を感じたりするからそれは解決ではなかった、疑似解決に過ぎない。それ以前に今は酒が無いのである。神無は思わず顔を赤らめる。
「どうかした?」
「…………」
遊里の問いに黙秘権を行使するのは一番手っ取り早い方法だからだろう。だが、それが永遠に続くわけではないことくらいとっくに分かっているのである。だからこそ彼女は模索している。そして出た言葉が、
「ねぇ……」
「…………」
ぬるい風が二人の間を通り過ぎて結局何も進展は無く、そんな調子で歩き続けて町の中心までやってきた。ちらほらと浴衣湯型の人々や子供たちの姿が増えてくるのを見て、初めて祭りなんだというように感じ得るもの。神無は記憶を辿って最後に夏祭りに行って花火を見た時のことを思い返した。中学時代もそうだった。波のような怒涛の人混みをかき分け、屋台の行列に嫌気を感じながらも並び、行き交う人々に押し潰されながら花火の写真を撮るのに苦労した思い出を振り返る。祭りの最後は物足りなさを感じながら友達と別れ、とぼとぼと一人家へと暗い道のりを歩いて、思っていたのと違うと感じながら疲れ果てて寝床へと沈みこんで以来の花火大会はどうなるのか、そんなことを考えても仕方がないだろう。
「ねぇ! 今思ったんだけどさ」
意を決して彼女は口を開いた。予期せぬ彼女の強気な口調に遊里はたじろぐ素振りを見せるが、すぐに平静を装い彼女に耳を傾ける。
「ああいうの人混みすごいから、どこか静かな所で見るっていうのは良くない?」
駅の目前で彼らは進撃を停止する。からんころんと行きかう人々の下駄の音があたりを包み込む中、二人は異なる空気を享受するのは当然だろう。何故、口走ったのか神無すら分かっていなかった。言って良かったのか、言わない方が良かったのか。そんなことを考えるのは愚の骨頂なのだ。彼女は彼の反応を見ることを優先した。だが、彼は特に表情を変えることはなく袖からスマートフォンを取り出し何かを詮索している。
「あっ」
遊里が呟くと同時に半笑いを浮かべる。
「丁度いい所がそう遠くない場所にあったの思い出したわ。潮風に当たりに行くかい?」
「もしかして海?」
「その通り」
遊里は駅へと足早に入っていき、神無もその後に続く。まだまだ打ち上がるまで時間がある。
「人が密集している所だと、どこぞの国がミサイル落としてくるかもだしな。しかも火薬庫だから文字通り火の海になっちまうさ」
彼女は遊里の冗談に苦笑しつつ先ほどの遊里の半笑いにどこか不安な心当たりを浮かべたが、果たしてそれが何なのか思い出せないでいた。
5
満員の電車は車体を揺らしながら音を立てて進んでいた。スマホに食い入る会社帰りのサラリーマン、賑やかに談笑する女子高生ち……乗客は多種多様である。その中で、違和感無く溶け込んでいる二人は暗さを増していく空を眺めていた。もう乗車から長い時間が経とうとする。
電車というものは意外にも退屈にさせない要素があり、周囲の人々に車窓、BGM代わりになる周囲の喧騒。それらは無駄なものではない。しかし、今の神無はそれらに関心を持たず、ふと横目に遊里をちら見する。手すりを握りながら、射るように車窓から外の景色を眺める彼の視線の先には碧く碧く海が広がっていた。思わず神無もその光景に釘付けになるが、遠慮なく横槍が入る。
「次で降りるよ」
それから間もなくして、列車が止まった。ドアが開くと同時に、冷房が効いた車内に勢いよく熱気が流れ込み二人は思わず外に出るのを躊躇いそうになる。だが、ひるむことは無い。この海辺の小さな駅には彼ら以外に人は多くなく、それらはこの近辺の住民と受け取れる。ここから四駅先が花火大会の会場だからそこに至るまでに降りる客は当然少ない。二人は改札を出て、そこから一直線にただ北へ北へと歩いていく。歩き続けること一五分くらいだろうか。日本海はすぐそこであり、多数のヨットが停泊しているマリーナが彼らの前に現れた。
