chap.2 :悪魔の仔/湿った手・乾いた喘ぎ
彼女のみあげた拓真の顔は、驚きのあまり、目を大きく見開き、口を閉じることさえ忘れていた。顔面はすでに蒼白になり、身体はがくがくと小刻みに震えている。彼のポケットの中で、その手をしっかりと握りしめていた彼女の手に、じっとりとした、うす気味の悪い汗の感触が伝わってきた。
「……どう……、したの」
普段は表情を変えることさえ少ない彼に突然起こった変化に、ただならないものを感じた。こんな彼の表情は、これまで一度も見たことがなかった。
徐々に自分の身体も強ばってくるのを感じながら、我を忘れて彼の見つめる方向を見た。
そこは、あの変死事件が起こった公園の前だった。公園の入り口には、未だ黄色い規制線が張られており、公園前の道沿いには、数台の警察車両やメディア関係の車がずらりと並んでいた。そうした光景を遠巻きに見守るように、数十人ほどの野次馬が、たいした変化も期待できない事件現場を、さも関係者のような深刻な顔をして、腕を組みながら見つめていた。
しかし、それは事件の発覚以来、続いていたことだった。彼も彼女も毎日のように、その脇を通って学校へ通学していた。彼を驚かしていたのは、そんなことではないようだった。
彼女はなおも付近を良く見渡してみた。だが彼の驚きに値するようなものは見あたらなかった。
「……どうして、そんなに驚いてるの?」
もう一度、彼に尋ねてみた。
彼の口が、力なく動いた。
「……あ、あ……、……、」
喉の奥から、乾いてかすれた声が漏れてきた。
彼女は、もう一度人混みを見渡してみた。暇をもてあました様子の老人。失業者風の着古した様相の男。買い物帰りの奥様達。高校生、あるいは中学生らしき身なりの少女。中学生?……いや、少し違う。あんな制服の学校は、この付近には無かった。それに、あの、包帯をしっかりと巻かれた右腕……。何か、大きな交通事故にでも、会ったのだろうか。そんな子が、どうして、こんな場所にいるのか……。その少女の様子は、考えてみれば少し怪しかった。しかし、それでも彼の驚きように釣り合う程、奇怪な印象は彼女は受けなかった。
「そこまでびっくりするような人、あの中にいる?……一体、誰のこと、言ってるの?」
「コンピテント……!」
彼は、一言、そう言った。彼の身体が、わなわなと震え出すのがわかった。
「コンピ、テント?」
彼の言葉を繰り返した。「なに?それ」
「……じゃ……、じゃあ……、は……、博士も、戻って……?」
「拓真!」
彼の腕を掴んで、強く揺すった。
「どういう事?ちゃんと説明してよ!」
彼には、彼女の言葉は届いていないようだった。
体は今だ小刻みに震えており、目はいまにも、眼球が飛び出さんばかりに開かれていた。
その時、突然何を思ったか、彼は彼女の右腕をむずと掴み、ぐいと引自分に引き寄せた。そして、そのまま彼女の腕を引っ張って、人混みとは反対方向に、逃げるように駆けだした。それは、いつもの無表情な拓也では無かった。恐怖、ただそれだけに支配された顔だった。彼女の腕を掴んだ彼の手は、気味が悪いほどの汗で濡れていた。
由宇はこみあげてくるような恐ろしさを感じた。
思わず、しっかりと掴んだ彼の手を払おうとした。しかし、その手は容易に切り離すことが出来なかった。
びりびりと皮膚が裂けるような痛みが走った。
「腕が、ちぎれる!」彼女が叫んだ。「イタイ、痛いよ!」
「黙ってろ!」
足をゆるめることなく、彼は恐ろしい顔で彼女を睨み付けた。彼女は彼の形相に、思わず身が萎縮した。
「……殺されるぞ……、俺だってばれたら……」
「殺される?」彼女が問い返した。
「ねえ、誰に?どうして?」
しかし、彼の耳に彼女の声はやはり届いていないようだった。
駆けだしたまま、彼は深く、何かに思いを巡らしているようだった。
「……さあ、どうする……、どう、すれば……?」
そのような言葉を、しきりにつぶやき続けていた。
由宇は腕を引かれるまま、青ざめた拓真の顔を見つめていた。
自分がどうなっていくのか解らない。彼と同じ恐怖が、彼女を捉えて離さなかった。