血濡れの王女は白い草原にて幸福を掴む
「私は貴方に幸福を与えに来ました」
白い草原に降り立った女神は、寝転がる私の側へ膝をつき、ゆっくりと言葉を紡いだ。柔らかく、心に染み入るような滑らかな声を聞きながら、私はそっと自身が死んだことを思い出す。
フィオナ・クライストス。それが死んだ私の名前だった。
戦争を終わらせる為に結ばれた婚約で、妹の代わりに隣国へ嫁いだ第一王女。結局、他国の援助を得て欲をかいた父が仕掛けた戦争に巻き込まれ、ろくに役目も果たせずに死んだ女。
「貴方は何を望みますか?」
女神はやはり柔らかな声で続けた。こちらの悲哀も、痛苦も、後悔も、憎悪すら意に介さない、ただそこに在るだけの暖かな光だ。
彼女は美しく、そして慈悲深く、私の望むもの全てを与えてくれるのだと、その存在を前にしただけで理解した。
麗しい見目の妹と比較され、蔑まれ、使い捨ての駒にされた私に、この世の最後に慈悲が与えられたのだ。
この世、という文言は正しくないか。もう私は死んでいるのだから。
言葉を発そうと舌を動かすと、切り裂かれた喉元からこぽりと粘ついた液体が溢れるのが分かった。
痛みはないが、上手く動かない。身体を起こそうにも腕が無い。足もない。腹は裂かれ、手入れだけは欠かさなかった髪は無惨に切り落とされていた。
同盟の証として送られた妻だというのに一方的に破棄され、不意をつかれた戦争でも甚大な被害を受けたともなれば、隣国の民の怒りは凄まじいものとなった。
隣国側が勝利を収めた後、私は夫となった男の策略により、市民の怒りの矛先を変えるためだけに処刑された。なるべく惨たらしく殺すように、と、冷たい声で処刑人に命じた夫の顔は、もうよく覚えていない。
「貴方は何を願いますか?」
穏やかに微笑む女神は、清らかな召し物が汚れるのも厭わずに私を抱きしめ、ゆっくりと囁いた。
その慈悲を生きている間に得たかった、と思ったが、致し方あるまい。どんな神も、生まれ落ちた人の子の運命を左右することなど出来ないのだ。
神々に出来るのは、人が生まれゆく世界に少しでも芳醇な魔力を巡らせることだけなのだと、昔習った。
「愛しい王女。生涯欠かさず祈りを捧げた貴方へ、出来るだけの幸福を与えましょう」
柔らかく、暖かく、そして優しい。白く濁った瞳から涙が零れ落ちるのを感じた。どうやら人間は、死んでからも涙を零せるらしい。
動かない舌で、充分です、とだけ伝えたかった。私の祈りの先にいた貴方が今、こうして抱き締めてくれているだけで私は幸福です、と。
今まで誰もそんなことはしてくれなかった。ただ私を抱き締めて、望むものを与えようとしてくれた人なんて一人もいなかった。
私が望んでも与えられないのに、妹は私がようやく得たものすら、全て望むだけで手に出来た。私は奪われていくばかりだった。
今ここで、私を抱きしめてくれる暖かさだけがあれば、私にはそれで充分だった。
全てを涙に溶かして流してしまえるような、心の底から安堵を呼び起こす香りが、ゆったりと私を包み込んでいる。
歪な肉塊のようになってしまった私をゆっくりと抱え上げた女神は、穏やかな笑みのまま、しかしどこか困ったように小さく呟いた。
「貴方はいつもそうでしたね。祈りを捧げるばかりで、一度たりとも望みは口にしなかった」
風の上に腰掛けるようにして座った女神は、愛しい我が子を抱くように、白くたおやかな手で私を支えた。
「最後の最後まで忘れることなく祈りを捧げた貴方に、私は少しでも報いたいと思っているのです。しかし貴方は今、私に抱き締めて貰えるだけで充分だと言う」
小さく苦笑した女神は、私の、頭蓋が砕けたせいで歪に曲がった額にそっと口付けると、私の身体を強く抱き締めた。
「幸福とはこんなものではありません。この程度のものでは無いのですよ、フィオナ。貴方はたくさんのものを望むべきです。私に与えられる全ての力でそれを成しましょう。貴方に、これこそが幸福である、と全身全霊を持って伝えましょう」
宝石のような輝きを持つ紫紺の瞳から、すう、と星が流れるように雫が落ちた。粒となって煌めいた雫は、やがて私の頬へと軽く当たり、小さく弾ける。
瞬間、私は眩いばかりの光に飲まれ────自分の身体が作り変わるのを感じ取った。
◇ ◆ ◇
「────お母様、今日は何のお勉強ですか?」
暖かな白い草原の真ん中で、わたしはお母様と寄り添い合うように座っていた。風に揺れる葉が、柔らかく私の足を撫でる。
お勉強は苦手だけれど、お母様にくっついていられるのは嬉しいから、一緒に本を読むのは大好きだった。
開かれた本のページには、次々と文字が現れ、時に歪み、消えながら、幾つもの文章が刻まれていく。
これはお母様が司る世界の歴史を宿しているのだと、初めて見せてもらった時に聞いた。
お母様の手元にはいくつかの本があって、その世界で起きたことが歴史として認められたら、この本に記されるのだ。
空間を操って本に触れることを覚えた時、ある世界の本を勝手に読んでしまってひどく怒られたことがある。わたしが読んでしまった本にはとても怖いことばかり書いてあって、お母様はそれをわたしに見せたくなくて怒ったのだ。
確かに、触れてしまった本からは無数の恐ろしい感情が伝わってきた。わたしはそれをなんと呼ぶのかまだ知らないけれど、怖くてたまらないことだけは確かだった。神を呪う言葉を吐いて死んでいった男の人や、幾人もの男の人から恨まれて殺されてしまった女の人、業火に焼ける王城。朽ち果てた街。
思い出すだけでも恐ろしい。わたしは慌ててかぶりを振って記憶を追い払い、お母様の言葉に耳を傾けた。
「今日は、ナーラリアの歴史を辿って、そこの民が何を思うのかを感じられるようにしましょう。本に触れて、ゆっくりと知るべき人間を見定めるのですよ」
「はい、お母様!」
ナーラリアはわたしの一番好きな世界だった。
妖精の舞う美しい世界で、そこに生きる人々は小さな諍いは起こしてもほとんど争いはしない。いつか読んだ怖い世界とは違って、誰かが苦しんだりはしないのだ。
わたしは本に触れ、気に留まった商人の後を追うように意識を向ける。ナーラリアからはいつも、暖かく柔らかい、女神への感謝の気持ちが伝わってくる。
雨から逃れられる洞窟を見つけ、空を見上げるようにして神へと心からの感謝を述べる商人を見守りながら、わたしは思わず笑みを浮かべた。
そんなわたしの頭を、お母様の手が優しく撫でる。甘えるように身を委ねると、笑い混じりに嗜めるような言葉が聞こえた。けれどもそれが決して本気ではないと知っているわたしは、抱きつくようにして戯れる。
「大好きよ、お母様」
「ええ、私もよ。フィオナ」
白い草原で今日もまた、ただ暖かく幸福な時が流れていく。