「着いたー!」
遊里が機嫌良さげに声を上げた。神無が物珍し気に周囲を見渡す中、彼は近くのベンチに腰掛けコンビニの袋から缶チューハイや菓子を取り出した。このだだっ広いマリーナには彼ら以外に人の姿はなく閑散とし、穏やかな波の音が仄かに聞こえるくらいである。
「わー、すごい! こんなとこあったんだねー」
「たまに海見たい時ここに来るんだよな。ここなら多分人もあんまり来ないでしょ」
彼が指さした空はもう日の入りである。恐らく、黒一色になるのもそろそろだろう。神無は遊里の隣に腰掛け、缶チューハイを手に取った。
「「乾杯」」
グラスと違い、缶はぶつけても響くような音はしない。二人がプルタブを開けると、弾けるような音がして泡が飛び出しそれもすぐに二人の喉元へと消えてゆく。ゴクリと液体が喉を通る音がした。
「あんまりペース早かったらすぐに潰れるよ」
「大丈夫、大丈夫」
遊里が少しだけ口をつけたのに対して、彼女は勢いよく喉に酒を流し込む。味わうというよりも、喉の渇きを潤したいというよりも、ただ酔いたいのだろう。彼女は少し良い気分になったと同時に自身の顔が少し火照ったことにも気付いた。
「花火が上がるまで潰れはしないよ。潰れたら遊里に何されるか分かんないしね」
それを聞いて遊里は小馬鹿にしたように笑う。
「そんなことするかもしれない奴とよく一緒に花火見に行こうって思うよな」
彼はそう言って何かに気づいたかのようにスマホを取り出した。遊里が画面を食い入るように見つめた一方で、神無はふと返す言葉を失った。
数秒の沈黙の後、彼はぽつりと呟く。
「二十年人生を送ってきて神無ちゃんみたいな人は初めて見た」
何か言おうとしたのに何を言おうとしたのか忘れることは時々ある。しかし、神無は思い出そうという気概すら面倒に思えていた。気付いたら缶を口元に運んでおり、飲み干すと一息つく。思わず自分の息がアルコールの匂いを帯びていることに気づいて蒸し返しそうになった。
彼女は毎晩就寝前に深酒しているから自分は酒に強いという自負を強がっているが、その一方でそれだけを一日の楽しみにしている自分の弱さを内心嘲っていた。ふと思い出しそうになって彼女は静かに口を開く。
「思えば……」
「何?」
「不幸な人生だったよ」
その時、夜空のキャンバスに華が咲き、パァアンと火薬が弾ける音がした。花火は一瞬で消えたが、また一つまた一つと現れてその度、赤や緑の光で二人を照らす。遊里がスマホから目を離してじっと彼女の目を見つめると、一筋の滴がつーっと線を描いて落ちていった。
6
二人は再び酒を飲み出した。人のいないマリーナから見える花火はそう近くはなかったが大きく見えていて、あたりを彩っていた。
「たとえ不幸だったとしてもそれは神無ちゃんだけじゃない。人生は色々。百人の人間がいれば百の物語がある。それが喜劇であれ悲劇であれ、どれも必ずしも無価値じゃないさ」
遊里が流すように言うと、それは神無の琴線に触れたようだ。
「うん、色々だよね。でも、私は誰かとどっちが惨めかなんて比べ合いをするような人間じゃないよ。辛いものだって人それぞれなんだから。遊里だって人に言えないような辛いことは沢山あるでしょ」
「あったけど忘れたね。一日一日死ぬのが近づいているのに、限られた時間をそんな下らない思い出に縛られるつもりはないからな」
「私は忘れない」
「だから酒浸りなんじゃないのか」
遊里は強い口調であり、その言葉を聞いて神無は大きく目を見開く。返す言葉を思わず失った彼女は酩酊した脳に血が昇るのを感じた。
「私、そんなに飲んでない!」
本当は違うことを言おうとしていたようだが、瞬発的に口から出たのはクズ人間が咎められた時に必ず言う台詞だった。
