chap.1 :プロローグ/こそばゆい肉片
おぞましい力で、嫌がる少女の手を引いて、彼らの影はブロック塀の裏に消えた。
汗ばんだ嫌な臭いのする手が、口をしっかりと塞いでいた少女は、悲鳴を上げることすら出来なかった。
彼らは、そうして闇に融けた。
何事もなかったかのように、夜はつづいた。本来の静寂の中に、どこか落ち着きのない、いびつなものを内包した時間が、知らん顔をして過ぎていった。
遠くで、電車の走る音が聞こえる。星のない夜だった。
ブロック塀の影に三人の姿が消えてから、10分ほどの時間が経った。
すべてを取り込んでいた暗闇から、少女がフラリと明かりの下に姿を現した。
頬は泥と涙で汚れていた。彼女は、それを砂にまみれた、白いブラウスの袖で拭った。
拭いたそばから涙が溢れてきた。少女は時折、袖で口を押さえて、むせび泣くような声を漏らした。
「……こんな事……」
男たちに奪われた鞄が、足下に転がっていた。
少女はそれを拾い上げると、蓋を開けて中身を確認した。
中の物は、何も無くなっていなかった。
少女は鞄の蓋を丁寧に閉めると、ふらふらと立ち上がって、再び、元来た道を歩き始めた。
右腕が、ずきずきと痛んでいた。
覆っていた包帯は、先ほど男たちともつれた最中に、何処かへ行ってしまっていた。
彼女は街路灯の下に立ち止まり、右手を何度か開いたり、閉じたりした。そして、左の手で、露出した右腕をいたわるように、やさしくさすった。
ちらちらと明滅する、薄黄色の街路灯の下で、突然明かりの下に曝された右腕は、まるで光に怯えるかのように震えていた。血のにおいが、辺りに立ちこめる。
彼女は右腕を押さえて、不安げに、夜の静けさに耳を澄ました。
それは、悪魔のような腕だった。
少女の右腕、中でも、肘から下の部分は、その身体に不釣り合いなほど隆々と、禍々しく発達していた。人の顔を覆い尽くすほどもある掌。根本からさらに枝分かれした指。そしてその先に生えた無数の鋭い爪。まだ完全に乾ききっていない血液が、涙のように、その先端から滴っていた。彼女の意志に従って、静かに開閉を繰り返すその手は、さながら命を貪る野獣の口吻のようにも見えた。
鋭い爪と指の間に、血の滲んだ赤黒い肉片が、まだ、しっかりと詰まっている。少女は、血塗られた指先にこそばゆい違和感を感じて、思わず顔をしかめた。
袖の細いブラウスでは、その腕を覆い隠すことはできなかった。右袖は肘がすっかり見えるほどに高くまくられていた。
「……こんな事、するつもりじゃ、なかったのに……」
血しぶきを浴びた顔がぽつりとつぶやいた。
腕の先端から、上半身の一帯に至るまで、おびただしい量の返り血を浴びていた。鮮血に濡れた衣服が、身体に張り付いて、冷たく、少しぬるぬるした感覚がしていた。血液は、冷えた夜の外気に触れて、なお粘り気を増してくる。血液は糸を引いて滴り落ち、彼女の履いていた真新しいスニーカーに、暗紅色の染みを点々と残した。
突然、少女の背中が、電気が走ったようにびくりと震えた。
背後に、気配を感じた。