認知があるから強くなれる
「見染められたのよ」じゅうじゅうと、程よく脂が落ちて食べごろになった上カルビをほおばりながら、まゆみさんはきっぱりと言った。御年86歳になる。
その昔、昭和ひとケタ生まれの人達は、見合い結婚が当たり前だった。でも世の中にはいつだって例外というものがある。
まゆみさんは昭和ひとケタ生まれには珍しく、恋愛結婚である。
何でもまゆみさんは小さな田舎の農村の出身で、村にとても男らしい男性がいたらしい。まゆみさんは密かに、その男性に恋心を抱いていたそうだが、ある日、男性から「映画に行かんか」と誘われて、それから数か月後に結婚した時は、小さな農村のちょっとしたニュースになったそうだ。
その頃のおノロケ話を、もう何千回聞かされたことだろう。デイケアで百点を取る度の、お祝いの焼肉が、時折うらめしく思う時もある。
まゆみさんとわたしは、義理の親子だ。彼女の一人息子である、私の夫・弘さんは、父親と同じく、酒好きが高じてこの世を去った。
世の中の人は皆、同情してくれたのだけれど、やっとこれで弘さんの苦しむ姿を見なくて済むと、母親と妻は安堵した。それから義理の親子の締結が始まった。
弘さんは酒を止められず、心身共に病んでしまい、苦しんで苦しんでこの世を去った。その苦しむ姿を見て、本人よりもっと苦しくて辛い思いをしたのは、母親であるまゆみさんだろう。
息子が病に侵されて、遠い世界に行って還ってこれなくなったのだが、母親も一緒に遠い世界に行ってしまった。
「おふくろは任せた」それが弘さんの最後の言葉だったので、弘さんの四十九日を終えたのち、認知症外来を受診した。
診断結果は「認知症の入り口」であった。予想は的中した。発見が早かったので、投薬治療を受けることになったのだが、薬だけでは症状の改善は難しいと、弘さんから学んでいたので、まゆみさんの自宅を改造することにした。
まず警備保障会社と契約した。遠くの親戚より近くの他人。一番安心して頼れるのが業者だ。
それから玄関にカメラ付きのドアホンと、月に2回の青汁の宅配を手配した。青汁の宅配は、普通の宅急便ではなく、直接人の手で運んでくれる販売店と契約した。契約した際、出来るだけまゆみさんと話をしてくれるようにお願いした。快諾してもらって感謝している。続いて支援センターの人と相談して、週1回のデイケアに通うことにした。
特筆すべきは、自宅改造や青汁よりも効果があった、シニア向けの筋トレスクールだ。まゆみさんと同年代の人がほとんどで、また彼女の身の上では当然のことながら、スクールの先生や生徒さん、皆まゆみさんに優しくしてくれるのが、何よりも有難いと感謝している。
まゆみさんは、筋トレスクールに入った当初は週1回通っていたが、少しづつ通う回数を増やしてゆき、スクールに入って2年経った今では、週に5回通っている。
天候が悪い時は、スクールに行けないので、その時の為にと、ラジオ体操と、ダンベル体操のDVDの使い方を、大きく紙に書いて渡してある。
まゆみさんは、その使い方の書いてある紙を見ながら、せっせとリモコンのボタンを押下している。
そうした日々を送る内、コロナでそう簡単には行き来出来なくなったので、シニア用のスマホを購入した。LINEを使ったテレビ電話を始めた。
まゆみさんが受電ボタンを押下するのに、一体どのくらい待ったか、思い出したくない。おそらくこの調子では、彼女は受電ボタンを一発で押下するのに、3年はかかるだろう。
しかしながら、まゆみさんはテレビ電話という、最高のおもちゃを与えられた子供のように、いつ呼び出しても、最高の笑顔で出迎えてくれる。
「スマホをみんな見てる訳が分かったわ。まるで魔法の鏡みたいね」そう目をキラキラさせて、受電ボタンを押下するのに、今でもかな~りな時間がかかっている。
そんな日々が可笑しくて、姑と嫁はテレビ電話で日々笑いあっている。一人息子が生きていた頃の彼女とはまるで別人だ。
「認知症の入り口」と診断が下ってから、二年目の春、人を変えるのは「時薬」なのだと思い知る。
「老人ホームでは、自分のことは自分でさせるように指導すると、かなりのボケが回復しているそうなので、まゆみさんには出来るだけ、自分のことは自分でするように懇願した。
家計のやりくり・食事の献立(スーパーの総菜コーナーで、チョイスするだけ)・掃除・洗濯・庭の草取り・ゴミ出しと、一人ぼっちなので、何もかも一人でこなしているが、おそらくこの世で一番自立している86歳なのではなかろうか。
まゆみさんは週1回通うデイケアで、毎回百点を取っている。そのお祝いに、今日も焼肉だ。また彼女のおノロケを聞かされる羽目になるが、昭和ひとケタ世代のロマンスには、令和の今でも通じるものがある。恋愛の大原則は不変のようだ。
じゅうじゅうと焼ける上カルビを共にほおばりながら、終わり良ければ総て良しと、まゆみさんと語り合っている。