「まぁ、いいじゃん」
遊里は少し申し訳なさそうな様子である。
二人がそうこうしている間にも花火は何発も打ち上がってカラフルに夜空を染め上げている。神無はそれを見ながらおもむろに立ち上がり、近くにある海辺の柵まで歩いて行った。ふと水面を見たくなったようだ。水面にも花火は映えており、彼女の顔もそこに映し出されている。その顔は幸福も不幸もなさそうな顔であった。
「遊里もおいでよ」
彼は呼びかけられて、何だよと面倒くさそうに呟き気怠そうにベンチから離れた。少し千鳥足で転びそうになっている。
そうして、ようやく彼女の隣まで来た彼の手に突如、暖かい感触が走った。彼はすぐに気付く。神無の掌のぬくもりだった。
「何となくここの方が見やすい気がして」
「そうかも」
しばらくそこで二人は眺めていたが、時間が経つのは早い。そろそろフィナーレに突入しようとしている。どこか物足りない様子の彼らだったが、神無は何かを思い出したかのように口を開く。
「私、さっき不幸な人生だったって言ったよね」
「うん」
「それは何者にもなれなかったからだと思うの」
「何者……?」
「うん、小さい頃から大きい夢があってね。将来、日本最初の女性の総理大臣になるっていう感じ」
それを聞いて遊里は飲んでいた酒を吹き出した。あまりに滑稽だったからだろう。しかし、神無の方は真顔だ。
「いや、子どものころは大真面目にそんなこと考えていたの。夢は叶えなきゃってネズミが出てくるアニメでも言ってたでしょ。多分、それを本気にしてさ」
遊里が甲高い声でハハッと何かを真似たような笑い声を上げると、それに釣られて神無は少し笑みを浮かべる。
「だからさ、その為に色んな本も読んだし友達が遊んでる時もずっと勉強してきて子どもの時は成績も良くて高校もいいとこに行ったんだけど、でもその後はなんかどれだけ頑張っても成績も上がらなくなっちゃって。で、この日本海沿いの馬鹿な大学にいつの間にか入ってて、夢がどこかに吹き飛んじゃったって感じで。こうして今までやってきたことは全部パーになっちゃったっていう笑えない物語を送って、その後幸せになれるはずないでしょ。まぁ、この大学に来たから親の元を離れることができたのが幸いだったけど。あの人たちがいたら人生の全てに干渉される」
「夢が消えたわけじゃなくて忘れているだけさ」
「そうかな。お酒飲み過ぎて忘れたのかも」
「飲むの止めれば」
「もう遅いよ」
神無は二本目のチューハイの缶のプルタブを開け、口元へと運んだ。
「大学生になってからは漠然とただの一般人になりたいって思って。総理大臣から大きくグレードが落ちたけど。車の免許取ったり、中華料理屋でアルバイトしたり、暇つぶしで小説を書いたり、ボランティアの部活に入ったり彼氏作ったりで、それが普通の幸せなんじゃないかなーって思ってた時期が去年くらいでね」
「色んなことにチャレンジしてんじゃん」
「でも、やる気がなくなってバイトも辞めたし、去年の夏休みに先輩に連れられて合宿に行ったんだけど先輩たちが永遠に一発ネタし続けるっていう意味不明な行事でこんな部活入った意味ないって思って辞めた。小説もね、題名すらもはや覚えていないんだけど涙味のなんとかってのだったっけな、苦労して書いたの。それを出版社主催の新人賞に応募したけど音沙汰なし。で、人生で初めて好きになった人にはお前メンヘラっぽいから消えろとか言われて一方的に別れを切り出されて、それから一週間後に私なんかと違ってもっときゃぴきゃぴした女子と一緒に歩いてるのを見た。そのくせツイッターで自分性格いいんだとか言ってて最悪だった」
神無は饒舌になる一方で呂律があまり回っていない。眠気眼を拳でごしごしとこすってまだ喋り足りないと言わんばかりである。
「まだ人生で何もしていないのに灰になりたくない。でも、最近は北からミサイルが飛んでくるとか皆言ってるよね。こんな人生を送ってきたからそのしっぺ返しかもしれない。あっけなく散ってしまうかな」
遊里はじっと聞いていて時折うんうんと頷いていた。
「何者にもなれなかったわけじゃないと思うよ」
「えっ……」
遊里は神無に向き直る。その眼差しはいつになく真剣であり、普段の彼の様子とは大きく異なっていた。
「無菌室の試験管で培養させられたでもない限り人生は試行錯誤の連続だろ。そうやって良いことも悪いことも色々と経験して良い人間になっていくんじゃない? 今、目の前にいる神無ちゃんは卑下するような人間ではないよ、例えどんなことがあろうと」
「でも……」
「大切なのは自分が自分であること。それをちゃんと持ったらそれでいいんじゃないかな。その為だったら何をしてもどんな結果になって大丈夫さ」
その時、花火が一斉に上がった。色とりどりの菊の花びらが満開になり、二人の顔が明るくなる。
「そう言ってくれたのは遊里が初めてだよ」
「他の奴は面等向かって言ってなかっただけだろう」
しばらく二人は圧巻の花火に目を奪われた。青や赤、緑、黄色――。空はどんどん描かれていく。もう終わりであろう。
「綺麗だー!」
「私が?」
遊里の感嘆に神無は冗談を投げかけた。それを聞いて彼は何かを思い出す。
「そうそう、だいぶ前から思ってたんだけど」
「何?」
遊里は酒を一気に飲み干し、
「いや、その、神無ちゃんは綺麗だなーって。特に酔っている時」
神無が驚かないはずがない。
「突然何言ってるの」
「振ってきたのは神無ちゃんだろ」
花火は終わったが二人はまだその場から去ろうとしなかった。残った酒をしこたま飲んでいたのだ。
泥酔一歩手前の神無が、人間の人生は花火のようだ、パッと咲いてパッと散る、散っても次から次へとまた花が咲くなどと持論を展開し続けて数十分時間が経った。遊里もそれは一理あると思っていた。
「千年受け継がれる想い、一瞬の美」
「かっこいいこと言うね」
「ってかそろそろ帰ろう。神無ちゃんお持ち帰りされちゃうよ」
「遊里にだったらお持ち帰りされてもいいよ」
「本気か?」
遊里は笑いながら袋から何かを取り出した。
「何これ」
「見たら分かるさ」
彼は空き缶に一本の細長い針金のようなものを入れ、その先端にライターで火をつけた。ひゅるると音がして、針金は空へと打ち上がって破裂音を鳴らした。
「俺たちのミサイルだ!」
神無はそれを見ながら眠気と戦っていた。だが、睡魔は彼女より強い。最後に咲いた一輪の華を閉じていく目に焼き付け、そのまま意識を失っていった。この瞬間がいつまでも続けばいいのにと思いながら。
7
神無は生ぬるい潮風の匂いで目が覚め、自分の体がゆらゆらと揺れていることに気が付いた。ここは一体どこかと思いながら辺りを見回すと、辺りはライトの明かり以外は暗闇であり時折水が跳ねる音がする。海。彼女はすぐに理解した。そして、立ち上がろうとするも足が麻縄で縛られており、また手首も同様であった。自分の置かれた状況に戸惑い、彼女が頭に思い浮かべたのは遊里のことだった。
彼女は恐怖で声を出せずにいると、聞き覚えのある声を耳にした。だが、それは朝のテレビで時折耳にする某国のアナウンサーの如く独特のアクセントを持った外国語である。遊里が喋っているのは確実に日本語ではない。彼は目が覚めた神無に気付き、スマホを置いて彼女のほうへ近付いてきた。
「目が覚めたか」
彼の顔にはぞっとするほど表情がなく、その瞳の奥には果てしない闇が広がっていた。神無は瞬間、悪魔を見たような感覚を覚えた。
「これは一体……。私に何をしたの!」
神無が叫ぶと遊里は無表情のまま手に持った黒い物体を彼女に向けた。ドラマによく出てくるそれである、見れば誰でも分かる。拳銃と呼ばれるものだ。銃の側面にはСССРという文字が浮いている。旧ソ連製のものであろうと思われる。
「何をしただと? お前をお持ち帰りさせてもらうだけさ。我々の地上の楽園へ連れてってやる」
地上の楽園、それを聞いて彼女にピンとくるものがあった。あのデブス共和国が自国を表現する時に使う言葉である。彼はもしや……。彼女がそう思った時、彼の無表情な顔を前に見たのを思い出した。授業で会った際に彼が外国語のメールを打っていたことを尋ねた時のそれだ。デブス共和国。それで彼女は今、自分が何をされるか直感で感じた。
「遊里は工作員だったの? 拉致するのね」
「工作員とは聞こえが悪いな。我々は祖国に尽くす労働英雄だ。拉致といってるが、我々はそれを解放と呼んでいる」
遊里は淡々とロボットのように答える。今の彼には情の欠片も感じられない。神無は自分を縛る麻縄を解こうとあがいたが無駄であった。頑丈なそれはあがけばあがくほど手足に食い込んでくる。
「無駄だ。どいつもこいつも最初はそういう風にするが、そのうち不可能を知って泣き出す」
「どいつもこいつも? 今まで沢山の人をこういう風に攫ってきたのね」
神無は感情が高ぶる。
「日本の警察は世界でもトップレベルで優秀なのよ。あんたもいつかすぐに捕まるわ。私を拉致して何をするか知らないけど、すぐに周りが気付くに決まってる」
しかし、遊里は耳を貸すそぶりはなくその表情は全く変わらない。
「馬鹿か。日本人とはいえ本当に馬鹿だな。警察がいくら優秀でも警察を動かすこの国の政治家どもが無能ばっかりだったら意味がないだろ。奴らの中に俺たちの犬が大量にいるからな」
それを聞いて神無は何を言ってるのと返すが、なおも遊里は続ける。
「お前らの曾祖父たちが昔、我々の国に何をしたか知らないわけがないよな。この国の馬鹿どもは罪悪感を持ってる奴が多いからありがたい。お陰様で俺たちにへこへこしてくるし、いくら理不尽な糾弾をしてもすいませんってな。時折、追及してこようとしてくる政治家がいるが、そんな奴も人間なんだよ。金をやればなびくし、どうしても話が分からない奴でも若い女をあてがったりすれば俺たちにひれ伏してくる。最悪の場合、我々がすれかわってしまえばいい」
遊里は神無の髪を掴み、そのままずるずると引きずった。神無は抵抗するも、遊里の力には敵わない。
「見ろ、日本海だ。これで見納めになるだろう。そろそろこの国の領海を出る。お前はその瞬間から佐伯神無ではなくなる。お前は一人暮らしで家族とも仲が悪いし、友達も多くないんだよな。誰もお前を見つけようとする者はいない。でも、佐伯神無は新たに用意する。戸籍と携帯電話と免許証は我々が貸していただく。それさえあれば誰でもお前になれる。市井の日本人どもは解放に気付かない。だから今やそうやってすり替わった我々は何千人にものぼる。お前の学校にも大勢いるんだよ」
遊里は操縦桿を握った。神無はその瞬間にも多くのことを思い出していた、初めて遊里が喋りかけてきたこと、一緒にBARで酒を飲んだこと。浴衣をほめてもらったり、自分のことを綺麗だと言ってもらったこと……。全てが崩れ去った。
「私は……」
彼女は震える声を振り絞る。
「遊里のことを好きだったのに! 遊里は私のことを好きになってくれた初めての人だと思ってたから信じたのよ!」
それを聞いて遊里は一瞬たじろいだ。だが、
「信じる奴が悪い」
すぐに無表情に戻った。
「まぁ、せっかく好きになってくれた礼でお前がこれからどうなるか教えてやる。我らが保安部がお前の人間としての価値を審査し、どこに配属するか決定する。我々を育成するための日本語の教員、核ミサイルを作るための要員、知恵がある奴は重宝してやる。だが、何の取り柄もない奴らは我らが偉大なる同志がうたわれる人民平等を原則とした社会主義思想を叩き込んでデブス共和国人民に改造する。まぁ、若い女は同志に体を捧げることになるかもな。健康な跡継ぎを生むためだ」
ニュースで流れてくるアツ・ジョンチェン書記長を彼女は思い浮かべた。あの茶髪で眼鏡をかけた少年のことだろう。
「絶対嫌!」
「なら強姦されるだけだ。お前の意思など我らが国では風船より軽い」
「何が地上の楽園よ! あんたたちは一体何がしたいのよ」
思いっきり声を張り上げる神無は遊里を睨みつける。船で見て初めて、彼が笑みを見せた。だが、それは世界を破滅に導く死神のような邪悪な笑みであった。
「この国を壊すんだ」
口角は上がっているが、彼の眼は血走っており笑っていない。
「我々が日本人に成りすます理由は一つしかない。この国がデブス共和国に到底敵わない三流国に貶める為さ。我々は教育やマスコミ、ギャンブルの現場にはどこにでもいる。この三つを支配できれば、この国が強くなれた最大の所以を粉々に破壊することができるんだからな」
「それは……」
「お前らの国を愛する心だ!」
遊里は叫んだ。
「教師どもが自分らの先祖の悪口を歴史や道徳の授業で言いまくったり、程度の低い教育を推進してただろ、都合の悪い政治家の発言にケチをつけてテレビや新聞で叩かせれば辞めさせることもできるし、我々の犬を応援させれば当選する。何故あんな亜法が総理大臣になれたと思う? 我々のおかげさ。奴を支援する市民団体も我々が動かしている。あとお前らは必至で働いても、裕福になれない奴多いよな。我々が頂いているからだ。幸い日本には無気力な若者が多い。奴らが餌食だ。ギャンブルははまりやすく絶対に抜けられない合法薬物だ」
「日本人を舐めるなっ。絶対に立ち上がる」
「今更何を言ってる。我々の努力で日本人どもはみんな馬鹿になってくれた。何よりお前が俺にほいほいとついて来て今ここにいることがその証左だ。近い内、我々は日本解放戦争を開始するつもりだ。必ず勝てるからさ。この国は属国になるだろう。だってお前みたいな無気力な国民ばっかりで国の危機に立ち向かうことは出来ないからな」
「そんなことは国際社会が許さない」
「ならば世界を血の色に染める。ニューヨークにもワシントンD・Cにも東京にも核ミサイルを打ち込んでやるさ! どうせ世界が壊れかかっているのだから引き金を引いてしまえばいいだけだ」
今や、遊里は死神だと神無は感じた。何か言い返そうにももう言葉が出てこない。自分が連れて行かれ日本が壊れることも現実で、諦めるしかないと思っていた。でも、最後にどうしても聞きたいことがあった。
「なんで私を拉致する人間に選んだの? もしかして最初からそのつもりで……」
遊里はそれを聞いて嘲笑する。
「偶然目に入ったから選んでやったなんてわけないだろ。これは運命だ。君が何の気力も持たず酒に溺れて日々を怠惰に過ごすカス人間だからだ。下調べした後、あの下らない授業で一目見た時から分かってた。案の定、話しかけたら無防備の極みでさすがの俺もびっくりしたよ。それにしてもつくづく不幸な人生を送ってきたな。さっきお前の身の上話を聞いてる時、心の中で大笑いしてたよ。器の小さい人間だなって。亜法よりもこの国の総理大臣に向いてると思ったよ」
その瞬間、神無の中で何かが弾き飛んだ。手足に全身全霊の力を入れると麻縄は音を立ててちぎれ、彼女は眼前の遊里へと飛びかかる。彼女は彼の顔面に平手打ちをした。痛そうな音が響き遊里は突然のことに動揺を隠せないでいたが、すぐに反撃をする。
「Сука(クソ) блять(女)!」
遊里は鋭い蹴りを彼女の腹に打ち込み、神無は甲板へと蹴り飛ばされた。先ほどの強烈な蹴りで全く痛みが引かない。彼女が悶えていると彼が手錠を手に持って近付いてきた。
「今度は絶対に外せないようにこいつを使うさ。それにしても、よくもやってくれたな。せっかくだから向こうに着く前にヤってやる。どうせ処女じゃないし今さら傷ものになったところで価値は下がらないだろう」
遊里が近付いて来るも神無は痛みで体が動かない。もう終わり。そう彼女が思った時、彼は目の前に来ていた。再び、あの不気味な無表情になっていた。
「日本だけが世界じゃない。北の方にもいい国があるさ。味を教えてやる」
その時、ヘリコプターのプロペラやサイレンの音がやかましく鳴り響き、あたりが眩しい光で包まれた。
二人が辺りを見回すと、船は包囲されていた。海上保安庁だ。
「こちらは海上保安庁の巡視船である。貴船は許可なく日本国領海から出ようとしている疑いがあるので臨検する。速やかに停止せよ。繰り返す――」
遊里の様子は明らかに慌てていた。銃の照準を神無に合わせ、巡視船に向かって大声で叫んだ。
「この船をデブス共和国領海に入ることを許可しない場合はこの女を撃つ!」
「警告する、銃を下ろせ」
「ふざけるな!」
巡視船が照明弾を発射した。激しい光に怯んだ彼は思わず銃を放し、そのまま操縦桿のある運転室へと逃げ込んだ。そして、スマートフォンを手に取り何か呟いた後、小箱のようなものを運び出した。
「万歳!」
遊里は小箱についているスイッチを勢いよく押し、その瞬間凄まじい爆破音がドォォォォンと暗く静かな海に響き、船が火を出して爆散した。
爆風に飛ばされた神無は宙を舞った後、海へと落下した。そのまま沈む……沈む……。彼女の耳には、女性は大丈夫かとか船の残骸を拾え、男を確保しろなどと海上保安庁職員の慌てふためく怒声が聞こえてきた。遊里は? この瞬間沈みながらも神無は彼のことを考えていた。
その時、彼女の背後に何か気配がした。悪い予感がして振り向くとそこにはあの男がいる。遊里は無表情のまま銃を発射した。だが、弾丸は寸でのところで逸れて彼女は助かった。彼は舌打ちをする素振りをして手に持った銃をこめかみへと当て、その引き金を引いた。彼の脳が飛び散り目を閉じた彼の死体はそのままより深く暗い海底へと沈んでいった。
神無は助かったことに安堵しつつも、その光景を脳に深く刻み込んだ。今まで目にした何よりもショックだった。そのまま彼女は段々失われていく意識の中で一言何かを呟いた。
「遊里……」
その後、神無は海上保安庁に救出され一命を取り留め病院へと搬送された。そのまま漂流している時に運良く見つかったのだ。だが、一方の遊里はどれだけ捜索しても手掛かり一つ見つけることが出来なかったらしい。船の方も結局、残骸から彼らの工作を裏付けることができる重要な証拠は見つけることは出来なかったという。その後、神無は一連のことを警察に話し、一週間ほどで体が回復したと同時に退院した。入院中、公安の外事課の刑事や週刊誌の記者などが彼女の元を訪れたが、彼らは、捜査は難しいと口を揃えて言った。彼女のスマホは紛失しており彼との連絡を裏付ける証拠がなく、大学に問い合わせしても彼についてのほとんどの情報がでたらめなものだったからだ。彼の話も本当なのだろうか大手のマスコミや新聞記者は不思議とビッグニュースとなるはずなのに彼女の元を訪れなかった。他には、風の噂で大学でLINE交換を盛んに行っていた金髪女性が逮捕されたと聞いたが神無にとってはどうでもよかった。
退院後、彼女はベッドでごろごろしながらテレビの国会中継を眺めていると、保守系の政治家が亜法総理大臣を激しく追及していた。
「総理! 一般の女子大生がデブス共和国諜報員に拉致されかけたんですよ! 政府として拉致問題に強気に対応し、捜査を継続させるということは視野にないんでしょうか⁉」
「個別の事案については答弁を差し控えさせて頂きます」
それだけだった。それからしばらくして拉致に関心を向ける者は次第に減っていった。最初は大見出しで報道していた週刊誌も、怪しい市民団体から猛烈な抗議を受けてその後タブーとして封印したらしい。そんな中で神無はあることを確信するようになった。あの無能工作員が言ってたことは間違っていなかった。だが、彼女の知り合いのほとんどが世間同様に聞いても信じてくれなかった。
一年後、彼女は前にも増してより怠惰になっていた。誰も信じることが出来ず大学も不登校気味になり、朝から酒を飲み夜に酔いつぶれるまで飲んだくれる毎日を送っていた。それに最近は酔いが覚めると手が震えだすようになった。それに拍車をかけたのは世相の不安もある。あれから亜法とその与党は退陣し、強烈な極右政党が国会の第一党を占め、大規模宗教団体を支持母体とする第二党と大連立を組んだ。一方でデブス共和国は脅威として拡大し続け、隣国に攻め入り併合して国際社会から孤立の道をより歩んでいった。毎日、テレビが開戦前夜などと煽り立てている。一方で人々は誰しもまさか戦争が起こるなんてなどとの意見が多数派だ。そんな状態で戦争しても勝てるわけない、ツイッターに、戦争した時に備えよとか自衛隊に志願せよなどの文言が書かれた政府広報が沢山流れてくる。街中のポスターもそれ一色だ。
そのような現実から逃げるために神無は今日も飲んでいた。バーで彼女は酔い潰れている。
「思えば不幸な人生だったよ……」
さっきからこればっかりだ。バーテンダーも心底呆れていた。
「そうですか……。でも、アブサンは幻覚を見せる効果があるので、少しは幸せな気分になれると思いますよ」
「マジで?」
神無はふと隣を眺める。薄らぐ視界の中で、見覚えのあるさらっとした茶髪の男性がそこには座っていた。彼は仄かな微笑を浮かべ、神無に手を差し伸べている。
「あっ」
思わず彼女が手を伸ばすが彼はふっと消えた。それを見て、神無は一筋の涙をこぼした。もう一杯と呟いて彼女は突如体に異変を覚える。口から何かがこみ上げるがそれが吐瀉物ではないと感じた時には遅く、彼女は床に倒れこみ口から薔薇よりも赤い血を吐き出した。彼女は立ち上がろうとするも、再び血を吐き出し叶わなかった。苦しみながら、ふと見上げるとそこにはバーテンダーが立っているが、その顔は不気味なほど無表情で冷たい視線で這いつくばる神無を見降ろしている。
「どうです。いい夢は見れましたか?」
彼女にあの時味わった恐怖がこみ上げてくるがもう遅い。マスターは表情を変えず、アイスピックを彼女の脳天へと振り下ろした。店内は再び静かにJAZZの音色だけがしんみりと鳴っている。
それからしばらく時間が経った。バーテンダーが店内の血を拭いて掃除している時、突如JAZZの音が途絶えサイレンの音がラジオから鳴り響いた。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。ただいま、我が国の自衛隊が日本海沖にてデブス共和国人民軍と交戦状態に入りました。それを受け、日本国およびデブス共和国は相互に宣戦布告を表明。政府は国民保護の為、国家総動員令を発令いたしました。今、入りましたニュースです。国連安全保障理事会は全会一致で武力制裁を二国に対し発動する模様、双方に対して常任理事国は核兵器の使用を容認するとのことです。その決定を受けて、アツ・ジョンチェン氏が世界各地の大都市に核兵器を搭載したICBMを発射したとの報告が入りました。該当地区の住民は直ちに非難を開始してください――。また、欧州各地では核兵器によるパニックが事実上の無政府状態が誘発し――」
店内に無造作に放置された神無の遺骸を照らす月はらんらんと赤く妖しく輝いていた。
作者:ストロガノフ(吉岡篤司)
『扉83号』掲載作品
発行者:甲南大学文学研究会
発行日:2019年10月30日